家恋し
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おう、こー坊。久しぶりじゃなあ。またでかくなったか?
――なに、わしの背が縮んだだけ?
はは、あいかわらず容赦のない物言いじゃのう。きちんと食ったものが栄養となっとるうちは、こんなことにはならんじゃろうよ。
年をとるって嫌なもんじゃ。若い間は血肉にできていたもんを、おのずから外へ出すようになっちまう。
入れるより出すもんの方が多くなっての。肉も骨も頭ん中も、ゆるゆるゆるの、げりげりげりーじゃよ。だから年寄りっていうのは、軽―くなっていくんじゃろな。
こー坊もこのところ、やせたんじゃないか? ストレスとかじゃなけりゃ構わんが、何が自分から落ちているのか、ぱっと見ただけでは分からんからのお。ひょっとしたら、落ちたらやばいものが落ちとるかもな……。
ひとつ、わしが聞いた話を耳に入れておかんか?
こいつは、わしの友人の子供が学校で体験したことらしいんじゃがな。
学年合同で行われた球技大会の終わりに、隣のクラスの友達が二の腕にガーゼを貼っているのが見えたんじゃ。周りの皆は知ってか知らずか、おしゃべりをしたり、運動でかいた汗をぬぐったりしていて、彼を気にしている様子はない。
大会が始まるまでは、あんなケガをしていなかったはず。その子が事情を尋ねてみると、サッカーをしていてボールを競り合ったとき、相手に引っかかれたのだという。
ケガを負ったのは、もう何十分も前だというのにガーゼには赤いものがたっぷり浮かんでいる。これでもすでに二回は取り換えたはずだという。
誰にやられたのか、確証は持てない。複数人で飛び上がり、ボディコンタクトしたからだ。ただ彼の肩に一番強くぶつかってきたのは、その子のクラスメートのひとりだったとか。
彼があごをしゃくる。その先に、他の生徒に混じって遠ざかっていくジャージ姿の少年がいる。周囲が暑がってジャージを脱いでいるせいで、余計に目立つ。長い袖の中に、自分の両手のひらを引っ込めて、ぶらつかせていた。
自分もよくやることだったが、今の話を聞いてしまうと、やけに気になってくる。
それから、だいぶ彼のことを気にかけるようになったが、ますます怪しい。
着がえる際にはトイレの個室にこもり、制服に着替えてからも、袖の中に手のひらを隠すことをやめない。えんぴつを握る時も袖ごしだ。
更に意識してみてみると、彼は休み時間になるたびに廊下へ出る。それだけなら別におかしくないが、それとなくトイレの前をうろつくんじゃ。そして出てくる男がいると、すれ違ったり、追い越したりするようなそぶりを見せる。
それからしばらくして。彼の標的が教室に戻ると、そのぶつかられた腕の方から、血が垂れ落ちていくんじゃ。袖があればその部分も切れておる。ちょっとした騒ぎになった。
友達の場合は、サッカーのときにぶつかられ、そのときにやられたとのことじゃった。それはきっと、強い衝撃ゆえに気づくことができたのじゃろう。トイレから出てくる際のあれは、よほど柔らかく行っているのか、その瞬間に悟れる奴はいないようだった。
現行犯で押さえなくては、立証は難しい。その子は、機会が訪れるのをじっと待つ。
みずからがなってみようと、用のないトイレに入って出てきたこともあった。が、不思議とあいつから接触してこなかった。
いつも、自分以外の誰か。それも比較的長く、用を足している者が狙われているらしい。
更に魔の手は、授業中にも伸びる。特に体育の時じゃ。
男と女に分かれることが多い授業で、このところけが人が増えている。その子がよく見たところ、やはりあいつと接触した後に流血沙汰が起きていた。いずれも救急箱で処置できる小さい傷ではあったが、血が苦手な子には肝をつぶすできごとだったそうな。
決定的な現場をおさえられないまま、ついにその子にも時が来てしまう。
昼休み直後の5時限目。急激な腹痛に見まわれたその子は、たまらず先生に申し出てトイレに行かせてもらう。
個室の中で座り込み、10数分は粘っただろうか。昼はおかわりしたものの、それだけでは説明がつかないほどに、お通じが良かったという。
ようやくひと段落つき、個室を出て手を洗いだしたが、いくつも並ぶ鏡の端。わずかに映る廊下の景色をのぞいて、どきりとする。
あいつがトイレの壁に寄りかかり、腕を組んで待っていたんじゃ。顔は教室を向いてこちらを見ていない。じゃがトイレの中にいるのは、その子ひとり。明らかに待ち伏せされていたんじゃ。
――ついに。
ぐっと息を呑み、あえて平静を装いながらトイレを出る。
すぐ動きは起こった。その子が出てくるや、交差する形であいつは前を横切ろうとしたんじゃ。
気を張っていた彼は見た。いつも隠していたあいつの袖の中から、数十センチもある爪が伸びていたのを。それがちょうど、自分の右腕をかすめる直前であるのを。
さっと、腕を引っ込めてかわす。まさか外されるとは思っていなかったのか、目を見開きながら爪を振りぬいた彼の腕を、ぐっと抑える。
すかさず長い袖をまくった。五本の指はいずれも、尋常ではない長さで小刀のように先端がとがっていたのじゃ。皮膚どころか、服の繊維も切り裂けるといえば納得できてしまいそうな鋭さ。
「なにをしやがる」と問い詰める前に、彼が絞り出すような声を出した。
「ばか。かわすな。間に合わねえ」
その声が終わるやいなや、両足ががくんと下から強く引っ張られた。思わず折ってしまうひざ。
目の前のあいつに足をかけられたわけじゃなかった。見ると、トイレの中から伸びる長いひものようなものが、両足首に絡まっているんじゃ。
小指にも満たない細いものなのに、その子は逃げ出すことができなかった。それどころか、ひもはその子の身体を、再びトイレの中へ引っ張りこもうと力をかけてくる……!
「しっ!」と短い気合とともに、頬に熱いものが走る。
あいつが爪で頬に傷をつけたんだ。人差し指から薬指の爪の先を赤く染めると、あいつはそのままひもの中ほどへ、ちょんと触れたんじゃ。
ひもへわずかに紅が差すと、たちまち足を引っ張る力は弱まった。絡んでいたひもはおのずと解け、掃除機のコードを思わせるうねりを見せながら遠ざかっていく。そのひもは、彼が先ほどまでこもっていた、個室の中へと消えていったんじゃ。
あいついわく、身体から離れざるを得ないものたちが、このところ寂しがっているとのことじゃった。
汗やお通じといった、毎日、身体の外へ出ていかねばならぬものたち。それは我が家を強引に追い出されるかのごときこと。たいていはそれを機に自立していくのだが、中にはホームシックのように、家恋しさのあまり、おかしくなってしまうことがあるとか。
だから「血」の土産を持たせてやる。ずっと一緒にいた家族の一員を連れて、彼らが新たな生を歩めるよう、手を貸してやっている。素直に話しても信じてもらえないから、黙ってやっていた、とあいつは語ったそうじゃ。