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第二部 4.再会-5

 朝食前で空腹なせいだけではなく、早朝だというのに、ジェニーの頭はすっきりとしていた。今朝も早くからいい天気で、こんな日は、人々は湖や川にでも出かけたいに違いない。敷地内を歩く庭師はにこやかで、機嫌よさそうに歌を口ずさんでいる。

 風向きのせいか、かすかな鐘の音が風にのって聞こえてくる。何かを祝福するようでも、新しい時代の始まりを告げるようでもある、神聖な響きだ。今まで気にもしていなかったのか、王城にいてジェニーが鐘の音を耳にするのは初めてのように思える。

 ジェニーと侍女が王城中庭に通じる出入口の前に連れ立って現れても、衛兵たちは眉ひとつ動かさなかった。侍女はそこに着くまで王の伝言の真偽を疑っていたのだが、彼らの奥に続く通路にライアンをみとめたとたん、周囲に張り巡らしていた警戒を解いた。ジェニーも彼を見てほっとする。ライアンはジェニーに気づくと、奥に進んでくるようにと、ぞんざいに手招きした。


「王はまもなくお見えになる」

 ジェニーが挨拶する前に、ライアンがさらに奥の扉を示して言った。一人の衛兵が立つ、中庭と直結する入口は片方の扉が半分ほど開き、薄暗い通路に明るい光を差し入れている。

 ジェニーは辺りを見回した。「あの、ここで何をするんでしょう?」

 ライアンの淡い青い目がぎょろりと動き、ジェニーに注がれた。

「それは知らぬ。私はここで王を待ち、おまえがこの先に入らぬようにするだけだ」

 彼は剣の束を握り、ジェニーに、彼が本気だ、ということを示す。

 でも、王城に入れないことは、ジェニーはとっくに承知している。王妃の手引きで王城に入り、女官長に厳しく責められ、脅された日から。

 ジェニーはライアンから離れ、壁に寄りかかった。

「毎朝、あなたはここに王を迎えに来るのね」

「今日が初めてだ」

 ライアンの返答を聞いたジェニー以上に、当人の彼が戸惑っているようだ。

「じゃあなぜ今朝は――」

 ジェニーが彼の訝しそうな顔を見つめたときだ。突然、けたたましい、大きな喚声が、二人の前のひんやりとした空気を貫いた。

 ジェニーが驚き、彼と顔を見合わせたのは一秒にも満たない。

 ジェニーが衝動的に駆け出すと、両手を広げたライアンがその行く手に立ちふさがった。

「ライアン様!」

「ここは通さぬ」

 ジェニーは絶望的な気分になって、半開きとなった扉を見た。喚声は、くすぐったそうな笑い声に変わっている。女たちが幼子をあやす声がそれに重なる。

「でも、その向こうにいるのはカミーユだわ!」

 ジェニーが出した手を鋭くねめつけ、ライアンは頑として彼女の前からどこうとしない。

「おまえはこれより先への進入を許されていない」

 ジェニーが娘の名を叫ぼうと息を吸い込むと、すかさず、ライアンが手をジェニーの口に貼り付けるようにして覆った。そして彼は、ジェニーの背後から腕を伸ばし、ジェニーの肩を押さえるようにして体の自由を奪った。ジェニーは焦り、肩で後ろの彼に体当たりして抵抗を試みたが、何の効果もなさない。

(すぐそこに、手の届く場所にカミーユがいるのに……!)

 ジェニーは頭をずらし、斜め上のライアンを見上げた。細面に、冷ややかな瞳が鏡面のように光る。怒りも焦りも映さない顔で、彼はこうやって、はむかう敵をあっさりと殺してしまうのだろう。

 ところがライアンは、ジェニーの口を塞ぎ、腕に彼女の体を封じ込めたまま、後ろ向きに中庭への扉の方にジェニーを無理やり引きずっていこうとした。ジェニーは驚いた。はたと、彼の手を押し戻そうとするのをやめる。

 

 ライアンは閉ざされた扉に背中を押し付け、ジェニーの体をさらに彼に引き寄せた。敵の陣地でも窺うように、ライアンは横目で、手前に開いた扉の先を見る。陽光がジェニーの目に眩しい。ふかふかな緑の地面が目を奪う。

 女たちの笑い声がした。途切れがちに聞こえるのは、舌足らずで明瞭な発音にならない、カミーユの歌だ。歌というより、ただ喚いているようではあるが、あれはれっきとした彼女の歌声だ。あいかわらず彼女の音程が狂っていて、ジェニーは笑いを誘われる。

 娘はいつもジェニーの心の中にいる。忘れたことは一瞬たりともない。

 最後にカミーユに会ったのはいつだったろう? 一年前? 半年前?

