第2章 凍った雪を溶かす暖かさ 二
「美羽ちゃん? 早く食べないと遅刻するわよ?」
しわがれた、でもどこか温かさを持つ女性の声に、はっと我に帰る。美羽は朝食を取るためにリビングに来ていた。
そこで出てきたのはこの館の女主人―――絹江手作りの温かさ一杯の食事だった。
美羽はボルグアイに言われたこともあり、つい昔の記憶に耽ってしまった。
「大丈夫?」
美羽の正面に座った絹江が心配そうに再度尋ねた。
「あ……はい、大丈夫です……」
力無く苦笑い――いや、作り笑い――を浮かべ、答える美羽。隣に座っていた遥も心配そうに見ていた。
「大丈夫……ですよ。ほんとに……」
「美羽ちゃんがそう言うなら深くは聞かないけど、おばあちゃんとしては少し悲しいな」
絹江が苦笑しながら首を傾げる。その表情はまるで自ら子供に――孫のほうが正しいが――語りかける親の顔だった。
「絹江さん……」
「おばあちゃんでいいよ。みんなそう呼んでるし……私としてもその方が嬉しいわ」
「き、絹江さん……っ」
瞳を潤ませて、絹江を見る。美羽は今までに経験したこともないような温かさに包まれた。自然と涙腺も緩くなる。
「ほら、また。おばあちゃんだよ」
「お、おばあ……ちゃん……」
照れに照れ、俯き加減に呟く。
「うんうん、それでいいんだよ。なんたって私たちは家族なんだから」
絹江は柔和な笑みを浮かべ、細い腕を延ばして美羽の頭を優しく撫でた。
「お、おばぁちゃぁん……」
その手はシワだらけで決して肌触りは良くなかった。だが、美羽には温か過ぎて、涙が流れた。
絹江を始め、この屋敷の住人達は程度の差こそあれど、皆優しかった。
美羽としても始めての家族と呼ばれたことと、祖母と呼べる人物が現れたことに戸惑いを隠せないようであった。
しかし、絹江達とたった一日だけ暮らしたにもかかわらず、美羽はこの屋敷から離れたくなくなってきていた。
「じゃ、じゃあ俺のことも遥でいいよ」
唐突に遥が話しをふってきた。おそらく絹江が愛称で呼ばれたのが羨ましいのだろう。
さすがに美羽も狼狽した。
「え、あ、あの……じゃ、じゃあ私も美羽でいい……よ」
「あ、うん。み、美羽ちゃん」
「あ、はい。は、遥……くん」
二人は顔を赤らめ合い、互いに俯き名前を呼び合った。
「ふふふ。さぁさぁ、お互い仲を深め合ったところで、時間がないわよ?」
『あ、あああ!?』
二人して驚きの声を上げ、あたふたと朝食を平らげていく。にわかに騒がしくなった屋敷内。
美羽はこんな生活が崩れる所を見たくない、と思い始めていた。
美羽は昨日、偵察した高校に向かっていた。
時間がなかったため、美羽は普段遥が登校手段として使っている自転車に乗せてもらった。
美羽にとっては始めての体験。遥の腰に手を回し落ちないように、しっかりと体をくっつけて車輪の横の出っ張りに足を乗せる。
『ちゃんとつかまっててよ』
そう、家を出た直後、いきなりバランスを崩した美羽に遥が言った。言われた美羽はショックを受け、それから会話はなかった。
初め、バランスを崩してばかりいた美羽は、未だなにかある毎に荷台から落ちそうになる。運動神経がよくないのかもしれない。
今も二人は無言で二人乗りを続けていた。一度拗ねてしまったらなかなか話しづらくなってしまったのだ。
だが、美羽はずっと、ぎゅっと遥の腰につかまり、体をくっつけていた。頬を遥の背中に当て、温かさを感じる。
もうすぐ殺さなければ――死んでから魂を連れていくのだが――ならない相手。その相手は優しく、微笑みが絶えない。
(上はなんでこんな任務にしたんだろう)
ついそんな考えが美羽の脳裏を過ぎる。
そもそも、成績は悪くはないが、死神としては最悪の美羽。学園からも、派遣する上司からも嫌われていた美羽に仕事が下りてくること自体が異例だった。
ちなみに、初めに通信を受けた女上司はまだ美羽を嫌わないでくれる数少ない上司であった。いつ忌み嫌い始めるかわからないため、びくびくする毎日であったが。
(訳がわからないよ……)
はぁ、と小さくため息に似た息を吐く。
まず死神の任務で、決められた内容に対象との接触があったことがおかしい。
本来死神は対象となる人物が死んだ時、その魂が迷わないように導くことが仕事だった。
もちろん、自らの意思で対象と接触し、その魂を導くこともある。だが、それは死神のやり方であって、指示をされてすることではない。
しかも、美羽はこれが初任務である。いきなりこんな任務に当たること自体がおかしいのだ。
(遥くんになにかあるのかな?)
