第2章 凍った雪を溶かす暖かさ 六
「っていうか……あれ、遥先輩だよね……?」
未希は、ぼんやりと美羽の去った入口を見つめていた。
「う、うん。そうだったね」
「ありさもそう思う?」
未希の隣には椅子を隣に付けて、同じく入口を見つめているありさがいた。
二人は昔からの馴染みの仲であった。坊主頭の福田和之を含めた三人は小学校からの幼馴染みで、よく一緒にいた。
今もトイレに行っていない福田はともかく、未希とありさは机を寄せて昼食をとっていた。
「ん? どうしたんだお前ら……」
「和之、あんた前閉めなさいよ……」
「お? すまん、すまん」
ジー、と社会の窓―――もといチャックを閉める和之。そこに異性に見られたという意識はなく飄々としている。
「もうっ、かずくん!!」
ありさだけは未だに和之の行動に顔を赤らめる。
和之はあはは、と笑うだけで気にした様子はない。
「気にすんなよっ!」
「む、むむぅ」
あまつさえ笑いながら頭を乱暴に撫でてさえいる。ありさは痛いのか声を上げた。だが、その顔はどこかはにかんだ笑顔が浮かんでいた。
「そんなことよりさ、なに見てたんだお前ら」
「ああ、それはね……」
「遥先輩が美羽ちゃんを連れ出したんだよ」
どもる未希に代わりありさが答える。未希は顔をしかめてありさを睨んだが、ありさに気付いた様子はなかった。
「なにぃ!? 美羽ちゃんがさらわれただとぉ!?」
「あ、あの……そこまで言ってないよ……? 連れ出しただけだよ」
「行くぞ未希! ありさ!! 美羽ちゃんを取り返すんだ!!」
「か、かずちゃん!?」
ありさが驚き、今にも走り出さんとする和之に飛び付いた。和之は、暴れはしないものの、興奮した牛さながらに鼻息を荒げていた。
「お、落ち着いて、かずちゃん! 未希ちゃんも止めて!」
「ま、いっか。いくよ和之!」
「み、未希ちゃぁぁぁん!?」
未希は止めるどころか先に走り出して行った。
「ゴー!!」
和之が掛け声と共に走り出した。飛び付いたままのありさとともに。
「だ、だれか止めてぇぇぇぇぇ!!」
◆ ◆ ◆
「わあ、すごいです!」
美羽は遥達と共に屋上に来ていた。目の前には、理紗がどこから出したのか、四人が座ってもまだ余裕があるほどの大きさのマットが敷かれている。
「そうだろう、そうだろう」
「何であんたがいばってんのよ!」
「い―――っ!」
バシッ、と理香が遥の後頭部を叩く。余程威力があったのか苦悶の表情を浮かべて遥が悶えている。
「姉さん!!」
「あれぇ? そんなに強く叩いたかなぁ……大袈裟ねぇ」
「もうっ!」
理香の妹である――といっても双子だから同じ年なのだが――理紗が、素早く一番冷たいと思われる水筒を遥の後頭部に当てていた。
素早い行動である。さすがは紫藤家の専属メイドだ。
一方の美羽は呆然と見ることしかできず、役立たずだった。
「だ、大丈夫ですか……遥くん……?」
遥は美羽の問い掛けに苦笑しながらも、親指を立てて『大丈夫』とジェスチャーしてくれた。
美羽はそんなことしかできない自分が嫌になった。いくら魂を獲らなくてはならない相手でも今は友人である。なにかしたくなるのは仕方のないことであった。
まして記憶を失ってからの初めての友人である。余計にそう思ってしまうのだ。
「まあいいや。美羽、こんなんほっといてご飯ご飯!」
「え? あ、で、でも」
「はぁ、美羽……あんたこんなダサい演技も見抜けないの?」
ため息を吐き、心底呆れた様子の理香。
美羽は思わずぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
―――演技? あれが?
