天狐のアマネさま。
今日も雨。
「グループワークの発表は来週です。それでは、授業はここまで。今日はHRありませんので、そのまま解散です。」
梅雨に入ってから、一度も晴れていない気がする。
「――あ、それと。今回の課題になっている神社の跡地、あそこは私有地です。勝手に立ち入らないように。資料は図書室かネットで調べてください」
窓を眺めていたら、いつの間にか授業は終わっていたらしい。
周りは部活動へ向かう生徒や、帰宅する生徒などでにぎわっていた。
慌てて自分も、授業に使っていた教科書や文房具をカバンに閉まっていく。
前の席の友人が、椅子の背越しにくるりと振り返る。
「高校生にもなってグループワークって、だるくない?」
彼女は大きく息を吐いて、肩を落とした。
「そうだね」
課題は、近所にある神社跡地の歴史を調べ、そこがどういった場所だったのかを考察するというもの。形式上はグループワークだけれど、あたしはその輪に入りきれず、終始聞き役になっていた。
いつもこうだ。
いい加減、自分が嫌になる。
「そうだ。私たち、これからクレープ食べに行くんだけど......あ、でも晴ちゃんって真面目だし、校則破らないよね。ごめん、気にしないで! また明日!」
「あ、うん。また明日」
彼女は申し訳なさそうに断りを入れると、足早に教室を出て行ってしまった。
いつの間にか、教室は自分一人になっている。
仲良くしてくれる子もいるから、孤立はしていない。
けれど、どこかで線を引かれているのも、感じていた。
本当は、あたしだって。
あたしだって放課後に寄り道して、クレープを食べてみたい。
別に真面目なわけじゃない。
ただ、言い出せないだけ。勇気がないだけ。
だから今日も、一人で帰る。
......変わりたいなあ。
ー
ビニール傘に打ち付ける雨音を聞きながら、通学路を歩く。
雨は好きだ。心のもやもやを洗い流してくれる気がして、落ち着くから。
何台かの車が、水たまりを踏みながら、追い越していく。
しばらく歩いていくと、ふいに誰かの声が聞こえた。
立ち止まって、傘の中からあたりを見渡してみるが、人の姿は見当たらない。
こんなに雨が強いのに、聞こえるわけがないか。
気のせい、と思い直して再び歩き出す。
しかし、足を進めるたびに、声は少しずつ大きくなっていく。
内容までは聞き取れないが、まるで、誰かを呼んでいるような......。
それでも、姿は見えなかった。
ー
T字路まで来たとき、ふと立ち止まる。
右に行けば、自宅がある。いつもの帰り道。
左に行けば、神社跡地だ。今日授業で話していた場所。
何度も前を通ったことがある。
そうして何気なく左を見た瞬間、あたしは息をのんだ。
「え」
竹林の奥。
確かに見えた、朱塗りの鳥居。
おかしい。
あそこは“跡地”だ。鳥居も社も残っていない、ただの竹林。
稲荷像だけは、置かれているのだけど。
それなのに、なんで。
明瞭な違和感が、ぞわりと鳥肌を立たせる。
怖い。そう思うのに、目が離せない。
そして、また、あの声が聞こえてきた。
行け、とでも言っているのだろうか。
一度気になると、確かめずにはいられない性分。
先生は「私有地だから入るな」と言っていたけれど、前を通るだけなら、問題ないだろう。
ほんの少しだけ。
そうして、あたしはT字路を左に曲がった。
憧れていた寄り道とは、ほど遠いけれど。
ー
「......」
鳥居の前で、言葉を失った。
朱色の鳥居は雨に濡れてつやを増し、その奥には、立派な石畳の参道が続いている。
道の左右には色とりどりの紫陽花が咲き誇り、とても神聖な場所のように感じた。
「いつの間に、こんな風に?」
再建された? そんな話は聞いていない。
そもそもこの場所は、今は私有地になっているし、地域のニュースでも話題になった記憶はない。
夢? 幻?
