第一部 1.遭遇−6
後宮の新しい住人ジェニーの噂は、初日のうちに城中をかけまわった。王の六人の愛人たちや侍女たち、城中が彼女の動向に関心を持つことになった。愛人たちの中で彼女の実際の姿を見た者はまだいなかったが、彼女がまだ年若い少女で、自分たちと比べるに値しない容姿という事だけは早々に伝わっていた。それは彼女たちに優越感を与えはしたが、同時に、少女のような女が後宮にあげられたという違和感と不審感も湧き上がらせていた。
しかし、彼女たちの本当の興味は、はたして王が新入りに二回目の“お召し”をかけるかどうかの一点に集中している。それは、今までに数多くの女たちが二回目のお召しを受けることなく城を追放される憂き目にあっているからで、彼が引き続き同じ女を召すということは、つまり、後宮の現住人である自分たちのライバルともなるからだ。
その当人ジェニーは、心身に受けた度重なるショックによって、まるで抜け殻のような日々を送っていた。彼女はただ眠りたいときに床につき、思い出したときに食事をほんの少量だけ口にし、それ以外は何もせずにぼんやりとしているばかりだった。ジェニーのあまりの呆然自失ぶりには、彼女付きの侍女でさえ気味悪がって、めったなことでは近づこうとしなかった。
王が彼女を訪問することは、その後しばらく、全くなかった。
ジェニーが入城して一ヶ月経ったある日、ヴィレール王国に夕方から冷たい雨が降り出した。前日ほどに外気が冷えていないために雪に変わることはないだろうが、城の中が冷たい湿気で覆われ、多くの人を不愉快な思いにさせていた。
夜もだいぶ更けた頃、後宮の一室ではゴーティス王とその愛人の一人である女が室内の空気を体温で熱く変えていた。
彼より七、八歳年上のタチアミラは、赤い口紅の似合う肉感的な唇を持っている。そこが気に入って、彼は彼女を後宮へと引き入れたが、逆に今ではその官能的な部分が目につくようになってきていた。ひととおりの営みを終えるまで、彼女の大きな唇からは悩ましい熱い息が何度も漏れていたが、その一方で、彼はその呼吸音が耳障りに感じて、最高潮に達することができなかった。
「おお、王……!」
ゴーティスが息を整えて上下させる胸にもたれて、彼女はうっとりとした眼差しで彼を見つめる。彼女にそうやって見つめられることも、うっとうしい。
彼は聞こえないふりをして遠くを見るかのように視線をあげていたが、彼女はそれを悪いようにはとらず、彼の腕に顔をすり寄せた。
「王、そういえば……今度後宮にあがった娘」
「何だ?」
「何と言いましたかしら、あの――?」
「……ジェニーか?」
「ええ、そう。そうでした、ジェニー、でしたわね。彼女、ずっと部屋にこもりきりの様子で、ニーナ様のせっかくのお誘いも断ったそうですわ。……私たちはただ、お話がしたいだけですのに」
彼女がそう言ってちらりとゴーティスを上目遣いで見るが、彼はその話題には全く無関心な振りを装った。笑顔の下にある、彼女のあからさまな好奇心が彼をいらいらさせる。汗で顔に貼りつく髪を払いのけながら、彼はあいまいに頷いた。
「彼女はまだ十五、六の年若い娘とか? お姿を拝見してはいないのでどんな娘か想像もつきませんけど。私たち、王のお心を捕らえたのがどんな魅力的な娘かと、少し気になっているのですわ」
「……ほう?」
彼は嫉妬感情からくる質問を向けられることに嫌気がさしていた。それでもさほど気にしていない振りをし、台にある葡萄酒に手を伸ばした。
「俺が、年少の趣味に走ったとでも危惧しておるのか?」
「いいえ、そんな!」
彼女は彼の機嫌を損ねてはならない、とあわてて酒の手伝いをしようとした。だが彼は、宴の時以外は他人の手をわずらわせずに自分の手で杯に酒を満たすことを好む。それを忘れて彼の手から酒壷を奪おうとしたタチアミラに彼はむっとし、彼女の手をかすめて壷を台の後方へと置いた。
彼女の唇は、今日会った最初にはしっかりと塗られていた口紅がすっかり剥げ落ち、ところどころがむらになっている。彼女の媚びるような目元も汗で化粧が醜く落ち、夜の薄明かりの中でさえも、同一人物とは思えない。彼の心は、ますます冷えていく。
「あの娘は、ある意味において魅惑的といえよう。それゆえ、ここに連れてきた。だが、あれはまだ幼い」
