プロローグ 失われし記憶
「待て、逝くな!! 生きろ……生きてくれ!!」
「駄目……もう駄目だよ……ごふっ……運命には……ぐっ……逆らえないんだよ……」
少年が抱き抱えている少女は今にも死なんとしていた。胸からは血が溢れ、少女が喋るのを邪魔している。
二人がいるのは壊れた街の広場。すでに廃墟と化し、もう何年も人が住んでいないような所。
「早……く……ハァハァ……スで……私の魂を……狩らない……と……」
「馬鹿言うな!! そんなこと、出来る訳無い!」
「……駄目、そう……ないと……あな……が……狩られ……立場に……なる……わ。……だから、早くっ……!」
少女は明らかに、死に向かってその歩みを速めていた。傷口を押さえているのであろう少年の指の間からは、無理矢理押し込まれたように血が溢れている。
少年はただ泣き叫び、少女の言葉を受け入れようとしない。いや、少女が死に行く現実を受け入れられないのかも知れない。
「嫌だ!! 僕は、君を……手に掛けたくない!」
少年は首を振る。まるで駄々をこねる子供のようだ。
「……かはっ……私は……殺されるなら……あなたの手で殺されたいの、ほかの人じゃ……いや……」
「でも!!」
「お願……がふっ……げほっ……お願い、あなたになら殺されてもいい……ううん、あなた以外じゃ……嫌なの……」
再び少女が噎せる。その口からはとめどなく血が溢れてくる。それを見ればわかる、傷は確実に内臓を傷つけていた。
「くっ、でも!」
まだ食い下がる少年。だが、少女は首を振り、血で濡れた手で少年の頬を撫でた。
もう腕一つ動かすことすら激痛を伴うのだろう。その動作はゆっくりと――時折身を震わせ、痛みを堪えて――していた。
「……早……く……あいつらがくる、前に……! ゴボッ……ガフッガッ……!?」
少女の苦しみ方が変わった。いよいよ死に近付いているのだろう。口の端からは微かに泡が出てきていた。
「―――っ! クソッほかに方法はないのか!!」
「早く、ほかの……に……ましい、渡……たく……ない……の……」
もうほとんど少女の声は聞き取れないものになっていた。喉に血が溜まり、声が出せないのだろう。
「くっ!! 僕と向こうで会えるから……ごめん」
「気に……し……よ……君とな……こに……行って……楽し……ら……」
「……そうだね。僕もだよ、それじゃあいくよ」
そう言うと少年は立ち上がり、手の平を振った。すると―――手から漆黒の鎌が現れた。
「ありがとう……神江、君……」
少女は最後に柔らかな笑みを浮かべた。
少年―――神江は泣きそうな笑みを浮かべ、それに答える。そして、鎌を振り上げた。
だが―――
「―――!? か、神江……君……」
神江の鎌が少女に刺さろうとした瞬間―――少女の体が震えた。少女の体には神江のものではない刃が刺さっていた。
少女が涙を浮かべ、神江の名を呼んだ。少女は最後の力で神江に手を伸ばす。
神江はその手を掴もうとした―――だが、直前で少女は力尽き、掴むことはできなかった。
ズルッ、という音と共に少女の魂を捕らえた刃が抜け、いずこかに飛び去った。
「あ、ああ、ああああぁぁぁぁっ!?」
神江は少女の体を揺さ振り、言葉にならない叫びを上げた。そんなことでは少女が帰ってこないことが分かっていても、そうするしかない。
「ホルスニコフ……落ちたものだな……」
突如、呆れきったような声が辺りに響く。神江が声の主を探すが、一行に姿は見えない。
「こちらだよ。全く、気配すら読めないのか……」
再び声が聞こえた。だが、今度は響いたりせず、間近で聞こえていた。
はっ、と振り返る神江。
そこには―――
「なんだ? ほんとに気付いてなかったのか、愛する人が殺されて腑抜けたのか?」
「き、貴様! 俺を神名で呼ぶな!!」
神名―――死神が神から賜る神聖な名前。これを持っているということは、神江が「死神」だということの証だった。
「何故だ? 神名は神より賜った神聖な名前……喜んで呼ばれることはあっても、呼ばなくてもよい名ではないはずだが……?」
「うるさい!! 貴様、今取った魂を返せ!!」
「こんな小さな魂を何故そこまで欲する? まさか、愛したのか? 死神のお前が」
「うるさい、うるさい、うるさいっ!!」
神江―――いや、ホルスニコフは首を降り続ける。
死神はあくまでも悠然に構えている。それがまたホルスニコフの癇に障る。
「そういえば、名乗っていなかったな。私はエルタージュ……死神だ」
「エルタージュ! 貴様は絶対に俺が殺す!!」
再び鎌を出すホルスニコフ。死神―――エルタージュに捕らえた少女の魂を取り戻すには、彼を殺すしかない。
死神というのだからすでに死んでいるのだが、死神の死は魂の死を意味する。つまり、完全に世界から消滅するということだ。あの世にもこの世にもなく、神の加護をも受けられない無になる―――それは死神が一番恐れることだった。
「貴方には無理だ……いくら昔は名の知れた死神でも、今は腑抜けなのだから―――な!!」
喋りだけは礼儀正しいエルタージュが飛び立った。ホルスニコフがそれを追う。
空中で鎌と鎌が火花を散らし、擦れ違う。
「グゥッ!?」
「ふふふ、やはり腑抜けたようですね。この程度の攻撃も避けられないとは……」
エルタージュは嘲笑うかのように、右手を切り裂かれたホルスニコフを見下ろしている。
悔しそうに見上げるホルスニコフ。しかしその手はもう武器を握れそうになかった。
ぱっくりと裂け、肉がその裂け目から覗いている。下手に動かせば腱を痛める可能性があった。
「これで貴様はもうなにも出来ない!!! 貴様は死神としても役立たずになった屑だ。アハハハハハッ!!」
「くっ……返せ!! 冬木さんの魂を返せ!!」
「黙れ、貴様の利用価値はもう―――ない!」
エルタージュが無造作に鎌を振り下ろした。ホルスニコフの左肩から右脇腹にかけて肉が裂ける。
「ガハッ……返……せ!」
「しぶといな、まぁいい生き地獄を味わえ。アハハハハハハハッ!!!!」
「くそ……くそ…………く……そ……」
エルタージュの嘲笑を耳にしながら、ホルスニコフは気を失った。