 彼女にあったときが、はるか昔のように思えてならない。でも、王妃がジェニーに彼女を引き合わせてくれたのは、たった二ヶ月前だ。

 ジェニーが固唾をのんで待っていると、女に手を引かれ、カミーユが地面の上を跳ねるように歩いてきた。

 カミーユは元気だった。彼女にしか理解できない歌を歌いながら、満面の笑みを浮かべ、弾むように歩いている。小さな手足はよく動き、少しは成長しているように見える。

 前は、足をあんなに高く上げて歩いた? あの柔らかな髪は、あんなに長かった?

 ジェニーの目から見る限り、カミーユは皆に大事にされ、幸せそうだ。

 ジェニーは安心し、体の端々から力が抜けた。

(よかった。本当によかった……)

 ジェニーが瞬きすると、瞳から落ちた涙がライアンの手につたわり、ジェニーの口を覆う彼の手が、ほんの少しだけゆるんだ。


 扉の隙間からカミーユの姿が見えなくなると、ライアンとジェニーはどちらからともなく、その場から動いた。既に、ライアンはジェニーの体を拘束していない。

「ありがとう」

 ジェニーが彼に礼を述べても、ライアンは歩みを止めなかった。彼の耳に声が届かなかったと思い、ジェニーが再度感謝を表すと、彼はむっとしたようにジェニーを見た。

「勘違いするな。私は、おまえの進入を防ぐという己の任務を果たしたまで」

 彼は、開いた扉に振り返った。「あの娘は、毎朝この庭を散歩するのが日課となっている」

 そして、それは当然、王も知っていること。

 ジェニーが次の言葉を期待して待つと、ライアンはゆっくりと振り返った。

「おまえをここに呼んだのは王だ」

 そうだ、ジェニーは王の伝言を聞いて、この時間にここまでやって来た。それがなければ、カミーユを間近で見られなかっただろう。

 ええ、と返答したつもりのジェニーの声は、あふれ出した涙ににじむ。

「もう……王は来る?」

「おそらくは」

 ライアンが、まるで次の展開を予期していたように壁際に退く。すると、半開きになっていた扉が大きく開き、明るい光の中からサンジェルマンが現れた。彼はジェニーに目を留め、ライアンと目礼を交わすと、後ろに振り返る。

 彼が扉を押さえた、その後ろに、ゴーティス王が続いた。何の飾りもない簡素な白い上衣を着て、膝丈の下衣を穿いている。剣の練習がしやすい、動きやすい服装だ。彼は普段と同じように、眉を少しだけひそめている。日光を受けて揺れる頭髪が、カミーユとそっくりだ。

 ジェニーは王に向かって駆け出し、彼に腕を伸ばした。ジェニーが胸に抱きつくと、王はわずかに後ろにのけぞった。

 

 王の軽装のおかげで、ジェニーは頬の下で彼の胸筋が固く締まったことまで感じ取れた。彼の温かい肌から、いつもの爽やかな香りが立ちのぼっている。

 ジェニーは大きく息を吸い込んだ。

 彼の腕の中は安心できる。兄ローリーに再会して以来、ずっと心を暗くしていた罪悪感がかすめ飛ぶ。

(もう、いい。ローリーに理解されなくても、王と一緒に兄の仇となろう)

「どうした」

 王は驚きをあっという間に隠し、ジェニーの背に手を伸ばして、えらぶって尋ねる。

 だが、王の瞳には困惑がかすめ、彼が身につける服の薄い生地を通して、その力強い鼓動がジェニーの体にまで響いている。それはジェニーよりも速く、いつまでも鳴り止まない。言葉より、彼の心にずっと正直だ。

 服の上から王の胸に唇をつけると、ジェニーは彼を抱く腕に力を込め、彼を見上げた。彼は真上からジェニーを黙って見下ろしている。さらりと額に落ちてきた前髪の奥から、彼はジェニーを見つめている。視線だけでジェニーをここまで喜ばせる人など、今までにいただろうか?

