3 ひとりっ子 一城美奈乃
「あ、えっと、同じ部屋ですね。よろしくお願いします! あ、名前は江口明って言います!」
部屋の扉を開けると、すでに先に入っていたらしい江口さんが、ちょっと気まずそうな顔で立っていた。だけど、すぐに明るく挨拶してくれる。
「私は、一城美奈乃です。今日から、よろしくお願いします」
「あ、はい! こちらこそ!」
とりあえず、キャリーケースを部屋の隅に置いて、私は軽く部屋を見回した。
ベッド、簡素な机、壁に囲まれた浴室とトイレ。それだけの空間。だけど、無造作に置かれたジャージと「練習着」と書かれた紙だけが、ここがただの宿泊施設ではなく、特別な場所であることを主張していた。
私はキャリーケースの中に入れてきたハンガーを取り出し、持参したパジャマをかける。
「え、家からハンガー持ってきたんですか?」
江口さんが驚いたように言った。
「あー、はい。一応持ってきました。でも、備え付けがあるみたいなので、必要なかったですね」
「えぇ〜、一城さんって偉いですね。私よりしっかりしてる」
淡々と返事をしながらも、内心少しだけ照れくさい。しっかりしている、と言われることに慣れているはずなのに、江口さんの言葉はなぜかくすぐったかった。
そのまま、江口さんはキャリーケースの中からお菓子を取り出し、机の上に並べ始める。色とりどりの包装紙が、この部屋に少しの彩りを与えた。
「あ、一城さん、これ」
江口さんが指さしたのは、壁に貼られているA4サイズのボードだった。
「全体スケジュールと、合宿生活での決まり事……」
そこには明日からの予定が、細かく記載されていた。それを見て、江口さんが「うわぁ……」と小さく声を漏らす。
「あぁー、ついに明日から始まるんですねー」
「そうですね。結構ハードそうです」
スケジュール表を見ながら、私は改めて覚悟を決める。
「一城さん、タンスこの右側の方使っていいですか?」
「どうぞ」
江口さんは気楽な感じで荷物を出し始めた。私は自分のペースで整理を続ける。
「江口さん、あと十分後にホール集合ですよ」
「え、ウソ!」
江口さんがバタバタと準備を始める。
「大丈夫、私が時間に気をつけますから」
私の言葉に、江口さんはにっこり笑った。
「一城さんって、やっぱりしっかりしてるな」
「そんなことないですよ」
私はそう言いながら、心の中で「でも、そう言われるのは嫌じゃないな」と思っていた。
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ホールに到着すると、すでに何人かの参加者が集まっていた。でも、みんなぎこちない感じで、会話も少ない。まるで、『ここにいる全員がライバル』って、言葉にしなくても分かっているみたいだった。
私もなんとなく、その空気にのまれてしまう。
ふと周りを見ると、ジャージの色が少しずつ違うことに気づく。もしかして、部屋ごとに分かれているのかな。
そんなことを考えていると、スタッフが話し始めた。
「明日から、ついに皆さんの活動が始まります。体調管理に気をつけてください。スケジュールについては後ほど掲示しますので、各自確認してください!」
シンプルな説明。でも、その言葉の裏には「これから大変になるぞ」という無言の圧力があるような気がした。
周りの子たちも、真剣な表情で頷いている。私も、自然と背筋を伸ばした。
その後、全員で施設見学がおこなわれた。
ダンススタジオ、トレーニングルーム、大きな鏡に囲まれたレッスン場。今までテレビや動画でしか見たことのない世界が、目の前に広がっている。
「すごい、こんなに広いんですね!」
江口さんが目を輝かせながら言う。
アイドルにとっては、こういう環境はきっと当たり前なんだろうな。
でも、私にとっては、すべてが新しい。
自分が、まだその世界の入り口にすら立てていないことを痛感した。
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食堂の扉を開けると、温かい香りがふわりと鼻をくすぐった。
バイキング形式の食事。テーブルの上には、見た目も鮮やかな料理が並んでいる。ひとつひとつの皿が、目の前に広がる未来のように思えた。
未来にも、沢山の選択肢があればいいのに。
「一城さん、何取る?」
江口さんが、にっこりと笑って問いかけてくる。
すでに江口さんのプレートには、ナポリタンや唐揚げ、卵焼き、サラダなど、色とりどりに盛られている
「うーん……全部、美味しそうですね」
皿を手に取りながら、何を選ぶべきか迷う。この選択が、これからの自分を象徴しているような気さえした。
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食事を終えて部屋に戻ると、江口さんはベッドにダイブした。
「うーん、今日は長かったなぁ」
ちょっとだらしない感じで寝転がる江口さんを見て、なんとなく笑ってしまう。
「そうですね。でも、明日から本番ですよ」
私は自分のベッドに座り、明日からのことを考える。
そのとき、不意に江口さんが言った。
「ねぇ、一城さん、タメ口で話してよ」
「え?」
急な提案に驚く。
「だって、もしデビューしたら、同じグループでしょ? それに、敬語だと距離ある感じするし」
確かに、それはそうかもしれない。でも、簡単に変えられるものではない。私は少し考える。
「じゃあ……分かった。でも、調子に乗らないでくださいね」
「わーい! 一城さん、ありがとう!」
江口さんは嬉しそうに笑った。
なんだろう、この感じ。少しだけ、心の距離が縮まった気がした。