いや、考えすぎか。
たまたま見落としていただけだ。
最近は真っ直ぐ家に帰っていて、この道は見てすらいなかった。
偶然だ。
そう自分に言い聞かせながら、もう一度周囲を観察してみることにした。
入り口には、黒っぽくくすんだ、二つの稲荷像が並んでいる。
左の像には、黄色のレインコートが着せられている。
恐らくは、この土地主か、近所のひとの善意だろう。像に服を着せるのは、よくある風習だ。しかし、右の像には何も着せられていない。
......が、足元に赤い花が添えられていることに気付く。
「彼岸花って、今の時期だっけ?」
近づいてみると、それは造花であった。
黄色のレインコートと、赤い彼岸花。
誰かが意図して飾ったのだとすれば、何か意味があるのかもしれない。
「......気になる、けど」
“おいでよ”
あの声が、今度ははっきりと聞こえた。思わず振り返る。
しかし、依然として周りには誰もいない。
呼んでいる。
誰かが、ここであたしを。
「お邪魔、します」
軽くお辞儀をして、鳥居をくぐる。
もう、引き返せない。
そんな気持ちで、静かに歩き始めた。
ー
ぴちゃん、とどこかで雫が落ちる音がした。
それを境に、突如、静寂が訪れる。
先ほどまで心地よく聞いていた雨音も、ピタリと止んだ。
石畳の参道は、果てしなく続いている。
両脇に咲き誇っている紫陽花が、奥へ奥へと誘っているようだ。
歩み進めているうちに、あたりが白く煙るような霧に包まれてきた。
あたりを見渡す。
(夢の中にいるみたい......)
視線を前に戻すと、道の先に何かがいることに気づく。
小さな、動物のようだ。それは動かず、ただぽつんと座っている。
一歩、二歩と近づいた瞬間――
その動物が、目の前に現れた。
「――っ!?」
思わず息が詰まった。
正体は、白色の毛並みを持つ狐だった。ふわふわと柔らかい毛並みに、尾は風になびくように揺らいでいる。そしてなぜか、黄色のレインコートを着ていた。
真っ直ぐに力強く、こちらを見つめている。
吸い込まれるような瞳に、目を離せない。
「な、なに?」
もちろん返事はない。
しかし、悲しみを含んだような、それでいて凛としたまなざしに、なぜか心がざわつく。
“はやく、おいでよ”
どこからか、またあの声がする。
あの声を聴くと、そこへ行かなければいけないような焦燥感に囚われる。
――行かなきゃ。
白狐の横を通り過ぎ、霧の中を進んでゆく。
しばらくすると、今度は前方をふさぐように、狐が道を横切った。
右から左、左から右。もう一度、左から右。
ひょこひょこと跳ねるように横切るそれは、だんだんと近づいてくる。
そしてまた、あたしの前に来て、じっと見上げてくる。
「......どいてくれる」
返事はない。けれど、こちらも負けじと見つめ返してみれば、狐は静かにその場を離れていった。
再び歩き始めると、背後から「きゅうん」と高い鳴き声が響いてきた。
振り向かない。ただ、黙って歩き続ける。
何度も、何度も白狐は現れた。
何かを伝えようとしているのは分かる。
でも、あたしはあの声に呼ばれているの。
立ち止まってはいけない気がするのだ。
何せ、もうすでに数十分はこの道を歩き続けている。
この竹林はそんなに広くないはずだ。
なにかがおかしくなっていることには気づいていたが、ここまで来てしまえば、恐怖よりも好奇心の方が勝ってしまう。
それからしばらくして、大きな門が見えてきた。
今は、存在しないはずの神社。
門をくぐると目の前には、古びた木の階段と、朽ちかけてはいるものの立派な屋根が見える。
近づいていくほどに、その輪郭ははっきりしてきた。
どうやら、御社殿のようだ。
屋根の下に、誰かが立っている。
「やっときたね、こんにちは」
「だ、誰......?」
「この姿を見ても分からない?アタシはハルだよ。ナツメハル」
夏梅晴はあたしの名前だけど、と思いながらも相手の姿をよく見てみる。
鏡のようにそっくりな顔。
