第二部 4.再会-4
いつもより、ちょっと長文です。ごめんなさーい!
できればPCで読んでもらった方がいいかもしれません。。。
ローリーと数年ぶりの再会を果たし、感動していた時間が嘘のようだ。
ジェニーはコレットに適当に相槌を打ちながら、ぼんやりと、昨日の出来事を考えた。つい昨日のことなのに、兄と触れ合った時間があまりにも短かったせいか、記憶までがおぼろげな気がする。
兄はもう、ジェニーを残してどこかに行ってしまった。ジェニーと兄が近衛に囲まれ、窮地に陥った彼をすんでのところでユーゴが連れ去ってから、すぐのことだ。兄は、ユーゴが目を離した、ほんの少しの隙をついて行方をくらましたそうだ。ジェニーがライアンの追及から逃れたときには、既に兄の姿はどこにもなかった。
ユーゴはローリーがジェニーを連れ去ろうとしていたと知り、怒り心頭だったようだ。兄が彼の厚意を仇で返したと、ユーゴは、金輪際、彼を家に入れないとジェニーに宣言した。ジェニーは、兄を家に引き入れたユーゴが自分の立場が危うくなることを恐れ、兄を追いやったと疑っている。彼は、それを決して認めはしないのだが。
ジェニーは兄がいなくなった実感に乏しく、今は寂しさをそれほど感じていない。でも、こうなることは、ジェニーには薄々わかっていた。兄が言うとおり、彼とジェニーは今後二度と、顔を合わせることはできないかもしれない。
王城暮らしはジェニーには窮屈で不便で、不安だらけだ。兄や叔母たちに囲まれた、自由で平和な暮らしに憧れる。王城を出れば、どんなにか楽しい生活が待っていることか。今は想像すらできないが、兄と永遠に別れるのは、身を引きちぎられるような思いがするのだろう。
兄と逃げなかった選択が正しかったかどうか、きっと、いつまでも答えは出まい。ただ、ジェニーは自分のとった選択を心の底から悔やんではいない。少なくとも、今の時点では。
あのとき、王と二度と会えなくなることは、ジェニーの選択肢にはなかった。ジェニーに、王のもとを去る気はなかった。この決断を下した自分自身が信じられなくもあるが、ジェニーは、そのときの自分の心に従ったまでだ。
それなのに、王は近衛を来客たちに紛れ込ませ、ジェニーの行動を見張らせた。ジェニーはその考えを思い過ごしだと思おうとしたが、ライアンの言動もふまえれば、疑いはどうしても拭いきれない。
王は、人を信じることに関しては、重症と呼べるほどに臆病だ。信じて裏切られることを恐れ、人を最初から寄せつけない。ジェニーはそれに気づいたばかりで、だからこそ、彼の不安をいたずらに煽りたくないと思っているのに。
王がジェニーの頬の上に落とした吐息を思いおこしながら、ジェニーは苦い痛みを堪えようと奥歯を噛みしめる。
戻ってくる、と言ったのは、ジェニーの本心だ、偽りはない。王がジェニーの言葉を信じなかった、とは思いたくない。だが、ライアンたちが王の命令で監視役となっていたのなら、ジェニーの本意がどうであろうと、王はそれを信用しなかったということだ。
(……戻るって言ったじゃない)
ジェニーは王を疑いたくなかった。王城で見た彼の笑顔に、ジェニーへの疑いは何も見えなかった。彼に早く会って、自分のつまらない誤解を正したかった。
馬車が急激に速度を落とし、男たちの威勢のよい声が響く。王城の門に着いたのだ。王に会えるときも、もうすぐだ。
傷ついて沈んでいたジェニーの胸が、彼に会える期待でにわかに騒ぎ出す。
ジェニーが王城に戻って三日、王がその日の晩餐後に訪ねてくる、とジェニーは知らされた。目覚めて、間もなくのことだ。王の顔を最後に見たのは五日前で、のろのろと過ぎる時間に、ジェニーが痺れを切らせ始めた頃だった。
王に会えるときを待ちわびていたジェニーは、彼の来訪を知って嬉しかったが、彼が昼間でなく夜の時間を選んだことに、不安と戸惑いを覚えた。
王は当然、朝までジェニーの部屋に留まる気だろう。彼は以前のように、ジェニーを手荒に扱いはしない。だが彼は、ジェニーを決して寝所から逃してはくれない。そして、その間に、彼に会話らしい会話を求めるのは不可能に近い。
