駅の時計台には屍が眠っている
今叶わない願いでも、時が経って、違った側面から眺めたら、もしかするとどこかで繋がっているかも知れない。
県境の某所。滅多に人通りのない駅舎の外壁は蔦で覆われ、執務室はカビ臭い。駅のある場所だけが、周囲と足並みを合わせられずに、時間が停止してしまったような静けさが横たわっていた。
長い夏休みだから、人気のない、山深い避暑地に出かけてみよう。二十リッターくらいのコンパクトなリュックに、飲み物と雨傘などを詰め込んで、翌日にボクは出発した。
都心から離れるほどに、車窓から覗く景色は目まぐるしく変化し、田園や木造民家が線路の脇を飛びすさっていく。
俄に太陽の光を浴びた木々が燦々とし、トンネルを潜る度に緑の薫風が窓縁から染み入る。
無人駅。もちろんただの一人も現れないわけはないだろうが、称される程度には閑散としている。どこの誰が利用しているのか訝しいが、求められなければ存在することもないのだ。
下調べの結果、この鉄道は複数の無人駅を抱えていて、映画の撮影や、アニメの舞台になったところを巡るガイドラインが示してあった。
どのトピックも興味をそそられる内容だったけれど、ボクが迷わず選んだのは、怪奇現象について囁かれる駅だった。
コンクリートの隙間から、雑草が割れ目を伝って生えている。化石のような駅に降り立ったボクは、中空を仰ぐ。
「立派な時計だ」
木造の駅舎は横長の直方体で、中央に拵えられた出入り口の真上に時計台が張り出している。精緻な細工が施された額に納まる時計の針が止まっていることだけがなんとも惜しい。
「お兄さん、こんな田舎によくぞ来なすった」
足音もなく忍び寄っていた老翁は、ボクと同様に時計を見上げている。
「素晴らしい時計ですね」
「そうじゃろう。とても古い時計でな、私が小さいときからある」
懐かしむような老翁の瞳は黒く濡れていた。
「でも動いていません」
「直す人がいないからねえ。それにこの辺りの人は時間にあくせくすることはない。時計が止まっていても問題はないんだよ」
ふいにボクは時計を修理してみたい欲求にかられた。
「ボクは会社でメカニックをしています。直せるかどうか分かりませんが、時計台の中に入ることはできませんか」
「それは構わないが。案内しよう」
改札の隣には、踏むと軋む階段が続いていた。老翁は勝手知った様子で、足取りも軽い。ひょっとすると駅に関わりのある人物なのだろうか。
「君は一人暮らしかい」
「ええ、会社に入るときに。それがどうかしましたか」
「最近は夫婦にならない若い人が多いのかね」
「さあ。ボクには分かりません」
他愛ない会話が途切れると、階段は古ぼけた鉄柵につきあたった。柵から部屋が透けている。白い埃が床にうっすらと雪のように広がっていた。長いこと使用されていないことは明らかだ。
「そういえば駅舎は少し寒いですね。ほら」
鳥肌の立ったボクの腕を、老翁は一瞥しただけで、鉄柵を押す手を強めた。金属の擦れる耳障りな音が、時計台へと誘う。
部屋はさしずめ物置小屋といった体で、さらに奥に階段が続いている。
「思ったよりも高いなあ」
「螺旋状の構造をしているから、長く感じてしまうのさ」
鼻腔をカビの臭いが刺激する。ありふれた日常から切り離されていくような、心細さが胸を締め付けずにはいられない。
時計の真裏は実に簡素で、厚い生地の絨毯以外の物品は欠片もない。
「どうやら噂は嘘だったようだ」
時計台の窓を開け放つと、部屋に浮遊する塵芥が、散乱現象によって露となった。無理もない、二人の足跡が至るところについていた。
「噂、ですか」
「ええ、巷ではこの駅は少し有名らしく、ボクも最近知ったのですが」
「辺境ですよ。ここは世間と隔絶されています」
「或いは、それこそが理由かも知れません」
古い時計台の中には、秘密の空間が設えられていて、そこには、
「遺体が残置されている、なんてね」
冗談めかしたボクの台詞を耳にした老翁の様子がおかしい。眉をしかめて、口元は僅かに震えている。
