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第二部 5.生と死の境界線-10

 涙を流していないから悲しんでいないなど、どうしてそう判断できるのだろう? 父の遺体に抱きついて号泣するケインと、彼と母を遠巻きに眺めて立ちつくすしかなかったゴーティスに、悲しみの差なんてあるはずがないのだ。

 だが、通夜の仕度を、と大臣に指示したゴーティスを、母は罵倒した。実の父が亡くなったばかりなのに、なんて淡々としているのか、と。

 ゴーティスは自分のすべきことをしたまでだ。父が事切れる直前に彼から譲り受けた王位と彼の遺志に、ゴーティスは忠実に応えようとしただけ。父は、家族から嘆かれ悲しまれることを望んではいなかった。

 いつも父の隣にいながら、母はなぜ彼の想いがわからなかったのだろう? 彼の望みは唯一つ、腐敗し汚れた者たちから、尊い王位を守ることだった。彼の誇り高い意志は、そのための犠牲はいとわなかったのだ。それがたとえ、自分の命だったとしても。


 父の亡くなった日の夜を思い出したのは、ゴーティスが窓から見上げる空が、当時と同じように青い雲で覆われていたせいだ。灰色の雲は月の青い光を通し、不気味なその光は地上にまで届いて、寒々とした一帯をゴーティスの前に浮き上がらせる。

 窓に指で触れると、雪解け水のように冷たかった。つまり、屋外はそれほどまでに気温が下がっているということだ。冬は間もなくヴィレールに訪れる。

 宴の出席者のほとんどは帰宅し、王城に残っているのはラニス公など王家の縁者だ。興奮冷めやらぬ人々は、大広間から別室に場所を移し、今もまだ杯を片手に大声で笑い合っていることだろう。

 ゴーティスは真夜中を越える前に自室に引き上げた。暖炉には勢いよく火が焚かれ、部屋は大広間と変わらない暖かさに保たれていたが、ひと気のない室内は寒気を感じさせた。とりわけ、皺一つなく整えられた寝台は空虚に映る。深紅の敷布の上に置かれた、ベージュの毛皮でできた掛布。誰にも使われていない寝台はそこだけ、寒風が吹き抜けているようだ。

 この部屋には妃であるカサンドラさえ入れたことはないのだが、ゴーティスはふと、その寝台の上にジェニーが眠っていてくれればいいと思った。

 彼女が自分に気づかなくてもいい。部屋に彼女の気配を感じるだけで、ゴーティスは満足するだろう。

(……おまえは今頃、何をしておるのだろう?)

 ジェニーが自分の手を汚して人を殺したのは、今回が最初だろう。それが故意でも偶然でも、初めて他の人間を手にかけたときには、どんな者もかなりの動揺に身を晒される。戦場で数え切れない相手を死に追いやった経験があるといっても、ゴーティスも、己の身を守るために初めて人間の喉を掻き切ったときには、相当な心理的苦痛を強いられている。

 ゴーティスはジェニーが心配だった。カサンドラにたきつけられなくとも、ゴーティスはジェニーに会い、彼女の無事を確かめ、彼女をその腕にしっかりと抱き締めたかった。


 ジェニーが暗殺犯の仲間の手に取られたとき、ゴーティスは、体から狙いが外れたはずの矢で心臓を深くえぐられたような気分に陥った。彼らが、ジェニーがゴーティスの弱みだと確信しながら犯行を遂げたのは明白だ。

 その彼らに苦痛に歪んだ顔を見せ、彼らの狙いどおりだと証明するような行為は、ゴーティスは断じて避けなければならなかった。さもなければ、ゴーティスが先王の遺志を継いで守ってきた全てが、一瞬にして崩れ去ってしまう。ゴーティスには、何物にも脅かされてはならない王の権威を守る義務がある。それに、王であるゴーティスが仮に彼らの要求に屈すれば、ジェニーはゴーティスと共にある限り、王位や王家の力を欲しがる者たちから永遠に狙われ続けることになるだろう。