同じ制服、同じ髪の長さ、同じ仕草。
――あたしじゃん。
全てが瓜二つのようだが、貼り付けたようなその笑みだけは、別人だった。
にわかには信じられないが、否定できる証拠もない。
それが、この不思議な場所での出会いだった。
ー
「ただいま」
傘をしまい、靴を脱いでリビングに上がる。
カーテンが閉まっているためか、部屋の中は薄暗い。
電気をつけ、自室で濡れた制服を着替える。
時計を見れば、母が仕事から帰ってくるまで時間がある。
それまで自習をしようと机に向かった。
(今日のこと、夢じゃないよね)
問題集を解きながら、今日の出来事を振り返る。
今はもうないはずの神社。
永遠とも感じられるぐらい、長い道。
お社で出会った、もうひとりの自分。
誰かにこのことを話せば、きっと病院に連れていかれるだろう。
(......明日も、行ってみようかな)
ノートをぺらりとめくったその時、玄関から物音がした。
「ただいまー」
「おかえり、お疲れ様」
母が帰ってきた。
いつものように他愛もない話をしながら、二人でご飯を作り、二人で食べる。
いつもと変わらない、日常。
布団に入って目を閉じると、今日出会った彼女の微笑みが何度も思い浮かんだ。
ー
それからあたしは、毎日のように神社へ通うようになった。
長い長い参道を歩き、狐に邪魔されながら、お社へたどり着く。
すると彼女は、決まって笑顔で出迎えてくれた。
「よく来たね晴ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは、ハルちゃん」
鏡合わせの自分に話しかけるのは、最初は気味が悪かった。
けれども、彼女と話すうちに、体はこの異様な雰囲気に慣れていく。
ここはあたしの心の中の世界なんだ、と。
いつしかそう思うようになった。
彼女は、まるで昔からの親友のように話を聞いてくれた。
今日あったこと、クラスメイトのこと、些細な悩み。
どんな話題でも、彼女は興味深そうに耳を傾けてくれる。
この神社で過ごす時間は、あたしにとって癒しの存在になった。
だが、行き帰りの道に現れる狐は、日を追うごとに煩わしく思うようになっていく。
「また、いる......」
しつこい。
そんな風に思ってしまう自分が、嫌になる。
ああ、
ー
「変わりたいなあ」
いつものように、放課後になって神社へ向かい、彼女と話しているとき。
縁側のふちに腰掛けながら、ふとこぼれた言葉だった。
「変わりたいって?」
「内気な性格。今日もクラスの子が休日遊ぼうって言ってくれたんだけど、断っちゃった」
「そりゃまたどうして」
「気を使われてるんだよね。クラスの子も素直に楽しめないと思うし、そう考えたら、断るしかなくて」
「......」
何も言わず、少し考えるようなそぶりを見せる。
じっと見つめていると、目が合った。
彼女はあたしの目を見たまま、こんなことを言ってきた。
「変わりたいならさ。あの狐、殺してきてよ」
「......え?」
あまりにも突飛で、理解が追い付かなかった。
「ほら、晴ちゃん。ここに来るとき、毎回邪魔されてるでしょ?」
「い、いや。そうかもしれないけど、さすがに殺すのは......」
「――アタシ、あの狐のせいで、ここに閉じ込められてるんだよね。本当は、外に出たいのに」
彼女は真剣な表情だった。
そして悲しそうにうなだれる。
「ねえ、アタシのこと、助けるとおもってさ?」
“変わりたいなら、勇気を出さなくちゃ”
先ほどとは打って変わって、気味の悪い笑顔の彼女。
正直、ゾッとした。
「ちょっと、考える」
少し様子がおかしい彼女に見送られ、あたしは神社を後にした。
その日、狐は姿を見せなかった。
ー
夜が、静かに更けていく。
夕飯の後、母は「今日は疲れた」といって、早々に寝てしまった。
テレビも、キッチンの明かりも、すべて消えている。
あたしは一人、リビングのテーブルに頬杖を突いたまま、ぼんやりと考えていた。
(狐を、殺す......?)
