第73話『不幸のままの方が、ずっと』
第73話『不幸のままの方が、ずっと』
両手を膝の上に置き、左手で右手首を掴む。痛みを感じるくらい爪を肌に食い込ませ、喉元から何かが溢れ出そうになるのを必死で耐えた。
「そうですね・・・私は幸せ者だ。一人暮らしの時期がたった数か月伸びた程度で・・・世の中には、それすら許してもらえない人だっているのに。贅沢が過ぎましたね」
――我慢だ、我慢。この人が言っていることは正しい。いつも通り、相手を肯定して自分の愚かさを受け入れれば・・・この話は早く終わる。
「ほんまそれ。お前の母親・・・沖谷智子か。ええお母さんじゃが。家事全般をする傍ら町内会のボランティア活動も欠かさず参加して、身なりもそれなりに整えとる。少なくとも外の評価は上々じゃけど――お前がそんな被害者ヅラする理由はどこにあるん」
「・・・・・・いえ、遊びに来た友達皆が口を揃えて『お洒落で優しいママだね』って褒めてくれるんです。本当に、理想のお母さんですよ。怒ったらちょっと怖いですけど」
「親父さんも今時1人で家計を支えててガチ凄ぇわ。ちょっと残業しすぎみたいじゃけど。妹もお前よりスペック高ぇが。それに比べて・・・そりゃお前みたいな何もできん娘が一人暮らししたいって言ったら俺でも止めるわ」
「・・・」
――抗うな。『我慢』はお姉ちゃんの専売特許だろ。
子供の頃は無駄に抗い、その度に痛い目にあってきた。責任を顧みない自己満足なんてただのゴミだ。自分の思い通りに事が進むなんてありはしないのに。
「にー」
メニュー表を見て必死に意識を逸らしていたところ、足元から聞き慣れた鳴き声と脹脛に柔らかい何かが触れた。
――ニャルラ・・・?
左足を動かすと、細いふわふわしたものが脹脛をなぞる。
「・・・っ」
「何がおかしいん」
擽ったくて、こらえきれず笑みが溢れた。間髪入れず突っ込まれるが、どうごまかしても悪印象になること間違い無しだった。
「にー」
――ニャルラぁぁぁ!後で覚えとけ・・・!
「・・・いや、っく、ふふ・・・あー。私も酔ったかもしれません」
店員さんからチキン南蛮とチャーハンを受け取り、ついでにお冷と私が飲むお酒を注文する。
「・・・いや飲むんか」
「はい・・・っ。あはははっ!し、失礼しました。まだまだイケますよ」
お腹を押さえて本格的に笑いだすと、やりすぎたと思ったのかニャルラのしっぽくすぐり攻撃が止んだ。先輩は暫く呆けた顔で私を見ていたが、急に顔が強張り背筋を伸ばす。
ニャルラがちょっかいを出してくれたお陰で視界が晴れた。素でこんなに笑ったのは久しぶりかもしれない。いつもは愛想笑いか失笑か、苦々しい気まずげな笑みばかりだから。横を見ると、ニャルラが香箱座りのまま大きな欠伸をしていた。
――そうだ。本当は我慢なんてしたくない。自己主義なことでも・・・自分が言いたいことを言ってスッキリしたい。
1回くらい体裁なんて取っ払って、ありのままの気持ちを伝えたっていいじゃないか。その結果倍傷ついたら、すぐ家に帰ってニャルラと泣きながら戯れよう。
「に・・・」
自慢の毛並みが涙で湿ってしまう危機を察知したのか、ニャルラの毛が逆立つ。私は見なかったことにして話し出した。
「確かに、外面の母は立派でした。でもその分凄く辛かった。あの人が外では人格者として振る舞う程、誰も私の気持ちを十分に理解してくれなかったから。悲しかった。怖くて、いつも怯えてて・・・話しかけるだけでも抵抗があって、家の中でも極力接触は避けるようにしてて。キツイ言い方しかできないあの人が嫌で・・・すぐに怒鳴るところも、手を出すところも大嫌いだった。娘の机の中を勝手に漁れる人だって知った時はこの人が生理的に無理だと感じました」
「それは――っ!」
先輩は何かを言いかけるが、すぐ口を閉じた。続きを促すと、無言で首を横に振った。口を固く閉じて微かに震えている先輩を見て脳内にクエスチョンマークが出るが、あえてツッコまずに話を続ける。
「・・・どんなに怒鳴られてビンタされて首を絞められても、翌日には私の分の朝ご飯とお弁当を用意するあの人の義務に近い優しさが痛くて苦しかった」
当時は意味が分からなすぎて泣いた。『ママの子じゃない』と言ったクセに。私はお母さんが言った当たり前のことを何一つ達成出来なかった娘なのに。どうしてあの人は憎しみを抱いて罵倒した娘にご飯とお弁当を作って、部活着や体操服を洗濯して、制服にはアイロンをかけて、高校の指定靴だったローファーをこまめに手入れしてくれていたのだろうか。
