夫の浮気
外に雨の音がしてきた。おせんは、青菜を刻む手を止め、ふと顔を上げた。台所の格子窓に、亭主の長吉が、肩を窄めるようにして雨から逃げてくるのが映った。
板戸は途中まで開いている。建て付けが悪く、おせんでは思うように開閉ができないので、いつもこうして中途半端な状態で開いているのだ。
「ちきしょう」
長吉は舌打ちをすると、戸を一度持ち上げ、下の方を軽く蹴った。すると戸は軽くなり、するすると行き来した。
「お前はだらしなくていけねえ」
首を曲げ、戸枠の天辺を見るようにして敷居を跨いだ長吉は、不機嫌な口調でそう言った。言いながら、単衣についた水滴を払い落としている。黒地に細い縞柄の紬は、長吉の最も気に入っている小袖だ。
「お前さん、小梅を見なかったかい?」
長吉がきちんとした恰好でいることを、まるで珍しそうに、おせんは、上から下まで眺めた。
「小梅なら井戸の廻りで遊んでたぜ」
「そう」
そっけない相槌を打つと、おせんは土間に下りて、解いた前垂れで長吉の背を拭いた。
「雨が降ってきたんだから、呼び戻してくれればいいのにな」
「小雨だろ、すぐにやむさ」
「風邪でもひいたらどうするの」
「聞いてる間にお前が迎えに行けばいいだろう」
「もうっ」おせんは長吉の胸に前垂れを押しつけると、下駄を鳴らして外へ飛び出して行った。
夏が近づいているのを知らせるように、日足は伸びてはきていたが、西の空から茜に染まる時刻になると、日中の滲んだ汗が、ひやりとするほど冷たく感じる。小梅は母親のおせんのように頑健な方ではない。普通の三歳児に比べて小さい躰は、風邪や熱に侵されやすい。そんな小梅を、おせんは懐の中に入れるようにして育ててきた。
「小梅、いつまで遊んでるんだい。日も落ちて暗くなってきたし、雨も降ってるんだから言われなくても帰って来なくちゃだめじゃないか」
長吉の言った通り、小梅は路地の井戸端にいた。他にも数人、子供がいたが皆、夢中になって竹筒でできた水弾で遊んでいる。数日前、長吉が裏店の子供達に拵えてあげたものだ。子供達が大はしゃぎで、器用な長吉を絶賛する様子を、小梅が満足気に見る姿が、可愛らしかった。
「あらあら、みんなびしょ濡れじゃないか」
三軒先に住む女の子の髪の雫を、手で払いながらおせんは言った。女の子は大丈夫と言ったが、垂れた洟を、下唇を上げて器用に舐めている。裏店の子供達の中で、小梅は年少の方だ。それでみんな遠慮しているのか、他の子が、水の飛ばし合いでずぶ濡れなのに比べ、小梅だけは、降り出してきた霧状の小雨に吹かれただけのように見えた。
「小梅、さあ家へ帰ろう」
「ん……」
二度、声を掛けて漸く小梅は振り向いた。しゃがんだままで、首だけ捻っておせんを見上げている。不服そうに眉を寄せ、口を尖らせ、精一杯、反発しているつもりだろう。
「帰るよ小梅、また明日、遊んで貰いな」
おせんもしゃがんで、小梅の前髪を振り分けながらそう言った。
「ん……」小さくうねり、頭が飛んでいってしまいそうな勢いで小梅は首を振った。おせんは構わず、小さな掌を握って立たせると、
「遊んでくれてありがとう。あんたたちも早く帰んなね」と言って、抵抗する小梅を、半ば、引き摺るようにして家に連れ戻った。
薄暗い茶の間で、肘枕をして寛ぐ夫を見ていると、おせんは無性に腹が立つことがある。いまもそうであった。
「お前さん、灯りぐらい点けたらどうなのさ、もう、しみったれていやだねえ」
「うるっせえな、おかめっ」
長吉は、舌打ちをして、怠そうに起き上がり、胡座をかくと、腕組みをしておせんを見上げた。
「行燈を点けたら点けたで、油がもったいねえ。点けなかったら、しみったれと文句を言いやがる。一体どっちなんだよ、はっきりしやがれ」
おせんも負けていない。ここ何年も女房を「おかめ」と呼ぶ亭主を上から見下ろすようにして仁王立ちになった。
「晴れた夕暮れなら灯りがなくとも風情だけどね、雨降りはいやなんだよ。言ったでしょう、雨の日は嫌いだって」
