第二部 3.王城に住む女−2
昼間の不愉快なやり取りのせいで、ジェニーはすっかり疲れていた。王に腹を立て、王の背後に感じられる王妃の影に傷ついて、それだけで心が真ん中で裂けそうだというのに、カミーユに今後会えないかもしれない可能性に、ジェニーの心の整理がついていない。体力も気力も奪われている。
今夜、ジェニーは王に会いたくなかった。ジェニーは王の存在を一時的にも忘れ、カミーユへの想いだけに人知れず浸っていたかった。王も、ジェニーの“悪態”に機嫌を損ねたはずだと、ジェニーは思っていたのだが。
「さあ、出来ましたわ、ジェニー様」
ジェニーは無邪気なコレットの顔を見て、がっくりとうな垂れた。王に会う心の準備など、ジェニーには全然できていない。
自分の髪から香る甘ったるい香水の匂いをかいで、ジェニーは目眩を覚えた。このまま気を失って、倒れてしまえばどうだろう? そうすれば、今日の一夜だけでも、ジェニーは王の前から逃げ出せる。
ジェニーは内心で、深いため息をついた。
こんなに遅い時間の王の再訪は、ユーゴの言うような、仲直りのつもりであるはずがない。あの高慢な彼が、誰かに申し訳ないと思うことがあるだろうか? ジェニーのご機嫌うかがいに来るなんて、もってのほかだ。彼が夜、女の部屋を訪問する目的は、一つに決まっている。
隣室に続く扉が無情にも開放された。椅子のきしむ音が、寝室にいるジェニーの耳にも響く。
王だ。
緊張が高まる。ジェニーの喉が激しく収縮している。
コレットが膝を曲げて退室の挨拶をすると、ジェニーは彼女の腕をつかみ、引き止めたくなる衝動に何度もかられた。できるなら、彼女と一緒に行ってしまいたい。彼女の背中を絶望的に見つめながら、待って、と何度も心の中で叫んだ。今夜、ジェニーはこの場に一人、王を待つために取り残されたくなかった。いくら王が好きでも、彼の快楽のために伽の相手となることは、どうしても受け入れられない。
ジェニーはコレットが部屋を去るのを見送り、それから、夜の明かりの中で、隣室の奥から静かに現れたゴーティス王と出会った。
王はジェニーを一瞥しただけで、歩みを止めず、まっすぐに寝室に踏み込んできた。王が自分の前を通り過ぎ、その後ろで扉が閉められるのを、ジェニーは最後の望みが消えていくような気持ちで見送るしかなかった。
彼は中央に据えられた寝台に直進し、天蓋をしばらく眺めていたが、その後、くるりとジェニーに振り返った。
「いつまでそこに立っておるつもりだ?」
王は挑むようにジェニーを見る。
彼の夜の相手を求められるくらいなら、夜通し、つっ立っていたっていい。
ジェニーが唇を噛んで王を見返すと、彼が冷たい笑い声をあげた。
「あいかわらずの反抗期か。俺が手を引かねば、おまえは寝台にも上がれぬのか?」
「いいえ。でも、私はここにいるわ」
王は不快そうに顔をしかめたが、それから寝台に腰を降ろし、彼の座る隣をたたいてみせた。
「ここへ来い」
「行かないわ」
「来い、ジェニー」
「いや」
王が聞こえよがしにため息を吐いた。
「おまえは今、いやだ、と言うたか? 妃でさえ、俺に対しては拒まぬというに」
王妃。
ジェニーはまた、彼の口から妻の存在を突きつけられてしまった。
夜の寝室にいるこの状況では、自分たちの姿になぞらえて、王と王妃が夜を共にする場面が、ジェニーにはありありと想像できる。夫婦なのだから、それは何の違和感もない情景だ。でも嫌だ、考えたくない。
王が王妃である女性と並ぶ姿を想像するだけで、ジェニーの胸は痛む。いつか夜な夜なジェニーを慈しんだように、王のあの手は王妃にも触れているのかもしれない。そう想像すると、ジェニーは目も耳もふさぎたくなる。
「ジェニー?」
だが、王妃は彼の妻だ。彼にそうされて、当然の立場にいる女性。
「早う来い」
王の手招きに、ジェニーは首を振った。
「……こんな遅くにあなたが一緒にいないなんて、きっと王妃様は悲しんでるわ」
一瞬の間のあと、王はジェニーを不審そうに見た。
「おまえには関係なかろう」
彼はあっさりと切り捨てたが、ジェニーをなおも不審そうに見て、尋ねた。
「妃が気になるか?」
――当たり前だ、彼の妻なのだから。
ジェニーが答えに窮した一瞬で、王はそれまで彼の身にまとわせていた緊張感を一瞬で解き、顔をほころばせた。
「そうか、気になるか」
「あなたは誰かの夫だわ。こんなところにいないで、妻のもとに帰るべきよ」
「それは、おまえが気にする必要はない」
王は機嫌よさそうに答えたが、それは逆にジェニーを苛立たせた。
「私じゃなくて、あなたが気にすべきことよ!」
和やかだった彼の表情が、ジェニーのその一言で翳った。
「何が言いたい? 俺は夫としての義務は果たしておるぞ」
誰かの夫であるという事実を、彼の口から何度も聞かされるのは御免だ。
どうして?