そう思い、ちらりと遥を見上げた。すると、遥もちらちらと美羽のことを見ていた。
「?」
訳がわからず眉をひそめた。確かに気まずい状況になって以来二人は話していなかったが、美羽はあまり気にしていなかった。
学校につけばなんとかなるだろう、そう思っていたからだ。だが、遥は何か話したそうにちらちらと美羽を見ている。
「あ、あのさ……」
「え? は、はい」
美羽は突然声をかけられ、戸惑ってしまった。遥の声は自転車が風を切る音で聞き取りづらく、なおかつ小さかった。
美羽が見ていた限り、いつも元気な遥には珍しい覇気のない声。
「ボ、ボル君はどうしたの?」
「……あ、ボ、ボル君? 家に置いて来ちゃった。さすがに学校には連れていけないから」
(実をいうとキーホルダーになって連れて来てるんだけど)
とは言えず、心の中だけで本当のことを言う。
遥はそれで納得したのか――それだけではないような気がするが――笑顔を美羽に向けた。
「そうなんだ……あはは、ごねてるかもね」
どうやら妙に懐いている見た目兎になっているボルグアイを思い出したらしく、遥が少し笑った。
「あ、もうすぐ着くから降りなきゃ」
「あ、うん」
除雪した道を慎重にブレーキを踏み、止まる自転車。すと、と降り立つ。
「きゃ、きゃぁぁ!?」
ドベシャ、と派手な音を立てて美羽が足を滑らせて倒れた。
「いたたたた……あ、あああ!! は、遥くん!」
美羽は除雪で濡れた道には倒れていなかった。代わりに倒れていた場所は、遥の支えていた自転車の上だった。
遥は支えていた自転車の下敷きになり、さらにその上に美羽が乗っている。
「む、むぐぐ。は、早くどいて……」
潰れた蛙が出すような声を出し、遥が苦しんでいる。
美羽が急いで自転車の上から飛び退く。遥が立ち上がるのに合わせて自転車を起こす。
「だ、大丈夫です……か?」
「うん、問題ないよ。この通り擦り傷一つない!」
親指を立て、誇らしげに美羽に向けてくる。
だが、その姿はとても無事とは言えず、制服は雪解け水でびしょびしょに濡れていた。
「ご、ごめんなさい……」
「いいよ。体操服に着替えればすむし」
「……っ! ごめんなさい!! ごめんなさい!!」
突然せきを切ったように謝り始めた。これには遥も呆気に取られてしまう。
道行く人が振り返り、何事かと見てくる。終いには「あの男が悪いんだ」とか「最近の若い子は」とか聞こえ始めた。
いつの間にか野次馬はすごい数になっていた。
「み、美羽ちゃん!? どうしたの?」
「だ、だってぇ……は、遥……くん。体操服……で……過ごさなっ……といけなくなっ……からっ!」
鳴咽混じりの声。遥もどうしていいのかわからずあたふたするばかり。一方の美羽は溢れる涙を拭おうともせず、ぽたぽたと頬を伝う涙が地面に散っていく。
「……え? それがどうかしたの?」
「……だ、だって……みんなに……からかわれるし……」
「そんなの気にしないって、こけたって言ったらそれでいいんだよ」
「……」
美羽は呆気に取られ、目を丸くしていた。何故そんなに気にしてないのか? といった顔だ。
「そんなの……?」
「ああ、そんなのだよ。美羽ちゃんがそこまで気にしなくていいよ?」
「で、でも」
「でももだってもないよ。ほら涙拭いて」
「む、むぐぅ」
少しごわごわしたコートで美羽の涙を拭う。遥は微笑み、変な声を出す美羽を見る。
美羽はただ呆然と遥の笑顔を見つめていた。
「ね?」
「は、遥くん……」
自分が魂を取らなくてはならない存在。そんな人物にこうまで優しくされる。美羽には辛かった。
「ほら行こう?」
「……は、はい」
コートやら、靴やらをびちゃびちゃいわせながら自転車を押して先に行く遥。
てとてとと小走りで遥に追い付く。やはり雪除け水でびしょびしょになった遥の姿は痛ましい。だが、どこか大きく感じた。
「あ、そうそう。時間ないから先に行ってて、俺は自転車を置いてこないといけないから」
「あ、はい」
「ごめんね、一緒に行けなくて……あ、ほら早く行かないと初遅刻になっちゃうよ」
「はい……」
美羽が返事をすると、遥は「頑張って」と笑顔で言い、自転車置場に向かって行った。
返事はしたものの、美羽の足取りは重い。ずりずりと、まるで引きずるようにゆっくりゆっくりと歩いていく。
《大丈夫か? ミル……》
聞き慣れた声が聞こえる―――ボルグアイである。さすがに兎を学校に連れていくわけにもいかず、今はキーホルダーとして鞄にぶら下がっていた。
高校には指定鞄がないらしく、基本的には自由だという。だから美羽は昔から――といっても記憶があるときから持っているものだが――使っている鞄を持ってきた。
その鞄はリュック型で、どこにでもありそうなものである。始めは新品であったであろうそれは今や切られたり、マジックで落書きされたりしてずたぼろだった。
「うん……大丈夫」
美羽の声は沈み逝く石のように重く、覇気がなかった。
《そうか……気張るなよ》
「うん……」