第二部 7.王の帰郷-3
ジェニーが次の王妃になっても構わない。
女官長の呟きをサンジェルマンが聞いたのは、ジェニーがベアール家に出発する日の朝、王の執務室から出た直後だ。
女官長の口からジェニーへの非難が聞かれなくなり、それから間もなく、王妃が悪夢のような事件を起こして王城を追放された。それ以降、女官長がいつそう言い出すのだろうと、サンジェルマンはこの瞬間を指折り数えて待っていたぐらいだ。驚くことはない。
その日の女官長は、サンジェルマンが最初に会った時点から、やけに言葉少なだった。彼女が王の娘に会った次の日の朝は、サンジェルマンが耳を塞ぎたくなるほどに彼女はしゃべりっぱなしなのに、今朝はそれがない。
彼女が無口だと物事が早く進んで都合がいいのだが、なんとなく、調子が狂う。女官長の異変を気にしていたのは、侍従長も同じだったようだ。
「具合でも悪いのか?」
女官長は長年の友でもある侍従長を見ると、恋に悩む少女のように瞳を翳らせ、吐息をもらした。
「エレーヌが泣いていたのです」
その名前を知らないサンジェルマンに、王の娘の世話をしている、王の乳母だった女性だと侍従長が教えてくれた。
「幼少時の王が元気で明るかったこと、覚えておられます? 王がカロリーヌ様にうまく打ち解けられないのは、王の不遇な少年期に原因があると、彼女はずっと気に掛けておりましたわ。でも、王がここにきてやっと、カロリーヌ様を御自らの手でお抱きになったのです。カロリーヌ様が伸ばした手を拒まれなかったのは、これが初めてのことですわ。親子三人が並ぶ姿を見て、エレーヌは、それはもう喜んで……!
ねえ侍従長、王は先王と同様、もともとは愛情深いお方ですわね? その本来の王がようやく帰ってきた、と彼女は感動し、涙しておりましたわ。そして、そのお姿に帰してくれたのは……ジェニーをおいて、他にないではありませんか」
女官長が涙ぐむのを見て、侍従長が肩を優しくたたいた。王が生まれる前から王城に勤め、王の幼少期を知る彼らには、それは感慨深いものなのだろう。
サンジェルマンにとっても、王が誰かを心の底より愛し、その相手からも同じように愛されることは、ずっと切望してきたことだ。だが、王が個人的に幸せだから彼が治める国も幸せになるという、安易な幸福の図式は成り立たない。
次の王妃選びに、女官長のように感傷から生まれた意見を反映させるわけにはいかない。
“先王妃の呪い”などという、根拠のない噂が国内の貴族間に蔓延している。保守的な一部の層からは、他国の王女を妃として受け入れることに抵抗感が出ている。それにかこつけ、貴族たちは自分たちの娘を次期王妃にさせようと、早くもあちこちでしのぎを削っている。
また、ベアール家を中心とした、ジェニー擁立の動きも見逃せない。次期王妃候補に担ぎ出されているジェニーだが、彼女の兄ローレンが反逆者とみなされていることが公になれば、彼女が実際に王妃になるのは難しいだろう。彼の暗躍は、ユーゴにさえ知らされていない。
王は次期王妃候補をめぐる争いをほぼ把握しているが、貴族間の対立が激化しないかぎり、あくまで静観する気でいるようだ。もっとも、王は、次の妃も他国から娶る考えを変えていない。前王妃を決めた際に検討期間が短かったことを反省し、今度はもっと慎重に、もっと長い時間をかけて決める、と王は宣言している。
ジェニーはというと、王の意思に倣い、次期王妃は国外から選ぶべきとの考えを表明しているそうだ。そのせいで、本家のユーゴとは確執が生じている、とサンジェルマンは聞く。ユーゴは彼女を足がかりに一族の地位を上げたいのに、頼みの綱の彼女がそんな姿勢では、彼が腹を立てるのも無理はない。
今日の午後、次期王妃をめぐって、ユーゴとはいわば正反対の意見を持つジェニーが、彼や彼の仲間たちの前に姿を現す。ライアンが彼女と同じ馬車に乗り、同行する予定だ。サンジェルマンの義兄も祝賀会に参加を決めている。彼らから、会場での様子をあとでじっくりと聞かねばなるまい。
執務室から女官長室に向かう。
そこで、サンジェルマンはアリエルと会うのだ。ジェニーのベアール家出発を前に、彼女にはいろいろと頼んでおくことがある。
西館に入る手前で、サンジェルマンは追いかけてくる足音に気づき、振り向いた。二十歳前後の近衛の若者だ。ライアンがときどき、彼に伝言を託してくる。
「ライアン様より緊急の伝言がございます」
案の定、男はサンジェルマンにそう告げた。ジェニーが出発する日の朝だ、緊急用件と聞けば、いやでも緊張させられる。
「今朝早くに、“マルセル”の身柄が拘束されました。仲間はなく一人で、街の外れにある宿屋を出たところを第八部隊所属の者が捕獲しました!」
彼が女官長の存在を気にしたため、サンジェルマンは彼と廊下の反対側に移動する。
「ほかに何かあるのか?」
「は。ローレンが、街の北部に現れました。こちらは四人で、彼らは途中で荷を捨て、今もまだ街の中に潜んでいると思われます。我々は彼らが街の外に出られぬよう、街の全域に警備を敷いて、追跡しているところです。それゆえ、本日、ライアン様はジェニー様に同行いたしません。代わりの近衛を同行させるとのことです。郊外にある家々――ベアール家も安全かと思われますが、くれぐれも注意を怠らぬよう、他の同行者にもお伝えいただくようにとのことでした」
ほっとして肩の荷が降りたような、それでいて落胆したような気分だ。数ヶ月間も追っていた彼らを捕らえるときは、こんなにもあっけないものだろうか?
