第29話『沖谷幸生のコンプレックス』
第29話『沖谷幸生のコンプレックス』
あの時ほど、嘘であって欲しいと思ったことはない。
『そ・・・それだけ・・・?謝ってもらったり、せめて成愛と同じ感じで接してもらうこととかはできない・・・?』
『・・・我慢してくれ。これ以上ママを刺激するな。ワシはそっち側には立てんのじゃ』
お父さんは悲し気な表情で、私にとどめを刺した。
この言葉で、今の私ではどうすることもできないと知った。成績を上げない限り私は不幸のままだ。賢くならなきゃ。家族のために。テストで平均80点以上取らなきゃ――そう思う自分と、生きる意味なんてない。どうせ明日死ぬから勉強なんて必要ないじゃん。と思う自分が二律背反して・・・結局、成績は下がる一方で滑り止めの大学に入学し、命を絶つことも叶わなかった。
そんな未来が待っていたとしても、夢の中の自分にどんな考えがあるのか気になった。
「・・・どうやんの」
「お母さん――沖谷智子のいない世界を願えばいい」
「・・・それは、できないよ」
『私』は怒りを露わにした。光が遮断されたこの部屋で、涙だけがキラキラと輝いていた。そんなに綺麗なモノじゃないのに。
「何故願わない!ずっとずっとずーーっと抱えてたでしょ?あの人がいなかったら、どんなに幸せだろうって!苦しまない!縛られない!泣かなくていい!私を嫌いにならなくていい!そんな未来を考えては泣いてを繰り返していたのは私だろ!」
「・・・そう思っているのは世界で私だけだからだよ。私なら、分かるでしょ・・・?お母さんには、お父さんがいる。成愛がいる。成愛のママ友さんもいる。母方の家族も全員健在で、お母さんには必要としてくれる人が沢山いるんだ・・・私よりも」
涙が零れる。拭こうと手を動かすが、体は直立不動のままだ。自らの意志で動かすことが出来なかった。
「だから消えるのは私の方がいいなんて言わせない!あのクソババアの所為で私一人だけが死ぬのなんて御免でしょ!?」
「かといって・・・お母さんを殺して私も死ぬのも嫌だよ」
「なら!願えばいいじゃん。『お母さんなんていなくなれ』って!もう一度ちゃんと!言霊を込めて!」そうしにゃいと、ワタシは――」
「ヴヴ・・・」
顔の上に温かい何かが乗っかっていた。重い。
「ゴロゴロゴロ・・・」
「分かった・・・起きるからどいて・・・喉鳴らさないで・・・」
のそっと起き上がると、まだ朝の5時半だった。早すぎ。眼鏡をかけると、ニャルラが100万円を背中に乗せてやってくる。
「なんか、戻ってきたって感じだね・・・」
「にー」
――最悪だ・・・。夢見も悪かったし。テーブルがこんな状態じゃカーテン開けれないな。隠してるとはいえ怖い。顔を洗い着替えて意識をはっきりさせる。今日はひとまず。
「大学とバイト行って、お金は明日考えよう!」
「に・・・」
言いたげなニャルラに背を向け、小さく拳を握った。明日の授業は14時まででバイトもないし、今日じゃなくてもいいよね!
(=^・・^=)
次の日、私はS5号館6階の教室でニャルラと授業を受けるフリをして絵しりとりをしていた。ニャルラの描く・・・というか念写は普通に上手いので意外と盛り上がっている。ニャルラの気まぐれで強制終了することもよくあるが。
「――コンプレックスは複合感情とも呼ばれ、様々な種類があります。皆さんもマザコンや、ロリコンといった言葉は聞き慣れているし、会話にも使用しているでしょう」
「せんせーは何コンですかー?」
知らない女子生徒が可愛く作った声で質問する。
「僕―?僕はそうだな・・・強いて言うならエディプスコンプレックスかな。息子が父親に対抗心や憎悪などを抱くコンプレックスのことだね。これは割と一般的で、特に男性が抱きやすい劣等感なんだ」
履修生が一斉に頭を下げてプリントに単語を書き込む。私も植木鉢を描く手を止め、文章の穴を埋め始めた。 週2コマある心理学は全学部共通履修科目である『専門教養科目』の中に含まれているため、学部学年問わず、多くの生徒が席についていた。
必修科目ではないので、保衣不はバラバラだ。この時間梅ちゃんと由衣ちゃんは『環境が作る社会』。高橋さんは『教職』の授業を受けている。そして私は熊本先生が教鞭を取る心理学だ。今回のテーマはコンプレックスについて。悔しいが、熊本先生の授業は面白い。若くて顔が良くて気さくな先生の周りには(主に女子)生徒が集まりがちだ。性格はアレだけど。
