第二部 5.生と死の境界線-6
ヴィレールが冬に入る直前のこの季節、数年ぶりに復活したという闘技大会を前に、ヴィスコンデールの街は人々でごったがえしているという。見物客だけでなく、首都に集まる人々を目当てに、商人たちも各地から続々とつめかけているらしい。
二日後に開催される大会のために宿屋はどこもかしこも満室で、娼館まで大繁盛だ、と、ユーゴが普段以上に賑わう街の様子を語った。彼は王城に来る前にヴィスコンデールにまで足をのばし、その目で実際の街を見てきたのだ。
しばらくの間、ユーゴは小城には来ていなかった。彼は新しく侍女として入ったアリエルをめざとく見つけ、愛想良く挨拶し、それとなく観察して、すぐにジェニーに話を始めた。どうやら、アリエルはユーゴの恋愛対象には入らないようだ。彼は、ジェニーの暗殺未遂の報告を受けながら、今日まで訪ねてこられなかったことを率直に詫びた。
ユーゴは機嫌がよかった。彼はいつでも気楽に構えている方だが、今日は特に笑顔が明るい。訊けば、彼はライアンに直談判し、闘技大会会場でのジェニーの席を変更してもらった、という。
ジェニーは、会場の席が指定だということさえ、初耳だった。けれども、広い闘技場の中で自分の席がどこであろうと、ジェニーにはたいした問題ではない。どこにしても、ゴーティス王の隣に席を確保できはしないのだ。彼の隣の席は王妃が占める。公の場で二人が並ぶのを、できることなら、ジェニーは直接目にしたくなかった。
「もっと中央寄りの前列にしてもらったよ」と、ユーゴは自慢げにジェニーに言う。「私と妻もきみのすぐ隣に座る」
ジェニーは彼の誇らしそうな笑顔を眺めながら、そうなの、と頷いた。ジェニーの隣では、何か頭に引っ掛かることがあったのか、アリエルがわずかに首をかしげている。
「いい席なんだ」
「それは、サンジェルマン様もご存知なのですか、ベアール様?」
アリエルがユーゴに問い返し、ほんの一瞬、ユーゴは彼女を咎めるように眉をかすかに震わせた。だが直後、彼女ににっこりと笑いかける。
「今頃、ライアン様から聞いてるさ」それから彼は、ジェニーにその笑顔を移す。「席の移動くらい、サンジェルマン様だってとやかく言わないだろ。王の席に近くなればなるほど、警備も厳重になるからね」
アリエルはまだ何かユーゴに言おうとしていたが、
「ジェニーは今や有名人なんだから、彼女を見たいって人が詰めかけたら困るじゃないか。“それなりに”警護は必要だよ。それはサンジェルマン様も理解されてると思うけど?」
彼が笑顔を止めてこう言うと、彼女はわずかに睫毛を伏せ、口を静かに閉じた。
闘技大会をひかえてライアンが多忙なため、今朝から三日間、剣の稽古は休みだ。カミーユを連れて庭園に出ると、ジェニーは日ごとに冷たさを増す朝の空気に身を震わせた。外遊びの大好きなカミーユは、庭園の緑を目にしたとたん、乳母と世話係の間から、彼女たちの手を振り切って走り出す。
アリエルがくすくすと笑い声をもらした。「まあ、お元気なこと」
アリエルと微笑みあったジェニーが、カミーユの悲鳴とも歓声ともつかない大声に振り向かされたのは、その直後だ。
「カミーユ!」
見れば、生垣の途切れたあたり、カミーユの数メートル先に、金髪の男がジェニー達の方を向いて、たたずんでいる。カミーユは興奮した声をあげながら、その彼めがけて突進しているのだ。
「あれは……?」
男はそれほど大柄ではないが、頭が小さいため、肩が広くがっしりとして見える。暗褐色の上衣の裾からは、剣の長い鞘がのぞいていた。
ジェニーたちに視線を向けられたことに気づいたらしく、男が軽く頭を下げる。
「サンジェルマン様ですわ」ジェニーと同様に目をこらしていたアリエルが微笑んだ。だが、彼を見つめるアリエルの瞳には、若干の不安が漂っている。「でも、こちらに独りでおいでになるのは、めずらしいことですわね」
サンジェルマンは、王と一緒でなければ、めったに小城まではやって来ない。ジェニーが覚えているかぎり、彼が単独で来たのは、ジェニーを小城に連れてきた初日と、ライアンによる剣の指導についてジェニーに伝えにきたときの二回だけだ。
彼はあえて、ジェニーとは頻繁に接触しないようにしているという。王の腹心である自分がジェニーと接触することで、彼女の方が王妃より力があると皆に思われてはならないと、彼はかつてアリエルに語ったそうだ。