「勝手なことばかり言いやがって馬鹿が」
「馬鹿とはご挨拶だね。仕事もしないで酒ばかり飲んでほっつき歩いてる身分で偉そうなことを言うんじゃないわよ」
「なんだと」
「なによ」
おせんが白い二の腕を見せて、腕まくりのふりをしたところで小梅が、「ちゃん」と父親に縋り付いた。幼いながら、こうすることで、母親が叩かれずに済むとわかっているのだ。小梅の思惑通り、長吉は愛しそうに眼を細めると、娘を膝に招いた。
「小梅を味方につけようたって、そうはいかないよ、あたしはね、今日はとことん腹が立ってるんだからね」
おせんは言うと、どすんと長吉の前に腰を下ろし、膝の上で固くなる小梅の髪を手拭いで拭いてやった。水気の取れた小梅の毛先が、四方八方、火の子の妖怪のようになったのを満足そうに見つめ、おせんは娘にだけ微笑むと、片手で畳を叩くようにして立った。
「おいブス!文句ばかり言ってねえで、とっとと飯の仕度にかかりやがれ」
「もう、なにさ」
ふんと鼻を鳴らし、おせんは手拭いを長吉の顔めがけ、投げつけた。
「なにしやがんだ、このあまっ」
小梅を脇において、片膝を上げた長吉に怯む様子もなく、おせんは前に進んで顔を突き出した。
「あたしの名はね、おかめじゃないんだよお前さん」
「ほほう、おかめじゃなかったかね。では、なんて名だったかなあ、思い出せねえな」
「もういいよ」
「おかめじゃなくて、なんだった?」
おせんは、女房の顎を指先で持ち上げてうそぶく長吉の胸を軽く押すと、頭に巻いていた布を剥ぎ取り、それを長吉の口にねじ込んだ。
おせんは今年二十五、長吉は二つ上の二十七だ。二人は七年前、互いに好き合って所帯を持ち、その四年後に、念願の子供を授かった。
二人は小梅が生まれる前から、ここ本所、深川回向院の裏手、すずめ長屋で暮らしている。二人が出会ったころ、長吉は唐木職人だった。黒船稲荷に近い蛤町で生まれ育った長吉が、入方町の唐木職の親方の元に弟子入りしたのは十五の年で、几帳面な性質の長吉は、それこそ真面目に修業を続け、十年でやっと一人前と言われているほど精巧な技術が要求されるな唐木職にいて、僅か五年あまりで、一端の職人扱いをされたほど、長吉は腕の上達が早かった。
しかしその長吉が、親のように慕っていた親方と大喧嘩して店を辞めたのが二年前。以後、彼は、酩酊するほど酒を呷る日も少なくなくなった。
暴力を振るうわけでもなければ、賭け事に興じている風にも見えないので、最初の半年ほどは、おせんも文句も言わず、長吉と所帯を持ったころから始めた、髪結いの手間で、何とか生活を遣り繰りしていた。だが、おせんが長吉を甘やかしたのもそこまでである。日雇いの肉体労働に、気が向いた時だけ出掛ける長吉が、その日、手にした給金を全て酒代に使ってしまうようになると、夫婦の間に諍いが増えた。大黒柱である筈の長吉が体たらくな上、いま住んでいる長屋の店賃が一分と高額なこともあり、おせんが幾ら女髪結いで稼いでも、暮らし向きは楽にならない。貧乏も喧嘩の原因のひとつだが、何よりも、おせんが気に病んだのは、酒によって蝕まれる長吉の躰である。素面の時を見つけては、折角いい腕を持ってるんだから元の職人に戻って欲しいと頼んだ。しかしいくら頼んでも、長吉は一向に聞く耳を持たない。一体、親方との間に何があったのか、店を辞めた当時、喧嘩の理由を、おせんは幾度となく問いただしてみたが、長吉は貝のように口を閉ざし、答えようとしなかった。それどころか、すぐにむっと渋面を作ると、外に出て行ってしまうのだ。
菓子折を抱えて親方に頭を下げに行った時も、ついでに喧嘩の原因を探ってみたが、こちらも何も話してくれなかった。
おせんが女髪結いを生業として、今年で六年になる。馴染みの客も増えた。小梅がまだ乳離れしていない頃は、背に括り付けて得意先を廻ったものだが、二歳を迎えた頃からは、隣家のおすえに、小梅の面倒を頼んでいる。おすえは、おせんよりも見た目、一つ、二つ上の大工の女房だが子がない。お喋りで、軽口をたたくところは気になるが、心根のやさしい人間で、人見知りの激しい小梅も良く懐いていた。