手のひらに、じんわりと汗がにじむ。
殺すなんて。そんなこと、していいはずがない。
“あの狐のせいで、ここに閉じ込められてるんだよね”
“アタシのこと、助けるとおもってさ?”
彼女の声が頭の中をめぐる
助けるため......いや、でも。
“裏切り者ハ殺すべキだよ”
え?
いや、あの時、そんなことは。
ふいに頭の中に、稲妻のような衝撃が走った。
どこか遠くで、人々の悲鳴のような声が聞こえる。
ぱちぱち、と、何かが、燃えている。
(あたしは......アタシ、は......)
指先が震える。
思考が、うまくまとまらない。
「アいつら、が......憎イ」
口をついて出た言葉に、自分で驚く。
けれど、どこか心地いい響きだった。
自然と、呼吸が浅くなる。
“裏切り者は殺せ”
気が付くと、アタシは立ち上がっていた。
キッチンの引き出しから、包丁を取り出す。
もう、迷いはなかった。
裏切り者は、許せない。
母が起きないよう、静かに玄関を開ける。
傘もささずに、夜の世界へ飛び出した。
ー
街灯が、濡れたアスファルトをぼんやりと照らしている。
いつものT字路を通り過ぎ、鳥居をくぐって竹林の中へと足を踏み入れる。
いつもと同じ参道。
咲き誇る紫陽花。
――来た。
黄色のレインコートを着た白狐は、道の真ん中に佇んでいる。
「......」
近づいても、狐は微動だにしない。
いつもと変わらず、こちらを見上げてくる。
「アタシの邪魔を、しないデ」
ゆっくりと刃を狐に向けた。
吸い込まれるような瞳が、それを見つめている。
狐は動かない。ただ、こちらを――
ざく、と鋭い音が響いた。
刃が毛皮を貫き、沈んでいく。
狐は何もせず、ただ静かに、目を閉じる。
殺した。
それを自覚した瞬間、視界がぐにゃりと歪む。
おもわず膝をつけば、その地面も歪んでいく。
自分がいる場所を中心に、大きな穴が開いた。
「――っ!」
視界が暗くなり、全身が浮遊感に包まれる。
(落ちてる!?)
いつかくるだろう衝撃に身構えたが、それは一向にやってこない。
だんだんと、意識が遠のいていくのを感じる。
強烈な眠気。
意識が闇に飲まれていく直前、
“さヨうなら、愚かナ生け贄よ”
彼女の声が聞こえた。
ー
落下していく感覚に、ハッとして目を開ける。
そこは見慣れた、自分の部屋だった。
何か変な夢を見ていた気がするが、思い出せない。
なんとなく、体が重く感じる。
外は、今日も雨。
通学路は水たまりだらけで、ビニール傘を打つ雨音が耳に残る。
いつもと変わらないはずなのに、今日はなんか変だった。
学校の門の前まで来て、少しふらついたとおもったら、いつの間にか、帰り道を歩いていたのだ。授業は受けていた気がするけど、よく思い出せない。
どこか遠くで、水が跳ねるような音がした。
振り返っても、誰もいない。
ー
勉強しようと、机に向かったはずだが、どうやら寝てしまったらしい。
......母は、帰ってきていない。
今日も、昨日も、その前も。
もう、何日経ったのかすら分からない。
それがおかしいことだと分かるのに、どこか夢見心地で、実感がない。
気持ちをしゃっきりさせようと、勉強を中断して風呂を沸かす。
しばらくして、びしゃびしゃと変な音が響いてきた。
浴室を覗けば、水があふれているのにもかかわらず、給湯器が作動していた。
仕方がないので、浴槽いっぱいの湯に思い切り飛び込んだ。
ー
またある時は。
机に向かって勉強していると、キッチンから物音がした。
やっと母が帰ってきたと思い、声をかけに行く。
しかしそこに母の姿はなく、ただ水道から淡々と水が流れ続けていた。
「なんなの、もう」
最近、水の音が耳にまとわりついて、離れない。
梅雨は、まだ明けないのかな。