彼らに翻弄された過去を思い、サンジェルマンはなんとなく腑に落ちないものを感じる。だが、“マルセル”の確認に向かったライアンが王城に戻れば、サンジェルマンの混沌とした気持ちも晴れてくれるのだろう。
きっと、遅かれ早かれ、ローレンも近衛たちの手に落ちる。
ローレンがまだ荷を持っていたのなら、偽マルセルとは再会を果たしていなかったのだろう。彼らが運んでいた荷の受け取り主は、いまだ謎のままだ。国内にマキシム産の塩を流通させた真の反逆者を、ローレンの口から必ず吐かせなければならない。
サンジェルマンは男をさがらせ、心配そうに自分を見る女官長に微笑んだ。
いったい、反逆者は誰なのか。
ローレンに口を割らせるため、王は、ジェニーに兄との辛い再会を強いることになるのかもしれない。
それは、ジェニーたちを乗せた馬車が王城を出発し、数時間経った頃だった。執務室の前にいるサンジェルマンとランス公のもとに、一人の衛兵が大きな体を左右に揺らし、廊下を駆けてきた。
ランス公には、偽マルセルとローレンの件を話したばかりだ。とうとう、ローレンが捕らえられたのだろう。
サンジェルマンは男からの報告を期待し、姿勢を正した。
「サンジェルマン様!」
男が発した言葉で廊下がたわむかと思うほど、彼の声は大きかった。
「ライアン殿の遣いが来たか?」
「ライアン様の? いえ、ジェニー様に同行した近衛からです! 大変でございます、サンジェルマン様! 一行がベアール家に向かう途中、何者かの集団に襲われ、ジェニー様が乗る馬車ごと拉致されました!」
ゆるやかに流れていた時間が、何の前触れもなく、サンジェルマンの前で急停止する。
「何だって?」
「ジェニー様だと知ったうえでの誘拐です! かろうじて王城に戻った近衛一人のほかに、護衛も御者も生存者はなく……」
そのとき、ランス公の後ろにあった執務室の扉がきしみ、細く開いた。執務室前を守る近衛兵たちの頭が動き、ランス公が喉をつまらせて咳をする。
扉の内側からのぞいた王の視線は、知らせを持ってきた男を経由して、サンジェルマンにたどり着いた。
「騒がしいぞ。“ジェニー”と聞こえたが、何ごとだ?」
サンジェルマンは、めずらしく言葉に詰まった。
王が揺ぎない自信をもって、「あの女はどこにも行かぬ」と呟いていた言葉が、サンジェルマンの心に突き刺さる。
――それより数時間前のこと。
ジェニーが王城を出発する時間になっても、カミーユは駄々をこねなかった。昨日の朝以降、カミーユはずっとご機嫌だ。母親に十分に甘え、お気に入りのライアンの顔を拝めたせいもあるだろう。でも、ずっと疎遠ではあるが気になって仕方がなかった王に、昨日、ほんの五分だったが抱き上げてもらったことが大きいとジェニーは信じている。
ジェニーを玄関で見送るカミーユの表情は、余裕にあふれている。ジェニーがカミーユの額に長くキスをすると、彼女は「大げさだ」とでも言うように、ジェニーの顔を手で押し戻した。
「ママは行ってくるから、いい子にしててね」
「……オォ、来る?」
カミーユが王を気に入っていると分かってジェニーも嬉しいが、娘としばし別れる寂しさを抑えて旅立つ今、彼女には母への愛を前面に押し出して欲しかった。でも、それではカミーユに嫉妬した王と変わらない。ジェニーは自分の勝手な思いに笑った。
「そうね、“パパ”は来るかもしれないわね」
「パパ?」
首を傾げるカミーユの額に、ジェニーはもう一回キスをする。
「“オオ”のことよ。オオはあなたのパパなの」
カミーユは腕組みをし、今度はさっきよりも深く首を傾げる。