「あのう、お気を悪くされましたか」
我に還った老翁は、深く息を吸うと、それまでの柔和な表情を取り戻した。
時計台へ出入りする許可を求めたところ、あっさり承諾されたものだから、翌日から電車を乗り継いで、何度も訪れることにした。
工具を広げて、聞き齧った拙い知識で時計の仕掛けと格闘する日々は、退屈な夏休みに刺激をもたらしてくれた。
仕組みはそれほど複雑ではなくて、歯車と、圧電素子が機能不全に陥っていること以外には、のっぴきならない不具合はなかった。
「とても熱心に直して頂いているようですね。どうでしょう、ここから遠くはないので、お茶でも飲みませんか」
舗装されていない、生のままの地面はでこぼこしていて歩きづらかった。石造りの倉や、栗や椚の並木は、時代を錯誤させ、ボクの少年期を彷彿とさせた。
瓦葺きの屋根は黒々としており、庭の池では鯉が戯れていた。都心ではわざわざ保存する価値のあるような古民家だった。
「大きな屋敷ですね」
畳の間に通されたボクは、縁側から望む山々の青さに心洗われながらお茶を啜る。それにしても、
「ここにお一人でお住まいになっているのですか」
「流石に広すぎると思うでしょう。ところが住んでいればあまり気にならないものです」
鹿威しが快活な音で跳ねた。耳をすませば植物の成長する声さえ聞こえてきそうな静寂が横たわっている。
長押の上にかけられた白黒写真には集合写真が飾られていた。太い眉に精悍な顔つきの男児は、老翁の面影がある。その隣でおさげ髪の女の子が微笑んでいる。当時の老翁よりは歳上の高校生くらいだろうか。
「直に時計は動くでしょう。今日はご馳走さまでした」
「それは楽しみです」
会社が始まって最初の週末を、時計の再稼働に当てたのは、今後いつ来れるか検討もつかなかったからだ。本当は時間をかけて慎重に修繕していきたかったが、迫る仕事は避けようがない。日増しに忙しくなる。作業できる最後のチャンスだ。
是が非でも立ち会いたいという老翁の意向をくんで、実演形式で修理に取りかかった。ボクの背後で老翁は固唾を飲んで見守っている。
つつがなく作業は進行し、残すは電源の配線を接続するのみだ。ボクは凝り固まった背筋を伸ばすために立ち上がった。
「おや、外は雨が降ってきたようですね」
集中していて気がつかなかったが、息苦しく湿った空気が漂っていた。工具を握る手はすっかり汗ばんでいた。
「この土地にはかつて燃えるような恋をした若い男女がいましてね」
老翁はゆったりとした口調で続ける。
「しかし古い慣習に縛られて、彼等は互いを引き離されてしまった。村の誰にも悟られることなく、逢瀬を重ねた時計台も、たちまちに暴かれてしまった」
「二人はどうなったんです」
修理のことはすっかり頭の片隅へと追いやられていた。突然の昔話にボクは魅せられていた。
「許嫁の逆鱗に触れた女性は、時計台に軟禁されました。食事は与えられていましたが、彼女は悲しみのあまり」
言葉の継ぎ穂を失った老翁は俯き、絨毯の上に膝からくずおれた。
「さあ、どうか時計を直してやってください」
促されるままにボクは最後の配線を終えた。しかし針は静止したまま変化がない。
ボクは手早く工具をどけて、絨毯を捲った。正方形の金属製の蓋の取手に手をかける。
半畳ほどの穴の中には、白い骨が散らばっていた。ボクは時計の修理に通うようになって間もなく、絨毯の下にある謎の蓋の存在を知っていた。
背後で大きな鐘が鳴った。時計の秒針は小気味良く振動している。
「やっぱりここにいたんだね。やっと会えた。君には感謝しなければならない。ありがとう」
肌の色が薄くなったかと思うと、老翁の体は輪郭を曖昧にして、ついには暗がりに融けて消えてしまった。
それからボクは荒れ果てた廃屋から探り当てた一枚の写真を時計台に隠してきた。
もう誰にも邪魔されないように、彼らだけの時間を過ごしてもらうために。(了)
夏のホラー2020短編他にも執筆してますので、もし良かったら読んでみてくれたら幸いです