そう思ってしまうほど意外な答えだった。
「姉さん!! なに言ってるの、遥さんこんなに痛がってるのに!!」
理紗が怒ったように叫んでいる。
「あーあ。バレてたか、美羽達は騙せたのになぁ……」
遥はすっくと立ち上がると、何事もなかったかのように首をコキコキ鳴らしている。
「……」
「……」
美羽と理紗は目を丸めて遥を見た。
どうやら理香は見抜いていたらしいが、遥はかなり丈夫らしい。
呆気に取られた美羽達はただ呆然としてしまった。「何でバラすんだよ!」とか「ばかやってるからよ!」とか言い合っている遥達を、美羽は固まったまま見つめていた。
「は、遥……さん?」
「ん? どうした……理紗? おま、それっ!?」
遥が理紗を見て訝しみ、悲鳴を上げた。
理紗の手には、いつの間に出したのか棒が握られていた。
長い―――本当に長い棒である。有に二メートルはあるのではないかというほどの長い棒。
「ま、待て! 俺が悪かった! な?」
棒の先にはギラリと光る刃が付いていた。刃だけで美羽の足ほどはある。
遥を真っ二つにするには充分過ぎる長さと大きさだった。
フォン、と風を切る音を縦棒――刃が付いているから槍か、薙刀だろうが――を構える。
「覚悟……」
「へ、ヘルプミー!!」
トン、軽い音を立てて理紗が駆け出した。もちろん槍は構えたまま。
遥の助けを呼ぶ声に答える者はいない。ただ、手をかざして無意味な防御を取っているだけ。
「……!」
もう少しで届く、その時には体が動いていた。
「やめてください!!」
目前に迫る刃を見据えながら美羽は叫んでいた。
ピタ、と止まる刃。寸止めだった。
生きている、それを実感すると同時に、体が震え出した。がたがたと全身のあらゆるところが震える。歯はガチガチと噛み合わず、目はまるで焦点が定まらない。
やがて、槍が降ろされたとわかった瞬間、美羽は屋上にへたりこんだ。
「あ……わ……わたし……わたし……」
理紗もカタカタと震えていた。自分がなにをしたか理解したのだろう。
美羽と同じようにへたりこみ、泣いていた。
「大丈夫……?」
突然ポンと肩を叩かれ、美羽は驚いた。遥だった。
「大丈夫?」
遥は美羽にもう一度聞いてきた。美羽が震えながらも頷いたのを確認すると、理紗のところに歩いていく。
遥が理紗に何かしら話し掛けていた。しかし、離れているからか、美羽の耳には届かない。
「……は……は……」
遥くん―――そう言いたいのに、美羽の口は思い通りの言葉を紡ぎ出してくれない。
「ごめんね……」
急に肩に手を置かれ、浮き上がるほど身を震わせた。
手の主は理香だった。
理香は心配しているのだが、悲しそうな表情をしていた。理由は大体わかる。
「ごめん……」
そう言うと、理紗の元に駆けて行った。理紗と遥が何か話し、遥が理紗を担ぎ理香がそれに寄り添うように立ち上がる。
「……」
「美羽ちゃん……俺達理紗を保健室に連れていくんだけど……一人で大丈夫……?」
心配そうに――だが急ぎたいのかどこかそわそわして――美羽に尋ねてくる。
「……はい」
今の美羽にはそれしか言えなかった。
遥はなにか言いたそうだったが、一度頷くと保健室に向かうため扉に歩いて行った。もちろん理香も連れ添っている。
彼女にはもう妹しか見えていないのだろう、美羽を見ることもなく行ってしまった。
「……」
孤独の恐怖が美羽を襲った。
確かに状況を見れば理紗が優先されるだろう。だが、誰かに胸の一つでも―――いや、ハンカチ一つでも貸してもらいたかった。
でも、屋上には誰もいない。ただ、ぽつんと美羽と食べられることなく、ほったらかしになった重箱があるだけだ。
「……ふっ……うぇ……」
急に涙が溢れた。たった一日でも温かさを感じてしまった美羽に今の孤独は耐え難い。
まして、命を落とすかもしれない、という恐怖を感じたからなおさらだった。
一応、死神である美羽に死ぬということはない。だが、今は実体化している美羽にとって、死は人間と同様に与えられるのである。
恐怖の一つも覚えるは仕方の無いことであった。
「ふぇ……ひくっ……ひっ……」
鳴咽が涙を拭く小さな手の間から漏れる。目をごしごしと擦り、何とかとめどなく溢れてくる涙を拭い去ろうとする。
一向に止まない涙。自然に漏れてくる鳴咽。震えて止まらない体。
美羽もまた一人の少女なのだ。涙が溢れるのは自然の成り行きであった。
「うえぇぇぇっ」
ついには声を上げて泣いた。
またもや捨てられるのか、嫌な考えが頭をよぎる。気付いたときには美羽は自らを抱きしめ、震えながら泣いていた。
