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第二部 6.春が訪れる前に-1

 闘技大会後に最後まで王城に残っていたラニス公が帰った九日後の早朝、その冬初めての雪が、王城や首都ヴィスコンデールに降った。雪の降る中で朝から作業していた人々の吐く息は一際白くにごり、王城の城壁にはうっすらと雪が積もった。風が吹くと、城壁からは白い粉が舞い上がった。城壁にかぶった白い雪は昼前には溶けてしまったが、日光が届かない敷地内のあちこちには、午後遅くまで湿った雪が残っていた。

 王は元気だ。冬にはいつも機嫌を悪くすることが多かったが、今のところ、彼が理不尽な理由で怒ったり、突然に滅入ったりすることはない。以前より口数が増え、人の話をよく聞いている。毎朝行う剣の練習も欠かさず、最近では、各地方を治める自治管理官たちに付ける、中央からの補佐官選びに余念がない。

 それに対し、王妃は陰鬱な様子だ。温暖な土地で育ち、寒さに慣れない彼女は、ヴィレールで過ごす二回目の冬にいまだ苦労している。室内の気温が上がりきらない午前中、王妃はほとんどの時間を自室で過ごすそうだ。同郷の寒がりな侍女たちも、室内で屋外用の厚い上着をはおり、毎日のように後宮の寒さに不満を漏らしては、女官長やほかの使用人たちの眉をひそめさせている。

 サンジェルマンは王妃を心配していた。もともと、引っ込み思案の年若い王妃とその取り巻きである高慢な侍女たちは、王城に集う大臣や貴族たちと深い交流を持たず、王城に住まう人々とも仲が良いとはいえない。王妃には味方も友人も少ないはずだ。彼女と侍女たちは、自分たちが王城で浮く存在になりつつある状況を敏感に感じ取っている。

 そしてまた、王との結婚から丸一年が過ぎ、懐妊の気配さえ見せない王妃に、女官長はますます強気の姿勢で、「早く世継ぎを」と迫っているそうだ。

 闘技大会後に開かれた連日の宴では、列席した有力貴族たちの中に、彼らの年頃の娘を同伴して王に挨拶に現れる者たちが少なくなかった。闘技場で王が言い放った「新しい女が必要だ」という発言を、彼らは娘たちを王に紹介するきっかけにしようとしているのだ。

 王妃が世継ぎをいまだに設けていないのは明白な事実だ。彼らは王妃にそれ相当の敬意を払いながらも、彼女が王妃の座を追われる可能性を視野に入れている。

 午後の短い日差しを浴びようと中庭に出てきた王妃と、その脇を固めるようにして歩く侍女二人、数歩離れて付いて行く近衛ジル。ジルはヴィレールの近衛でありながら、すっかり王妃の側の人間だ。サンジェルマンは彼女たちを見て、ヴィレールと彼女たちの間に、無視できない大きな溝があることに気づく。

 王妃たちは、忍び寄る孤立化の影と世継ぎ問題への重圧に怯え、焦り、正妃を軽視しているとも取れる貴族たちの行動に憤慨している。彼女たちは後宮の寒さにかこつけ、表立っては口に出せない不満を、我々にぶつけているのだ。



 初雪から一ヶ月あまりが過ぎ、降雪は毎日見られないものの、泥土と化した雪が地面にいつまでも残るようになった。日を追うごとに寒さは厳しさを増し、明るい空がのぞく日も少なくなっている。その日は、昨夜遅くに降った雪が大地を白く覆い、人々が行き交った跡が黒い線となって、その無地の地面を縦横に走っていた。

 王がジェニーの小城を訪ねた日の翌朝は、サンジェルマンの一日の始まりが若干遅い。といっても、普段より二時間程度だが。一ヶ月半ほど前に一度きり、剣の練習開始時間を大幅に過ぎても王が姿を見せなかったことがあったが、それ以外、彼はほぼ定刻どおりに執務室に現れる。

 今日も、王はサンジェルマンのほぼ予想どおりの時間に執務室に入ってきた。王の頬は赤らんでおり、体にまとわせていた冷たい外気も一緒に室内に持ち込まれる。

 王が来る前からそわそわと落ち着かなかった女官長が、王が席に着くやいなや、サンジェルマンが事前に聞かされていなかった一件を単刀直入に切り出した。

「王、そろそろ、ジェニーに御子を持たせてもよいのではありませんか?」

 サンジェルマンが驚いて女官長を振り返ると、彼女は不機嫌そうに彼を一瞥した。彼女の隣にいる侍従長は驚いていないので、彼女の提言を事前に把握していたようだが、顔は緊張に強張っている。