普段ぶらぶら、ごろごろしているだけの長吉は、子供を預けて出掛けるおせんのことが気になるようで、予定よりもおせんの帰宅が遅くなったり、休日の筈が急に呼び出されたりすると、あからさまに不機嫌になった。そういう時、長吉は、小梅をおすえの家から引っ張り出して、日の高いうちから湯屋へ連れて行ったり、両国広小路に散歩に出掛けたり、雨の日などは、家の中で人形遊びの相手をしたりして時間を遣り過ごした。しかし外が黄色に染まる時刻になっても、おせんが戻らない時などは、木戸の内側で小梅を抱き、首を伸ばして女房の帰りを待ち詫びるのだ。
なのに、待ちに待ったおせんの顔を見た途端、長吉はにこりともしないで、遅いな、飢え死にさせる気かと、悪態をつくのである。こういう時、おせんは文句を言わない。亭主が自分を気に掛けてくれることが嬉しくて、すぐに夕飯の仕度に取り掛かる。普段は出し惜しみする酒も、気前良く付けて足してやったりする。
酔いつぶれて眠る長吉を、おせんは時折、不憫に思うことがある。真面目な職人だった長吉を、ここまで変えしまった原因は、自分にあるのではなかいと落ち込むのだ。思い当たる節がある。
空いた徳利を膝の上で抱え、つくねんと酔った寝顔を見つめていると、狡猾に立ち回れない亭主を哀れにさえ感じた。そうしていると、ふと自分の過去と、そこから繋がる長吉の崩壊を結びつけてしまうのだ。
昨夜から、空気がまとわりつくように蒸し暑い。「あつい……」寝苦しさに寝返りをうち、うなじの汗を掌で拭いていたら、階下に物音を聞いた。
「お前さん」
隣りの長吉を、手の先で探るが、そこに寝ているはずの身体がない。薄闇のなか目を懲らし、梯子に縋り付くようにして下りていくと、土間の上がり框に腰を下ろす長吉の輪郭が浮かび上がった。
「お前さん」
「おう、起きたか」
背中を向けたまま長吉が言った。建て付けの悪い板戸の隙間から頼りなく、蒼白い光りが漏れていた。夜が明けようとしている。
「出掛ける」
「こんな朝っぱらから、どこへ?」
「仕事を、探しに行こうかと思ってな」
「えーっお前さん」
おせんは奇声を上げて仰け反った。この半年間、全く働く素振りを見せなかった長吉が、仕事に行くと言っている。
「なんだよ、いやな女だな」
長吉はむすりとすると、膝頭に肘をついた。
「嬉しくないのか?」
「ううん嬉しいよ……でもさお前さん。なにも夜が明ける前に行くことはないだろう。こんなに早く出て、どこにどんな仕事があるの?」
「口の減らねえ女だな」
長吉はおせんをちらりとも見ないでそう言った。
「朝ごはんを食べてからでもいいんじゃないの?」
おせんは背後から長吉の肩に手を置き、顔を覗き込もうとしたが、長吉は、おせんの視線を避けるように立ち上がった。
「いや、いい」
「いいって……あとで腹が減ったらどうする。握り飯をこさえるから待っててよ、ね」
「いや、いいって」
「……」
おせんも立ち上がると、腕組みをして、長吉の後ろ姿をまじまじと見た。藍色の縞の小袖を着流した痩身の長吉は、妻のおせんから見ても惚れ惚れとするほど鯔背だ。だけど今朝は、別に長吉に見惚れているわけではない。どこか疑念のようなものが胸の奥からふつふつと湧きおこった。
「ふーん、そう、なんだか随分と急いでるようだし、これ以上は止めないけどねえ、お前さん」
「日暮れ前には戻るから」
そう言うと、長吉は心張り棒を外して戸を開けた。外は白々としている。肌に心地良い外気が部屋の中に流れて込んで来た。
「そう」
おせんが低い声で言うと、じゃあと、長吉は、片手を上げ、逃げ出すように出て行った。結局、今朝、長吉がおせんと眼を合わせることは一度もなかった。
「あんな恰好で仕事なんて出来るのかね」
