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100万円を置いた猫  作者: 椋木美都


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 第96話『ただただ気持ちが悪い話』

第96話『ただただ気持ちが悪い話』


「・・・」


「僕、ここの大将とも仲よかと」


「ほぇ・・・」


「折角ならお腹いっぱい食べようや。大将、このランチセット2つ」


「はわ・・・」


「――美味か?」


「・・・!」


完全にキャパオーバーの事態に直面し、私の脳みそは大忙しだった。人生初の高級寿司屋だったが、自分にはまだ敷居が高いということを痛感した。それでも終始緊張していたことと、ネタとシャリの美味さに涙が出てきたのは覚えている。


――1回だけ覇弦さんに誘われたことあったけど・・・死ぬ気で断っておいて本当に良かった。


美味しかったけど、私はエビリー(スーパー)のお寿司で十分である。それでも高級だと思っているのに。


「美味しかったです。あの、私も出します」


「気にせんでよか」


「いやそれは・・・っ!」


せめて半分だけでもと財布を開けると、紙幣の縁で指を切ってしまった。じわ。と傷口から血が溢れる。


――うわ。


他のものに血がつかないよう気をつけている内に、松尾おじは会計を済ませてしまった。私は怪我したことを悟られないよう振る舞う。暫く歩いて指を見ると、血は全く止まっていなかった。結構深めに切ってしまったらしい。


「そん指どげんしたと?怪我ばしたと?」


「はい・・・さっき紙幣で指切っちゃって。絆創膏買いに行ってきます」


確かもう少し歩いたところにドラックストアがあったハズだ。歩を進めようとする私を、松尾おじが通路の端に誘導する。


「手貸して」


「はい」


まさか用意のいいことに、絆創膏を持ち歩いていたのだろうか。そんな淡い期待を寄せたが、彼は私の手を取り――傷を負った指を自分の口内に入れた。


「・・・」


――え?


じゅう。と血を吸われ、最後に下で傷口を舐められた。歯が指にあたる感触、指に残るほのかな温もりとべたつきに――私の中にある嫌悪感が急上昇した。


「・・・」


何とも言えないような顔で吸われた指を見つめる。松尾おじはポケットティッシュで私の指を包んだ。


「一旦これで。応急処置」


「・・・ありがとうございます」


やっとの思いでお礼を言う。片言にならなかったのを褒めて欲しい。正気かと松尾おじをを見ると、彼は眩しそうに目を細めた。まるで私と別の誰かを重ねているかのように。


「僕も前に指ば切ったことがあって、そん時仲良うしとった子に同じことされたんや」


「はぁ・・・」


恍惚とした表情で語る松尾おじの話に相槌を打つ。どうやら彼は『もえ』という源氏名のキャバクラ嬢にご執心だったらしい。『だった』というのは、つい先日担当を降りたからだとか。今回私と取り違えた230万円は、彼女に捧げるために矢野さんから借りたお金らしい。


「――もえちゃんがSNSん裏アカで俺ん悪口ばり言いよって・・・それば問い詰めたら、『最後にお別れ会しよ』ってシャンパン要求されて・・・完全に冷めたわ」


「それは・・・辛いですね。彼女は松尾さんのことじゃなくて、松尾さんが持っているお金のことしか見えていなかった・・・」


「最初はそげん子じゃなか・・・連絡もデートも頻繁にしてくれるし、少額んボトルでも嫌な顔一つせんやった」


――いや。多分彼女は最初からそんな子だったと思うけど・・・。


キャバクラ嬢を題材にした小説を読んだだけの私でも分かる。そこには営業、嘘、疑似恋愛に社交辞令、嫉妬に僻み。自分磨きや精神の安定といったキャバ嬢の生々しい様子が綴られていた。彼女達は相手に幸せな時間を与えるために形成した虚像という名の仮面を被り、必死になって生きている。


私も同じ女なので、心から松尾おじに寄り添うことは難しい。もえちゃんの本性がどうしようもないクソ女なら話は別だけど。


結局、お金は溶かすことなくそのまま手元に置いたとか。その次の日に私が訪ねてきたものだから、もしかしたらもえちゃんが謝りに・・・と僅かな希望を抱いてしまったらしい。いや未練タラタラやないかい。


改札に到着し、改めてお礼を言う。すると、また人気のない壁際まで誘導された。ビクビクしながら松尾おじの言葉を待つ。もう私の中での松尾おじの評価は『優しいおじさん』から『気持ち悪いおじさん』に変わっている。警戒心はマックスだ。


「――最後にハグしてもよか?」


ヒクッと唇の端が上がる。当然答えはノーだ。しかし彼は数千円の寿司を奢ってくれた人。この義理がある手前、無下には・・・いやでも何そのリクエストキモいな。


「・・・・・・どうぞ」


そう脳内で考えているのに、つい許可してしまった。1拍置いて、そっと抱きしめられる。私は化粧が服に着かないよう慌てて顔を背けた。体臭を嗅がないよう口で息をする。手はぎゅっと自分の服の裾を掴む。数十秒はこうしていただろうか。ゆっくりと体を離され、満足気のおじさんに笑顔でお礼を言われる。