 王が、平然とした口調で彼女に返した。「ジェニーには既に子がおる」

「ええ、ですから――」と、彼女はまたサンジェルマンをちらりと見た。「ジェニーには、今度は男の御子を産んでもらうのです、王。彼女も王の御子とあれば、まさか、嫌とは言いますまい。王妃様とて、ほかの知らない女ならともかく、彼女相手となれば、そこまでの文句を言いはしないでしょう」

 女官長はジェニーが王妃を差し置いて男児を妊娠することを恐れ、ジェニーに避妊薬を服ませている王の配慮を評価していたはずだった。王はサンジェルマンを見たあと、笑みを浮かべて女官長を見返した。

「おまえはジェニーを嫌っておったであろうに、どういった風の吹き回しだ?」

 彼女が少しひるんだ。「いえ、嫌っている、というほどではありませんが……」

 サンジェルマンは、ジェニーを毛嫌いしていたはずの彼女の弱々しい反論に驚く。

「王、私はただ、国の今後を心配しているのですわ」

 王は女官長の憂いを笑い飛ばした。

「俺だとて考えておる」

「そうであれば、王?」

「だが、世継ぎに関しては妃にもう少し任せておけ。妃が城に入ってまだ一年ではないか。先王は俺が生まれるまでに八年も待ったと聞くぞ?」

「先王は王の前に五人の御子――そのうちのお二人は数日で亡くなられたにしても――それだけの御子に恵まれておいででした。結婚後一年を経過しても最初の御子を懐妊されない王妃様とは、事情が違いますわ」

 王が頭の後ろで手を組み、背もたれに体を寄せた。椅子のきしむ、小さな音が室内の沈黙を裂く。王が、女官長をまっすぐに見つめて言った。

「おまえが焦るのはわかるが、今は時期尚早だろう。俺は妃の国に、妹をないがしろにされたと文句を言われたくはない。ともかく、あと一年は様子を見ろ」

「……そうでございますか。王のご寛大なお言葉を聞けば、王妃様もどんなにかお喜びでしょう。ええ、結構ですわ、承知いたしました」

 王がサンジェルマンに一瞬だけ視線を走らせる。

「ですが、王? 私どもはジェニーがもし王の御子を懐妊しても――」女官長の嬉々とした声を遮り、王が言った。

「ジェニーに庶子を産ませる必要はない。あの女もそのつもりだ、訊いてみるがよい」

 女官長は肩を落とし、はい、と沈んだ声で返事をする。王は満足そうに微笑んだ。


 王は今や、ジェニーに対して全幅の信頼を寄せている。恋しいとか愛しいとか、女に対する一般的な感情とは異なるものだ。少し前までの、王の夢見心地な表情や態度が消えている。それは、サンジェルマンの読みが正しければ、王が昼近くまで王城に戻らなかった日を境に変わっている。

 その前夜、王とジェニーは寝室で激しい喧嘩を繰り広げていたそうだ。そのときに隣の続き部屋にいたアリエルが、当日の昼前、王を探して小城まで来たサンジェルマンに教えてくれた。

 大きな喧嘩なら暴力沙汰になったのではないか、と心配するサンジェルマンを、アリエルはきっぱりと否定した。仲直りなさったはずですよ、と彼女が顔を赤らめながら言うと、王付きの近衛兵たちの頬もほんのりと色づいた。

 激しかった喧嘩のせいなのか、激しかったその後の仲直りの賜物なのか、その日に起きた何かが、王とジェニーの結束を強くしたようだ。


 そして、時を同じくして、ジェニーの側でも王と似たような変化が起こっていたらしい。

 サンジェルマンや侍従長と執務室を退いた女官長が、困惑を隠せない様子でサンジェルマンを見た。世継ぎ問題については彼女はあきらめが悪く、王の命令に納得していないのだろう。

