冬
雪の降る夜は真っ暗で
足跡さえも見つけられず
突然 獣のように去って行った彼女を
僕は見失い 途方に暮れているのでした……
まだ雪はやむ気配を見せず
寒い……とても寒い真夜中の道を
方角さえ分からないまま
僕は歩きだしたのでした……
すると視界のはるか彼方に
ぼんやりにじんだ光がひとつ
誰かの居眠りのように揺れているのを
白い吐息のなかに見つけました
真っ暗で 何の音も響いていないーー
そんな夜の光景に 僕の目は痛みさえ感じ
ずっと遠くのその灯りがまるで
冷たい空気を焼いているように聞こえるのでした
雪を踏む時だけ音がします
静かにしないといけないような
そんな強迫で呼吸の音は聞こえず
ぴりぴりする手足で 僕は光を目指しました
少しだけ 灯りが大きくなったように思えた時
どこかから遠吠えが聞こえました
息を止めて 周りを見回しても
木々さえ分からぬ闇のなか 何も見えはしません
ですが僕は直感的に
その声は彼女のものだと思ったのでした
雪のなか 全ての匂いは冷たく
聞こえぬ音が 僕の口を塞ぎます
もう一度 遠吠え そして
何かがこちらに駆けてきます
激しい息遣いで 何かを探しています
僕は立ち止まったまま 必死に目をこらします
ざくざくざく と
荒々しい息がやってきます
僕は死ぬかもしれない
そう 冷たい思いがよぎりました
びゅっと 粉雪を撒き散らして
頰のすぐ横を突風が抜けていきました
振り返っても 何も見えません
荒げた息が 遠くへ消えていきます
彼女では なかった……
いったい何なのでしょう そして
彼女はどこへ行ったのでしょう
僕は 重たい足を上げます
向かうのは あの灯りです
それ以外に何もできないのです
ともかく暖まりたい
彼女はもう いないのかもしれない
どれだけ歩いたでしょう
どこを歩いたのかも分かりません
ずっと暮らしてきたこの村が
今夜はまったく別の場所のようです
何度もこけて 雪に埋もれ
耳も鼻も痛く それでも
口のなかはとても熱いのです
まるで 火を吐く蜥蜴のようです
ここは どこでしょう
見たこともない小屋があります
窓から小さな光が漏れていて
僕の顔に当たります
ごめんくださいーー
かすれた声で戸を開けて
幾分暖かい小屋のなかへと入りました
そこには小さな囲炉裏があります
光はそこで燃えている火でした
ぱちぱちと 雪のなかで消えそうな音を立て
寂しそうに揺れています
小屋のなかを進み 僕はあっと声を出して驚きました
そこに 彼女が横たわっていたのです
僕の足音が響いて 彼女はうっすらと目を開けました
ああーー
と 吐息のように白い声が漏れます
長い髪は雪で濡れていて
彼女はいつものように 学校の制服を着ています
大丈夫かーーと聞くと 彼女はゆっくりと頭を上げて
うんーーと呟きました
僕は彼女の隣に腰掛け
寒くないかーーと尋ねました
彼女はゆっくりとすり寄ってきて
うんーーと答えるのでした
それきり 僕らは黙ったまま
囲炉裏の柔らかな光を受けて
互いを温め合いました
彼女の足は 氷のように冷え切っていました
彼女に何が起こったのか
僕は聞きませんでした
すると彼女は 少し昔のことを
小さな……小さな声で 話しだしたのでした
それは 僕らの思い出のようでした
花咲く畦道を 二人並んで歩いたこと
暑い砂浜の影で ひっそり抱き合ったこと
すっぱい林檎を 分けあって食べたこと
僕は彼女の首に手を伸ばし
唇を近付けました すると
彼女は睫毛を震わせながら目を閉じて
背を向けるのでした
僕はその背中をそっと抱きしめ
彼女の冷たい呼吸を聞きました
恐れているのか 嘆いているのか
窓に反射する彼女の顔は 泣いているのでした
体が熱い
こんなにも冷たい互いの皮膚なのに
胸の芯で燃えるものを感じました
わずかに声を荒げて 彼女は服を脱ぎます
狭い小屋に 彼女の声が響きます
泣いているのか 求めているのか
僕にはよく分かりませんでした
はぜる音が 時を繋ぎ止めているようです
ただ 冷たい雪のなかで
僕らはどこかに向かっているかのようでした
それはきっと 僕らの長い思い出の
終着する場所だったのでしょう
冷たく 柔らかく 細く 白く……
僕は彼女の背中に語りかけます
どこにも行かずに 一緒に戻ろうーー
しかし彼女は 僕の腕からすっと抜け出し
わたしはもう 行かなくちゃいけないのーー
と 泣きながら 笑うのでした
最後に ーーありがとう と
かすかに聞こえた気が したのでした……
僕はどれくらい そこにいたのでしょう
気が付くと 小屋の囲炉裏は光を失い
静かにーー本当に静かに
雪が降り続く音だけが 聞こえるのでした
彼女はもういませんでした
今度こそ 本当に行ってしまったのだと
もう 取り返すことはできないのだと
一人の闇のなかで そう思ったのでした
ぎし ぎし と
小屋の床が鳴ります
僕は彼女の名前を呼び
何も返事がないことに泣きました
しかしその時
また どこかから遠吠えがしました
今度こそ 今度こそ彼女だと思い
僕は小屋を飛び出しました
真っ暗で どこまでも冷たくて
何の希望もありません それでも
僕は走りました
彼女の名前を叫びながら
芳乃 芳乃……と
目を見開いて
この暗闇のなかに彼女を見つけようとして
僕は走りました
また遠吠え……
近付いています
芳乃が近くにいます
僕は立ち止まり 辺りを探しました
何も見えません
ここがどこかも分かりません
ただ僕は 芳乃を追いかけてきたのです
きっともう 彼女は人間でないとしても……
すぐ近くで 唸り声がしました
芳乃ーーと 名前を呼びます
僕を覚えているでしょうか
いえ 覚えていなくてもいいのです
僕にはまだ芳乃が必要なのです
二人見つめ合った
言葉にならない会話のことを思い出しました
芳乃はそして そっと目を閉じます
唸り声にはっとした時
風の音が目を叩いていきました
次の瞬間
僕は何か強い力に押し倒されました
胸の上に大きく熱いものが乗っています
ごつごつとしていて
硬い毛で覆われている
一匹の獣でした
荒れた息は少しだけ甘く
何かを伝えようとしているように思えました
耳元で凶暴な唸り声がして
僕はそっと目を閉じます
熱いような冷たいような
そんな鋭い牙が触れ
芳乃の名前を もう一度だけ呼びました
唸り声ごと獣を抱きしめ 僕は
この暗闇のずっとずっと向こうに広がっている
大きく青い空のことを思いました
ああ あんなにも綺麗な空の下で
僕は芳乃と歩いていたのだとーー
今になって ひどく懐かしく思うのでした
もう 芳乃はいません そうです
消えてしまったのです そして僕は
彼女の本当の名前を 思い出したのでした