想い出の名画 ノーマン・ロックウエル
ノーマン・ロックウエルという画家をご存知だろうか。古き良きアメリカを描いた画家である。
昔、四十年くらい前、ある地方新聞にこの作者の「息子の旅立ち」という絵が紹介されていた。
待合室の椅子に初老の父親と息子が座っている。
新聞の解説にはこう書いてあったと思う。
「都会の学校に行くために新しい服をきて希望に満ち溢れている少年。それを送りに来た父親。
今汽車の汽笛が聞こえた。悲しむ父親に愛犬が寄り添っている。」
その時は少年の方に年齢が近かったから。
過干渉な親に嫌気がさす年頃だったから。
未来は輝かしくてどこまでも広がっていると信じていた。
子離れしなきゃダメだよな、ここの親も。
子供は田舎から出て行きたいんだよ、と思った。
だけども。何度も何度も眺めたのを覚えている。
押入れに古新聞をしまったときのその光景を覚えている。
その後、ふるさとを何百キロも離れたところに住んだ。
そして東京でノーマン・ロックウエル展を見て、この絵を思い出した。
「息子の旅立ち」という絵を。
(その絵は展示されてはいなかったけど。随分と数奇な運命を辿った絵だ。)
それからも何十年もたった。
ノーマン・ロックウエルの美術館が湯布院にあると聞いていた。
コロナ禍が始まるかはじまらないかの頃だったと思う。
妹と湯布院に行った。探したけど見つからず、宿の人に聞いたら、やっていないみたいなんです、と気の毒そうに言われた。
今年、ノーマン・ロックウエルのカレンダーを買った。フリマで彼の絵皿を見つけて買った。
一枚の絵が、私の心にしっかりと根をおろしていた。
私の子供は大きくなって成人して出ていった。
今ならあの父親の気持ちがわかる。
心配でたまらないことも。
何故あの絵には母が描かれてないのか。
死別したのか。それでは息子が生きがいだったろう。
青い作業着を着た父親。学費の捻出は大変だったかもしれない。
息子の白い服はいつまで綺麗なままだったろうか。
失望や挫折や都会の悪意に晒されてはいないか。
あの父親の表情は晩年の父に似ていたような気がする。
母に先立たれて、一人暮らしをしていた父に。
先日実家に帰った。父が亡くなって八年くらい経っていた。
新聞を片付けていた押入れはそのままだ。
そこを開けたとき、ホコリと樟脳の匂いがした。
鼻の奥がツン、とした。