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第二部 5.生と死の境界線-7


ちょうどいいところで切れず、ちょっと長めの回となってしまいました。

ごめんなさい~!

 “晩餐の間”に入る手前で、通路の向こうから歩み寄ってきたサンジェルマンの顔をひと目見たとたん、ゴーティスは、彼らが任務を失敗したのだ、と予想をつけた。

 だが、予想どおりの結果でも、ゴーティスはがっかりもしなければ、彼を責めるつもりにもなれない。ゴーティスはその任務を彼に命じた時点から、既に心のどこかで、それがうまくいかないだろうと感じていたのだ。決してサンジェルマンの失敗を願っていたのではないが、ゴーティスには、その“相手”を捕らえられる気がまるでしなかった。

 王、と呼びかけられる前に、サンジェルマンの口から語られる事実を知るため、ゴーティスは重厚な扉の前で立ち止まった。

「申し訳ありません」

 口を開くなり、サンジェルマンは低く囁いた。ゴーティスが無言で先を促すと、サンジェルマンの小声が続いた。

「彼らは邸宅にはおりませんでした。私どもが踏み込む直前に、クレマン家の者が彼らを逃がしたものと思われます。無論、クレマン家の当主は彼らとの関係は何も認めませんが」

 それはある意味、当然の結果なのだろう。

 自分の予想が事実と変わっても、やはり、ゴーティスは驚かなかった。怒りも突き上がってこない。

「奴らも必死だ、そう簡単に尻尾は掴ませまい。……クレマン家については、引き続き調査しろ」

「御意」

 ゴーティスの前でサンジェルマンは頭を下げ、その揺れた髪のすきまから、冷え切った外気が立ちのぼる。彼のくすんだ金髪と色をなくした唇を見ると、ゴーティスは急に、すぐそこまでやって来ている冬を感じた。常にどんよりとして灰色に染まった空、身を切るような寒さ、どこまでも続く白い無の世界。根拠のない不安がゴーティスの胸を埋めていく。


 寒さと雪で何もかもが不自由となる冬に突入しないうちにと、カサンドラとゴーティスが結婚したのは、ちょうど一年前だ。その当時も幸せな結婚生活はまったく期待していなかったが、子どもの一人ぐらい、この一年で恵まれると思っていた。だが残念ながら、カサンドラは今までに一度も妊娠していない。ゴーティスの長年の習慣で、ときどきは妻の体外に子種を放出してしまったこともあるけれど、皆が囁き合うように、彼女は子どもができにくい体質なのだろう。ジェニーとは違って。

 いや、何より、ゴーティスは義務的な伽に辟易していた。相手が絶世の美女や豊満な肉体をもった女ならともかく、妻は大人になりかけの少女だ。

 ジェニーはカサンドラとは違って、既に子がいる。つまり、ジェニーは子が産める体だ。

 どこの国でも、王に子がいないのは大きな問題だ。ジェニーを妊娠させるのは、ゴーティスにも難しくはないだろう。ジェニーにひそかにその都度飲ませている避妊薬を、一時的にやめてみたら……?

「おそれながら、王」

 ゴーティスはサンジェルマンの声にはっとした。彼に心の内が見えるはずもないが、ゴーティスは慌てて、胸に膨らんでいた邪道な思いを押しつぶす。視界の端に、カサンドラの護衛であるジルの横顔がかすんだ。

「まだ何かあるのか?」

「明日の闘技大会の件です。やはり、彼女の出席は見合わせた方がよろしいのではありませんか?」

「奴らがジェニーを奪い返しに来るとでも?」

 はい、とサンジェルマンは腰帯にさがっている布袋に手を触れた。そこにはおそらく、ジェニーの兄ローレンが人を介してジェニーに渡そうとし、彼女が受け取る前に没収された手紙がある。手紙の中で、彼は妹に闘技大会の場での再会を約束していた。そしてその再会は、兄妹がただ会うだけでは終わらないことだと、サンジェルマンもゴーティスもよく分かっている。

「クレマン家以外にも彼らに協力している貴族はありましょう。ローレンの仲間がその家の者と貴族席に入って、そこで彼女と会話しようとも、誰も何の疑いも持たないでしょう。その場でちょっとした騒ぎでも起こし、その混乱に乗じて彼女を連れ去ろうと計画しているかもしれませんよ」