 苦痛に顔を歪めていないからといって、ゴーティスが苦しんでいないということにはならない。

 暗殺犯の黒幕の正体が分からない今、ゴーティスに軽率な言動は禁物だ。実行犯が取り押さえられ命を落としたとしても、宴の出席者たちの誰かが黒幕であるのなら、ゴーティスの弱点がジェニーだと悟られるような、不注意な真似はできない。感傷的な思いだけで行動し、ジェニーが再び死の危険に遭遇したとしたら、ゴーティスはそのときこそ本当に、後悔してもしきれないだろう。

「俺は、おまえをこの世から失いたくはない」

 ゴーティスの声は、冷えた窓にぶつかって儚く消える。


 ゴーティスはジェニーの強さを信じていた。彼女の土壇場の力に懸けていた。ジェニーは、生きることに執着しているからだ。

 ゴーティスが期待したとおりに、否、それ以上に、追いつめられたジェニーは暗殺犯を相手に颯爽と立ちまわった。ゴーティスが微かに抱いていた死の不安を一掃し、彼が彼女に惚れ直すほどに見事な立ち回りだった。

 ジェニーがゴーティスの期待に応えたのは、彼女が彼の意思とその裏にある葛藤を読み取ったからだと、彼は勝手に信じているのだが。

(くだらぬ誤解とやらを――よもや、してはおらぬだろうな)

 サンジェルマンの懸念に苦笑し、ゴーティスは自分の手を握りしめる。ジェニーの手を感じることのないゴーティスの手は、もはや、自分のものであって自分のものでないような気がする。

 手をいつでも繋げたら幸せ、とジェニーは言ったが、ゴーティスと彼女は、それさえままならない環境にいる。手をいつも繋いでいたいとは幼い子どものようだ、とゴーティスはジェニーを笑ったが、それがどれほど貴重で幸せなことか、彼女の笑顔を思い描き、ゴーティスは今、思い知る。

 ゴーティスが王である以上、越えられない高い壁があるのだ。万が一、昨日と同じような状況が再び起きたとしたら、ゴーティスは、たとえ愛していなくても同盟国出身の妃の身は救うが、愛してはいても、一人の女なだけであるジェニーを公然と救うことはないだろう。一個人の男としてなら当然な行為を、彼は最初からあきらめなければならないのだ。

 ジェニーの手を、ゴーティスは握りたかった。彼女はまた手を冷たくさせ、困っているに違いない。

 ジェニーの冷えた指先を温めるのは、ゴーティスだけに与えられた特権だ。彼女の手を取り、自分の体温が彼女に溶けていくのを感じ、自分の手の先には彼女が繋がっているのだと、ゴーティスは実感したい。そして、それが叶ったら、繋がった二人の手にゴーティスが言葉にできない想いを込め、ジェニーに伝えよう。

 彼女を人質にとられた際の衝撃、自ら反撃できない無念さ、敵を立派に撃退した彼女への賞賛を。それから、惨劇の全てが終わったあと、彼女がまだそこに生きて立っている事実に、ゴーティスがどれほど安堵し、天に感謝したかということを。

 青白い闇は、窓の外に広がる世界を包んだままだ。色に乏しい景色は、白い雪に息を閉ざされた冬の風景に似ている。それを眺めれば眺めるほど、ジェニーとの間を遮断されたような気になって、ゴーティスの胸は苦しくなる。

 彼女に会える夜明け――何日後かは分からないが――その瞬間を想い、ゴーティスは高まる胸の動悸を必死に抑え続ける。



 *  *



 ユーゴは闘技場での王の対応をまったく問題視せず、あの状況では「仕方がない選択」と表した。大観衆と王妃を前に、一人の愛人のためだけに、王が悪漢に屈するわけにはいかないのだ。自分だって同じことをする、とユーゴは王のとった行動を讃えた。

 ただ、一人の女に執着しないユーゴが王と同じ立場にいたら、それが自分の妻だったとしてもユーゴはあっさりと見捨てそうで、彼の説明は今ひとつ説得力に欠ける。だが、アリエルは彼の意見に異議を唱えず、深く頷いていた。