そのサンジェルマンは、駆け寄ったカミーユの背丈にあわせて膝を地面につき、大人の女性に接するように、彼女に紳士的に手を差し伸べている。
ジェニーは、彼に非常になついている様子のカミーユを見て、不思議に思った。ゴーティス王と同様に、彼もカミーユにあまり接していないとばかり思っていたのだ。
ジェニーの戸惑いを察してか、年配の世話係がジェニーの横に来て、言った。
「サンジェルマン様は、カロ……いえ、カミーユ様のいちばんのお気に入りなのですよ。サンジェルマン様もお忙しいでしょうのに、中庭でよく遊んでくださいまして」
カミーユがサンジェルマンの肩に飛びつこうと、何度も繰り返し飛び跳ねているのを見れば、女のその説明も納得だ。
王とは異なり、彼はカミーユの出生に疑いを抱かず、彼女を王の子として素直に受け入れている。
ジェニーはほっとし、今はもう自分には友好的ではない彼が、笑顔でカミーユに話しかける姿に心温まる思いがした。
(王もそのうち、カミーユに自然に接してくれるようになればいいけど)
先だっての真夜中、王がカミーユを腕に抱いているのを目撃したときの衝撃は、ジェニーは今でもはっきりと覚えている。それが即ち、彼が娘の存在を認めたということにはならないが、彼はジェニーがその場でカミーユの面倒をみることを黙認した。カミーユが眠りにつくまでの時間を、彼は黙って耐えた。彼はいつでも――実物の姿でもその話題でも――カミーユを彼の前から排除したがるのにも関わらず。
サンジェルマンがカミーユと手をつなぎ、ジェニーたちの前に現れた。ジェニーに挨拶し、アリエルにも同じ儀礼的な微笑みを送る。
「お元気そうだ」
カミーユを乳母に引き渡そうとして、サンジェルマンはカミーユに猛烈な勢いで抵抗されていた。苦笑しながらジェニーがカミーユに手を差し出すと、彼女はサンジェルマンと母親の間で真剣に迷った挙句、不満の残る表情のまま、ジェニーの手を取った。
「私もこの子も元気にしてるわ」
ジェニーの返事の真偽を確かめるように、サンジェルマンがアリエルを見やる。それを受け、アリエルが答えた。
「特に変わりはございません。お二人とも、つつがなく過ごしていらっしゃいます」
「それはよかった」
サンジェルマンはあくまで礼儀正しく、普段と変わらぬ笑みを浮かべている。
ジェニーは、アリエルが彼への想いを胸の内に封じ込めようと努めているのはよく知っているが、彼もまたアリエルへの想いをまったく見せないことに驚いた。彼とアリエルの間に行き交う視線や微笑は、恋人というより師弟の間柄のようだ。
なんだか、悲しかった。お互いへの信頼関係は見え隠れするのに、相手に優しく触れるような温かな視線が、二人からはすっかり消え失せている。
「サンジェルマン様、もしや、王城で何かあったのですか?」
アリエルの問いに、ジェニーは我に返る。
「王城で? いえ、特には」彼はアリエルの質問の意味を理解しかねたようだが、すぐさま、ああ、と頷いた。
「今日は彼女に渡す物があって、こちらまで来た」
と、彼は腰帯を手で探ったが、ジェニーの隣にいるカミーユを気にして手を止めた。
ジェニーは乳母を呼び、カミーユと部屋に戻るように耳打ちした。お菓子を先にもらっておいて、とカミーユに囁くと、彼女はジェニーの手を離れ、差し向けられた乳母の手をさっと握った。
「さすが、母親だ」
サンジェルマンは感心したようにジェニーとカミーユを交互に見たあとに、腰帯から何かを取り出した。ジェニーたちの前に差し出されたのは、剣の紋章が束に彫られた、年季の入った短剣だ。
「返さねばと思いながら今日になってしまい、申し訳ない。これはあなたに所属するものだ。お返しする」
ジェニーが、父アルベールからもらったもの。
ジェニーは感極まって、それを両手で受け取った。何年も使っていないはずだが、鞘も束もきれいに磨かれている。サンジェルマンが大事に手入れしてくれていたのだろう。
ジェニーが嬉しさを共有しようとアリエルを見ると、彼女はなぜか頬を硬直させ、目を上げようとしなかった。
「そうそう使う機会はないだろうが、いつでも使えるように刃は研いである」
ジェニーは短剣を鞘から抜き、刃先を日光に反射させ、鋭利なきらめきを確かめた。その刃先が誰かの肉体に沈むことは想像もしたくないが、恐ろしいほどに切れ味がよいはずだ。
「ありがとう」
サンジェルマンは顔の前で手を振り、ジェニーの礼を遠慮した。