「俺がそうも恋しかったか?」

 王はにやりとした笑みを浮かべ、ジェニーを引き寄せる。

 ジェニーがさらに近づいた彼の顔をのぞくと、その瞳に熱情や怒りはなかったが、戸惑いの名残を見つけた。彼の尊大な態度はただの照れ隠しで、ジェニーが彼に会えて嬉しいように、彼もまた嬉しいのだ。

 ジェニーがなおも王を見つめていると、彼は唇を細く開け、戸惑いの色を濃くしてジェニーに視線を落とした。ジェニーは王の顎に手を伸ばし、髭の跡が残る、顎の輪郭をなぞる。前にジェニーに髪を触られたときのように、彼は動かない。

「そうよ、会いたかった」

 触っているだけで、なぜこんなに胸が高鳴っていくのだろう。その波動だけで目がかすみ、音の余韻で酔ってしまう。

 ジェニーは王に笑ったが、彼は笑い返さなかった。何も答えはしない。彼は、瞳を見開いたかと思うと、眩しそうに目を細め、ジェニーを見つめるだけだ。

「私の言うことは信じないのね」

「……いや」

 王は顔を傾け、何かをさぐるようにジェニーを見る。まだ、笑わない。

 ジェニーは王の背から腕を離し、その肩に手を掛けた。

「ちょっと、かがんでくれる」

 ジェニーの囁きに王は怪訝そうに眉をしかめたが、ジェニーの目線にまで腰を落とした。

「何が――」

 王の唇がまだその言葉を言い終わる前に、ジェニーは彼の顔を両手で挟むと、彼の声を奪った。ジェニーの唇の上で彼の唇が固まる。が、やがて、安心したように彼の唇が解けていく。

 ジェニーがそっと唇を離すと、今度は、王がジェニーの頬を両手で挟んだ。それからすぐにジェニーの顔は引き寄せられ、彼の唇がジェニーに乗せられる。

 性急な、伽に向かう口づけとは違う。もっと優しくて、温かだ。

 興奮と湧き上がる嬉しさに、ジェニーは唇を合わせながら笑う。

「会いたかった」

 ジェニーが唇を離して呟くと、彼はまっすぐにジェニーを見た。また無言だ。

「本当よ。王城の外に出られたときも、早く戻ることばかり考えてた」

 彼の眼差しが、何かを我慢するように鋭くなる。

 王の反応に不安になり、ジェニーは彼の頬に手をのばした。

「信じない?」

 王が強張っていた顎をゆるませた。何かを確かめるようにジェニーを見て揺れていた彼の瞳が、恐る恐る、警戒心を解いていく。それから、輝きにあふれた彼の瞳が細くなる。

 王が両手でジェニーの顔を支え、はにかみながら微笑んだ。

「……おまえの顔が見たかった」

 ジェニーは驚きで胸を詰まらせ、近づく王の顔を見つめた。ほとんど心情を吐露しない彼が、気持ちを漏らすのはまれだ。

 王がジェニーと額をつき合わせ、その顔が間近すぎて焦点が合わなくなっても、その瞳は自分を追っていたとジェニーには分かっている。彼はジェニーの鼻に唇をつけ、耳に唇を押し当て、頬を触れ合わせながら、ジェニーを抱き寄せた。ジェニーはいつまでも彼の顔を見て、彼を近くに感じたかったが、その唇に抵抗できるはずもない。

 ジェニーが目を閉じる直前まで、王は小さく笑っていた。ジェニーも低く笑いながら目を閉じる。幼い子どもたちが、二人だけの秘密をこっそりと囁きあうように。


 何回かの口づけを交わしたあと、ジェニーはまだ王の腕の中だった。走った後のように、二人とも息が乱れている。心地よい疲れだ。心地よく、甘い疲労感。

 すっかり穏やかな顔になった王を見て、ジェニーは言った。「またここに来てもいい?」

 ジェニーが中庭に続く扉に目を向けると、王の視線も同方向に動いた。「中には絶対に入らないから」

 ジェニーは期待感に胸をはずませ、王を見た。が、彼は無情にも首を横に振った。

「それは許可できぬ。今朝はたまたま、ここまでおまえを呼び出しただけだ」

「ゴーティス王」

「おまえは王城に近づくな」

 ジェニーが落胆し、扉の方を再び見ると、王の手がジェニーの頭に触れた。

「どうせ、あと一週間もすれば、おまえがここに来る意味もなくなる」

 ジェニーは驚いて王に振り向いた。

「それ、どういうこと?」

 王はジェニーの瞳を見つめ、そこから歩くように促す。彼の無言の返答にジェニーは焦った。

「ねえ、言って! どういうことなの?」

 そのときになって初めてその存在を思い出したサンジェルマンに振り返り、ジェニーは懇願した。が、彼は腑に落ちないような顔で王を一瞥し、ジェニーには何の返答もくれない。王はあやふやに笑う。