 たぶん、ユーゴの言うとおりなのだろう。敵を欺くにはまず味方からと、王がジェニーに向けた侮蔑もそれで説明がつくのだろう。闘技大会が終了してもジェニーは小城を追い出されず、退去勧告を受けているわけでもない。王の訪問は、いっこうにないけれど。

 訪問だけでなく、王からの連絡は一切途絶えていた。王城では毎日、人々を招いて宴を開催しているのに、ジェニーに声がかかることはない。王の顔を見られない日々は、必要以上にジェニーの不安をかきたてる。

 王に会いたい。

 ほんの数分でいい、彼の横顔だけでも十分だ。


 アリエルや小城の皆は、事件に巻き込まれたジェニーを心配してあれこれと世話を焼くが、王は、ジェニーが事件で動揺しているとは考えないのだろうか? 選択の余地がなかったとはいえ、ジェニーは一人の人間を手にかけてしまったのだ。幾多の戦場をくぐり抜け、人の命を奪うことに慣れている彼とは違う。

 ジェニーは、自分が闘技大会での事件後に深く落ち込んでいるとは思っていないが、あの日以降、何かがおかしかった。ジェニーが見る全ては霞がかかったように濁り、耳に入るのはくぐもった音ばかり。アリエルが甘すぎると評した菓子も、ジェニーには味付けが薄いとしか感じない。音程を外すので歌を歌うな、とカミーユからは文句らしき声があがった。だが、眠りは浅くても睡眠はとれているし、肉は口にできなくなっているが、ジェニーは食事もきちんと取っている。事件前後で、ジェニーの毎日に大きな変化はない。

 ただ、ジェニーは一日のうちに何度か、空白の時間を経験している。それは朝だったり、夕方や真夜中だったり、時間帯はまちまちだ。記憶に残らない真っ白の時間は突然にジェニーの頭に入り込み、ジェニーが気づかぬうちに、いつのまにか去っている。



 闘技大会が終了して数日後、王城を数ヶ月ぶりに訪れていたラニス公が小城にジェニーを訪ねた。彼の元妻が起こした襲撃事件によるわだかまりが完全に払拭されたわけではないが、ジェニーは彼との再会を喜んだ。彼はカミーユとも久しぶりに会い、彼女の成長ぶりに目を細めていた。彼もジェニーとの再会を嬉しがっていた。

 ラニス公の話では、王城にはまだ滞在客が何組も残っており、夜毎、大小の宴が開かれているそうだ。王は彼らの相手に毎日忙しくしている、と、ラニス公は王を擁護するように話した。ラニス公は口に出して言わなかったが、ジェニーが王と会えない日々に不安になっていることを察しているようだった。


 だが、ジェニーの不安要素は、実は、王からの音沙汰がないことだけではない。兄ローリーの安否も心配だった。ライアンやユーゴには、兄が偽の“クレマン家の次男マルセル”に連れ去られた可能性を話したが、その後、兄の消息がつかめた様子はない。近衛隊は男を暗殺犯の仲間として捜索しているらしいが、それが事実なら、兄の身も危険ということになる。

 ジェニーはどこかで兄が生きていることを願い、灰色に近い水色の空を見上げた。北東の空はどんよりとした暗雲に隠れている。その空の下では既に降雪していることだろう。

 ふと、ジェニーは名を呼ばれたような気がして、建物の方に振り返った。

「ラニス公?」

 ジェニーが足を踏み出すと、ラニス公は歩調を速めて近寄ってきた。そして、ジェニーの前で立ち止まり、今日の空の色に似た瞳をにこやかに揺らす。

「きみにそう呼ばれるのはどうもしっくりこないね。フィリップでいいよ」

「――フィリップ様」ジェニーが呼び直すと、それでいい、と彼は頷きながら笑った。

「外の空気は爽やかだけど、寒くないかい? きみは寒さに弱いと私は記憶しているんだが」

 そういえば、と思い出したようにジェニーが腕をさすると、彼が苦笑した。

「中に入ろう。今日は娘たちも連れてきたんだ。城ではそろそろ彼女たちも飽きてきてね、今、カミーユと遊んでいるよ。娘たちは彼女が可愛くてたまらないようだ。三人でいると、まるで姉妹みたいだよ」