ぶつぶつ言いながら、もう一眠りしようと梯子を登ると、目覚めたばかりの小梅が、腕を伸ばした腹ばい姿でじっとこちらを見つめていた。
「お越しちまったかい。ごめんよ」
おせんは小梅を仰向けにすると、その横に寝て、腹の上をぽんぽんと、たたいてやった。
その夜、長吉は酒の匂いをさせて戻って来た。朝と同じく、やけにそわそわ機嫌がいいが、おせんは、長吉が酒代をどうしたのかが気になった。今朝方、ふとした衝動に駆られ、自分の財布の中を覗いてみたが、抜かれた様子はない。しかし酔えるほど飲める銭を、長吉が隠し持っているとも思えなかった。
「あんた、働き口でも見つかった?」
おせんは、ややきつい言い方をした。長吉はいいやと、ごく自然に、恐縮するわけでもなく答えた。
「じゃあ、どうしたんだよ酒代。金なんて持ってなかっただろう?」
「宗治が払ってくれた」
長吉は、おせんの腰にしがみ付いてくると、そのまま、だらしなく畳に転がって、四肢を投げ出した。宗治というのは、長吉と同じ裏店で育った幼馴染みで、今も蛤町で、両親と共に青物屋を営んでいるが、夏の間だけ、両国橋西詰で水菓子を売っている。肌の色が、女のように白いのが気に掛かるが、だからといって見た目は悪くない。なのに未だ一人で、好きな女ができたという噂も聞こえてこない。
「宗治さんか、仕様がないね。でも、みっともないから、おごってもらうのはやめてね」
「はいはい」
大きな赤ん坊のように、長吉は手足をのびのびと伸ばして、茶の間で寝てしまった。
「お父つぁん、寝ちまったよ」
とうに眠る時刻だというのに、一人では寂しいからと、小梅は茶の間でごろごろしていた。中二階の寝間から引き摺り下ろしてきた夜具に、蓑虫のようにくるまり、顔だけ出して、親のすることを見ていた。
「ちゃん、寝ちゃったね」
嬉しそうな声を出して、お手製蓑から這い出た小梅は、仰向けになる長吉の頭の横にちょこんと座ると、母親似の、鼻翼の小さな鼻を摘んだ。
「くちゃい」
「臭いかい、ふふふっ……」
おせんは笑うと、臭いねえと、言いながら長吉の口元の匂いを嗅いだ。酒の匂いは確かにするが、それに交じり、何か甘ったるい香りがした。
「ん……なんだ?」
おせんは訝しそうに眉を寄せた。甘い香りは、シャム沈香のようだった。髪結いという仕事柄、遊女の髪を結うことの多い、おせんは、こういった類の匂いに詳しい。口元から顔をずらし、匂いの元を辿った。どうやら匂いは懐の辺りから香る。くんくんと鼻を鳴らし顔を押しつけると、間違いない、濃いシャムが香った。衿を広げ、下着を嗅いでみる。汗に混じり、微かだが沈香が匂った。更には下着を広げ肌に直接、顔をつけた。
「石鹸の香り……」
湯屋にも行ったらしい。頭に血が昇った。
「湯に入って証拠を消そうとしたな、このっ」
言いながら長吉の額を張った。長吉は起きない。それを真似て小梅も父親の額を平手でペタッ。
「お父つぁんに何をすんだい、こら」
おせんは今度、小梅の頭をたたいた。
「おっかあ、だめだめ」
みるみる顔を歪め、小梅は大声で泣き出した。おせんはなんだか哀れに思い、小梅を抱き寄せると、
「ごめんね、でもさ、お父っつんは叩いちゃだめなんだよ、どんなお父つっあんでも、小梅の親なんだからね」
抱きかかえて赤児のようにゆすり、頬摺りをして宥めた。酔っぱらいの長吉はそのままに、行灯の火を吹き消して小梅と共に二階に上がった。夜具に横たわっても未だべそを掻いている小梅をよしよしと抱いた。漸く小梅が寝付いても、おせんの眼は冴えていた。暗闇の中に眼を懲らしていると、長吉の不身持ちの病がまた始まったのではという疑惑が次第に膨らんでくる。
長吉の女遊びは、二年前から目立つようになった。それが原因で、隣近所を巻き込む喧嘩も少なくない。そのたびに差配を挟んで話し合い、結句、元の鞘に収まるのだが。
ー今度はどんな相手なんだろう。