「サンジェルマン様、最近、ジェニーに会ったことはございますか?」

 女官長は過去二ヶ月ほど、一週間に一度の頻度でジェニーのもとを訪ねている。以前は王妃に気兼ねして小城に出向くことはなかった彼女だが、今は堂々とジェニーの娘に会いに行っている。

 サンジェルマンは自分の記憶をたどった。彼はめったに小城を訪ねない。

「ここ一ヶ月ほどは顔を見ていないな」

 ジェニーを最後に見たのは、彼女が小城の庭園で娘と遊んでいたときだ。彼女に声を掛けてはいないが、娘と手をつないで飛び跳ねていた姿は無邪気な子どものようだった。特に変わった様子はなかった。

「彼女が何か?」

「ええ。彼女、前と少し変わったような……以前から怖いもの知らずなところはありましたが、何と言いましょうか、最近は肝が据わったような印象を受けるのです。

 実は――王に申し上げる前に、先だって私はジェニーを訪ね、彼女に王の御子を産むように諭したのです。ああ、勝手なことを、と責めるのはお止めくださいませ! 私はご世継ぎの件を本当に心配しているのです。ジェニーは既に王の御子をもうけているのですから、彼女に期待をかける私の気持ちもおわかりでしょう?」

 ジェニーに期待をかけることは理解できるが、王の知らぬところで、彼の気に沿わない状況を作り出そうとした彼女に、サンジェルマンは憤りを感じた。女官長の言い分は一方的だ。ジェニーは女官長の突然の頼みに戸惑っただろうし、その行為を知れば王妃は傷つく。

「褒められる行動ではないな、女官長」

 サンジェルマンが語気を強めると、彼女はうな垂れ、あっさりと同意した。

「そうですわね。それとまったく同じことを、ジェニーにも言われましたわ。それに、王のご世継ぎについては王妃様が関知する問題だから、と彼女からは断りの返事も貰いましたわ。王が仰っていたように、彼女は王の御子を産む意思がないのです」

 愛人の分際で生意気な、と彼女が息巻くのを予想していたサンジェルマンは、彼女が意外に落ち着いていることに驚いた。彼女は自室の机の前まで歩き、くるりとサンジェルマンに振り返る。

「それに、こうも言われたのですよ。娘を気に掛けてくれるのはとても嬉しいけれど、女官長が仕えるべき方は王妃様なのだから、小城にはあまり立ち寄らない方がいい、と。

 ジェニーは微笑んでおりましたわ。私はなんだか……威厳すら感じました。あんな小賢こざかしい娘なのに」

 ――王とジェニーの間に何があったのだろう?

 サンジェルマンが考えを巡らす隣で、女官長は、「まるで、彼女の方こそが王妃のように気高かった」とため息をつく。



  *  *



 雪によって屋内に閉じ込められ、来客もない日が続くと、気分が塞ぎがちになる。

 ジェニーは本格的な冬が来る前にそう思ったのだが、自分自身を含め、小城の人々は比較的楽しく過ごしている。図書室は蔵書であふれているし、もともとが遊びに興じるために建てられた小城は、退屈しのぎの遊び道具が豊富に用意されている。天真爛漫なカミーユの存在も、小城を明るい雰囲気に保っている。

 常に王や要人に囲まれている王城とは違い、庶民出身の主人ジェニーを持った使用人たちは、のん気なものだ。ジェニーは彼らと一線は引くものの、屋内で彼らと一緒に過ごす和やかな時間を存分に楽しんでいる。

 雪が断続的に降り続いた一週間が過ぎると、小城から見える一帯は白一色の景色へと様変わりした。殺風景でもあり、神秘的ともいえる雪景色だ。ジェニーは鎧戸が閉められずにいる部屋に移動し、寒さに凍えながら、雪景色が赤みを帯びる夜明け前に外を眺めるのが好きだ。廊下の突き当たりにある一室からは、真っ白い世界に浮かびあがる、冷厳そうな王城も見える。

 寒々とした佇まいの王城を見ると、王に会えずにいる寂しさが増す。だがその一方で、彼への愛しさが増すのも確かだ。

 ある日、細かい雪がひっきりなしに降る中を、兵舎に向かう途中だというライアンが小城に寄った。それまで屋外で続けていた剣の練習を屋内に切り替えてから、彼は小城に毎日は来ない。来客に飢えていた小城の人々はライアンを引きとめようとしたが、彼は王から預かったという「書状」をジェニーに渡すという目的を果たすと、十分も経たないうちに去っていった。