どうして、彼は結婚しているんだろう?
「でも、夫としての義務に、ここに来ることは含まれてないはずよ」
「ジェニー!」
王が寝台を手でたたき、怒鳴った。ジェニーは恐怖に身震いし、思わず、壁づたいに彼から少し遠ざかった。
「俺と妃の問題など、どうでもよいだろう! あれは国が決めた妻だ、俺と妃の夫婦関係がどうであろうと、おまえが口を挟める問題ではない!」
そんなことは、言われなくても分かっている。王の結婚が国同士の結びつきを示すことは、ジェニーも頭では理解している。だが、彼が結婚をどう捉えていようが、ジェニーにとっては、彼が既婚というのは不変の事実だ。彼の隣は、ジェニーではない女のためにある。彼が笑い、手を差し出す先には妻がいるのだ。単純に、ジェニーはそれが嫌で悲しくて、理解したくないのだ。
ジェニーの胸に熱い血がどくどくと流れ込み、ジェニーがそれまで何とか庇っていた傷を押し広げた。傷口からは熱い鮮血が流れ出し、ひきつるような痛みにジェニーはもがくしかない。痛くてたまらなかった。誰か、胸からあふれ出る血を早く止めてほしい。
王はジェニーを睨みつけていたが、ジェニーは胸にためた言葉を言わずにいられなかった。
「国が決めようと、妻は妻だわ」
「黙れ、ジェニー!」
王が激昂して怒鳴り、立ちあがった。ジェニーが身構えた直後、彼は両手で顔を覆い、再び寝台に腰を降ろした。ジェニーはそれを見て、自分も床にしゃがみこみ、感情にまかせて泣き出してしまいたかった。でもなぜか、ジェニーの膝には力が入らない。
やがて王はおもむろに顔を上げ、独り言のようにつぶやいた。「俺はこんな話をしたかったのではない」
彼はもう一度手招きした。「ジェニー、来い」
それは有無を言わせぬ口調だったが、ジェニーは小さく首を振った。「いやよ」
「いや、だと?」
「話なら、ここで……ここで聞くわ」
そう言いながらも、王の目的は自分と会話するためではないと、ジェニーには分かっている。
それでも、ジェニーは彼に帰ってもらいたかった。せめて今夜は、彼の姿を見ないで過ごさせてほしい。
ジェニーに動く気がないと分かったらしく、王は黙り、膝に手をついて俯いた。横顔がかすかに笑ったようにジェニーには見えた。
「……なるほど。おまえは俺の側に来たくないということか」
俯いたまま、王が言った。
そうじゃない、と言い返しそうになって、ジェニーはその一言が彼の感情を爆発させるのではないかとふと感じ、思いとどまった。
彼はどこか、様子がおかしい。気が抜けたように正面の壁を見つめている。
急に、恐怖がジェニーの足元から這い上がってきて、膝を前後に強く揺すった。ジェニーの膝は今も力が入らず、体勢を崩して前に倒れそうになる。王が振り返り、ジェニーはそこに自分の恐怖の理由を見つけ、息をのんだ。
「手を、ジェニー」
ジェニーに向けて手を差し出し、無表情の王が立ちあがる。ジェニーがよろめくように扉に寄りかかると、彼はジェニーに向かって歩き出した。
「ゴーティス王……?」
彼はジェニーに手を伸ばし、彼女の前で立ち止まる。ジェニーは差し出された手を見つめた後、自分の腕を後ろにまわして彼を見上げた。
「俺に手をとらせぬつもりか?」
彼の目がジェニーの意思を探る。
一縷の望みをかけてジェニーは言った。「今日は……今日は帰って」
「帰れ? ここまで出向いて来た俺におまえは帰れと言うのか?」
ジェニーの足がふらりと一歩退くと、王の視線がジェニーの足元に流れた。
「帰って」
彼の顔が不機嫌そうに歪んだ。ユーゴの声が「王に優しくするように」とジェニーの耳に囁きかけたが、もう遅い。
