5 名前で呼ぶことに
「ごめん! 村田君まで巻き込んじゃった……」
ゆっくりと滝ノ茶屋さんが立ち上がる。
「いや、俺はたいしたことないんだけど…………うっ」
俺はちょっと反応に困った。
滝ノ茶屋さんの制服がしっかり濡れている。まあ、前方に倒れていったから仕方ないのだけれど、どうしても服が多少は透けてしまう。
「あっ、やっちゃったか~」
滝ノ茶屋さんも自分の失敗に気付いたらしい。
服が乾くまで待つには、もう西日の時間だし、気温も知れている。
俺は自分の被害を確認した。
滝ノ茶屋さんほど濡れてはいない。っていうか、俺のブレザーは自転車のカゴの中だったな。
すぐに自転車に走って、ブレザーをとってきた。カゴに押し込んでいたせいで、多少のシワがあるが、そこは我慢してもらおう。
「滝ノ茶屋さん、応急処置だ。これを着てくれ」
俺は彼女にブレザーを持った手を突き出した。
滝ノ茶屋さんは、スカートをしぼるようにして、水を落としていた。おかげで太ももがモロに見えたけど……それは不可抗力ということにしてくれ。
「えっ? いいの? 今の私が着たら、ブレザーも濡れるよ?」
「テーラーメイドのスーツでもなんでもない。そんなの被害のうちに入らないから着てくれ」
こんなの、優しさのうちにも入らないだろう。これで、放置する人間なんて普通はいない。
だから、滝ノ茶屋さんが、
「うん、ありがとう、村田君」
と笑顔で答えてくれたのが、かえって気をつかわせて申し訳ないような気さえした。
これはさすがに俺のほうが卑屈に過ぎるのかもな。
滝ノ茶屋さんがブレザーに身を包む。今すぐ帰ってもそんなおかしくない雰囲気ではある。とくに下着が透けて見えるなんてこともない。
「うん、いける、いける。これなら余裕だよ」
「だったら、よかった。なんていうか、たいしたことない景色なうえに、滝ノ茶屋さんに被害まで出しちゃって悪いな」
俺としては嫌な思い出になってしまったのではと気が気でない。袿町に対するネガキャンみたいなことをしてないだろうか。
「いやいやいや! そこで村田君が謝るのはおかしいって。全部私のミスだし!」
俺の意見を消すみたいに、滝ノ茶屋さんが少し声のトーンを上げた。
それから、ちょっとあきれたみたいにため息をついた。
「あのさ、村田君、暗く考えすぎなところがあるって友達に言われてない? 必要以上に自分を悪く言ってる気がするんだけど」
「……なくはない」
昔からの付き合いの大島にそう言われたことは何度かある。
「うん、もっと村田君はポジティブになったほうがいいよ。そしたら田舎のよさももっと見えてくるかもしれないし」
いや、田舎にだっていいところもあるだろうけど、この袿町の中にはほぼないぞ――と思ったが、また卑屈になってると言われそうなので黙った。
「まあ、今日のところはこれで帰ろう。滝ノ茶屋さんが風邪ひいてもアレだし」
「ああ、うん。それとさ、私の苗字って長いでしょ」
「へっ……? た・き・の・ちゃ・や。……それなりに長くはあるか」
ただ、なんで今になって苗字のことが話題になるのかよくわからない。
滝ノ茶屋さんは自分の顔を指差した。
「だからさ、沙月って名前で呼んでくれていいよ。そのほうが呼びやすいでしょ?」
ああ、なるほど。それは一理あるな――――ってなるか!
「待って、待って! 東京では普通だったのかもしれないけど、これで俺が教室で名前で呼ぶと、すぐに噂になるから! それだけで付き合ってるとか絶対に言われるから!」
美少女の転校生が来てから一週間で名前呼び。
確実にヤバい。高二の奴、全員に勘繰られる。むしろ、高校の奴全員に勘繰られる。ハイエナのように連中がその話題に寄ってくるのがわかる。
「ああ、いくらなんでも教室で呼んでとは言わないって。だいたい、教室で私が話しかけまくったら、それも噂の元になるでしょ?」
「うん、まさしくそのとおりだ」
ご理解感謝します。
「だから、また放課後とか休みの日に会う時にね。こうやって気楽に話せるの、村田君だけだし」
ああ、それなら。少なくとも、ハイエナの餌になるという危険はないか。
しかし、俺のほうだけ「村田君」と呼ばせるのも、よくない気はした。
「わかった。ただ……俺のフルネームは村田大智だから。今度、二人で会った時は――」
「うん、大智って呼ぶね」
少しばかり、いたずらっぽい笑みで、滝ノ茶屋さんは……いや、沙月は言った。
「……うん。それでいい……さ、沙月」
名前を呼んだら無茶苦茶恥ずかしかった。
犯罪に手を染めているような気さえする。
楽しそうに沙月はうなずいていた。
「よし、じゃあ、帰ろっか!」
服が濡れているのも気にせず、沙月は自転車に乗った。俺もそれに続く。
「さ……沙月の家ってどのへん? 俺の家は役場から七百メートルぐらい北に行ったところだけど」
「ああ、そしたら割と近いかも。あのあたりに神社あるよね?」
俺たちは自転車をこぎながら、話をする。車も通行人もほぼいないから並んでも問題なかった。
「あるな。八幡神社のことか。あそこ、小さいけど夏祭りもやるんだ」
「あの裏手あたりかな。移住者用の格安の物件なんだって」
それだと自転車だと、マジで最速二分ぐらいで行けそうだ。
ご近所さんとは言えないだろうが、かなり近くはある。
転校生に思い切って声をかけたら、そこそこ仲良くなれた、そんな一日だった。
深夜にもう一度更新出来たらやります。