「それを阻止するための警備ではないか。それにジェニーとて、やすやすと兄の手を取りはせぬ」

 ゴーティスはそう断言したあとで、自分自身が、そこまで自信を持って彼女を信用していることに驚いた。いつかジェニーが「あなたのもとを去って、兄と一緒に行くことはない」と言ったとき、ゴーティスは心の奥底からは彼女を信じはしなかったのだが、今は、彼女が自分以外の誰かの手を取ることが、到底、思いつかない。

「何もかも予定どおりだ」

 これ以上の確かなものはないというようにゴーティスがサンジェルマンを見返すと、そうですか、と彼は諦観したように呟いた。

「されど、もし……ジェニーの前に奴らが現れたときは、その機に、一人を残して全て一掃しろ」

「ローレンを、ですか?」

「そうは言っておらぬ」

 ローレンはジェニーの兄ではあるが、塩の商いに携わる彼とその仲間は、ヴィレールにとって害でしかない。クレマン家のように、国内では既に、彼らの塩取引の融通を図っている貴族が出ているのだ。このまま彼らを暗躍させておけば、国内にマキシム産の塩の流通が拡大するのもあっという間だろう。

 兄が死ねばジェニーが悲しむのは分かっていたが、国益を考えれば、ゴーティスに迷いはなかった。だが、できることなら、彼女の目にその惨劇が映ることは避けたいと思う。

 そして、その気持ちを見越したように、サンジェルマンが言った。

「王、今もなお――彼女を出席させるご意向は変わりませんか?」

「しつこい」

「彼女は様々な危険に晒されましょう」

「ふん。起こらぬかわからぬ危険を恐れて、あの女を後生大事に城に閉じ込めておけば、俺が世間に何と言われるか分かったものではない。妃のように、ジェニーはか弱い女でもなかろう」

「……は」

 サンジェルマンは顔を上げなかったが、ゴーティスは扉前の衛兵の脇にいる近衛ジルをちらりと見た。頑強な衛兵たちと並ぶと子どもにしか見えない彼が、王妃付きの侍女がジェニーを闘技場で襲撃する計画を母国語で話していた、とライアンに報告したのはつい数日前のこと。カサンドラに心酔しているジルは、あくまで彼女の無関係を強調したそうだが。

 カサンドラが計画自体に関わっているかどうかは、ゴーティスには重要ではない。彼女側にとって、ジェニーが殺したいほど目障りな存在だと思われていることの方が、ずっと問題だ。貴族の誰もが参加する闘技大会に、ジェニーを皆の目から隠すように、出し惜しみでもするような扱いをすれば、王妃側はさらにジェニーを憎々しく思うことだろう。

「彼女の警護を徹底させるよう、ライアン殿に伝えておきます」

 そうだ。いかなる有事に備えて。

 ゴーティスはサンジェルマンを去らせると、“晩餐の間”の扉を開かせた。

 しかし、ゴーティスは、サンジェルマンがケインの来襲まで懸念していることを、まだ知らない。




 ジェニーが王城の屋上から眺めた、親指の爪ほどの光でしかなかった闘技場。風にのって流れてきただけだった歓声が、ジェニーがあてがわれた席に座った今、狂喜の喚声となって、あちこちから大波のように打ち寄せてくる。鼻先をかすめる空気はあきらかに晩秋のそれだが、人々の熱気で会場全体の温度は確実に、二、三度は上がっている。競技そのものはまだ始まってもいないのに、民衆のこの興奮ぶりは驚くべきものだ。

 一般席の雰囲気とはまるで異なり、貴族席にいる人々はぶどう酒を片手に、優雅な会話にいそしんでいた。豪勢な食事がないだけの宴と、どこも変わりはない。女たちは競い合うように着飾っていて、一般席から眺める貴族席はさぞ色彩豊かに見えることだろう。ジェニーは自分が普段より派手に着付けられ、化粧をきっちりとほどこされた理由に合点がいった。また、屋外だというのに、女たちのまとう香水がいくつにも混ざりあって、貴族席一帯に充満していた。

 ユーゴは出席者の者たちとの交流に余念がなかったが、彼らのほとんどは、ユーゴが声を掛ける前に自ら挨拶に出向いてきた。ユーゴはごく自然に、だが意図的に、ジェニーに彼らを紹介した。彼らも最初からそれを期待していたようだった。そのうちの何人かはジェニーとも面識があったらしいが、ジェニーは彼らの顔をいちいち覚えてはいなかった。

