第1章 白い雪の儚い願い 六
「……」
美羽はぼんやりと、庭園の片隅に咲く小さな白い花を見つめていた。
「……はあ」
ため息が漏れた。美羽の小さな口から出た息は、冬の外気に冷やされ白く染まる。それはすぐに見えなくなり、また吐いた息が白く染まる。
美羽は今コートと同じ色の帽子を被り、寒さ対策を施して庭園にきていた。今や全身真っ白になった美羽は風景に溶け込み、庭園を背景にしていなければどこにいるのかわからなくなるほどだ。
しかし、それ以上に儚い雰囲気があった。
今にも雪に溶けて消えてなくなるような儚さが。
それがさらに美羽の影を薄くしていた。
《どうしたんだよ》
「ボル君、あんまり喋ったらばれるよ……」
美羽は拗ねたような口調で服から顔だけを出している兎ボルグアイに答えた。その口も心なしか尖っている。
《今はミルにしか聞こえないようにしてるから別に気にしないでいいんだ》
「……そんなことできたんだ」
再びはぁ、とため息をつき、花を見詰め始める。ボルグアイが服から飛び出て美羽の前に―――見える場所に座った。
「ボル君、そんなとこにいたら風邪ひくよ? 早く服に入らないと」
《ミル! お前あの量産型メイドの姉に言われたこと気にしてるだろ?》
「っ! ベ、別に気にしてなんかないもん」
目線を落とし、ボルグアイと目を合わせないようにする美羽。すかさずボルグアイが回り込み、無理矢理美羽の視界に入り込む。
「ボル君、お節介だよ」
《お節介もなにも、お前がやる気にならないと俺はなにもできないんだから……元気付けなきゃならないだろうが……!》
「あはは、ボル君は優しいんだね」
美羽はすっとボルグアイを抱き上げ、抱きしめる。やめろ、などと言いながら兎ボルグアイはじたばたと暴れた。
「ボル君、鎌のくせにあったかい」
《『鎌のくせに』とはなんだこのやろ~! 離せっ!》
「いや~」
尚もじたばたと暴れるボルグアイを、ぎゅっと抱いて逃げ出せないようにする美羽。だが、声と裏腹にその表情は曇り、悲しそうであった。
やがて、諦めたのかボルグアイは暴れなくなった。
《はぁ、それでミルは何をしょげてるんだ?》
「う……そ、それは」
徐々に声の調子が落ちていき、ついには俯き、黙り込んでしまった。心なしかボルグアイを抱く力も強気なる。
軽い音を立てて美羽の側に誰かが歩いてきた。しかし、美羽は俯いているため気付いた様子もなく、頭だけ自由なボルグアイだけが――といっても、美羽とボルグアイだけだが――気付いた。
「私……また、なにか悪いことしたのかなって思ったの……だって、昔から私がいるだけでみんな怒るんだよ? だから今度も私が―――」
「別にあんたは悪くないわよ」
「……っ!!」
美羽の言葉を遮るように声がした。ビクゥと身を強張らせる美羽。
その姿はまるで叱られた子犬のように縮こまっていた。
「り、理香さん」
震えながら美羽が振り返る。その時の動きは、錆び付いたロボットのようにギギギ、とぎこちなかった。
「……なに狐に見つかった兎みたいな顔してんのよ」
「そ、そんなことないです」
しかし、まさに理香の言う通りだった。美羽は狐に睨まれた兎みたく身を縮こまらせて、震えていた。
「……それよりあんた誰と話してたのよ?」
「え? ……あ! あの、この子に話し掛けてたんです……」
そう言って胸に抱いていた兎――ボルグアイだが――を差し出す。ボルグアイは愛らしくキュッ、と一声鳴いて右手を上げる。
「兎って鳴いたっけ?」
『っ!?』
「あ、あのこの子は特別なんですっ!」
今更ながら盲点に気付く美羽とボルグアイ。
普通、兎は鳴かない動物である。完全に鳴かない―――というわけではなのだが、ボルグアイみたいに鳴いたりはしない。
美羽の見え見えの嘘に、理香は疑わしげな目をボルグアイに向けていた。
「まぁいいわ。たく……ほら、こんなとこにいないで早くうちに入るわよ。私は寒いのが嫌いなの」
「……」
「なに呆けてるのよ、ほら! 行くわよ!」
理香は照れたのか、顔を背けて歩き出そうとしていた。数歩進むと美羽が着いて来ていないことに気付き、振り返った。
「何してるのよ?」
「あの……私のこと嫌いじゃないんですか?」
恐る恐る美羽が聞く。その眼は今にも泣きそうなほど潤んでいた。
理香はぽかんと口を開け、なにかに気付いたのかぽん、と手を叩いた。
「そのことね。あ、あああ、あの時は苛々してたから、つい当たっちゃっただけよ! 気にしないでっ!」
顔を逸らし、ぶつぶつとぼやいた。その頬はどこか赤く、今まで見た理香より何倍も女の子らしく、かわいらしかった。
「り、理香さん……ほ、本当……ですか?」
「しつこいわね!! あと『さん』付けなんかで呼ばないでよね!」
「……や、やった~! 理香さ……理香ちゃんありがとうございます!!」
ばっと理香に飛び掛かる―――いや、抱き着く勢いで走り出す美羽。その顔は満面の笑みを浮かべ、ボルグアイなどそっちのけだった。
「おっと!」
ついに抱き着く、というところで理香はすっと避けてしまった。
「きゃあ!」
派手に転び、顔面から滑る美羽。しかし、 すぐに起き上がり――今度は飛び付こうとせずに――にこっと笑った。
「な、何よ……」
思わずたじろぐ理香。だが、その顔はどこか緩んでいたりする。
「えへへ~何でもないですよ~」
美羽はだらけた笑顔のまま答える。理香は深く、深くため息をつき、肩を大袈裟に落とした。
「はぁぁぁ~、もう! さっさと家にもどるわ――― っ!?」
突然振り返り、門を睨んだ。いや、門よりも上、どこか遠くを睨んでいるようであった。
「……? 理香ちゃん、どうしたですか?」
「何でもない、早く入ろう……」
が、すぐに微笑みつつ、美羽に近づく。
「はい~」
理香に起こされ、玄関に歩いていく美羽と理香。もう二人に何の隔たりも感じられない。
美羽は初めて心の底から笑った。
《てめぇ~! 馬鹿ミル~!! 忘れんな~!!》
ただ、放り出され、頭から雪に突っ込んでいたボルグアイの叫びだけが空しく響いた。
◆ ◆ ◆
「……勘のいいものだ。本当にメイドか?」
美羽達がいる屋敷から十件以上離れたマンションの屋上にその男はいた。
男は頭から足の先まで真っ黒だった。頭から口まですっぽりと黒い布で覆い、覆われていない部分といえば目だけであった。その眼光は鋭く、睨まれれば思わず身を竦めてしまうであろう威力を秘めていた。
この真っ白い雪の中、男は確実に目立つはずだ。にも拘らず男に隠れるつもりはないらしい。
「ふむ、これは厄介かもな……」
そう言うと、男は一言、二言呟いた。
気味の悪い、耳障りな音がしたかと思うと、男の姿は掻き消えていった。
後には男の一対だけの足跡が残されていた。
あたかも自然が味方したかのように。その、唯一男がいたという証拠はすぐに降り注ぐ雪によって消えていった。
男が見つめていた数キロ先には―――今まさに理香とその後ろを楽しそうに歩く美羽。そして、二人を笑顔で迎える遥と理紗の姿があった。