「ほかにそちらでの入用がなければ、私はこれで失礼する」
用事が済めばすぐにでも帰りたいという、いつにもまして、事務的であっけないサンジェルマンの物言いだ。ジェニーは彼を引き止める気もなかったが、彼にくるりと背を向けられると、さすがにむなしく感じた。
「では、二日後の闘技大会の会場にて。観覧する気が当日まであれば、だが」
「剣を使わない戦い方を見るのもいいだろう、って王が言ってたわ」
ジェニーがサンジェルマンの背中に向かって答えると、彼は振り返り、肩をすくめてみせた。
「女がそれを参考にできるかどうかは疑わしいが……今のところ、観覧する気でいるということか。
承知した。競技中、いつ気分が悪くなってもよいように、迎えの馬車は近くに待機させておく。ただ……私だったら、好き好んで、殴り合いの醜い喧嘩など見物しには行かぬだろうな」
数日前にもアリエルに同じように意見されたが、ジェニーは彼女にも、サンジェルマンにも賛成しはしない。
彼らにはわからない。
ジェニーは、肉体の激しいぶつかり合いや流血場面を見たくて、闘技場に行くのではない。ただ、王城の外の空気を吸いたいだけだ。ジェニーがもともと過ごしていた世界と同じ空気を感じるためだ。
ジェニーの抑圧された心を少しだけ理解しているから、王は、ジェニーを闘技大会へと送り出してくれる。
今日は来客の多い日だった。朝食後に来たユーゴを皮切りに、女官長が立ち寄り、サンジェルマンがやって来て、今度は、多忙を極めているはずのライアンと共に、王までもジェニーを小城に訪ねた。剣の練習をした後なのか、彼の額や首筋に汗が残っている。
ジェニーは王の思いがけない来訪が嬉しかったが、彼も、そしてライアンも、どことなく張り詰めているような雰囲気なのが気に掛かった。大会を前に、会場の警備に神経を尖らすライアンの緊張が高まっているのは理解できるが、王は逆に興奮していてもよさそうなものなのに。だが、王は不機嫌というわけではなさそうだ。
ライアンは眉をひそめてアリエルに何かを囁いていた。彼女は驚いたように彼を見返したが、すぐに口を結び、ジェニーを置いてどこかに行ってしまう。
ジェニーは彼らの醸し出す異様な空気の中でも、頬に笑みを保ち、王の前に歩み寄った。
「今日も忙しいんでしょう?」
ジェニーが笑いかけても、王はジェニーの瞳をのぞきこんで笑うことはない。
笑っていない彼の顔は、眉や鼻、唇までも直線的で、実年齢よりもずっと大人びて見える。唯一やわらかな印象を与えるのは、ふんわりとした、絹糸のような彼の髪だ。無駄な贅肉のない彼の顔を、白い髪がやわらかく照らすように包んでいる。
ジェニーが赤みの残る彼の頬に手を近づけると、彼の視線がジェニーに降りてきた。冷気を放つ視線だ。ジェニーは不安になるが、彼の瞳がジェニーの手を捕らえると、それは次第に常温に戻っていく。
「今日はどうしたの?」
「王は稽古の成果をご覧になりたいそうだ」ライアンが王に代わってジェニーに返答した。
「稽古って、剣の?」ジェニーは驚き、しゃべり方を忘れたかのように口を開かない王を見た。「まさか、今から? 私はまだ実際の剣を握って練習してないし、ライアン様だって大会直前で忙しいのに――」
「俺だとて忙しい」
王が苛立って、不満そうに口を挟んだ。
「じゃあ、別の日にしてもいいんじゃない?」
「俺は常に忙しい。俺が今見たいのだ、おまえはそれに従えばよい」
王はときどき、ひどく横柄な態度をとってジェニーを憤慨させるが、今回もまさにそれだ。王はジェニーが腹を立てたことに気づき、喉の奥を鳴らして笑い声をあげた。
「おお、いい表情だ。そのまま、俺を敵だと思うてかかってこい。おまえの相手は俺が務める」
揺れた前髪の下から、灰色に変化した王の瞳がジェニーをあざ笑う。
誰も、ジェニー自身も、ジェニーがゴーティス王に剣で勝てるとは思っていない。そもそも、体格の違いだけみても、ジェニーに勝ち目はない。勝敗はライアンの判断で、という王の言葉は、聞いた者たちの耳に入った瞬間に忘れ去られていただろう。ジェニーは過去に一度だけ王と剣を交えたことがあるが、王の命を狙って振り降ろしたジェニーの剣はあえなく飛ばされ、二人の力量の差を見せつけられた結果となっている。
王に勝てるとは思わない。それどころか、ジェニーは彼と剣をまともにかち合わせることもできないかもしれない。
なぜ彼は今、剣の練習の成果など見たがったのだろう?
