秋
今日はもう 終わりにしましょうーー
正秀先生の声がして
僕ははっとしました
先生は 辛そうに笑っています
ひどい顔 少しゆっくりしたほうがいいわーー
八重香がそっと 気を遣ってくれます
ああ そうだ 僕は今 学校で
授業を受けている途中でした……
でも 何も入ってきません
黒板はいつまでも無機質な闇のまま
先生の声が何を喋っているのか
僕には全く聞き取れません
校庭の木々が色付き 落ちて まるで
何もかも無くしてしまった僕たちのようです
ああ……帰ろう……でも
いったいどこに行けばいいのか……
ひとりで大丈夫?ーー
八重香の声は少し小さめですが はっきりしています
友達が三人も死んだというのに
彼女はいつも 冷静です
声の調子も表情も変わらず
淡々と日々を送っているように見えます
それでも……最近はさらに
口数が減っているように思います
ありがとう ひとりで帰るよーー
僕はそう言って
ゆっくりと 八重香の顔を見ます
その顔はどこか悲しそうな そんな気がしました
世界から いろんなものが消えていきます
木々の葉や草花だけではなく
この空からも
何かが欠けてしまったような……
いえ それは 僕のほうかもしれません
とぼとぼと 歩いているつもりが
僕はほとんど進むこともできず
ひとりでは広すぎる校庭の真ん中で
何をすることもできず
途方にくれているのでした……
みんな どこに行ったのでしょう
そして僕は……どうすればいいのでしょう
あらゆるものが落ちていきます
果実も 葉も 花も それから
空気も 声も 光も 陽射しも……
みんなみんな 夕焼けのように
沈んでいくのでした……
ああ そうだ 先生に伝えなければいけません
僕はしばらく 学校には行かないと
ひとりで 何もしたくないと
伝えなければいけません
僕は振り返って 校舎に戻ります
行きよりも少しだけ軽い足取りで
さようならを言いに 戻ります
先生……先生……ーー
そう ぶつぶつと呟きながら
僕は教室に戻ります
そして引き戸の前まで来た時
僕の手と足は 止まりました
戸のガラス部分から見えた教室の情景が
僕を止めたのです そこには
正秀先生と八重香の姿があります
机に座って足を開いている八重香と
彼女に覆いかぶさっている先生……
いったい 何をしているのだろう
そう 思った時 八重香と目が合ってしまいました
ですが彼女は そのまま先生に体を預けたまま
少しだけ虚ろな目をしながら
女の声をあげるのでした
いけない それはいけないこと……
僕は目を逸らして すぐにその場を去ります
ですが どこに行けばいいのか分かりません
もう何もかも落ちてしまっているのです
僕の帰るべき道も どこかの闇へと落ちているのです
下駄箱まで来て
僕は立ち止まりました
風がゆっくりと入ってきて しかし
僕に辿り着く前に落ちていきます
僕は今
どんな気持ちになればいいのでしょうか
悲しめばいいのか 怒りを抱けばいいのか
それとも寂しさで泣けばいいのか……
分かりません……
何も分からないのです しかし
そうだ ともかく
待てばいい
僕は ただ待つことにしました
ここにいれば 八重香と会えるはずです
やっぱりひとりで帰るのは無理だった
今日は八重香と一緒に帰ろう
そうして待ち続けるうちに
陽は傾き
宵の青さが地上にまで降りてきて
世界が僕に突きつけてきます
僕はもう何も持っていない
妹も幼馴染も恋人も失って
あとは……八重香が残っているだけ
でも彼女は
もとより僕のものでも何でもありません
僕と何らかの繋がりがあるわけではなく
僕は彼女のことをほとんど知りません
まさか先生とあんなことを……
いいや……
だからこそ 僕はまだ
何かを手にすることができるかもしれない
八重香が僕の側にいてくれたら
僕はどれだけ楽になることでしょう
あの青空に消えていった彼女たちのことなど忘れて
昼も 夜も
八重香と一緒にいるのです
朝は八重香が迎えに来てくれて
一緒に登校します
帰りは手を繋いで ゆっくり歩きながら帰るのです
お互いに愛の言葉を小声で囁きながら……
まだいたの?ーー
八重香の声がしました
振り向くと そこにはいつもの彼女がいました
彼女はいつものように冷静で無口です
あの時 僕は確かに八重香と目が合いました
でも今の彼女は
そんなことなかったかのように
僕の前に立っています
もしかすると 僕が幻でも見てしまったのでしょうか
よく分かりません
僕は自分が正気かどうかも分からないのです
全ては 嘘かもしれません
芳乃は本当に死んだのかな?ーー
ええ 死んだわーー
満果は? 琴音は?ーー
死んだわーー
八重香は淡々と答えてくれます
やっぱり 現実でした
だとするとさっきのことも……
やっぱり現実なのしょうか
八重香……さっき先生と……ーー
彼女の表情は変わりません
ですがすぐには口を開かず
僕らの間に 少しだけ沈黙が落ちてきました
ごめんなさい 付き合っているの 先生とーー
浮かんでくる泡のように
彼女の声が僕らの間に現れました
僕は何も言えません
何も言えずに黙っていると
八重香もそれ以上何も言わず
僕の隣を通り過ぎていこうとするのでした
僕の体が動いたのは 本当に反射的でした
気が付くと 彼女の腕を握っていたのです
痛いーー
八重香が声を出します
一緒に帰ってほしいーー
八重香は僕の顔を見て すぐに逸らしました
ごめんなさい 今日は無理ーー
僕の手を振りほどいて 彼女は離れていきます
だめだ 瞬間 そう思いました
そして僕は 彼女の細い体を背中から抱きしめて
一緒にいて欲しい どうすればいいか 分からないーー
そう懇願しました すると
八重香は優しく僕の手を握ってくれて
あんなこと してみたい?ーーと
訊いてくるのでした
僕は答える代わりに もっと強く彼女を抱きしめます
かすかに 彼女の吐息が聞こえました
そして八重香の手はさらに優しく
全てのものが落ちていくなかで
彼女だけはまだここに
浮かんでいるのでした
柔らかな唇……穏やかな目……
白くて優しい指が 僕の体をなぞっていきます
これは……夢なのでしょうか
彼女と触れるたびに 軽くなっていく気がします
どうして こんなことを?ーー
求められたからーー
彼女の指は止まりません そして
彼女の目は 見たことのない漆黒が揺れていて
まるで心地の良いベッドのようです
これは 現実かなーー
ええ みんな死んだことも
私たちが抱き合っていることもーー
どれくらい 二人で求め合っていたのでしょう
気が付くと 世界は真っ暗なのでした
とうとう 全てのものがひとつ残らず
なくなってしまいました
もう 世界には僕と八重香しかいません
全ては 落ちてしまったのです
あの 青空へと 落ちていってしまったのです
僕はそっと 八重香の手を握ります
これから どうしたらいいだろうーー
二人で みんなの分も生きたらいいわーー
どう生きたらいいだろうーー
あの青空を見ながら 生きていけばいいわーー
僕らは本当に ふたりきりでした
何もかも静かで 何もかもなくしてしまった僕ら
それでも今ふたりで ふたりだけで
この闇のなかで確かに……笑い合うのでした