「――テストで触れるのは代表的な5つのコンプレックスについてだけど、折角だから他のも見てみよう。2枚目のプリントに余白を作っているから、自分に当てはまるコンプレックスとその理由を書いてみてください。授業終わりに提出してくれた人には点数加算します。勿論任意ですよ」
ボーナス点と聞いて反応する生徒が大多数。自分の内側をこの先生に渡すのは不本意だけど、これで評定Sに一歩近づくというのなら・・・。私は1枚目のプリントにある『コンプレックスの種類』に目を通す。
――エレクトラコンプレックス・・・娘が母親に抱く対抗意識は、違うな。
「にー」
ニャルラが『×』の紙の上で香箱座りしていた。また勝手に生成してこの猫は。
――二次元コンプレックスは梅ちゃんとシーバーで、メサイアコンプレックスは、会話が通じない人だな・・・私じゃない。わ、このシンデレラコンプレックスってもろ由衣ちゃんのことじゃないか?こんなこと本人に言ったらシバかれるけど。
『×』
――青春コンプレックス・・・うーん。
『×』
――もう無難にインフェオリティーコンプレックス(他人より劣っていると感じる気持ち)って書こうかな。嘘じゃないし。
『〇』
「――そして、僕が今注目しているコンプレックスがあります。その名も・・・性悪コンプレックス。これは、出生以前から母親に対する強い怨みを抱くというものです。性悪コンプレックスを持つ人は、母と子の繋がりが強い人によく当てはまるかな。特に・・・メサイアコンプレックスの母親から生まれた子供はその傾向にあります。母親を攻撃して傷つけ、疲弊した母を見た子供の内面に後悔や反省といった感情が生まれます。これらの過程を経て、先程説明した超自我を形成していきます」
息が止まる。バッと顔を上げると、視線の先には熊本先生がいた。先生は蒼白になっているであろう私を見て微かに笑い、チョークで書かれた『性悪コンプレックス』の文字に黒板消しを当て、ゆっくりと動かした。
「当然、プリントに記載したコンプレックスはほんの一部だ。興味がある人はこの書籍を紹介するよ。図書館にも置いてあるものだから、是非読んでみて下さい」
――なに、それ・・・。そんなの、私じゃない。私じゃない。私じゃ・・・。
「にー」
ニャルラの鳴き声を聞いてようやく我に返った。授業はとっくに終わったようで、熊本先生はプリントを回収している。
――いけない。私も提出して次の教室に行かなきゃ。
ニャルラが私の手を舐める。冷えた手に温かくザラザラとした感触が、この時だけは救いのように思えた。
(=^・・^=)
――はぁ・・・。
「にー」
全ての授業が終わり、SIGの集まりもないのでこんな山とっとと下りてニャルラと帰宅しよう・・・と、昨日まではそう思っていた。私は浮かない気持ちで『学生相談室』の前に立つ。熊本先生にプリントを渡す際、貼りつけたような笑みで呼び出しを喰らってしまった。
――あーあーやだ無理帰りたい。
「にー」
ニャルラが軽く体当たりしてきたので、分かってるよの意味を込めて頷く。ノックをして、返答を聞いてから中に入った。どうぞ。と、柔らかい声がドア越しに聞こえても、熊本先生のデフォで糸目の柔和な表情を見ても、私の警戒は解けなかった。
何故なら、私はこの先生が苦手であると同時に、今回呼び出された理由に思い当たる節があったからだ。
――確実にあの事がバレてる・・・多分、いや絶対怒られる・・・!
「はい。お茶、どぞー。今日はカモミールだよ」
「・・・ドウモ」
――飲みたくねー!
座ったまま更に硬直した様子を見て、熊本先生は呆れたように笑った。
「そんなに警戒しなくてもいいのに。まだ僕のことが怖いの?」
「ええとっても」
思わず即答してしまった。そしてニャルラがテーブルの上に乗り、熱々のカモミールティーに舌をつけようとする。
――にょーー!?
「っぱいただきます!」
ティーカップを両手で死守し、一気に半分飲む。猫舌じゃなくて良かった・・・。この黒猫は後で説教だな。『お前が飲まないのなら私が飲もう』的な言い訳は通用しないから。
横目で睨むと、ニャルラは部屋の端に逃げていった。あまり好き勝手動き回らないでほしいんだけどな。反応できるの私しかいないんだから。
「おーいい飲みっぷりだね。熱くないの?」
「大じゅぶです・・・それで、要件とは一体」
ティーカップを置いて前を見ると、先生はさらに目を細めて笑った。
備考①『環境が作る社会』は公民の延長みたいな授業。『教職』は教員免許を取得するための授業です。
備考②『性悪コンプレックス』のみこの世界にしか存在しない心理行動です。