ジェニーがカミーユに王のことをそう教えたのは、今日が初めてだ。もっと早くにこの単語を聞かせておけばよかったと、ジェニーはちょっと後悔する。
「ジェニーはあなたのママでしょう? オオは、あなたのパパなのよ」
ジェニーが自分の胸に手を当てて言うと、カミーユの目が輝いた。
「パパー!」
カミーユが言葉の意味を理解したかどうかはさておき、その音の響きを彼女は気に入ったらしい。ジェニーの手を振りきり、カミーユは「パパ」と何回も口ずさみながら、乳母の周りを回りだす。
ジェニーにだって、王が本当の意味でカミーユを娘だと認めたのではないのだと分かっている。でも、これまで、頑としてカミーユに触れようとしなかった彼を思えば、昨日の出来事は大きな前進だ。
ジェニーは、即興で“パパの歌”を作って歌うカミーユを見つめ、淡い期待を抱く。
もしかしたら、ジェニーが小城を留守にする間、王はカミーユを訪ねてくれるかもしれない。
ジェニーが見上げる空には雲が多かったが、雨が降りそうではない。空気には春の緑の匂いが充満している。
ベアール家までの道のりは平坦で、雑然とした街に入ることもない。ジェニーを待ち受けるユーゴや彼の追従者たちと顔を会わせるのは、ジェニーも憂鬱だ。だが、ベアール家に行けば、優しい祖父に会える。
ジェニーとアリエルは馬車に乗り込んだ。急用ができてライアンは祝賀会を欠席するとかで、以前、ユーゴからの目録を毎週持ってきていた、同じベアール家の近衛の男が代わりに同乗する。
小城を空けるのはたった四日間だ。
同じ王城の敷地内にいても、それと同じ期間、王と顔を会わせないことは何度もある。それなのに、王城を離れるというだけで、ジェニーは彼と永遠に離れてしまいそうな気がしていた。
王城からベアール家に向かう最初の曲がり角までは、緩やかな下り坂がしばらく続く。すれ違う馬車や荷車もなく、遠くで聞こえる牛や山羊の鳴き声が、閉ざされて見えない戸外ののどかな風景を想像させる。ベアール家に到着するまでに、まだ一時間はかかるだろう。
やがて、次第に、和やかに続いていた車内の会話は途絶えていった。近衛の男があくびをかみ殺すと、それがジェニーにも伝染する。春の陽気は眠気を誘うのだ。馬の闊歩する音に合わせた絶妙な間隔で、馬車が規則的に揺れる。まどろみ始めたジェニーの視界が、途切れがちになる。
ジェニーが次に目覚めたのは、誰かに強く手を握られたからだ。
「早く逃げろ!」
外でせっぱ詰まった男の怒鳴り声がして、ジェニーが状況を把握できないうちに、馬車が急発進した。馬車は前方に一度大きく揺れ、傾いたジェニーの体を隣から伸びた腕が支える。
「ジェニー様!」
ジェニーは、自分を支え、激しい揺れに自らも必死に耐えているアリエルを見た。
「アリエル、いったいどうしたの!」
「私にもよく分かりません! 後続の荷車が襲われたようです、貴族の馬車を狙う盗賊の一団かもしれません……!」
荷車に載せていた品はジェニーの衣装や装飾品ばかりだ。カミーユに雪の城を造ってくれた、荷車を扱う御者の命が助かるなら、その全部を盗られてもジェニーに悔いはない。
馬車は全速力で走っていた。車輪が地面にぶつかりながら、今にも壊れそうな音をたてている。車体が揺さぶられ、ジェニーは席から滑り落ちるのを防ぐだけで精一杯だ。
馬車と平行して駆ける複数の馬は、護衛の近衛兵なのか、追っ手なのか。
小さな四角い箱に閉じ込められたジェニーたちは、音だけを頼りに、最悪な事態に怯えて口をつぐむ。
ジェニーはふと、がたがたとひっきりなしに揺れ続ける馬車の扉に目をやった。
(もし追っ手に馬車を止められて、車内に押し入られたら?)