こんなとき、必ずボルグアイが優しく――あまり優しくないかもしれないが――声を駆けてくれた。でもボルグアイは今、教室の鞄に引っ付いていた。
(わたし……今……一人だ…………おにいちゃぁん……)
何故か自然とその単語が浮かんだ。
しかし、今の美羽にそのことを深く考えることは出来なかった。例えそれが記憶を失う前の記憶だとしても。
「不様だなぁ、ミルトランジェ?」
「……!」
突然気味が悪くなる声が頭上から聞こえてきた。
はっと見上げる。
「よう、白い悪魔さん? 忘れたか? 俺だよカイベイルズだよ」
巨大な鎌を持った黒服の少年――声は明らかにしわがれた感じだが――がいた。
カイベイルズ。美羽ことミルトランジェの先輩にあたり、常に美羽を虐め、遊んでいた男だった。
「ぐすっ……何であなたがいるんですか……?」
「てめぇ、誰にそんな口聞いてんだ?」
「……っ!」
カイベイルズの口調には明らかな怒気が含まれていた。即座に美羽は頭を庇い、伏せる。
手の甲に痛みが走る。次いで頬にも痛みが走った。
美羽は一瞬なにが起きたのか分からなかった。
「つぅ……!」
自分の状況を把握してようやくなにが起きたのか理解した。
打たれたのだ。いや、そこまでは分かっていた。その力が強すぎて地面に叩き付けられたのだ。
「い、いたぃ……」
「アハハハ! 強すぎたかぁ?」
耳障りな声が耳をつく。
ギリッと歯を噛み締め、強く拳を握る。
悔しかった。悔しくて堪らなかった。こんなときでも反撃できない自分が悔しかった。
「何だぁ? やるのか? アハハハ!」
「……」
だが今は耐えるしかなかった。下手に逆らえば殺されるかもしれない。実際一度死にかけたことがあるからだ。
「ハハハ……」
「……?」
哄笑が突然止んだ。訝しみ、見上げると、そこには殺し屋の眼をしたカイベイルズがいた。
「覗きはいけない……なぁ?」
キュルッとなにかを捩曲げるような音がしたかと思うと、美羽の頬に風が吹いた。
「……?」
次いで、トスッと軽い音がした。
カイベイルズが何をしたのかわからず、きょとんと伸びた黒い棒の先を見る。
棒の先から現れたのは―――未希だった。
いや、体つきの魂というべきか。死神の鎌で切ることができるのは魂のみだ。
つまり、体がついて来ているということは、未希の魂と肉体の結び付きがそれだけ強いということだ。
「……未希ちゃん!」
それも時間の問題だった。見る間に魂が肉体から離れていく。
「未希ちゃん!!」
美羽は叫んだ。だが、それが意味を成さないのは知っていた。
それでも叫ばずにはいられなかった。完全に剥がされ、鎌に捕われた魂はよほどのことがない限り、戻らない。
《み、みう……ち……》
ボルグアイが出すような声帯を使っていない、よくわからない声がする。
《い、いた……よ……たす……て……》
引き剥がされるにつれ、未希の声が聞き取りづらくなる。
「未希ちゃん!!」
手を取ろうと近付く。だが、それは叶わなかった。
「何だぁ? お前呪われた存在のくせにいっちょまえに友達がいるのか?」
カイベイルズをキッ、と睨み付ける。そんなことをしたところでたじろぐ相手ではないのは分かっていたが、それくらいしか美羽にはできなかった。
「未希ちゃんを返して!!」
「なら、遥とかいったか? あいつの魂を完全に破壊しろ…………いや、あいつの魂を俺によこせ!!」
「……っ!? そんなっ! 魂を完全に破壊したら!」
「そうさ! 二度と転生しない!!」
狂った笑みを浮かべ、カイベイルズが叫んでいた。
美羽は呆然とそれを見詰めた―――いや、見詰めるしかなかった。
狂っている。
そう、まさに狂っていた。狂気の哄笑を上げ、今も関係のない者の魂を引き剥がそうとしている。
普通の死神には有り得ない行為だった。
「だ、駄目です……わ、わたしの魂を上げますから……破壊だけは……」
「……今、何て言った?」
カイベイルズの声が地獄より響くかのように冷えたものに変わる。だが、ここで負けるわけにはいかなかった。
「だから―――」
激しい衝撃が美羽に襲い掛かった。体が屋上を跳ね、フェンスにぶつかる。
「かはっ……!」
肺の空気が全て吐き出され、息ができなくなる。
何とか息をしようとするのだが、うまく呼吸ができない。
《みう……ち!!》
未希が叫んでいる、どこか遠くで、意識が途切れそうになる。
どうにかして意識を保ちたいのに、何故かそれができない。
どんどん狭まる視界。その視界になにかが現れた。だが、それを確認する前に美羽は意識を失った。