ー
学校の帰り道、T字路の前で足が止まった。
そういえば、前にもこうして足を止めたっけ。
「......あれ」
前って、いつだっけ。
何か大事なことを忘れている、気がする。
ぼんやりする頭をどうにかひねって、考えていたその時。
“おきて”
透き通るような声が、あたりに響き渡った。
誰? 誰があたしを呼んでるの。
体は自然と、神社の方へ向かっていく。
「......ない」
鳥居も、石畳の参道も、紫陽花も。
ただ、濡れた竹の葉がしなだれて、静かに揺れていた。
いや、よく思い出せ。ここには元々何もなかったはずだ。
だって、神社“跡地”なのだから。
残っているのは、一対の稲荷像だけ。
しかし、対になっているはずの稲荷像は一つしかなかった。
黄色いレインコートを着せられていた稲荷像が、丸ごと消えている。
まるで初めからなかったかのように。
残された片方の像が、悲しげに見える。
雨で濡れていたからかもしれないが、それは、心に鋭く刺さった。
そっか、あたしは――
視界が歪んだ。雨に濡れてぼやける窓のように。
そして気が付けば、神社の縁側で横たわっていたのだった。
何か白っぽいものが、あたしのことを覗き込んでいる。
何度か瞬きをして、ぼやける視界に意識を集中させる。
そして、目が合った。
信じられないほど整った顔立ちの見知らぬ美青年が、すぐ目の前にいた。
驚きで心臓が跳ね、飛び上がるように体を起こした。
「え、え、何......だれ?」
喉がかさついて、うまく言葉が出ない。けれど、目が釘付けになった。
白っぽい和装に、輝く銀の長い髪をおろしている。
そして、和装とは絶妙に合わない、黄色いレインコート。
「気づかないのですか」
その言葉に、サッと血の気が引くのを感じた。
まさか。
「貴方が殺したんでしょう、私を」
ー
「――私は、気狐のトウリと申します」
そういうと静かに立ち上がり、儀式のような所作でお辞儀をした。
彼は、あたしが殺したあの白狐だという。
「つまり、あんたはお化けってこと?」
おそるおそる尋ねると、彼は口角をわずかに上げて否定する。
「いえいえ、私は妖狐でございます。あの姿は仮のもの。現世に留まるためには、器が必要なのです」
言葉の意味が理解できない。
頭がガンガンする。
「現世?それじゃあ、ここはどこよ」
彼は姿勢を正したまま、語り続ける。
「ここは、私が作り出した、結界の中にございます。本来は、もう一人の貴方......として化けていたアマネさまを閉じ込めるためのもの。しかし、貴方は彼女に惑わされてしまった。私を殺し、結界が緩んだ一瞬の隙をついて彼女は現世へ逃げてしまいました。......貴方を、ここに閉じ込めて」
「ハルちゃんが、あたしを......?」
信じたくなかった。彼女とはいろんな話をして、仲良くなれたと思ったのに。
しかし、狐を殺したときに聞こえたあの言葉も、確かに彼女のものだった。
“さヨうなら、愚かナ生贄よ”
ずっと騙されていた。
ぜんぶこの結界から出るための罠だったんだ。
今まで過ごしてきた時間が崩れていくようで、寂しかった。
「彼女、“天狐のアマネさま”はこの地に祀られた神であり、私が仕える者でございました。今では、ただの悪霊となり果ててしまいましたが......」
神様が、悪霊に。そんな話は聞いたこともなかったが、彼の語り口からして、事実なのだろう。
「今、貴方には、二つの選択肢がございます。このままこの結界の中で、永い時を私とともに過ごすか、ここを出て、悪霊を払うか。......いかがなさいますか」
じっとこちらを見つめるその瞳は、あの白狐そのものだった。
少し考えた後、自信をもって答える。
「あたしは、ここを出たい。家に帰りたい」