「緊急用件でしょうか?」

 王が、王城と目と鼻の先に住まうジェニーにわざわざ紙に書いてまで伝えるのなら、かなり重要なことに違いない。

「とにかく、見てみないと」ジェニーは急いで封を解き、書状を広げた。

 緊張しながら紙の最上部を見ると、“近況報告”といった文字がジェニーの目に飛び込んできた。角ばった、大きな文字だ。数行分の空間の下に、黒い字で書かれた文が続いている。ジェニーは、王が書いたであろう文面を目で追った。

「――ジェニー様、どうなされたのです?」

「……えっ?」

 ジェニーは突然我に帰り、王のくれた書状の上にアリエルの顔を見つけて、慌ててそれを丸めた。顔が火照って、熱かった。

「良い知らせだったようですね」

 アリエルには何でもお見通しだ。でも、王からの“近況報告”に目を通しながら、ジェニーは嬉しそうな顔をしていたに違いないのだ。

 ジェニーは、王と会えない間に手紙でも伝言でも何らかの連絡を貰えていたらよかった、という先日の訴えを王が覚えていてくれたことに、静かに感動していた。彼に会いたくなって胸がときめくが、彼が自分と会えない時間に自分を想っていたと思うと、ジェニーはなんだか幸せな気分になる。“近況報告”ともったいぶった題名をつけ、王がどんな顔をしてこの文面を書いたのかと想像すると、笑みが止まらない。

「アリエル、今から地下の貯蔵庫に一緒に行ってもらえる? 欲しいぶどう酒があるの」

「まあ、ジェニー様をそんな場所になど行かせられませんわ。私が取って参ります」

「ううん、自分で行くわ。手に取って、見てみたいのよ」

 王は、地下の貯蔵庫にある、右端から三番目の樽にあるぶどう酒を王城に持っていったそうだ。飲み口が軽くて甘く、酒の苦手なジェニーでも楽しめる味だという。彼の書状によると、王城での今夜の晩餐に、そのぶどう酒を用意させるつもりらしい。

 彼の書状は、こう締めくくっていた。

『晩餐をともにするのは叶わぬとも、同じ夜に同じ酒を口にしておると思えば、多少なりとも気分がよいとは思わぬか?』



 ジェニーが王からの初めての手紙を受け取った日の翌日、ラニス公からの手紙がジェニーに届けられた。ジェニーがラニス公に宛てて書いた、彼の申し出を断る手紙への返事だ。

 ラニス公はあくまで優しかった。ジェニーからの早すぎる返事に、彼は封を切る前から答えを予感していたそうだ。非常に残念だがジェニーの意思を尊重する、と彼は手紙の中でも紳士だった。そして、自分はしばらく独り身だろうから、気が変わったらすぐにでも知らせてもらいたい、とも言っていた。

 ジェニーは、手紙の文面のあちこちから滲み出るラニス公の温厚さに、ほっとさせられた。勝手かもしれないが、彼とはいい関係を保っていたい。ジェニーにとって、彼は結婚相手というより、むしろ、父親像に近いのだ。

 ラニス公の手紙には、もう一通の手紙が添えられていた。ラニス公の手紙より粗悪な紙に書かれたそれは、モーリスが差出人だ。ラニス公直属の農園の管理人で、ジェニーを一時期保護してくれた男性。

 懐かしさに胸を突かれ、ジェニーはごわついた紙の封を解く。

 ジェニーは紙全体をびっしりと埋める黒い文字を予想していたのだが、丸められた手紙の中からもう一つの手紙が転がり出てきて、びっくりした。同じように粗悪な材質の紙だ。モーリスが用心深くて包みを二重にしたのか、手紙の内容に重大な秘密でも書かれているのか。

 朱色の蝋で閉じられた手紙を見て、ジェニーは胸騒ぎを覚えた。紋章を示す封印は形がつぶれている。アリエルは部屋の隅で編み物をしているが、ジェニーの方を注意して見てはいない。

 ジェニーは封を丁寧に取り除くと、音を立てないようにして手紙を開いた。どこかでいつか見たことがあるような筆跡が、ジェニーの前に現れる。


『女神エクリシフェに共に誓った同士、ジェニーへ』


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