ジェニーは窓から差し込む朝の光を見つめ、朝食の席から立ち上がった。
何らかの誤解が、どちらか一方、または双方にあるかもしれないと、あれこれ疑うのはもうたくさんだ。それが何であれ、彼に直接尋ね、疑いを晴らしたい。話がしたい。けれども今夜、ジェニーが王とまともな会話を持てるとは考えられない。
「ジェニー様、どちらへ?」ジェニーが玄関へ向かうのを見咎め、侍女が問う。
「剣の練習場へ行くのよ」
頷きかけた侍女が、えっ、と驚いたようにジェニーを見た。
「近衛隊の練習場でございますか? あそこは女人禁制ですよ」
「違うわ、王の練習場よ。今なら、いるだろうから」
ジェニーが笑って答えると、侍女が慌てて駆け寄ってきた。「あそこは王と側近しか近づけませんよ」
それは百も承知だ。
だが、王と話す機会がないのだから、作り出すしかないのだ。ジェニーは自分が待つ身の立場だと承知しているが、もともと、待つのが得意な方ではない。
ジェニーは、王がそのほとんどの時間を過ごす王城への出入りを厳しく制限されている。だから、そこが無理なら、ほかの場を探すしかない。限定された者しか入れない剣の練習場は、王とひそかに接触するにはうってつけの場所だ。
王城の裏手にある美しい庭園を横切ると、低い生垣の向こうに石造りの塀が見えてくる。ジェニーと侍女が近づいていくと、入口らしき場所に、大柄な衛兵が二人構えていた。手前の衛兵がジェニーに気づき、隣の男に何かを囁く。
塀は成人男性が手を伸ばしてやっと届くほどの高さで、ところどころに王家の紋が彫られている。ジェニーは塀に沿って歩きながら、この塀の向こうに王がいると想像して、唇に笑みをのぼらせた。彼の驚く顔が目に浮かぶ。
だが王と対面を果たす前に、ジェニーには越えねばならない難関がある。ジェニーと侍女を前にして、衛兵たちが視線だけで二人を威嚇した。
「今、王はこちらでしょう? 御目通りをお願いします」
「残念ながら、それは無理です。ここをお通しすることもできません。どうか、お引取りを」
「急用なんです、お願い」
「申し訳ありません。急用であれば、しかるべき方にその旨をお伝えし、王にお取次ぎいただいて下さい」
事務的な答えだ。が、ジェニーはここで引き下がるわけにはいかない。
「本当に急いでいるんです。そんな悠長な時間はないんです。だから、どうかお願い」
ジェニーがあきらめないと悟ったのか、衛兵たちが抵抗する構えを見せる。
ジェニーは衛兵の後ろにある入口から中を覗いた。数メートル先まで石畳が続き、その向こうに土色の地面が見える。数人の人の気配はあるが、王はおろか、誰の姿も見えない。剣のかちあう、小さくて鋭い音だけが聞こえる。
ジェニーの隣にいた侍女が、ジェニーの腕を控えめに引いた。「ジェニー様、出直しましょう」
「ちょっと待って」ジェニーの目に、近衛の制服を着た、細身の背の高い男が石畳と土色の地面の境を歩くのが、見えた。「ライアン様!」
死人に呼ばれたかのように驚愕した彼の顔が、みるみるうちに、怒りに変わる。
ライアンは王に似た白っぽい金髪をなびかせ、軽やかな足取りでジェニーに駆け寄ってきた。
「……おまえは!」
ジェニーの胸ぐらを掴みかけ、ライアンはその直前で、口惜しそうに拳を丸める。ジェニーが笑いかけると彼はいっそう憤慨して、入口を塞ぐように立ちはだかった。
「おまえはいったい、ここで何をしている! ここをどこだと心得ておるのだ、おまえの立ち入りが許される場ではないぞ!」
気品ある顔立ちだからこそ、ライアンが怒ると相当な迫力が増す。彼は押し殺した声でジェニーにすごんだあと、次に衛兵たちを睨みつけた。
「女一人も追いやれないのか、おまえたちは! それでどうして近衛が務まる!」
「ライアン様、この人たちは悪くなくて――」
「おまえはいちいち口を出すな! 何の用があってここに来たかは知らぬが、早く帰れ! ここは王専用の……」
衛兵たちの顔が強張り、ジェニーとライアンは彼らの視線の先にゴーティス王がいるのを見て、口をつぐんだ。王はライアンを見て、そして、ジェニーに注意を向けた。ジェニーと視線が合っても、彼の頬は弛みはしなかった。