 たしか、ラニス公の娘たちは十歳と七歳だ。彼の居城で会った、ラニス公と同じ金色の髪をした娘たちを思い出して、ジェニーは微笑む。大人ばかりの王城で一週間以上も滞在すれば、遊びたい盛りの彼女たちが暇を持て余すのも納得がいく。

 ラニス公が出した腕をジェニーは抵抗もなく受け入れ、彼と並んで庭園から屋内へと歩いていく。彼が、ジェニーがさっきまで眺めていた北東の空を仰ぎ見た。

「明日、私たちはどうやら、雪道を帰らねばならないようだ」

 ジェニーも彼に倣い、同じ方角を見上げる。

「ああ、あちらは冬が早いんですよね。どうか、道中はくれぐれも気をつけてお帰りください」

 ありがとう、とラニス公はジェニーを見つめ、一瞬の間のあと、微笑んだ。

「ジェラール様にもよろしくお伝えください。フィリップ様が戻る頃までには、ジェラール様も風邪から回復されていればいいですね」

「ありがとう、私もそう願っているよ」


 小城の入口に差し掛かり、ラニス公は開いた扉にジェニーを先に入れる。そこは常に外気を通す場所なのに、屋外に一歩入っただけで庭園より随分と暖かい。

「ジェニー」

 ラニス公が穏やかな声音でジェニーを呼んだ。彼に名を呼ばれると、ジェニーは父親に話しかけられているような気分になる。ジェニーの隣で、彼が歩みをやや遅くした。

「ジェニー、ここ数日間、私は考えていたのだが」口調は穏やかだが、硬い表情でラニス公が言葉を続ける。

「はい」

 通路に声が冷たく響くので、ジェニーは声を抑える。ラニス公が硬い笑顔を作りながら、口を開いた。

「きみさえ構わないなら……きみと、可能ならカミーユも、二人で私のもとに来たらどうだろう?」

 ジェニーの足が止まる。

「……えっ?」

 ジェニーの微笑みが一瞬にして失われたのに慌てたらしく、ラニス公はジェニーの前に立ち、弁解めいた口調で言った。

「もちろん、今すぐどうこうしようなんて話じゃない。王の許可も必要だろうし、きみにも考える時間が必要だろう。あんな襲撃事件を起こしておいて、本当ならこんなことを言えた義理じゃないが、ただ、きみさえ良ければ、そして事情が許すなら、私はいつでもきみを受け入れる気がある。そう知っておいてもらいたいんだ」

 ラニス公の真剣な表情に嘘はない。彼は嘘をつけるような人柄でもない。

 ジェニーが驚きのあまりに彼を見つめると、彼は困ったように瞳を細めた。

「なぜ急に……なぜ、そんなことを言うんですか? そんなことを言うなんて、まるで私がもう――」

 ジェニーは喉まで出かかった言葉を、必死に食い止める。

 ――“王はジェニーを見捨てた”。

 ジェニーは口を押さえた。でなければ、ジェニーが心に抱くばかばかしい考えが、ジェニーの声にのったその瞬間に現実と変わってしまいそうだ。

 ジェニーがなおもラニス公を見つめ続けると、彼の瞳に苦悩と哀しみが混じった。そんなもの、ジェニーは見たくなかった。

「私の言ったことは単なるひとつの提案だ。状況次第ではそんな選択肢もあるかもしれないと、その程度に考えてもらえばいい。返事は急いでいないから」

「フィリップ様、もし私を哀れんでいるなら――」

「哀れんでなどいないよ。以前、きみがいた日々は平穏で楽しかった。それを、妻に欺かれた哀れな男がまた手に入れたいと願っているだけだ。多少の難はつきまとうだろうがね、きみは今や真の貴族の身分なのだから、私のもとに正式に迎え入れたいと考えている」