「承知いたしました。それでは、晴。貴方がここを出られるように助力いたします」
今までの自分だったら、ここで過ごしてもいいと思うかもしれない。
でも、あのぼんやりとした変な世界で過ごして、気が付いた。
あたしの周りの環境は恵まれていた。
たとえあたしが変われなくて、気を使われたままで、友達とクレープを食べに行けなくても。
あの時間を生きていたいと思う。
ー
「......と言っても、どうすればいの」
結界、がどういうものかは分からないが、閉じ込められているというのだからパッと解決できるものではないのだろう。
「まずは必要なものを集めましょう。ついてきてください」
彼に導かれ、御社殿の近くにある境内社にたどり着く。
戸を開けるように促され、そっと開いてみる。
奥には埃をかぶった装飾棚が見え、中央には黒いかたまりが大切そうに飾られていた。トウリさんはそれを手に取り、あたしに渡してくる。
「......なにこれ、炭?」
「左様でございます。現世に存在していた、お社のものです」
受け取ろうと、その炭に指先が触れた瞬間、じんわりと熱が伝わってきた。
一瞬の出来事だったが、それがただの炭ではないことはすぐにわかった。
「燃えたから、なくなったの?」
「......遠い昔、この地に住む人々の間で、争いが起こりました。いくつもの家に火が放たれ、燃え盛る炎は木々に移り、この神社までたどり着いたのでございます」
なんて返せばいいか分からず、適当な相槌を打つ。
......これは、かつて神社が本当に存在したという証拠。
炭をそっとスカートのポケットにしまう。
手のひらには、まだ温かさが残っている気がした。
次に案内されたのは、境内の一角。
参道の道のわきに咲いていたのと、同じ花――紫陽花が咲き誇る、開けた場所だった。
「もしかして、次はこれ?」
「はい。紫陽花は、かつてのアマネさまがいっとう好まれていた花でございます」
だから、あちこちに咲いていたのか、と腑に落ちる。
「彼女を強く信仰していた人々が、この地に植えてくださったのです。神にとって、信仰は己の神力の強さに直結するもの。彼女はその信仰心に応えるように、紫陽花をとても大切にされていました」
「信仰が、神力に直結......。なら、信仰がない今は。だからハルちゃん......アマネさまは悪霊になったの?」
「それは違います。いえ、原因の一つかもしれませんが、きっかけは別にあるのです」
濡れた紫陽花を一輪ちぎると、その拍子に揺れた葉の雫が、宙に舞い上がった。
トウリさんはその様子を、静かに見つめていた。
ー
次に向かったのは、お社の裏手。
ひっそりと隠されるように、小さな祠があった。
朽ちた木材と苔に覆われたそれは、歴史を感じる佇まいだった。
中にしまわれていたのは、古ぼけたお札のようなもの。
滲んだ文字を指でなぞってみる。
「......五穀豊穣、水の、恵み......火難除け?」
「それは、人々の祈りの札でございます。かつてアマネさまが込めた、神力が残っています」
「ここのご利益って、ひとつじゃなかったんだ」
思い返せば、学校の図書室で探した資料のなかにも、はっきりとした情報はなかった。
どの文面にも、歴史ある古い神社と書かれている割に、詳細は曖昧。
だからこそ、グループワークの課題も思うように進んでいなかった。
「彼女には私のほかに、もう一人仕えている気狐がおりました。私の兄にあたります。アマネさまが五穀豊穣、そして僭越ながら、私が水の恵み、兄が火難除けを司っていました」
「そのお兄さん、今は?」
彼の表情が一瞬だけこわばり、わずかに目を伏せる。