松尾おじは、笑顔のまま私が改札の奥へと消えるまで見守っていた。


(=^・・^=)

一旦心を落ち着かせるために、改札内にあったカフェでハーブティーを注文する。流石福分駅。佐古の改札内にはこんな店ないぞ。


「はぁ・・・」


「にー」


「・・・ぁ」


――ニャルラ・・・。


目の前に黒猫が現れたにも拘らず、私は機械的にスマホにイヤホンマイクを装着して耳につけた。


「にー」


ニャルラは指の傷に目ざとく反応し、ザラザラの下で舐める。心が疲れていた私は、その様子を黙って見つめる。すると、治るのに数日は要するであろう傷口がみるみるうちに塞がれて――終いには、どの部分を切ったのかが分からないくらいの状態になっていた。


「なにその治癒能力・・・」


「にー」


耳から『このごめ』が流れ出す。これがニャルラなりの謝罪なのだろうか。


「いいよ。何についての謝罪かは分からないけど・・・その・・・私はもう佐古に帰ろうと思ってて。ニャルラは・・・」


「にー」


言い淀んでいると、ニャルラは私があげた首輪を見せつけるようにしてふんぞり返る。


――いやどういう返事?相変わらず分かんないヤツだな。でも・・・。


「ぷ。ふふ・・・ふふふっ。帰ろうか」


「にー」


悲喜交々とした想いが心を巡り、私は少しだけ嬉し泣きをした。


(=^・・^=)

新幹線の中。私はぐったりと座席に頭をつける。


「楽しくはあったけど・・・疲れたね」


「にー」


――こんな、最初から最後まで気味が悪くて、気持ちが悪い旅行話・・・。


「誰にも話せないな・・・」


「にー」


そんなフラストレーションを残して、私とニャルラの福分旅行は幕を閉じた。


(=^・・^=)

「――ってなワケで、これは篠木からの福分土産。生憎、私が行ったんじゃないんだ」


「量多くない?」


「それは私も思った・・・。多分夏休み佐古から出る予定がないって言った私を哀れんだんだと思うけど」


「篠木さん優しー」


今日ははるまが私の家に泊まりに来る日だ。クーラーの効いた部屋で私は篠木からもらった福分銘菓『ざびえもん』の封を開ける。はるまは福分でしか売っていないクッキーの味に感動していた。


福分旅行のことは誰にも話さないと決めた。バイト先の人にも別の理由で誤魔化した。こうしてまた一つ消化できない秘密が増えたけど――私にはニャルラがいるから大丈夫。


「ウチも旅行行きたい。でもお金ないわ」


「旅行・・・お金・・・」


私は溜息を飲み込む。旅行はもう十分だ。誰かに誘われない限り。


「健太郎君も実家帰っちゃったし。インストは旅行や海の写真ばっかじゃし。来年は実習で埋まるらしいし・・・はーほんま最悪」


「来年忙しい分、今のうちにやりたいことしといた方がいいかもね」


はるまには健太郎という同い年の彼氏がおり、そんな彼の実家は梅坂にある。新幹線で1時間半の距離だ。今の時期は帰省中で会えていないらしい。


「健太郎君のストーリー見て。めっちゃ楽しそう」


「おー。やっぱ久しぶりに友達と集まったら、当然はしゃぎまくるよね」


はるまのスマホには、男子数名が笑いながらテーマパーク内を歩いている動画が流れていた。


インストの機能の一つである『ストーリー』。自動削除機能がついているため、自分のアカウントに投稿が残らないのが大きな特徴である。何気ない日常を気軽に投稿できるのがメリットらしい。私は使ったことないけど。


「さっちんもインストすればええのに」


「だって写真撮るの苦手だし・・・見るのも別に・・・」


「皆の近況は大体全部インストに乗っとるで?」


ほらシーバーさんの。と言ってはるまはシーバーのアカウントを見せてくれた。シーバーは意外にも定期的に写真を投稿しており、神京住みの強みを活かして様々な映えを残していた。


「何だって・・・」


「田村さんは結婚したし、かおりちゃんは彼氏できたし。谷塚君と沼尻君と楽村君に彼女できたことも知らんの?」


「知らない・・・」


「もっと興味持たんと。今ウチが言った人達全員、さっちんとクラス被っとったじゃろ」


「う・・・。はるまが情報通すぎる」


聞き覚えのある名前と、それに結びついて浮かんだ顔がすぐに消える。続けて出てきた名前も、正直そこまで仲がいい人じゃなかった。それに――。


「――顔も思い出せなくなってきた。多分街中ですれ違っても気づかないかも」


このゴミ海馬を長いことほったらかしにしていたツケが、後に大きな事態へと発展することになるとは露知らず。私はのんびりとはるまとのお泊り会を楽しんだ。

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