蒸し暑さもあり寝付けない。するとついつい余計なことばかり考えてしまう。これまでの長吉の相手といえば、料理茶屋の酌婦、矢場女、といった、遊びの延長のような女ばかりだったし、新しい女と出会い、浮き足立てても、長くて一月もすれば、次第に落ち着きを見せた。これまで、おせんと別れたいという素振りは、噯気も見せなかった。
ーそういえば、後家さんのときは厄介だった。
一昨年の秋のことだったか、長吉が二町ばかり離れたところに住む、二十代も終わり頃の寡婦に入れあげたことがある。その頃、既に長吉は仕事をやめていた。これは後で知ったことだが、長吉は、その寡婦と遊ぶ金を、全ておせんの稼ぎから消費していた。とはいっても貢ぎ込んだわけではない。暮らしに困らない程度にちょこちょこ持ち出しては、料理屋で飯を食わせたりした程度である。
そのうち長吉が、縁日の屋台で、見知らぬ女に簪を買ってやっていたという噂が聞こえてきて、おせんは激怒した。相手が艶のある後家だと聞くと、怒りは頂点に達した。こういった類の噂は、お喋り好きの長屋の女房連中から、いやでも耳に入って来る。
まだ乳飲み子だった小梅を紐でくくって、紅ひとつひかずに、得意先を廻って客の髪を結っていたおせんは嫉妬で気が狂いそうになった。亭主の衣服や、小物を残らず家の外へ放り投げ、心張り棒をかって閉め出した。秋といえども、夜には冬の到来を思わせる寒さの中、長吉を一晩放置したのだが、後家のところへ逃げ込むこともなく、夜通し板戸の前で腕を抱き合わせて蹲っていた。
ー死んじまったんじゃ?
小鳥が起き出す時刻になって目覚めると、おせんは不安になった。、おそるおそる戸を開けると、おっかあ、すまねえなと、おせんの腰にしがみついてきた長吉を、すんなり許してしまったことを思い出し、苦笑いをしていた。
ーあの人はやっぱり病気だよ。
おせんが漸く眠りに就いたのは、町が、完全に漆黒に包まれる時刻だった。
「あんた今日も出掛けるの?」
昨夜、なかなか寝付けず寝不足だったが、物音がするとおせんはすぐに飛び起きた。酒が残っているらしい長吉は柄杓でごくごくと喉を鳴らして水を飲んでいる。前屈みになっているので、唇の端から零れた水が水桶に落ちていたが、今朝はそのことにはふれないでおこうと思った。
「随分と遅い目覚めだな。夜が明けちまってるぜ」
手の甲で口を拭きながら長吉が言った。
「あら」
開け放った板戸から外に眼をやると、薄曇りなのだろう、白くどんよりとした朝の気配が見えた。耳を澄ますと、裏店が既に起き出しているのが分かるが、棒手振りの現れる時刻ではないらしい。夜具を出る時ちらと見たが、小梅はまだすやすやと寝息を立てていた。
「お前さん、ゆうべは聞けなかったんだけさ、昨夜一体どこで飲んでたんだい?」
「いつもの煮売り茶屋だよ。門前町の……」
「あそこら辺の店は酌取りがいたかしら?」
「なにが言いたい」
長吉は、苛ついたように顔をしかめておせんを見た。
「女いた?沈香の香りがあんたから匂ったんだけど」
「沈香?なんのこった……」
「いたの、給仕女?」
「さあな、いたかも知れねえし、いなかったかも知れねえな」
「ふーん」
身繕いをしたおせんは、房楊枝に歯磨き粉をつけて歯を磨きだした。それまで土間に突っ立って、おせんの動向を見守っていた長吉が出て行こうとするのを、おせんは、袖を掴んで止めた。
「ん、ん……」
「なんだよ」
長吉は苛立った声を出し、掴まれた袖を振って、おせんの手を払った。
「待って」
おせんは、口の中のものがこぼれないように、顔を仰向けながら、もごもごと、どこ行くのと聞くと、手拭いを首に巻いた姿で井戸へ駆けて行った。顔を洗い終えると、木戸を出て行く長吉の後ろ姿が目に入った。
「逃げられちゃった」
茫然と見送っていると、菜っ葉を笊に盛ったおすえが現れ、あら、ご亭主はお出掛けかいと、木戸の方に顎をしゃっくた。おすえは良く肥えている。大工の亭主との間に子がないせいか、小梅を、我が娘のように可愛がってくれる。知らない人の前では貝のように口を閉ざしてしまう小梅もまた、おすえには心を開き、一言、二言だが、自分の気持ちを伝えるそうだ。