「例の争いの直前に、姿を消してしまったのです。彼女はこのことに深く傷つきました。そしていつの日か、神社が焼けてしまったのは兄のせいだと、恨むようになってしまったのでございます」
「......」
「その時点で、彼女の神としての存在は揺らぎ始めていました。私は、これ以上彼女が堕ちることがないよう、結界を張りました。......しかしそれが彼女には“裏切り”に映ったのでしょう。その憎悪が、彼女を完全に悪霊へと変えてしまったのです」
そうだったんだ。
ハルちゃんは、確かに白狐をひどく憎んでいた。
でも裏切り者と呼んでいた理由は、彼女を守ろうとした行動。
トウリさんの優しさは、彼女に伝わらなかった。
それはあまりにも、悲しい。
ー
再び、あたしが目覚めた場所に戻ってきた。
「晴。この神社について書かれているものを、何か持っていますか?たしか、課題がどうとか。彼女と話していたでしょう」
「えっと、資料をまとめてるノートならあると思うけど」
無造作に転がっているカバンから、ノートを探し出す。
湿気でしわになっていたが、まだ読めそうだ。
ノートには、神社の歴史やそれをもとに話し合った考察などが細かく書かれている。
「少しお借りしてもよろしいでしょうか。これも、神社が忘れられていない証拠となるのです」
別にいいけど、と手渡す。
どうやら、これですべてそろったらしい。
炭、紫陽花、お札、ノート。
これをどうするのだろう。
トウリさんは、集めたものを御社殿に供える。
そして、手をかざす。するとそれらはたちまち宙に浮かび上がり、輝きだした。
まぶしさに、思わず目を瞑ってしまう。
「......?」
光が収まり、目を開けてみると。
そこには小さな“かんざし”が一つ置かれていた。
よく見ると、紫陽花があしらわれている。
「え、なに、魔法?」
「これは我々妖狐が得意とする、幻術です。実際に形が変化したわけではございません。これで、神社の外に出られるはずです。......このかんざしは、貴方が持っていてください」
トウリさんは、かんざしを手渡すとお社に背を向け、鳥居の方へ向かって歩き出した。置いていかれないよう、慌ててついていく。
石畳の参道は、ほんの数十秒で終わりが見えた。
あの長い長い道のりは、結界とやらのせいだったのだろうか。
「それでは、参りましょう」
促されるままに、鳥居を抜ける。
体がふわっと浮かび上がるような感覚の後、気が付けば、竹林のそばに立っていた。
「戻ってこれた......」
「そのようですね」
声のする方を見上げてみれば、先ほどと変わらない姿のトウリさんがいる。
「現世に留まるには、器が必要なんじゃないの」
彼の器だった狐は、あたしが殺してしまった。
「貴方に持たせたかんざしが、一時的に器の役割を果たしているのです。この姿は幻術を使っていますので、実体はございません」
「......なるほど?」
不思議な出来事が起こりすぎて、ちょっとやそっとでは驚かない。
気を取り直そう。今の目的は、悪霊となったアマネさまを祓うことだ。
とりあえず、周囲を見渡してみる。
――あたり一面、冠水していた。
足首ほどではあるが、道はすべて水であふれている。
「これ、まさか梅雨の影響じゃないよね」
「ええ。どうやら彼女の力が暴走しているようです」
今も雨は降り続けている。時間とともに、水位は上がっていくだろう。
時間はなさそうだ。
あたしたちはバシャバシャと水をかき分けながら、捜索を始めた。
もちろん当てなんてないので、しらみつぶしに探すしかない。
ー
いつの間にか、水位は腰のあたりまで上がってきていた。
足が重く、歩きづらい。
このまま見つからなければ、溺れてしまう。
その時、遠くに人影が見えた。
「――っ、見つけた!ハルちゃん!」
彼女は学校の花壇の前に佇んでいた。