 そして、サンジェルマンが一歩踏み出し、王に言った。

「王、もし私の考えが正しければ――私から、女官長に何か伝えることがあるのでは?」

 彼の言葉に、王が満足そうに微笑んだ。

「おお、女官長に伝えるがよい。あの娘は小城に、母親のもとに戻す」

 このときほど、ジェニーが喜び、興奮した瞬間はない。

 ジェニーがまたもや王に抱きつくと、王はひどく驚いたように両手を広げた。

「本当に! 本当にそうしてくれるの!?」

 王はジェニーに答える代わりに、得意げに眉を上げた。

「やっとあの子と一緒……」

 カミーユと離れていた日々を思うと、この急展開は嘘のようだ。この王に何度頼みこんでも聞き入れられなかったのに、彼はたった今、ジェニーに娘を戻すと告げたのだ。ついに、やっと、カミーユを取り戻せる。彼の心変わりのきっかけが気にはなるが、それよりも、嬉しさのあまり、ジェニーは呼吸ができなくて涙が出る。

「嬉しければ笑え」

 王が不機嫌そうに口を尖らす様子にさえ、ジェニーは彼の気遣いを感じる。

「笑ってるわ」

 ジェニーは涙も拭かず、王の首に飛びつき、その顎に唇をつけた。王はジェニーを片腕で抱きとめると、ジェニーの顔に貼りついた髪を指ではねのける。

「本当よね? 本当に返してくれるのね?」

「娘はおまえの手に戻す」

 ジェニーが興奮して頷くと、彼は思いのほか真面目な顔をし、諭すようにジェニーに言った。「それゆえ、おまえは王城に近づこうとするな。俺に用があるにせよ、剣の練習場にも顔を見せるな。あそこは、俺とごく限られた者のみが許された場だ」

「あの……突然あんなところに行って、悪かったと思ってるわ。でも、そうでもしないと会えないと思ったのよ」

「おまえの無謀さは知っておる。俺はそれも嫌いではない。だが、自由に振舞うのは小城だけにしろ」

 王の顔も口調も、さっきより硬直している。ジェニーは突如、心配になった。

「もしかして王城で何かあったの? 急に私にカミーユを戻そうとしたり……」

「何も。思い立っただけだ」

 ジェニーが王を見上げると、彼はおざなりに唇を押し上げた。

「……私のこと、心配してくれてるの?」

 王は素直に頭を縦に振らない。だが、そのふてくされた表情を見て、ジェニーはそれを同意と取った。

 彼の警告の背景となる事情は分からないが、彼がジェニーの身の安全を思って言ったのは確かだろう。そっけなく冷淡な態度は温かな感情の裏返しだ。彼は、本当は、情の深い人間に違いない。

「わかったわ、気をつける」

「そうしろ」

「その代わり、お願いがあるんだけど」

「なに? 交換条件など聞かぬ」

 王はジェニーから体をそらし、立ち去りかけていた。王の前に立って歩いていたライアンが、ジェニーに振り返る。

 ジェニーは急いで王の腕をつかみ、体を寄せた。恥ずかしさが大挙して押し寄せる前に、ジェニーは彼に素早く言った。

「もっと会える?」

 王が唖然としてジェニーを見返した。

「私からは会いに行けないから、あなたに来てもらわないといけないんだけど……」

 彼はまだ呆然としてジェニーを見続けている。ライアンとサンジェルマンも、二人の動向を気にして立ち止まっている。

(ああ、どうしてそんなに驚くの? そんな反応されたら、こんなことを口にした私がばかみたい)

 ジェニーが一度俯き、顔を上げると、王の白い頬がカミーユのように薄く赤らんでいるのに気づいた。彼はジェニーの発言に怒っている? それとも、照れている……のだろうか?

 王の視線が動き、ジェニーは彼の返答に備えた。

「よいだろう」

 再び、尊大な口ぶりだ。

 ジェニーは王の表情にその本心を探す。すると、彼はやや声を落とし、言った。「毎日は無理だが、考えておく」

 ジェニーを見る彼の視線がやわらぐ。

 彼はジェニーに応えてくれたのだ! ジェニーは、こみ上げる嬉しさを唇で噛みしめた。

「うん」

 ジェニーは耳に王の手が触れるのを感じた。その手が後ろに伸び、頭を支え、彼はジェニーに顔を寄せる。


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