第二部 6.春が訪れる前に-2
女神エクリシフェに共に誓った同士、ジェニーへ
この手紙をきみが読んでいるのなら、あのモーリスという男は本当に誠実な人なんだね。
あえて、名前は書かないけれど、私が誰かわかるよね?
そう、私は生きていたんだよ。驚いた?
きみと生き別れてからもう二年半くらいになるんだね。
きみがモーリスに助けられ、子どもを無事に産んだことは本当によかったと思ってる。でも、風の噂で、きみが王城にまた連れ戻されたと知って、驚いたよ。どこでどうやって、あの王に見つかってしまったんだろう?
私は、きみが再び王のもとで苦渋に満ちた生活を強いられていると思うと、すごく心苦しい。王がきみを見つけ出す前に、どうしてきみを捜しあてられなかったのかと、私はとても悔やんでいる。
だけど、きみのことだから元気で暮らしているよね? 以前とは違って、王に正妃がいる環境では辛いことも多々あるだろうけれど、きみには守るべき子どもがいるんだもの。
モーリスが言うには、とても可愛らしい女の子だってね。たぶん、王によく似ているんだろう。ああ、でも、モーリスは子どもの父親が王だとは知らないよ。きみが今どこに住んでいるのかも、ラニス公からは知らされていないから。
ああ、ジェニー。
私はきみに会いたい。きみを今すぐにでもそこから救い出したい。
でも、ジェニー、私は今、国外にいて、しばらくは国内に戻れないんだ。罪人である私を追って、私が身を寄せていた家にまで捜索の手が及んで、少なくともこの冬の間は、私は国外で身を潜めていなきゃならない。それに私は、私を匿ってくれた女主人、名義上の妻である女性と一緒だ。
彼女はいい人だよ。川原で倒れていた重傷の私を救ってくれ、彼女の行方不明の夫として、私を家に受け入れてくれた。彼女は本当によくしてくれるよ。彼女のおかげで私は今まで生きてこられたんだ。私はとても感謝している。
彼女は、きみの存在も承知しているんだ。私がきみをとても大切に思っていると知って、きみと再会できるように協力すると言ってくれている。
ジェニー、春がやって来ると、王城では大勢の客を招き、大規模な祝いの宴を開くんだ。私の妻がその招待状をどうにか入手するから、私たちはその宴の場で会おう。そんな公の場に姿を現すのは危険かもしれないけれど、大勢の招待客でごったがえす宴の席は、私たちが再会するのに願ってもない機会だと思う。
夜空に浮かぶ月を見上げると、いつもきみのことを思い出す。女神にきみの無事を祈っている。
ジェニー、きみにもう一度会いたい。
王城生活は決して楽ではないだろうけれど、どうか、再び会える春の宴の日まで待っていてほしい。
私はきっと、きみをそこから救い出す。
◇ ◇
手紙には名前も署名もなかった。
だが、それはケインからの手紙だ。ずっと音沙汰のなかった彼は、どこかの婦人に助けられ、今も生きている。
ジェニーは長いため息をついた。実際には数分だろうが、手紙を読み終わるのに数時間が過ぎ去ったような気がしている。そして、ケインと会い、逃亡していた日々が十年以上も過去のような気さえする。
彼が無事でよかった。
心の片隅にいつも刺さっていた小さな棘が、今ようやく、静かに抜け落ちたようだ。
ケインはジェニーの仲間であり、友達であり、そして恩人だ。追っ手から逃れるために川に転落したとき、ケインはその全身でジェニーを衝撃から守ってくれた。おかげでジェニーは傷ひとつ負うこともなく、濁流の中で彼とはぐれても、自力で川岸にたどり着けたのだ。その後二年近くも記憶を失ったジェニーには、ケインを捜し、安否を確かめることはできなかったけれど。
ケインのことは、いつもどこかで気に掛かっていた。毎日思い出すことはなかったが、月の明るい夜は、ジェニーは彼のことをよく思い出した。彼との逃亡生活は飢えと疲労に悩まされたが、彼といると、ジェニーはいつも穏やかな気持ちになれた。そして今も、ジェニーの胸のうちには、そよそよと暖かい風が吹いている。
(……ケインが生きていてくれて、本当によかった)
ジェニーは再び安堵の息をつき、手紙の最後の行を読み返す。
『私はきっと、きみをそこから救い出す』
文面から、ケインの熱意が伝わってくる。
ケインはジェニーが王のもとで苦痛の日々を送っていると勘違いしているようだが、大変な誤解だ。ケインと王城を脱出した当時はそうであっても、今のジェニーは自分の意思で王のもとに留まり、ケインに救い出されるような状況にない。でも、国外で身を潜めているというケインに、どうやって誤解を解いたらよいのだろう?