完全に水没してしまった紫陽花を、眺めている。
「そういえバ。そのようニ名乗っテいたナア、生け贄。ソれに......弟ノ気狐」
「アマネさまっ......」
「何をし二来た。マたわタシを、閉じ込めル気か」
こちらを見る彼女の瞳は、うつろだった。
腕は力なくだらんとしており、縁側で楽しく話し合っていた時のような面影はない。
「晴。かんざしを、ぶん投げてください。彼女に向かって」
「は?」
丁寧な物言いをしていたトウリさんから、乱雑な言葉が出てきて耳を疑った。
彼の顔を見てみれば、今にも泣きそうな顔をしている。
もしかしたら。
悪霊なんかじゃなくて、初めて会った時のハルちゃんのままなんじゃないかって。
また、よく来たね晴ちゃん、いらっしゃいって。
そう言ってくれると、心のどこかで思っていた。
どうやらそれは、夢物語らしい。
「今なら届きます。さあ早く」
「わかった......ごめんね、ハルちゃん」
何が何だかもう分からないけれど、力任せに思い切りぶん投げる。
真っ直ぐ飛んで行ったかんざしは彼女にあたると、まばゆい光を発した。
「......そうか。人々は、神社を......」
かすかに声が聞こえた。
光が止むと、彼女の姿は消えていた。
ー
「......度重なる無礼を、お許し下さい」
トウリさんは静かに頭を垂れ、別れを告げている。
その姿が、少しずつ薄くなっていることに気づいた。
「トウリさん、それ」
「貴方にも、ご迷惑をおかけしましたね。我々の問題に巻き込んでしまい、申し訳ございませんでした」
あたしの言葉を遮るように、謝罪を口にする彼。
手を伸ばしてみるが、体を貫通してしまった。
現世に留まれなくなったのだろう。かんざしは、もうないから。
「この後、あたしどうなるの」
「長い夢から、目を覚ますでしょう。心配せずとも、元の生活を送っていれば、じきに忘れます」
忘れちゃうんだ、この物語を。
すこし、寂しいな。
「トウリさんは?」
「そのうちまた、次のお勤めに呼ばれるでしょう。それまでは、少し休みます。......久々に、里に帰りましょうか」
だんだんと、意識が遠くなっていく。
「......覚えていたらで構いません。あの狐を埋葬してやってくれませんか」
「うん、わかった」
その会話を最後に、彼の姿は、水面にとけるように消えていった。
ー
目を覚ませば、何度も見た自室の天井。
閉め切ったカーテンの隙間から、光が漏れている。
カーテンを開けると、青空が広がっていた。
「なんか、久々に見た気がする」
梅雨は明けた。
リビングから、朝食に呼ぶ母の声が聞こえる。
返事をしながら、急いで身支度を整えた。
ー
今日も、晴れ。
放課後の帰り道、友人と別れた後。
久々にあの場所に行ってみることにした。
「忘れてないよ」
全然。
ぽつりとつぶやく。
あれからかなりの日が過ぎているが、あの時起きた出来事はすべて鮮明なまま。
まるで昨日のことのように思い出せる。
稲荷像の横に、少し盛り上がった土の山。
いつもは何もないのに、今日は紫陽花が添えられている。
「......」
手を合わせる。
アマネさまも、トウリさんも、ここにはいない。
そろそろ帰ろうかと背を向けたとき、電話が鳴った。
「もしもし、どうしたの? ......え、夏祭り?」
小さく笑みがこぼれる。
“あたしも行きたい!”
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
夏のホラー2025に参加するための、初めて書いたホラー作品です。
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また別の作品でお会い出来たら幸いです。 玄狐りこ