「そうみたい」
「またこれか?」
おすえが、小指を立てて顔をしかめた。
「まさか、仕事を探しに行くって……」
「あの恰好でかい」
下駄に紬の着流し姿で、日雇いの仕事もなかろうと、おせんが怪しがっていることを、おすえは遠慮もなしにずけずけ言う。おすえのそういう無神経なところと、口の軽さを、おせんは苦手としたが、そこを差し引いてもおすえは何かと助かる存在だ。いやな顔を露骨に見せるようなことはしなかった。
「みんな言ってるよ」
この言い方もおせんは嫌いだ。自分の意見を言うのに、わざわざ「みんな」を引き合いにださなくても良いのではと考えた。次に言われることは分かっているので、おせんはうんざり顔を、袂をいじるふりで誤魔化した。
「そりゃあさ、長吉さんは男ぶりもいいしね、前は腕の立つ職人だったけどさ、今はどうだい、年中飲んだくれて、働きもしない髪結いの亭主様ときた。しかも女癖が悪くて、しょっちゅう女房を泣かしてる」
「……」
「おせんちゃんまだ二十五だろ。ここらできっぱり三行半を貰って別れっちまいなよ。あんたは良く働くし、肌ももちもちして綺麗だし、引く手あまただと思うけどね、なんならあたしが紹介してやってもいいんだよ……ん?それとも何かい、あんた、長吉さんと別れたくない理由があるってのかい?」
「……」
「まさか、まだ惚れてるわけじゃないだろう?惚れてるんなら仕方がないけどね」
ー惚れてるのよ。
口には出さないが、心でつぶやいた。それに、とおせんは自分を卑下する。
ーあたしなんて、人に言えない過去を背負った女なんだもん。
おせんは、長吉の去った先を見つめた。白く霞んだ路地から目線を上げると、黒い雲が垂れ下がった、いまにも泣き出しそうな空が広がっていた。
「暑い……」
茹だるような暑さだった。西から差した陽が、容赦なくおせんの横顔を灼いている。おせんは首に巻いた手拭いで幾度も額から顎へ滴り落ちる汗を拭いていたが、拭っても、拭っても、汗は際限なく流れ落ちた。
ーいつまでいる気だろう。
おせんはつま先立って、道を挟んだ板塀の中を覗いた。僅かな板の隙間から、
朝顔の蔓が見えたが、中の様子は分からない。
ここは深川西町。おせんの視線の先には一軒の家がある。先程まで三味線をつま弾く音が聞こえていたが、今はひっそり鎮まり返っている。この家に長吉が入ってから既に半刻が経っていた。三味線の音が消えてからは小半時になる。
ー怒鳴り込んでやろうか。
何度も頭をよぎったが、もし二人が裸だったらどうしようと、臆病風に吹かれた。自分を、勝ち気な女だとばかり思っていたのに、いざ長吉のこととなると及び腰になる。長吉の浮気はしょっちゅうだが、馴れることはなかったし、毎度、毎度、新鮮に嫉妬した。浮気は浮気、黙っていたらそのうち亭主は自分の元へ帰ってくる。そう言い聞かせてみても、どうにも腹の虫が治まらないのが女心だ。しかも、今回は何かが違う……そんな予感がした。言い様のない不安に駆られたおせんは、今朝、いそいそと家を抜け出す長吉の後を追って来た。こんなことは初めてである。小梅は、おすえのぶ厚い胸に、押しつけてきた。
ー三味線ねえ。
おせんは読み書きができないが、三味線という看板は見慣れた字だったので、絵を見るような感覚で読んだ。
ーと、いうことは相手は三味線師匠かえ、幾つぐらいの人なんだろう。
相手の年令も気になった。今までの女は、下は十七から、上は二十代後半。三味線の師匠といえば、どう考えても娘という歳ではないだろう。引退した芸者が多いと聞くが、表通りに立派な店舗兼稽古場を構えているところを見ると、人の妾ということも考えられる。
ーややこしいことにならなければいいけど。「いやだわ、ふふふ……っ」
悋気に胸を焦がしながらも、意外と冷静に亭主の浮気相手を品定めする自分が可笑しくなり、口元を手で隠し、くすくす笑っていたら、通りがけの老夫婦に怪しまれた。咳払いをし、ふと空を見上げてみると、雲の動きが早くなっていた。