「手をよこせ、ジェニー」
ジェニーが避ける前に、王の手がジェニーの二の腕をつかんで引っぱった。ジェニーが抵抗すると、彼はむきになって、ジェニーが体の後ろに隠した手を引き出そうとする。
「手を出さぬか! 手をとらせるぐらい、何でもないだろう!」
「そんなに乱暴にするからよ!」
王が、衝撃を受けたように目を丸くしてジェニーを見た。
何をそこまで驚くのだろう? ジェニーは戸惑い、一気に力を失くした彼の手を見つめる。
ジェニーが彼の様子をうかがいながら動こうとすると、弾かれたように彼が我に返った。再び彼の手には力が戻り、彼の瞳に光が宿るのを見て、ジェニーは警戒する。
「……ケインならば、おまえも容易に手をとらせるだろうに」
今度はジェニーが驚く番だった。
「ケインって――なぜ、ケインの話が今出てくるの?」
王が唇を上げ、嘲笑した。
「あの男は、乱暴な言動をするのもされるのも嫌いなはずだ。ケインは、寝所でもおまえに優しかったか?」
ジェニーは耳を、二度も疑った。
「何……あなた、何を言ってるの? どうしてケインが?」
王が鼻の頭に皺を寄せ、ジェニーを鋭く見返した。
「おまえは子まで産んでおるではないか」
その誤解はまだ解けていないのだ。彼は今もなお、ジェニーの産んだカミーユの父親がケインだと、ひどい誤解をしている。
ジェニーは慌てて首を振った。
「ちがうわ、カミーユはケインの娘じゃない! 私とケインはただの一度だって――」
「では誰の子だ? よもや、俺と言うのではあるまいな?」
ジェニーは衝撃を受けた。その言い方は、ジェニーが数多くの男と肌を合わせていると、彼が確信しているようではないか。後宮という外部との接点を遮断された場にいて、ジェニーの知る男は、彼一人だというのに。
ジェニーが震えながら王を見ると、彼の目が不審そうに細くなった。
「カミーユは……あなたの娘よ」
「ほう?」
ジェニーは彼の口ぶりに絶望的な気分になった。彼はジェニーの答えを頭から信じていない。
「本当よ。ほかには誰もいないわ。そんな人は誰も、いない」
王はジェニーをじろりと睨んでから、ジェニーが背後にまわしていた手を取った。ジェニーは抵抗しなかった。彼はジェニーの手の甲に口を付けながら、またジェニーを見る。
「では、なにゆえ、あの男と逃げた?」
ジェニーが王城脱出に若干の迷いを抱きながらも逃げたのは、衝動的だったともいえる。あのとき、人を殺めたと動揺していたケインに同情したせいが、多分にある。ケインはジェニーを孤独と絶望から救い出してくれた人だ。彼との約束があったから、ジェニーはその日への希望を胸に、後宮での生活を送ることができたのだ。
ジェニーの顔色をうかがっていた王は、ジェニーが口を開くと顔を上げた。
「ケインと約束したからよ」
王が声をひそめて笑った。
「おまえが逃亡する前日、俺も約束のつもりでおまえに言うたことがあるが――なるほど、ケインの約束が優先されたわけか」
「そうじゃなくて――」
「来い、ジェニー」
ジェニーは王にぐいと手を引かれ、それを抜き戻そうとした。
「いやよ、放して」
「来いと言うておる! おまえとケインの娘の命が惜しくばな!」
ジェニーが驚愕して王を見ると、彼が冷笑した。
「どうして! あの子はケインの子じゃないわ!」
「そんな嘘は俺には通じぬ。早う、寝台に上がらぬか! おまえがここにおる役割を果たせ!」
王の指し示す白い寝台を見て、ジェニーは怯えた。
(私がここにいるのは、彼の夜の相手を務めるためなの?)
だとしたら、ジェニーが今日の昼間に王から感じた、愛情のかけらは何だったのだろう?