何度めかに向き合ったジェニーの対面で、今も、王はジェニーが必死に押し返す剣を軽く押すようにして、ジェニーをよろめかせる。
だが、王の何に腹が立つかといえば、彼はジェニーにどこから木剣を向けられたとしても、いちいち胸の正面でそれを受け止め、ジェニーがむきになって体重をかける様をじっと見ることだ。彼がその気になれば、ジェニーの木剣を力ではね返すことだって、いとも簡単にできるはず。
王は一筋の汗すら、額ににじませていない。ジェニーは無駄に呼吸をしているような気がしていた。一方的に体力を浪費している自分が、ジェニーは口惜しくてならなかった。
「おまえは……ライアンの教えを何も聞いてはおらぬな」
木剣が重なった交差部分の上から頭を出し、王がジェニーに言う。
「何がよ?」
ジェニーがかっとして言い返すと、王が薄く笑った。
「その反応だ。おまえのように頭に血がのぼっておる者が、戦場では真っ先に死ぬ」
「私は戦場になんか行かないわ」
「どこでも同じことだ」
王は呆れたように言い、頭を引いた。同時に木剣も引いたので、ジェニーは木剣を構えたまま、彼の硬い胸にぶつかる。
「頭を冷やせ。ライアンはおまえに何を教えた?」
ジェニーは陰が差すと灰色に見える王の瞳を見上げ、ライアンの怒鳴り声が「相手の力を利用しろ」と繰り返し叫んでいたことを、ようやく思い出す。そして、他にもいくつか話していた、小柄なジェニーならではの対戦方法。ジェニーの小さな体は不利だと思われがちだが、それが相手の油断を誘うこと、また、相手の腕を逃れ、その体に密接に近づける、という利点も彼は言っていた。
ライアンの教えどおりに、一瞬の隙をついて相手の胸の前に入り、脇腹に致命傷を与えられれば――もしそれができたなら、王にさえ勝てるかもしれない。
ジェニーは王を再び見返した。彼の瞳には熱が戻ってきていて、ジェニーはその瞳を見つめていると、耳の感覚を失い、肌に触れる空気の冷たさも忘れていく。
突然、王がジェニーの木剣をつかんで、瞳を近づけた。
「思い出すのに時間がかかり過ぎだ。おまえは、もう死んだ」
「待って……!」
王が木剣を押したので、ジェニーの体は必然的に地面に押し倒された。肘や背中に痛みを感じる前に、王が放り投げた木剣がジェニーの腹に降ってくる。
ジェニーが急いで起き上がろうとすると、王が服についた土埃をはらいながら、ジェニーを冷ややかに見下ろした。ジェニーは彼に冷淡な態度をとられる理由が分からず、混乱して、彼をただ見つめ返す。
王が腕組みをし、さらに冷たい視線をジェニーに送った。
「助かりたければ、一瞬たりとも油断するな。おまえが迷い考えておる間に、相手はおまえの命を奪う。おまえが勝手に窮地に陥ろうと、ほかの人間は――俺は、おまえを助けはせぬぞ」