「毎年、父と私の誕生日をプレゼントとケーキを買いに出かけて、夜はあの人が私の好物を作ってくれた特別感と最上の幸福が、次第に減っていって・・・最後は誕生日すら祝われなくなりました」
中2から誕生日プレゼントが無くなり、高1から私の好物でも何でもない普通の料理に変わり、家族からのおめでとうもなくなった。その次の年からは、私自身も普通の日常として過ごすようになった。
「私は両方知ってる。ただいまと言えば必ずおかえりと返ってくる流れが、もう帰って来たの?って眉をひそめて舌打ちされるようになったことも。休日は家族揃ってサコモで買い物したり映画を観たりした充実感が、『ママ達サコモで映画観てくるから、アンタはそれまでにこれとこのテキストをこのページまで終わらせておきなさい』っていう絶望に変わっていったことも」
――過去を現在を比べては、色んなものを涙で汚したっけ。
似たような独白をお父さんにしたら疲れた表情で大きな溜息を吐かれた。
聞きたい聞きたいと迫ってくるはるまに渋々話したら泣かれてしまった。
とあるクラスメイトに笑い飛ばしてもらえるよう愚痴感覚で話したら本気で怒り出した。
担任の先生に半泣きで話したら困った顔をされた。
きっと浦本先輩は――呆れて私を詰るだろう。それでも私は口が回るのを止めることが出来なかった。
「味わいたくなかった。中途半端に幸せだった所為で・・・最初から不幸の方が・・・幸せを知らない境遇の方が、きっと楽だったと思います。幸福だった日常を求めてしまうから。少なくとも私はそう思っています。他の人はどうなのか知らないし、知らないでも・・・別にいいかな」
「それでも、良い思い出はあって・・・厳しくされた中に優しさがあったんじゃろ。それがあるだけでも、幸せだと思わんと」
「・・・ですね」
先輩がお手洗いに行ったことにより沈黙が流れた。私はニャルラの頭を撫で、自分の感情を整理する。
「当時の私はただただされたことしか見ていなくて、その裏に隠されてる行動心理には目も向けなかった。こんな思いをする自分は可哀想って泣いているばかりだったんだ」
どうせ明日死ぬから、今こんなことをする意味なんてないと勝手に決めて、母親の命令を放棄した。でも結局死にきれず、ただ心を傷つけるばかりだった。
「浦本先輩みたく感情の置き所が分かっていれば、心を軽くできたのかな・・・」
『persevere』
「わっ。何だ何だ」
「にー」
スマホを見ると『耐え忍ぶ』と表示されていた。それで何となく理解する。浦本先輩も幼い頃から我慢を強いられていた人間なのだと。
「・・・」
暫く何もせずに上の空でいると、先輩が仏頂面で戻ってきた。何で拗ねてんだ。
「・・・最初、家族以上に大事なモノなんてないと思って調べた」
「というか私の家族まで調べるなんて・・・プライバシー侵害じゃないですか。申し訳ないですが私にとって、家族は全然大切じゃないです。あ、ついでに私の幼馴染も違いますからね。手を出しても、先輩の心がすくようなことにはなりません」
「幼馴染・・・あー小野光はるまか。あと羽柴彩果は違うん?」
「ちょっといい加減きしょいです」
「あ゙?」
「ふっ。ずっと思ってましたけど、その凄み篠木に似てますね。寄せてるんですか?」
「・・・」
「にー」
ニャルラが私の膝の上に乗り、尻尾をゆらす。重いし熱い。けど、不思議とその存在に安心感を抱いた。やっぱり私が今一番大切なのはニャルラなのかもしれない。先輩にバレないよう、おしぼりでニャルラの足を拭く。さっきまで居酒屋の床を歩いていたのなら、これだけはどうしてもやっておきたかった。
「にー」
ニャルラが瞳孔を開いた瞳で私を見るが、無視してシャインマスカット酒のお湯割りを飲む。先輩は鬼の形相でチャーハンをかっこんでいた。
「そんな怖い顔しないでください。ちゃんと正直に話しますから」
――今までの私だったら自分を殺して、相手の意見を鵜呑みにしていた。でも、どうせ篠木に伝わるなら・・・ついでに本当の私の気持ちも言ってみようか。
「昔は、家族や友達、漫画にゲームにスミックマと・・・大切なモノが沢山ありました。中学1年までは幸せな日常が当たり前で、それが普通だと思い込んでました。人によっては憧れる幸せが、これからもずっと続いていくと思っていたんです」
幸生「(チキン南蛮の下に敷いてあったレタスを指して)これ食べてもいいですか」
浦本「は?俺が食う(と言って幸生より先に食べる)」
幸生「こんな油吸ったレタス、私以外食べる人いるんだ・・・(ドン引き)」
浦本「勿体ないやろが殺すぞ」




