二人ぼっちのレミングス 6
サツキがゆっくりとベッドから立ち上がったとき、僕は無意識のうちに出口を確認していた。薄闇に慣れた目がしっかりと玄関扉を捉える。走れなくても今なら逃げられる。そこまで自然に考えた後で、僕は頭を抱えた。この期に及んでまだ生き残ろうとするのか。自己嫌悪で沸騰しそうなほど首筋が熱くなる。
納得がいかないのだ。あの日、校庭で見た神々しいまでの最期。たまたま拾った少女に食べられて死ぬなんて、あれに比べれば平凡すぎる。だから死ねないのか? 本当に?
ユウを見る。起きているのかいないのか、ベッドの傍らで横たわったまま、彼女は微動だにしなかった。窓から漏れる月明かりがそっと彼女の顔を照らす。前髪の影に隠れて目元は分からなかったが、ユウは口元にうっすらと笑みを浮かべていた。それを見て、僕の心に渡来するのは、ささくれた苛立ち。置いていかれる孤独感。
サツキが苦しそうにもがいている。白目をむいて、口からは血の混じった胃液を嘔吐していた。ビシャビシャと床を濡らす音だけが部屋に木霊する。いや、耳を凝らせばかすかに囁く声が混じっていることに気づいた。助けて、助けて。我が身を襲う変化に恐怖する、幼い子供の怯えた叫びだ。
僕は耳を塞いだ。どうすることもできない。僕には、彼女を助けることも殺すこともできないのだ。それができるのはユウだけ。しかし、肝心のユウはやはりまだ、眠ったままだ。本当は覚醒していたとしても、彼女が起きることはないのだ。それを非難する権利など僕にあるはずがない。でも、胸が締め付けられるように痛んで、目の奥がチカチカと炸裂する。
矛盾していることなど分かっている。僕らは死にたいのだ。そしてユウはサツキに殺されることを選んだ。僕はそれを黙認した。サツキを道具として使って、自分たちの欲を満たすことを決めたのだ。だけど、それを許せない。心と心がせめぎあっている。それは良心か、あるいは。
細かく震えていたサツキの体がピタリと止まった。苦しみにもだえる声はもう聞こえない。代わりに、聞きなれた奴ら独特の乾いた呻き声と腐臭が部屋に充満していく。じわじわと、夜闇を飲み込んで黒く染まっていくように、サツキの気配が人ならざる者へと切り替わっていく。
吐瀉物に滑ったのか、サツキがマットレスから床へと転がり落ちる。受身が取れず、等身大のフィギュアみたいに奇妙な体勢で墜落した。ボコッ、と鈍い音がして、サツキの肘がありえない方向に曲がる。それを苦にもせず、曲がった腕でサツキはゆらりと立ち上がった。黄色く濁った瞳が、大きく見開かれて、そして足元のユウを見た。血管が浮き上がった頬がビクビクと痙攣し、口からは大粒の涎が零れ落ちる。あのあどけなかった幼い顔立ちの面影はもうどこにもない。血を求める獰猛な化け物がそこに佇んでいるだけだ。
「ユウ、ユウ! 起きろ、おい馬鹿!」
口から言葉が滑っていく。
ユウには死んでほしいはずなのに。それで僕も死ぬはずなのに。
僕らはお互いに嘘を付き合っていて、それもお互いが承知しているはずで。
いざというときになって、僕は。
「ねえ、アキラ」
ユウがどんな顔をしているか、相変わらず分からない。それでも、彼女の声は普段よりもずっとクリアに鼓膜を振るわせた。
「私ね、ずっと死にたかったの。ごめんね」
「知ってるよ、そんなことは」
「あはは、やっぱりそうかぁ。でもそこは誤魔化さないと。やっぱりアキラは、気配りにかけるよね」
『彼』とは違う。言外にそう告げられているようで、やっぱり無性に腹が立つ。ユウの心には『彼』しかいなくて、でも永遠に『彼』とは会えない。だから死ぬ。それでいい、それでいいはずだった。
サツキがユウに覆いかぶさる。抵抗はしない。ユウの肩を小さな両手が押さえつけた。ゾンビはのろまだけど、力は桁外れに強い。ああなったらもう、逃げられない。
サツキは、生きたかっただろう。生きて、両親に会いたかっただろう。だけど彼女は死んで、歩く死者となった。死にたいユウは彼女を押しのけてまで、生に手を伸ばすことはしない。だから死を受け入れる。
僕だって死にたいんだよ。言い聞かす。何度も何度も、言い聞かしてきた。
走ることを取り上げられて、世界すらも豹変してしまって。何も残っていない僕は、自分よりも強い決意を持ったユウをただただ目で追ってばかりいた。死にたがっているくせに、積極的に死のうとはせず、言い訳ばかりして生き残ってきた。
バッドを振るうユウの姿が脳裏によぎる。血しぶきを浴びながら僕に微笑みかける。帰り道、調達した食料をつまみながら、ユウは僕の歩調に合わせてくれた。それが妙に照れくさくて、何度も大丈夫だって言ったけど、本当は嬉しかったのだ。あの瞬間だけは、僕は死にたいとは思っていなかったはずだ。
そう気づいた途端、僕の体は自然に動いていた。立ち上がって玄関へと走る。膝が、非難するように痛む。「さよなら」背後でユウがそう呟いた。涙で塗れた声。それを背中越しに聞きながら、僕は、靴箱の横に立てかけてあったバットに手を伸ばす。膝が痛む。それがどうした。
踵を返して、再び部屋へ。ユウが驚いて、掠れた声で言葉を漏らす。「どうして」そう聞かれても分からない。本当に、なんでだろう。サツキはまだユウに跨ったまま、噛み付こうとはしていなかった。人間がゾンビになる瞬間、彼らの意識は混濁しているのか、人間を襲おうとしないことがあった。サツキも、小さな体で戦っているのだろうか。僕らを食べてしまわないように。必死に、蝕まれていく自我を守っているのだろうか。
目が霞む。たっていられないほどに、膝がガクガクと震え始める。全身が拒絶反応を起こしていた。あれだけユウが『ゾンビ狩り』をしているのを見ていながら、僕はこれまで一度も彼らに手を下してこなかった。そのツケが、今こうして僕を支配していた。
だけど、もう止まれないのだ。僕は選んだのだから。
大きく、息を吸う。震えが収まる。同時に、周りから音が消え、時間が止まり、渇望していた空間がほんのわずかだけ僕の元に還ってきた。
ああ、走らなくても、ここにはあるんだ。
僕はバットを振りかぶり、狙いを定める。頬を伝う温かな感触で、僕はそのとき初めて自分が泣いていることに気がついた。