「いやよ! 絶対にいや……!」
だが、カミーユは王に捕らえられた人質だ。
ジェニーは王の手に屈する以外、選択の余地がなかった。
天蓋が揺れるのをぼんやりと眺め、ジェニーは悪夢から覚めるときを待っていた。ジェニーは王の体をまともに見ないようにしていたが、彼の動きを、ジェニーの体は感覚的に覚えている。悪夢の終わりは、もうそろそろ訪れる頃だ。
ユーゴは伽が大好きだと言う。彼は恥ずかしげもなく、あけすけに、その楽しさと快感をジェニーに語った。もう少し経験を積めばジェニーにも理解できるはず、と彼は笑ったが、これのどこに魅力があるのか、ジェニーにはまったく分からない。王もユーゴと同じ性的快感を求めているのかもしれないが、ジェニーが知る限り、彼が楽しそうに行為に耽っていたことはない。彼はその最中に、一度も笑ったことがない。
二年ぶりの伽は、精神的苦痛だけでなく、身体的な苦痛までもたらしている。脚の間が痛い。王のたてる息づかいも、肌にはね返る彼の感触も、何も感じたくない。彼専用の娼婦のような立場を憂いたくない。五感全てを鈍らせないと、ジェニーの心と体のあちこちで、たちまちに悲鳴があがる。
天蓋が何回か大きく揺れて見え、ジェニーの肩をつかんでいた王の手から力が抜けていった。
やっと、終わったのだ。
ジェニーはほっとし、目を閉じて、以前のように彼が隣に転がるようにして離れる瞬間を待った。
「……?」
王がなかなか体から降りないことに疑問を感じ、ジェニーがおそるおそる目を開けると、彼が肩で息をしながらジェニーを見下ろしていた。それも、なぜか、泣く寸前の子どものような顔で。
「……ゴーティス王……?」
王が手を伸ばし、ジェニーの頬に触れた。彼の震える指先が、ジェニーの目から溢れた涙の跡を伝う。それから彼の顔が降りてきて、ジェニーの目じりと頬に一度ずつ、彼は唇を押し当てた。
いつもながら、彼は不可解だ。あんな乱暴にジェニーを扱っておいて、その次には、愛情表現ともとれる行為をする。どちらが本心なのか分からず、ジェニーは混乱する。
ジェニーが王の体の下から這い出そうと動くと、待て、と彼が囁いた。ジェニーはむっとして彼に振り返った。
「私はもう、役目を果たしたんでしょう?」
彼は困惑したようにジェニーを見返したが、ジェニーには、彼がそんな表情をする理由が読めない。ジェニーに彼の性欲のはけ口を無理強いしたのは、彼自身だ。満足したことはあっても、困ることは何もないはずだ。
ジェニーがなおも彼の下から抜け出そうとすると、王の腕がジェニーの眼前をさえぎった。
「待て、ジェニー」
ジェニーが王の手をどけようとすると、彼はその手をつかんだ。ジェニーは、どこまでも自分の自由を奪おうとする彼に、我慢ならない。
「どうしてよ? あなたの気は済んだんでしょう?」
ジェニーは、いつまでも彼と寝台にいたくなかった。彼の快楽以外に何も存在しない、こんな場所からは一刻も早く出ていきたい。そして、ジェニーが自分の存在価値を思って泣き出す前に、彼には王城に帰ってもらいたかった。彼には二度と、ここには来てもらいたくない。
「違う、そうではない。俺は……おまえに共にいてもらいたいだけだ」
「今まで一緒にいたじゃない! どいてよ、もう十分でしょう!」
ジェニーが堪えていた涙が溢れ出た。王から逃れようと振りかざしたジェニーの手はことごとく彼の手に捕まえられ、体の自由を失って、ジェニーは奇声を発した。
「ジェニー、おまえにここにいてもらいたいだけだ」
王の囁きに、ジェニーはあらたな涙を流した。これ以上、彼は自分に何を求めようというのか。
「放してよ! もう……もう、いいじゃない……」
ジェニーの言葉が涙に埋もれると、王は彼女の手を放し、彼女の頭を腕の中に抱いた。ジェニーが抵抗して腕を振り回しても、体をよじらせても、彼の体勢は少しも崩れはしない。彼の望みが本当は何なのか、ジェニーには、さっぱり分からない。
彼が、ジェニーの頭のてっぺんに口づけを落とした。
「このまま……少しでよい。俺は、おまえが側におるのを感じたいだけだ」
ジェニーは王の発言に驚き、顔を上げて彼を見た。
表情はさっきと変わりない。泣き出す前の子どものような――いや、涙を流さずに泣いている子どもの顔だ。
彼はまさか、自分のしたことを悪いと思っているのだろうか?
「行くな、ジェニー」
真相は分からないが、ジェニーが反抗しなくなると、王がもう一度ジェニーの頭に唇をつけた。今度はずいぶんと長い。まるで、そこから二度と離れたくないように。
そのときになって初めて、ジェニーは王の心臓の音に気づいた。ジェニーの耳が密着した彼の胸から、力強い律動が伝わってくる。
その安定した音色に、ジェニーは緊張した自分の体から力が抜けていくのを感じた。
都合により、来週の更新はお休みさせていただきます。
すみません〜〜〜。
みなさま、よい夏休みを♪♪♪