王はジェニーの数歩先の地点から動かず、手の甲で額を拭った。もう片方の手には、剣が握られている。
「何の用だ」
王の硬い声がジェニーを傷つける。ジェニーが答えを言いよどむと、彼は薄く笑った。
「今宵行くと伝えたはずだ。夜まで待てなかったか?」
ジェニーは察した。彼は“何か”を誤解し、苛立っている。
ライアンがジェニーを軽く睨んでから、身を引いた。王とジェニーの間を阻むものが何もなくなると、ジェニーには、王の体に薄い緊張の膜がまとわりつくのが見えた。
「そう聞いたわ」ジェニーは反抗的にならないよう注意し、王を見返した。「でも、話がしたかったの。夜だと話ができないかもしれないから」
王が眉を上げ、笑いを漏らした。
「おお、そうよな、寝所では話をする猶予などなかろう」
塀の向こうで小さな失笑が起き、衛兵たちが笑いを噛み潰す。ジェニーは顔が赤らむのを感じたが、嘲笑する王を必死で見返した。
「大事な話なの」
「ほう? では、話すがよい。俺にとって大事とあれば、ここの皆にも大事なことだ。皆が知る必要がある」
王はジェニーの切り出そうとする話題に警戒し、予防線を張ろうとしているようだ。ジェニーから見えない位置に何人が控えているかは知らないが、ジェニーは王の挑発に乗る気はなかった。
「あなたと私のことだから、皆の前では言えないわ」
「俺は構わぬぞ」
「私は嫌なの」
王が目を細めて顎を上げ、ジェニーを冷たく見返した。
「俺は忙しい。おまえの我がままには付き合うてはおられぬ」
「我がままじゃなくて、あなたが何か誤解しているようだから、それを話したいだけよ」
王が眉間に指を当て、鼻を鳴らした。
「おまえは、俺が何を思うておるか、全て分かるのか? おまえこそ何を勘違いしておるか知らぬが、俺は、おまえのつまらぬ妄想に振り回されることなど願い下げだ」
「私の勘違いかどうか、確かめてみなきゃわからないじゃない」
「なに?」
王の機嫌が損なわれた様子に、衛兵たちが萎縮する。王は怒鳴ろうとしたようだったが、代わりに肩で大きく息をつくと、ジェニーにそっけなく言い放った。
「おまえとこれ以上話す気はない。城に戻れ」
ここまで来ておいて、すごすごと帰れるものか。
ジェニーは王の突き刺すような視線を受け止め、ゆっくりと首を横に振った。ジェニーのそんな反応を、王は予想していたようだ。
「そうか、では仕方あるまい。そこでいつまでも俺を待てばよい。だが、俺はおまえの相手はせぬぞ」王があきれたように低く笑いながら、ジェニーに背を向けた。
「逃げるの?」
王を引きとめようと咄嗟に言ってしまってから、ジェニーは慌てて口を押さえた。辺りは静まりかえり、ジェニーの先で、王がぴたりと立ち止まる。次にジェニーに振り返ったその顔は、怒りで醜く歪んでいた。
「俺が逃げる?」王は前髪をかきあげ、ジェニーに厳しい面を向けた。「――逃げようとしたのは、おまえだろう!」
王の手の中にある剣で喉を貫かれたように、鋭い痛みがジェニーの喉に走った。
やはり、王はジェニーの逃亡を疑っていたのだ。
ジェニーが衝撃で口がきけないのをどう理解したのか、王はジェニーを睨み続け、吐き捨てるように言った。
「危うく、おまえの口車に乗せられるところだったわ。俺がベアール家にまで近衛を付けておらねば、おまえは今この場におらなかったであろうに!」
熱い血の塊のようなものが、ジェニーの喉元にこみ上げてきた。王は今、ジェニーが信用ならない、と堂々と言ってのけたのだ。彼は、自分の発言がどれだけジェニーを傷つけたか、分かっていない。
「私の言ったこと……信じてなかったのね」
「おまえの何を、どう信じろと言う!」
言外に、王はジェニーとケインの逃亡のことを示している。でもジェニーは、ケインのことを時折思い出しはするが、恋焦がれることはない。
ジェニーは一生、ケインとの仲を王に疑われ続けるのだろうか? 彼と逃げた事実は消えないが、それはいつまで、王との間に立ちはだかるのだろう?