ーさっきまであんなに天気が良かったのに。
今朝、干した洗濯物と、おすえに預けてきた小梅のことが気に掛かった。
ー惨めなだけだ、帰ろう……。
おせんが首を垂れた時、三味線師匠の家の格子戸が開いた。おせんは慌てて向かいの店の看板の陰に隠れた。
「今度いつ来てくれるの、明日?」
甘えた女の声がした。高鳴る動悸を抑えながら、ちらと声の方を盗み見た。
「あっ……!」
往来の隙間に長吉がいた。女が寄り添い、長吉の衿を直してやっている。
「ちきしょう」
思わず口にし、おせんは、唇が裂けるほど噛んだ。血の味がした。
「うちのおかめが意外と嫉妬深くてよ。まあ、しばらくは様子を見ようかね」
「まあ、おかめさんのことを気にしてるのね。いいじゃない、うっちゃとけば」
女が後ろ手に長吉の尻をつねったようだ。長吉がイテテテっと尻を撫でている。にやけた口元がだらしがない。
おかめと呼ばれることを、これほど悔しいと思ったことはない。見ると、長吉はにやにやとした阿呆面で女狐の肩を抱き寄せた。
ー悔しい……。
女の顔をしっかり見てやろうと決心した。眼を細め、長吉の腕の中の女に神経を集中した。
ーなんだい大年増じゃないか。
三十路と思われる女は、小柄で痩せ型、胸も尻も薄く、色だけ白い。芸者上がりだと分かる着物の着方と、髪の結い方をしていた。眼が細く、尖った印象の顔には、鮮やかな色をした紅がひかれていた。それを見て、おせんはまた腹が立った。
半月ほど前のことである。早朝、おせんが井戸端で大根を洗っていたら、おすえが寄ってきて、
「あんたんとこの亭主、また悪い癖が出たんじゃないのかい」とささやいた。
その頃、おせんも長吉の行動を怪しんでいたので、差ほど驚きはしなかったが、おすえは、おせんの股ほど太い両腕をおせんの肩に置いてグイっと自分に向かせると、顔をじろじろと眺め始めた。そしてこう言った。
「おせんちゃん肌は綺麗だけどさ、少し化粧した方がいいよ。今夜辺り、紅でもひいて亭主を驚かせてやんなよ、どうせご無沙汰なんだろう。ぎゃはっははは……」
「……」
その夜、小梅を寝かしつけたおせんは、鏡台の前に座り、行燈の火を引きよせて、顧客の遊女から貰った紅をひいてみた。意外と気に入った。鉄漿の剥げた口を窄めて品を作ってみてから、茶の間で寝転がる長吉の背をとんとんとつついた。
「ん……?疲れてるんだけどな」
最初から、何やら拒否の姿勢でおせんに向いた長吉は眼を見開いた。上体を起こし、尻をついたまま両手を擦って後ろに下がり、とうとう箪笥に背をぶつけると、片手で胸をおさえておせんの顔を、遠目からしげしげと見つめた。
「どう、きれい?」
おせんは精一杯、可愛らしく言うと、鏡の前でしたように、小首をかしげて微笑した。もう二十五、まだ二十五。笑った顔は童女のようだと人はいう。おせんは美人ではない。しかし肌だけは褒められる。血の色が、透かして見えるような、きれいな薄い肌をしている。眉や眼、口角が下がっている訳ではないのに、憂いを含んだ泣きべそ顔は、どこか男心を揺さぶる。一重で、黒目の大きな眼は、常に涙で潤んでいるように見えた。
「ねえ、きれい?」
自信を持って聞いてみた。しかし、返ってきた言葉は、おせんの期待してたものとはかけ離れていた。
「びっくりするじゃねえかおかめ。人でも喰ったのかと思ったぞ」
「……」
「なんだ、紅をひいてるのか?鯰のような口には似合わねえからやめな」
「ばかやろう」
憤慨したおせんは、小梅の眠る二階に走り、茶箪笥の、奥の奥に隠して置いた、銅銭を握って駆け下りると、どういうわけか、戸を開けて外に放り投げた。
「ほれっ金だ」
「何しやがんだもったいねえ」
草履も履かずに外に飛び出した長吉を見届けると、
「もう帰ってくんな」
と、心張り棒をかった。