 愛想笑いの下に隠れる好奇心や嫉妬、不自然にへりくだった口調。ジェニーはそれらが自分の上を通り過ぎるたびにどっと疲れ、競技が早く開始され、皆が席に落ち着くときが待ち遠しくて仕方なかった。

 王と王妃はまだ姿を見せていなかった。貴族席の空席はなくなりつつあったので、王たちが会場へ登場するのももうすぐだろう。王が現れ、開会宣言をした後に、この大会はやっと始まるのだ。

 ジェニーと王夫妻の席の間には、二十席以上の距離が開いている。夫妻の席の後ろには木製の高い防護壁のような物が立っていて、空席となっている後方の数列には、強面の近衛たちが陣取っていた。最前列を占める夫妻の姿は、前から五列目の並びにいるジェニーの場所からは、見ることができない。ジェニーは、二人が並んだ光景を見逃せることに、ほっと胸をなでおろした。


 ひっきりなしに訪れていた人々の波がひと段落して、ユーゴがジェニーの右隣の席にようやく腰を落ち着けた。彼の愛想のない妻はジェニーの左隣に座り、その隣の中年男の話に退屈そうに耳を傾けている。ジェニーのもう一人の侍女であり、護衛でもある女はジェニーの真後ろに席を取っていた。彼女の左には出席者の装いをした近衛兵が、反対側にはアリエルが座っている。ジェニーの前列にも何人かの近衛兵がまぎれているそうだが、誰がそうなのか、ライアンからは知らせてもらえなかった。

「ユーゴ・ベアール様!」

 男の軽快な声がして、ジェニーもユーゴも振り返った。席の前の通路を、既に座っている者たちに謝りながら、黒髪の若い男と背が低く小太りの女が歩いてきている。

「お久しぶりです、ベアール様! 僕を覚えておいでですか? ああ、ベアール様は九年前とまったくお変わりありませんね!」

 ユーゴは愛想笑いを見せたものの、男の顔に目を留め、首を傾げている。

 男は二十代半ばのように見え、顔も手もよく日に焼け、小麦色の肌をしていた。無造作に伸ばした黒髪を後ろで一つに束ね、口角が上向いた唇の上に薄く髭を生やしている。はれぼったい、一重にも見えるまぶたの下には、琥珀色のつぶらな瞳が見えた。ユーゴと並ぶと彼は数センチは背が低いようだが、胸板は厚く、ふくらはぎにも瘤のような筋肉がついていた。その立派な体躯に、青地に金と白で網目の模様が縫いこまれた服を身につけ、白い毛皮付きの黒い上衣を掛けている。男に黒い色はよく似合った。

 ユーゴが困ったように笑い、肩をすくめた。

「どこかで会ったような気はするんだが……。九年前というと、たぶん、きみはまだ少年だったんだろうね?」

「ええ、十四歳です」

 男は感じのよい笑いを浮かべながら、ジェニーに視線を移し、にっこりと笑った。

「こんなに色も黒くありませんでしたし、僕がお分かりにならないのも無理はありませんね。ベアール様、僕はクレマン家の次男マルセルです。九年前に叔父について東方の国へ行ったのですが、つい最近になって戻ってきたのです」

「クレマンか、そうだ! きみのその瞳、母上にそっくりだ」

 二人の男は力強く握手し、旧友のように肩を抱き合った。それから、マルセルは連れてきた小さな女を、旅の途中で知り合って結婚した妻だと、ユーゴに紹介した。彼の妻は夫とは反対に、おとなしくて気難しそうな女だった。頬骨の高さや鼻の形から、女には北方の血が入っていることが見てとれた。

「ところで、そちらの女性は?」

 マルセルが興味深そうに、ユーゴの隣にいるジェニーを示した。新しい奥方ではありませんよね、というマルセルの発言に、ユーゴの妻が不愉快そうに眉を上げる。

「あはは、違う、違う。彼女はジェニーだ、私の姪だよ」

 マルセルはジェニーの手を取り、指の先端に口づける。優雅で慣れた動作だ。彼は礼儀正しかったが、彼の武骨な手に触れられると、ジェニーはなぜか心もとなくなる。

「お目にかかれて光栄です、ジェニー嬢」

 閉じていた黒いまつげが勢いよく開かれると、ジェニーはますます動揺して、彼から手を引き抜こうとした。だが、マルセルはジェニーの手をつかんだ太い指に力を入れ、笑う。

「以後、お見知りおきを」

 ジェニーの目には、マルセルの笑顔が皮肉そうに歪んだように見えた。



 三試合が終わり、正午をまわった頃だった。闘技場の上空だけ、ぽっかりと穴が空いたように雲が切れ、太陽はその真ん中に堂々と居座っている。競技開始前の安穏とした雰囲気はどこへやら、貴族の女たちはともかく、男たちはすっかり競技に熱中している。一般席の人々が「勇者の詩」という競技者を鼓舞する歌を大声で歌い、観客の熱気は頂点に達しようとしていた。