王とともに生きることを決意したジェニーに、城を去るつもりはない。ケインには会いたかったが、彼が危険を冒して王城に来る必要はないのだ。今もなお彼を嫌悪する王の膝元で、二人が再会を果たすのは危険すぎる。
考えあぐねた末、ジェニーはモーリスにケイン宛の手紙を託すことにした。春になって国外に戻ったケインがモーリス宅に寄るとは限らない。だがほかに、どんな方法があるのか。ジェニーには、ケインへの伝手はないのだ。
何日かぶりに王が訪ねてきた日の翌朝、ジェニーは肩に冷気を感じて目を覚ました。ジェニーのぼんやりとした視界の半分を、何かが邪魔している。
温かな温度を保ったそれは、王の右腕だった。ジェニーの顔にかかった彼の腕はあまり重くはなかったが、ジェニーが顔をずらそうとしても、ぴくりとも動かない。ジェニーの右隣にいる王の姿を横目で見ると、彼は顔半分を枕に押し付け、静かな寝息をたてていた。熟睡しているらしい。
王が熟睡している姿を目にするのはこれが二度目だ。彼は常にジェニーより早く起き、ジェニーが夜中にふと目覚めてしまったときでも、王はジェニーのその気配を感じてすぐに目を開ける。彼は眠りが浅く、人の気配に敏感なのだろう。だから、夜通し起きていた彼とジェニーが朝方眠りにつき、昼前まで眠ってしまった日まで、ジェニーは彼の寝顔をしっかりと見たことがなかった。
そのせいで、ジェニーが初めて王より早く目覚めた日、ジェニーは彼の寝顔を見て、彼が死んでしまったのではないか、と一瞬心配になった。その前夜の彼は普段よりずっと幸せそうに笑っていたが、二人が抱き合うごと、彼の息遣いが荒くなっていったのも確かだ。彼が呼吸困難で死んでしまうのではないかと心配し、ジェニーは彼に笑われた。だが、ジェニーには、彼が疲労困憊しているように見えたのだ。隣に体を投げ出した彼の胸が激しく上下する様子は、ジェニーの目に今でも焼きついている。
王の眠りの邪魔をしないように、ジェニーは彼の腕をそっと押した。彼はまだ、安心しきって眠っている。
ジェニーは王の寝顔を見つめた。彼の緑色に輝く瞳が閉ざされているのは残念だったが、ジェニーが心置きなく彼を見つめられる、こんなうってつけの機会はそうそうない。彼の無防備な寝顔を目にすると、ジェニーは、彼を胸の中に抱きしめたくてたまらなくなる。
そのうち、王の喉が痙攣するようにわずかに動いた。ジェニーが息をひそめていると、王の眉間にしわが寄り、彼の唇から低いうめき声がもれる。
「おはよう」
やっと両目を開いた王に、ジェニーは声をかけた。室内はまだ暗かったが、彼の視点はジェニーに一度定まった後、何かを求めるように宙に移る。
「……もう起きたのか」
王が言った。まだ眠り足らない、とでもいうように大あくびをする彼は、子どもそのものだ。
王は枕に突っ伏していた顔を上げ、ジェニーにさっきまで伸ばしていた手で自分の額をさする。柔らかすぎる彼の髪は頭の左半分が乱れ、耳の横や額の生え際に豪快な寝癖がついていた。
「まだ早いだろう。もうひと眠りできるぞ」
そう言いながら、王はジェニーの首に手を伸ばし、彼の体に引き寄せる。
ジェニーが王の首に手をまわすと、彼の唇がジェニーの額に触れた。それから、彼はジェニーの体を包みこむように抱くと、ジェニーの耳元で小さな笑い声を漏らす。
「どうしたの?」
「いや……おまえは声が大きいと思うてな」
王が笑いを噛み潰す。
「そうね、声が小さい方ではないと思うけど」ジェニーは顔を傾け、王を見た。「--なぜ急にそんなこと言うの?」
ジェニーが訊き返すと、王が瞠目した。
「おまえ……自分で気づいておらぬのか?」
「気づくって、何に?」
ジェニーが不審に思って王を見つめると、彼は唖然としてジェニーを見つめ返した。何をそんなに驚くのだろう? だが、その彼の呆れた表情も長くは続かない。
「よい、気にするな。おまえが我を忘れておるのなら、その方が俺は満足だ」
王は相好を崩し、あまりに嬉しそうな笑顔を目の当たりにして、ジェニーは彼に問い返す機会を失う。
「おまえの血を受け継いだ娘も声が大きいわけだ」
王が呟いた。
王は同じ室内にカミーユがいても、もう文句は言わない。その方がジェニーが喜ぶからだ。だが彼は、依然としてカミーユを自分の娘とは認めていない。
ジェニーは王の背中にまわした手に力を込めた。
「カミーユはあなたにもよく似てるわ」
「そうであろう」
王がそう発する前の一瞬に、ジェニーと彼の唇の間にあるほんの数センチの空気が凍りつく。
王がジェニーの視線を捕えて、言った。「同じ血筋だ、似ておるのも不思議ではない」
ジェニーは王の視線を受け止め、もう幾度口にしたか知れない、王を不機嫌にさせる科白を言った。
「ゴーティス王、何度も言ってるけど、あの子はあなたの娘よ」
王がうんざりしたように顔を歪め、頷いた。
「そうだ、俺の娘として引き取った。娘はここでも俺の娘として大切に育てられておるはずだ。おまえはそれ以上、何を望むのだ?」
ジェニーは胸に鈍い痛みを覚えながら、なおもくいさがる。「ゴーティス王、ケインと私は……」
王がジェニーの瞳をのぞきこんだ。
「おまえの口からその名が出るのは不愉快だ。俺の前でその名を二度と口にするな」
王から投げかけられたのは、一切の反論を受けつけない、冷たい視線だ。
ケインのことが絡むと、王はどうしてここまで意固地になるのだろう?