ほんの些細なことで、王の心は結晶化してしまう。ジェニーに心を開きかけてくれた彼が、また以前のように、心の殻を固く閉ざしてしまうかもしれない。そのことが、ジェニーには何よりも辛い。
「私は逃げようなんてしてなかったわ」
王はジェニーの返答を相手にもしない。彼の心の扉は、そんなにも硬くて分厚いのだ。
ジェニーは泣き出してしまわないように心を奮い立て、もう一度、言った。
「私は逃げようなんてしていない。これからもそうよ。私は、ここにいる」
衛兵たちは、ジェニーが塀の中に足を踏み入れても、止めようとはしなかった。王の隣にいたライアンがジェニーを阻もうとしたが、王の手が揺れ、彼を遮った。
王の険しい顔の前に立つと、ジェニーの足が震える。彼の手にある剣が銀色の光を放ち、その光が自分の肌に吸い込まれる瞬間さえ思い浮かんで、ジェニーは恐怖に身をすくませた。でも、恐怖と言うなら、王を失う恐怖の方がずっと大きい。
「私はここにいるわ」
「言葉では何とでも言える」
そうね、とジェニーは頷き、俯くふりをして、目の端に盛り上がってきた涙を隠した。
「でも、私は戻ってきたわ。私はここにいるのよ、そっちの方が真実だわ」
ジェニーを見つめる王の緑色の瞳は、奥底まで澄んでいる。澱みも何もない。でも、彼はジェニーにその瞳を見つめさせてはくれても、ジェニーにその心の奥底までは覗かせてくれない。
王はジェニーをしばし見つめていたが、結局、何も言いはしなかった。ジェニーは打ちのめされ、その場から去る以外なかった。
そしてその夜、約束の時間が過ぎても、王はジェニーを訪ねてこなかった。代わりに、夜もだいぶ更けた頃になって、明日の早朝、王城中庭への連携口に来るようにと伝えられただけだった。
なぜ急に後宮に来ようとしたのか、ゴーティスには説明がつかない。しかも、ジェニーの娘がいる部屋の前だ。
剣の練習場を去る際、ジェニーはあきらかにゴーティスの態度に傷ついていた。彼女の方からわざわざゴーティスに会いに来たのは、それが初めてだった。あの場で彼女を見たとき、ゴーティスは彼女が本当に愛しかった。だがゴーティスは、自分を責める彼女を無言で追いやるしか方法を知らなかった。
ここに、何の助けを求めるというのか。
乳母や世話係の女たちは、王の初めての訪問に大喜びだ。室内は静かだった。ジェニーの娘は眠っているとかで、彼女たちは囁き声で会話をしていた。
ゴーティスは、カロリーヌの顔など見る気もしなかった。一度見たら最後、彼女の心臓に剣を突き立てて絶命させたくなるだろう。ジェニーの子であろうが、その顔にケインの面影を見るのは御免だった。
だが、ゴーティスが目を引かれたのは、子の眠る、小さな寝台だ。木製で、白地に青線で模様が描かれている。ふと見ると、白い色が剥げかかっている箇所もある。子が庶子とはいえ、中古の家具を使い回すとは。
女官長よりも年のいった女が、ゴーティスが目を留めていた寝台の横に立ち、微笑んだ。「気がつかれました? そちらは王が幼少の頃に使われていたものですよ」
「俺の?」
「ええ、ずいぶんと気に入っておられたので、今まで大事に保管しておいたのです。カロリーヌ様もとても気に入っておいでですよ」
ゴーティスは、子を見るつもりはなかった。だから、カロリーヌの顔が視界に入ったのは、単なる偶然だ。
――衝撃だった。そこにいたのは、ほかでもない、ジェニーだったからだ。
髪の色は違うが、ジェニーと同じ唇の形をして、同じように、唇を細く開いて眠っている。ジェニーはときどき、お腹の前で何かを抱えるような格好で眠ることがあるが、この小さなジェニーも、まったく同じような姿で、すこやかな寝息をたてている。
ゴーティスは寝台に近づき、カロリーヌを覗き込んだ。
薄黄色の柔らかな服から、真っ白でふっくらとした肌がのぞいている。頬は桃色だ。目も鼻も口も、掛布の上で組み合わさった手も、驚くほどに小さい。ぴったりと閉じた睫毛は濃い金色で、先端がくるりと上向いている。肌よりわずかに濃く、ゴーティスと同じような白金色の髪が、まるで綿毛のように彼女の頭半分を覆っている。