 ジェニーも周囲の女たちの例に漏れず、眼下の競技場で繰り広げられている肉弾戦には興味がわかなかった。男たちがそこまで白熱して大歓声を上げる気持ちが、ジェニーにはわからない。ユーゴが野蛮な戦いと呼ぶように、競技者たちの対戦は、素手で殴り合うか、剣以外の武器なら何でもありの派手な喧嘩にしか見えないのだ。気分を悪くする女たちが続出する、というアリエルの説明もあながち間違いではなかった。ジェニーの席からは競技者たちの顔の造作まではよく見えず、たまに骨が折れる音が高々と響いたとしても、負傷の程度が確認できないせいで、まだ救われた。

 ジェニーの隣で、ユーゴは早々に観戦を中止し、隣に席を取る初老の白髪混じりの男性と話しこんでいた。ユーゴが深く頷いたり、何度も相槌を打っていたりすることから、男は彼が親交を深めたい立場の、それなりの身分を持った者なのだろう。

 ジェニーはユーゴから目をそらし、前列に座る女が夫らしき男の肩に頭を寄せるのを何気なく眺めた。男の手が女の肩を撫でるのを目にすると、王に恋焦がれてジェニーの胸が痛む。そのとき不意に、会場全体が静まりかえったように思えた。


 五、六人の近衛兵が一斉に、剣を手に競技場の中央に突進していく――ジェニーが不審に思った矢先、人々のざわめきの中を女の甲高い悲鳴が貫いた。

「今の何――」

 ジェニーが声のした方角を振り返ろうとすると、重いものが何かに激突して割れたような、豪快な音が。男の野太い怒声がした直後、今度は複数の女たちの短い悲鳴が続いた。ジェニーは驚き、思わず席から飛び跳ねた。最前列席の前の通路を、大勢の近衛兵が血相を変えて駆け抜けていく。

「ああ、王! 王はご無事なの……!」

 ジェニーも聞き覚えのある若い女の声が叫び、ジェニーは息をのんで席から立ち上がった。王妃の切迫した金切り声と前後して、最前列にいた貴族の男が叫ぶ。

「暗殺だ! 何者かが王に矢を放ったぞ!」

 ざわめきはどよめきに変わり、ジェニーは胸の激しい痛みで息ができなくなって、両手で胸を押さえた。

 息の――呼吸の仕方を忘れてしまった。息を吐くのが先か、吸うのが先だったのか。口を使えばいいのか、鼻ですべきなのか。

 半狂乱の王妃の声が耳にこびりついていた。きっと、きっと彼は死んではいないだろうが、彼の生死を今すぐに確かめなければ、王の身が心配で、ジェニーの胸は今にも砕け散ってしまう。

 王のいる場に走ろうと足を踏み出そうとして、ジェニーは前列にいた男に行く手を止められた。さっきまで女の肩を撫でていた男だ。

「そこを通して」

 ジェニーは男にあからさまに怒りを向けた。すると、男はジェニーの態度に多少ひるんだようだったが、ジェニーの前に出した手はどけなかった。

「ご心配でしょうが、ここはどうかお留まりください」

「どうして! 私は王の無事をこの目で直接確かめたいのよ!」

「王を狙った犯人の仲間がその辺に潜んでいるかもしれません。騒ぎが落ち着くまでは、危険ですから、私どもと一緒にいてください」

 ああ、彼はライアンが配したという近衛の一人なのだ。ジェニーの身の安全を保障するという、護衛。

 自分の身などどうでもいいから、彼らには王の身を完璧に警護してほしかった。

「でも、私はあそこに行きたいの……!」

 王が無傷でも、瀕死の重傷を負っていても、ジェニーは彼の姿を自分の目で見たかった。王だって、ジェニーの姿を真っ先に目で探しているはずだ。

「ジェニー、彼の言うとおりだ。しばらく、ここにいるんだよ」

 後ろからユーゴに肘を掴まれ、ジェニーは呆然として、王の席の周りに黒い人だかりが形成されていくのを見た。肝心の王の姿はちらりとも見えず、王妃や女たちの泣き声が漏れてこなければ、ジェニーは彼がその群衆の中心地にいるとはとても信じられない。

(私は、王の近くに行くことも許されない……の?)