「冗談だよ、おかめ。赦して」何度も外で詫びる長吉の声を背にして座り、しばらく耳を塞いでいたが、いい加減に可哀想になって家に入れてやると、長吉も反省したのか、その晩、夫婦は久しぶりに同じ床で寝た。
「あたしには人を喰ってるって言ったくせに……」
いやな想い出に耽り、思わずつぶやいて顔をあげると、女狐が長吉の後ろ姿を見送っていた。
ーあら、いけない。
長吉に先を越されまいと、褄を帯にねじ込んだおせんは、新高橋の方から裏道を通って、松坂町のすずめ長屋へ急いだ。途中、知り合いの棒手振りから、余った巾着茄子をたたいて買ったので、小梅を預かって貰っているおすえに裾分けした。
台所で包丁を握るおせんの手は、いつになく力が入り、まな板に、骨を切るような音を響かせてた。茶の間では、小梅が、人形に話しかけて一人遊びをしている。時折、小梅に眼を配りながら、おせんは夕餉の支度を急いだ。
ー早く食べて、早く寝ちまおう。
茄子を切り終わったおせんは、七輪を抱えて外へ出た。今晩は茄子の鴫焼きを作る予定だ。鴫焼きとは、茄子の田楽のことで、焼いて皮を剥いた茄子を縦に切って串を通し、油を塗った上から、砂糖を加えた味噌を塗ってもう一度焼き、仕上げに柚の汁をかけて食べる。長吉の大好物であるが、長吉の分は作らない。
路地に七輪を出して、串刺しの茄子を焼いているところに、長吉がのこのこ帰ってきた。
「おっ、今晩は鴫焼きかえ?いいねえ、一杯やりたいねえ」
「……」
隣りに屈んだ長吉の襟元から石鹸の香りがただよった。
「仕事もしないのに、湯屋へ行ってきたのかい、お前さん」
茄子に味噌を塗りながら、皮肉をたっぷり込めた、ねこ撫で声で言った。
「ああ、今日は暑かったからな、体中が汗でべとべとで、堪らなくなってよ」
ーそりゃ、そうだろう。汗を掻くようなことをしてたんだからさ。
刷毛を握り込むおせんの指に力が入り、味噌が下にぽたぽた落ちた。それを見た長吉が、おいおいと茄子を取り上げた。
「なんだよ仏頂面して、気に入らねえな」
「ふん」
「なんだ、おかめ」
長吉は茄子を持ったまま、おせんの顔を覗き込んだ。口を吸うように顔を斜めにして近づいて来たので、おせんは思わず仰け反った。
「お前……」
おせんの顎に指先を添えて上げると、おせんの唇をじっと見つめた。
「なっ……」
おせんが引きつると、長吉は眉間にしわを寄せ
「唇がぱっくり切れてるぞ」
と、心配そうな声を出した。長吉と女狐の仲睦まじい姿を見せつけられて、噛み切った傷跡だ。
「あんたのせいよっ!」
おせんは、長吉から茄子を取り上げると、全てを皿に取り、さっさと家に入ってしまった。「おいっ」と長吉の怒鳴り声が聞こえたが、無視し、皿を一旦、上がり框に置いてから、冷や飯に、湯をかけて温め直したものを茶碗に盛った。
「なんだよこれは?」
土間と茶の間とを仕切る枠木に躰を凭せ掛けた長吉が言った。
「ささ、早くお食べ。とっとと食べてとっとと寝るんだよ」
突っ立っている父親に眼を奪われ、箸の止まった小梅の頬についた飯粒を取りながら、おせんは、嗜めるような口調で言った。
「おい、おかめっ!俺の飯はどうしたんだよ」
「お前さんの分はないよ。働かざるもの、食うべからずだ」
「なんだと」
長吉は、足元に転がっていた小梅の人形を蹴り飛ばすと、茶箪笥の引き出しをばたばと開けだした。小梅が、はっと、泣き顔になり、箸を落として、無残に土間に転がる人形を指さした。おせんはそれを拾い、
「金ならないよ、前から欲しかった反物を買ったからね。浴衣を縫うんだよ。あたしと小梅の。それに合う簪と櫛、下駄も買ったから、もう蓄えはないよ。我が家はすっからかんさ」
おせんは顎をしゃくって、数日前に購入し、衝立の向こうに仕舞っておいた反物類をさした。長吉は、衝立の前に並べられた真新しい品物と、おせんを交互に忙しく見ると、口をあんぐりと開けて、ずるずるとその場に腰を下ろした。
「何てことしやがんだ、お前は」
つぶやくように言って、何かを思い出したように顔を上げ、俺の浴衣はないのか?と肩を落とした。