ジェニーは彼のそんな反応に驚き、そして、憤りと寂しさを感じた。ジェニーはケインについて深く知っているとは言えないが、彼は、誰かから恨まれたり憎まれたりする人間ではないように思う。無邪気で素直で、どちらかというと、虫も殺せない種類の人間だ。その彼がなぜ、罪人として地下に幽閉されるはめになったのだろう? 王はなぜ、弟の彼に対してそこまで神経質になるのだろう?
王の手がジェニーの首から頬へと滑っていく。心地よい感触の中で自分を見失わないうちに、ジェニーは王に尋ねた。
「ゴーティス王、あなたとケインの間に、何があったの?」
* *
サンジェルマンがライアンから相談を受けたのは、深夜に降った冷たい雨が、夜明け前になって雪に変わった日の朝だ。ただし、ライアンからの相談は、相談というよりはむしろ、事後報告だった。
近衛兵たちの利用する食堂で、「彼を担当から外した」とライアンは最初に言った。王妃の護衛を務める、若い近衛兵ジルのことだ。ジルは色が白く、痩せ型だが鍛えられた太い手足を持った、赤毛に近い金髪が印象的な近衛兵だ。まだ十五、六という彼が王妃付きの護衛に抜擢されたのは、若いながらも剣の腕が確かで、王妃の出身国の言葉を話せたためだ。
「このところの彼の言動には、ヴィレール国の王付き近衛隊員として、目に余るものがある。王妃様と親交を深めるなとは言わぬが、我々は王妃様の友人ではない。彼はまだ若く、自制心がきかないのだろう。口さがない者たちの間では、王妃様と彼の仲が面白半分に取り沙汰されている。ああ、もちろん、そういった事実はないが、用心するに越したことはないだろう? ……王妃様はご不満だろうが、昨日付けで彼の職を解いた」
つまり、王妃は今日の朝、ジルが護衛から外れたことを知るのだ。彼女の落胆は相当なものに違いない。きっとまた、王妃から抗議を受けるだろう。
苦りきった顔をするライアンに、サンジェルマンは同情する。
以前にもたびたび、ジルをめぐる同じ問題は浮上している。だが、そのたび、王妃は彼を職に留まらせるよう、必死にライアンたちに頼みこんできていた。ヴィレールの民ではあるが王妃と同郷の言葉を操り、彼女と同年代でもあるジルに、王妃は並々ならぬ親近感を抱いているのだ。ジルもまた、護衛として必要とされる以上に王妃に尽くしていた。皆が噂するような恋愛関係に発展する可能性は低そうだが、王妃にとって、特に親しい者がいない環境下では、彼のような存在は貴重だろう。
「そうですか。ではそのうち、王妃様から何かしらの反応がありましょう」
「そうだな。だが何と言われようが、この決定を覆す気はない。王妃様には、護衛担当との好からぬ噂が出ているとお伝えするつもりだ」
「ええ。そう聞けば、王妃様もあきらめてくださると思います」
そしてライアンは、彼がこの苦渋の選択をするきっかけとなった出来事をサンジェルマンに語った。
一昨日の朝、ジェニーの住む小城にジルが一人で現れたのだという。雪は降っていなかったが、その日は朝からかなり冷えこんでいた。ジルの吐く真っ白な息で、彼自身の顔が見えなくなるほどだったそうだ。
「ちょうどそのとき、私は剣の練習を終えて地下から戻るところだった。ジェニー殿も一緒だ。玄関で靴についた泥をはらっていたジルは、私を見つけると、ひどく動揺した。私がそこにいるとは思わなかったのだろう。私が来訪理由を問うと、彼は、ジェニー様に何かご入用のものがあるか訊いてきてほしい、と王妃様に頼まれたと言うのだ」
「王妃様はそういったお心遣いをされるお方でしょうが……彼がそんなことまでするのですか」