城の住人たちが騒ぐのも納得できるほど、可愛らしい容姿だ。睡眠中でさえもそうなのだから、目を開いたら、もっと愛らしいに違いない。
「……母親にそっくりだ」
ゴーティスが感想を漏らすと、女たちが笑った。
「まあ、カロリーヌ様は王によく似ておいでですわ!」
そのうちの一人があげた声が甲高く、カロリーヌが呻いて寝返りを打った。それから、真上を向いた彼女が、ぱっちりと両目をあけた。
驚愕のあまり、ゴーティスの体が凍りつく。
いきなり、背後から奇襲に遭ったときのようだ。
ゴーティスにまっすぐに向けられたのは、光り輝く緑色の目だ。無垢な、幼い娘の――先王と同じ瞳。
全身の動きを一瞬にしてからめ取ったカロリーヌの瞳から逃れようと、ゴーティスは必死に抵抗した。が、どんなに逃げようとしても、先王の瞳はゴーティスをくい入るように見つめる。体の、魂の奥まで、どこまでもくい込んでくる。どこまでも。
ゴーティスは、先王が妻であった王妃の脆さに怒り、哀れに思いながらも、愛していたことを思い出した。先王を支え守る立場の彼女が、その弱さゆえに周囲につけこまれ、第一王子だったゴーティスに不遇な少年時代を送らせ、結果的に先王の命を奪うはめになったことを、彼女は死してなお、気づいていないだろう。
ゴーティスには母の弱さや脆さが許せなかった。けれども、慈悲深い先王は、最後の瞬間に妻を許していた。死に向かいながら、ゴーティスに苦渋の決断を課すことで、先王は彼にも母親を許すように訴えていた。
こと切れる直前の、先王の満足そうな瞳が忘れられない。
ゴーティスは先王の期待どおりに母を断罪したが、彼の望んだように、母を許すことはできなかった。それは今でも同じだ。ゴーティスを追うカロリーヌの瞳は、先王がゴーティスの罪を見透かして、嘆き悲しんでいるかのようだ。
「この娘はなにゆえ、俺から目を離さぬ」
「幼子は見慣れぬ物や人を目で追うものですよ」
カロリーヌの瞳がゴーティスに押し迫る。
父は今も、ゴーティスに母を許せというのだろうか。父を殺し、ゴーティスが母親として接したことが一度もない、他人と呼ぶに近い女に対して。
不意に、吐息のような笑い声が聞こえ、ゴーティスは女たちを睨んだ。さっき彼に声を掛けた、年長の女が慌てて口を塞ぐ。
「何がおかしい」
「いえ、あの……御子と初めて対面された際の言葉が先王妃様と同じで、やはり、親子でいらっしゃると――」
ゴーティスの前で先王妃の話題は厳禁だ。
隣の女が肘をつつき、女もさすがに気づいたらしい。女は肩を縮め、ゴーティスの視線から逃げるように頭を垂れた。
「は、あの女はさぞかし、俺を気味悪がったことだろうよ」
「めっそうもない! 先王妃様は、王をとても誇りにしておいででしたわ。毎日おいでになって、それはそれは大変なかわいがりようで。何年も待った末の、待望のご嫡男ですもの、可愛くないはずがありませんわ。古くからの慣例を嫌われ、ご自分で王の世話をされたいとおっしゃっては、私どもを何度も困らせたものです」
興奮した女は一気にそうまくしたてると、我に返ったのか、焦った顔になって再び俯いた。
ゴーティスはこれまでにそんな話を耳にしたことはない。
意外だった。女の口ぶりから、それは事実なのだろう。
だが、それが事実だからといって、すぐにそれを正として飲み込めるほど、ゴーティスの母に対する負の記憶は薄くない。ゴーティスは母親の腕に抱かれた記憶が一切ない。物心ついた頃には、彼女の世界の中心はケインだった。彼女から、ゴーティスは愛情の一片も感じたことはないのだ。
カロリーヌが寝台の柵に手をかけ、ゴーティスに細く小さな腕を伸ばした。ゴーティスは、素早く一歩退く。
「カロリーヌ様は王と仲良くなりたいのですわ。どうか、お手を」
小さな唇を開き、カロリーヌが笑う。
“手を取るがよい、ゴーティス”
ゴーティスはカロリーヌの小さな手のひらを見つめた。
ジェニーの笑顔で、先王の瞳が、ゴーティスに問いかけている。