 ジェニーの心臓があらたな驚きに飛び跳ねる。

「フィリップ様の? ジェラール様ではなくて、ですか?」

「ジェラールの?」ラニス公は瞠目し、ゆっくりと首を振った。「彼は来春に結婚することが決まっている。きみを迎えたいのは、この私だよ」

 ラニス公はジェニーの瞳をまっすぐに捕らえ、それまで緊張に強張っていた唇を静かにゆるめた。

「フィリップ様の……?」

 ジェニーが思わずそう漏らすと、彼は、今度ははっきりとした笑顔を見せた。

「そう。きみはいくつだったかな、十九? 私は十歳以上も年上で娘も二人いるが、きみが気にしないでくれるなら、きみが厳寒期を無事に越せるように居城の暖房を強化して、城で待っているよ。いつでもきみを歓迎する」

 ラニス公の温かな微笑みを見ているうちに、ジェニーの視界がぐらりと不安定に揺れた。瞬きする前の視界が白く濁る。

「ジェニー?」

 ラニス公に触れられたせいではない、ジェニーの手が熱い。

「ジェニー、大丈夫かい?」

 彼の質問の意味を理解もせず、ジェニーは激しく首を振る。

「……大丈夫」

 ――でも、何が大丈夫なのだろう?

 光を放ちながら床に落ちていく水滴を見て、ジェニーは自分が泣いているのだと知った。今まで、どうやっても涙を流せなかったというのに、ジェニーは声もたてずに泣いている。

 ラニス公の申し出に心が動かされたわけではない。彼の優しさも、ジェニーを支えてくれる彼の手もありがたかったが、ジェニーが渇望していたのはそのどれでもない。

 ジェニーが欲しかったのは、王から必要とされている実感だ。ラニス公のように、ジェニーの不安を拭い去ってくれる明白な意思。たったそれだけだ。

 ジェニーの肩をそっと抱いてくれるラニス公の手は愛情に溢れている。でも、それがジェニーの心を震わせることはない。きぬ越しに感じる体温が、感触が、王とはまったく違う。

「泣かないで。何も心配ないから」

 囁くラニス公の声は川のせせらぎのようにジェニーの耳に入り、何の感動も与えず、淡々と流れ落ちていく。

 情けない。

 王に会えないというだけで、ジェニーはどうしてここまで不安に思うのだろう? ジェニーの心はいつからこんなに弱くなってしまったのか。

 ジェニーは王が好きだった。

 彼がもう自分に背を向けていたとしても、ジェニーはまだ彼を見ていたい。



 ジェニーがラニス公の一件を黙っていたにもかかわらず、次の日の夕方までに、ユーゴはそれを知っていた。彼は既に帰宅したものと思っていたジェニーは、彼がまだ王城内に滞在していたのも驚きだったが、彼がラニス公の申し出の内容を克明に把握していると知って、さらに驚いた。

「いい話じゃないか!」

 数日前には、王を信じろ、と声高に語っていたくせに、ユーゴはラニス公の突然の申し出にかなり興奮している。アリエルはユーゴに腹を立て、今回の一件が王の耳に届くことを恐れて、室内の召使たちを部屋から全員閉め出した。だが、ユーゴはアリエルの怒りなど、まったく気にしていない。

「だって、正式な王家の一員だよ? 正妻になれるんだよ、正妻!」

 ユーゴは何気なく口にしただけの言葉だろうが、今のジェニーの心にはそれが鋭く突き刺さる。

 再び言い合いとなったアリエルとユーゴを部屋に残し、ジェニーは一人で庭園に出た。日没をひかえた庭園は、晩秋の弱い日差しをかろうじて受け、濃緑色に光る。冬も間近になったこの季節、この時間帯、庭園を彩る花はない。王がジェニーの窓辺からの風景のためにと植えた、夜に咲く白い花も、夏が終わると同時に散ってしまった。

 ジェニーが午前中に見上げたときより、空がいっそう低くなっている。雪雲に似た暗い色をした雲が、北東から王城の方に近づいてきていた。ラニス公の住む地方は、まもなく雪に埋もれてしまうだろう。

「フィリップ様」

 ジェニーの背後で、地面に生える草がつぶれる音がした。

「……フィリップ?」

 ジェニーがはっとして振り返ると、真後ろに、怪訝そうに彼女を見下ろすゴーティス王が立っていた。


次回より、更新は火曜日0時以降となります。

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