「彼が王妃様の伝言役となったことは過去にもあったらしい。だが、王妃様がジェニー殿にそんなことを尋ねるためだけに、わざわざジルを出向かせたかどうかは疑問だ。彼が勝手な行動に出ただけというのもありえる。私がもしそこにいなかったら、ジルはどう出たのか……彼は敵意剥き出しの目でジェニー殿を見ていた」
二人は同時に、背後の人の存在を確かめた。食堂には、彼ら以外に誰もいない。
「ジェニーに危害を加えようとした、ということですか?」
「王妃様にとって、ジェニー殿は疎ましい存在だろう。彼は王妃様に傾倒している。王妃様のためを思い、彼が彼女を殺そうとしたとしても、私は少しも驚かない」
サンジェルマンはジルとほとんど会話をしたことがないが、彼が王妃を敬愛していることは感じ取っていた。彼の目はいつも王妃を追っている。彼女のためになるのなら、ジルは喜んで命まで差し出しそうだ。
「ともかく、ジルは王妃様の護衛から外れた。王妃様を大事に思うばかりに、彼は女官長にも意見したらしい。これ以上、彼に王妃様の身辺にいさせるわけにはいかないだろう」
それにはサンジェルマンも同意見だ。あとは、王妃がこの決定をすんなりと受け入れてくれればいいのだが。
午後の日差しが中庭の中央にある雪を溶かし、そこだけ土色の地肌がのぞいている。風がなく、日光が入るせいで、中庭はそれほど寒くはなかった。サンジェルマンが降り立った出口から、中庭を斜めに突っ切るように歩いた足跡が白い雪の上に残っている。男三人の足跡だ。王とその護衛たちだろう。
サンジェルマンは、冬季は窓を閉ざすサロンになにげなく目をやり、その出入口からも、足跡が中庭に続いているのを見つけた。衛兵が出入口の前に立っているが、彼の足跡ではなさそうだ。その足跡をさらに目で追うと、王たちが残した足跡に合流している。足跡は、サンジェルマンが立つ位置から対角線上にある、両開きの扉にのびていて、その前に赤い色の物体が横たわっているのが見えた。
(また、雪かきの道具を置き忘れたか)
雪の日が続くと、たまに、雪かきをした男たちが道具をその場に置き忘れていくことがある。ただ、王が出入りする中庭や東館の周辺では、めったに起こらないが。
(王が戻る前に誰かに片付けさせよう)
サンジェルマンは息をつき、赤い物体を目指して歩いた。雪を踏みしめるたび、冷気が足元から立ち上ってくる。
中庭の中央に植えられた木を通り過ぎた頃、ふと、サンジェルマンの歩みが止まる。
「何だあれは?」
赤い物体から、何かのぞいていた。目を凝らして見ると、小さく、細い人間の足のようだ。
サンジェルマンは急いで、扉の前に駆け寄った。
「……王妃様!」
サンジェルマンの叫び声に、扉にもたれて足を投げ出していた王妃が、はっと顔を上げる。
「サン……ジェルマン?」
王妃の服は雪にまみれ、髪もびしょ濡れだった。顔も濡れていたが、どうやら、それは雪のせいだけではなさそうだ。彼女の目は充血し、化粧ののった頬の上に涙の跡が残っている。
「こんなところでどうなさったのです! 大丈夫ですか? どこもお怪我はありませんか?」
サンジェルマンが王妃の前に跪くと、彼女が顔をそむけた。
「ええ、私は……」
それから、彼女はまた息を飲み、上半身を起こす。
「ああ、サンジェルマン! 私は……私は大変なことを……!」
「王妃様?」
王妃はサンジェルマンの腕にしがみつき、気の毒なほどに震え始めた。
「王妃様、いったい何があったのです? どうされたのですか?」
「ああ、どうしましょう! 私はどうしたらいいの……!」
王妃は首を振り続け、嗚咽を漏らすばかりで何も答えない。
嫌な胸騒ぎがした。そして、往々にして、サンジェルマンのこの悪い予感は的中する。
ほどなく、扉の向こうから、全速力で走ってくるらしい足音が聞こえてきた。