 いつでも王の隣にいられたのなら、ジェニーが身を挺して彼を庇うこともできたのだろうに。

 ジェニーは自らが置かれた立場の無力さを呪って、嗚咽をもらした。



 それからほどなく、歓声の途絶えた闘技場にライアンの大声が通った。

「男をここへ!」

 一度は静まりかえった闘技場が、あらたな劇的展開に面して息を吹き返し、大歓声に埋まる。

 ジェニーはあふれた涙を拭いながら、王の席の間近から下の競技場を見下ろし、部下の近衛たちに指示を与えているライアンを見た。いつのまにか、眼下の競技場には近衛が数十人集っており、そのちょうど中央には、両脇を彼らに抱えられた若い男が立っている。ついさっきまで競技をしていた男で、男の右頬と右腕には血の痕が残っていた。

 ライアンが左後方に振り向き、王、と言った。ジェニーの聞き間違いではない、確かに彼はそう言った。

 幾層にもなった人垣の向こうに、真昼の太陽のような色をした髪が動いていくのが見えた。

(ああ、彼は生きている……!)

 会場の熱波が一気に押し寄せ、現れた王の迫力に屈し、押し戻される。

 一見したところ、王に怪我はなさそうだ。まったくの五体満足。

「あいにくだったな」王は通路の壁に片足をのせると、拘束された暗殺未遂犯を上からのぞきこんだ。「獲物を一度で仕留めねば、自らが命を落とすとは聞いておらぬか?」

「はん! どうせ殺すんなら、つべこべ言わずにさっさと殺せ!」

 王が笑った。

「威勢のよいことよ! 望みどおり、おまえには死を与えてやろうぞ。今回の試みが、誰の差し金かを明らかにした後にな!」

「誰かの差し金だって? はは、ばからしい! 俺はあんたが憎いから矢を放ったまでだ!」


 ライアンも貴族席の者たちも、誰もが王と暗殺未遂犯のやり取りを見守っていた。ジェニーも事の行方を慎重に見守っていたのだが、ふと、アリエルの横でジェニーの侍女が座って居眠りしているのに気づいて、びっくりした。

 この騒ぎの最中に、仮にもジェニーを守る役目を担う人間が、よくもまあ、のんきに眠れたものだ。貴族の者たちはほぼ全員、席から立ちあがって競技場を見ているのに。

 それからジェニーは、彼女が膝に掛けている赤いショールに目を留めた。ジェニーがかつて彼女にあげた物だと思ったのだが、それにしては大きすぎるのではないか?

 ジェニーがそれを手に取ろうとしたときだ。

「動かない方がいいな」ジェニーの背後で、挨拶でもするような軽い口調で男が囁いた。

「えっ?」

 ジェニーはそれが自分に向けられたとは思いもしなかったのだが、緑色の服に包まれた腕が背後から伸び、誰かの胸に押し付けられたとき、侍女の赤いショールには血の染みが広がっているのだと、ジェニーははたと気づいた。ジェニーの頭に唇を押しあて、男が囁くように笑っている。

「……あなた、誰?」

 ジェニーは男を刺激しないようにと、さりげない口調で尋ねた。

「当ててみな」

 男はジェニーに笑い、ジェニーの体をさらに彼の方に押し付けた。彼の腰に下がる剣が、ジェニーの体に当たる。彼はいつだって――ジェニーを殺せるのだ。

 ジェニーが恐怖に直面して体を震わせると、男の背後から女の悲鳴がとどろいた。

「その男を解放してもらおうか、ヴィレール王!」

 男の唐突な叫びに、ようやく、貴族たちも非常事態に気がついた。王も貴族席の方に初めて振り向き、男の腕に拘束された状態のジェニーと、今日初めて、視線を合わせた。

「ヴィレール王、これが目に入らないのか! 愛しい女の命が惜しければ、その男を自由にしてもらおうか!」

 男が剣を抜き、あまりに鋭い刃先がジェニーの面前に突きつけられる。

 ジェニーは必死に首を動かし、自分を拘束する男の顔を見ようとした。男の口元は笑っており、ジェニーはその顔を見て、小さく息をのんだ。彼は、ジェニーをこの場に足止めした、近衛だとばかり思っていた男だった。


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