ジェニーは今さらながら、自室に備えておいた剣を持ってこなかったことを、深く後悔した。馬車の中には、近衛の彼が腰に下げる剣一本しか武器がない。相手側が何人いるか知らないが、近衛の彼がもし倒されたら、ジェニーたちには、ほかに対抗する手がない。
ジェニーは馬車が速度を落としてくれる瞬間をひたすら待っていたが、御者が狂ったように馬に打ち続ける鞭の音は、まだ鳴り止まない。それはつまり、ジェニーたちがまだ追われていることに他ならない。
馬車は走り続け、激しい揺れはしばらく続いた。向かう方向はおろか、時間の感覚さえ鈍くなっている。極度の緊張感を経て、近衛の男やアリエルも憔悴しきった顔をしている。
やがて、馬車はその速度を落とし始めた。
馬車がようやく止まった頃、男の力強い声が外からジェニーを呼んだ。たぶん、護衛である近衛の誰かだ。
「ジェニー様、お怪我はありませんか!」
ジェニーは安堵して、アリエルと手を取り合い、笑った。
「私たちは大丈夫よ! 何があったの? ほかの皆は平気で――」
いきなり、ジェニーの前に明るい日差しが現れた。車内にいた近衛の男がジェニーの前を阻む前に、ジェニーは、扉を開いた黒髪の男の唇が大きく横に開き、赤い舌がちらつくのを見た。
「それはよかった」
「何者だ! 断りもせずに扉を開くとはなんたる無礼な! こちらのお方を誰だと心得る!」
男が小さく舌打ちした。
「うるさいな。誰だか知ってるからここまで連れてきたんだよ。おまえこそ、状況が分からないくせに一人で騒ぐなよ。そのご立派な剣もさっさとしまえ。ここには、おまえたちの味方はだーれもいないんだ」
男の姿がさっと消えると、近衛の男が息を飲んだ。ジェニーの席からも、彼の体の向こうに三人の頭が垣間見える。
「あ……ジェニー様、五人、いえ、あの男を含めて六人おります……!」
近衛の彼が無念そうにもらす口調で、ジェニーは、王城から同行していた護衛たちはおそらく殺されたのだろう、と虚しい思いで悟った。
またもや、恐怖と緊張の暗い影が忍び寄ってくる。殺しに慣れた彼らに、丸腰の女二人と近衛一人では相手にもならない。
黒髪の男が高笑いし、再びジェニーの視界に戻ってきた。
「その女を傷つけやしないよ、心配しなくていい。ちょっとだけ俺たちに付き合ってもらいたいだけさ。用が済めば家にすぐ帰してやるよ」
アリエルに引き止められたが、ジェニーは外の男に言った。
「二人に危害を加えないと約束するなら協力するわ。私は何をすればいいの?」
男が笑った。
「さすが王の女だ、物分かりがいい」
男が車内を覗き込もうとし、ジェニーは近衛の男をその場から退かせた。
「あなた、あのときの……!」
男は意味深に笑い、馬車の入口に足を乗せると、ジェニーの手を素早く取った。武骨な彼の手に触られると、ジェニーは不快で寒気がした。ジェニーが彼の唇を拒もうとして手を抜き去ろうとすると、すかさず、彼の手にぐっと力が入る。
前回と同じだ。男は微笑みをたたえながら、つぶらな瞳を閉じて、ジェニーの手の甲に唇を柔らかく付ける。ジェニーはぞっとして、彼から目をそむけた。
「覚えていただいてたとは光栄だね。そう、“マルセル”だよ」
「マルセルなら、私が、私がこの手で死なせたわ!」
「そっちが偽者なんだ。はは、でも、俺の偽者は何人もいるらしいね」
ジェニーがやっとの思いで彼の手を振り切ると、彼は呆れたように肩をすくめる。
「俺にそんな態度とって、いいと思うのか?」
「……ローリーをどうしたの? 彼はまだ、生きてる?」
不可解そうにジェニーを見つめていた彼の、下向きだった唇がにやりと笑う。
「ああ、誰のことかと思ったら、ロハンのことか。そうか、彼の話は嘘じゃなかったんだな。はは、彼なら元気に生きてるよ。会いたい?」
ローリーが生きているならジェニーはもちろん会いたい。だが、「ローリーが生きている」という言葉も彼と会わせてくれるという言葉も、この男の場合、どちらも信用ならない。
ジェニーが沈黙すると、男の目が冷たく変わった。