幼い、という言葉を耳にしたタチアミラがうっすらと意地悪な笑いを浮かべたのを、ゴーティスは見逃さなかった。使用人たちを通じ、ジェニーが彼に会うまで男を知らなかった事実は、彼女をはじめ後宮中に知れ渡っているのだろう。
「――幼いと知って、安心したか?」
杯の酒をあおり、彼が問うと彼女はすぐに顔を引き締めた。
「そんなつもりで申し上げたのではありませんわ、王」
彼女がおそるおそる彼の顔をうかがったが、彼は特に怒った素振りもせず、次の酒をついだ。タチアミラは目を細め、酒に濡れて光っている彼の唇に見惚れている。
夜更けになって強くなってきた雨が、窓の木板にぶつかって大きな音をたてていた。杯の半分ほどを飲み干したところで、彼女がゴーティスの右太腿の上に頭を預けてきた。彼女が再度、欲情してきた兆しだ。
自然に、彼が彼女の茶色い髪の中へと手を入れて頭をゆっくりとなでると、彼女は唇を薄く開け、心地よさそうに目を閉じた。そのうっとりとした彼女の全身を眺める彼の目は、しかし、女の体を求める目ではなく、あくまで氷のように冷ややかだ。彼の手が彼女の耳に触れると、彼女の腕が彼の腿へと伸びた。ゴーティスの口が、笑ったように少し開く。
「口を開けろ、タチアミラ」
おもむろに、ゴーティスは彼女の顔の上に杯をかかげた。彼女はとろんとした目で彼を見上げ、真顔の彼がしゃべるのを音楽でも聞くように聞いている。
「これはおまえに捧げる。さあ、飲むがよい」
そう言うなり、彼が半分ほど酒の入っている杯を斜めに傾けたものだから、タチアミラはこぼれてくる赤葡萄酒を受け止めるために大きく口を開けた。赤く強い酒は彼女の舌に当たり、受けとめきれなかった酒が顎に零れ落ちた。せっかくの高級な酒をじっくりと堪能できることなく、その熱い液体は彼女の喉の奥に流れ込んでいく。そして、そんな彼女の慌てた様子を見ながら、彼は声をたてることなく笑っている。
ゴーティスの行動はいつも不可解で彼の愛人たちは常に不安と恐怖を抱いていたのだが、この時もその例にもれなかった。彼女に声をかけさせる機会を与えず、彼はしばらく冷笑し続けた。彼が投げ捨てた杯が、毛布の皺の波間にさびしそうに転がっている。彼女は彼を心配そうに見つめ、笑いが止むのを待っていた。
その終焉は突然に訪れた。
彼が無言で寝台から立ちあがる。
「王?」
自分の温もりがまだ残る寝所で、タチアミラが不安そうに眉根を寄せ、ゴーティスを見上げた。
「王、どうなさったのです……?」
彼はその問いには答えず、部屋の中央にある大きな肘掛いすに腰を落ち着けると、まったくの無表情で彼女の視線を受け流した。すでに、彼女の体に対しての未練も、思いも、何もなかった。
「王?」
「――タチアミラ。おまえは何故、ここに残っておる?」
「……えっ?」
彼女の恐怖の表情が、二人が出会った当時の場面を彼に思い出させる。タチアミラと姉はともに、ヴィレールが制圧した遠征先の領主の愛人だった。領主の隠し部屋に彼と兵士たちが踏み込んだ際、彼女は今と同様に恐怖に歪んだ顔を見せていた。
「俺が捧げた酒は、別れの酒だ。そして、おまえはそれを飲んだ」
「な、何を、王?」
「おまえにもう用はないと言うたのだ。さっさとここから去れ」
「おお! まさか、王、どうかそんな事をおっしゃらず――」
「去れ。俺に同じことを言わせる気か? おまえはこの城から、俺の視界からさっさと消え失せろ!」
「おおお、王!?」
タチアミラはあわてて寝台の上に起き上がろうとし、シーツに足をとられてその場に転んだ。その慌てふためきぶりとすがりつく様子は、出会った際と全く同じだ。負傷して体の自由がきかない姉をかえりみず、自分だけ助かろうと命ごいをした浅はかさ。ゴーティスのあの場での選択は、足手まといになる姉より、連れ行くのに容易な妹タチアミラをとっただけのこと。
「おお、どうかお許しを! どうかお考え直しを、王! 私はここを出れば行く宛がないのです、王!」
「つべこべ言わずに早く立ち去れ!」
彼は寝間着を乱暴に体に巻きつけると、彼女に一度、背を向けた。
「そんな、どうか、王! 私にお許しを……!」
しかし、嘆きむせび泣く彼女の声は彼の神経をさらに尖らせ、彼は持っていた酒壷を彼女に向かって投げつけた。だが、それは彼女の体をはずれて後ろの壁に激突し、大きな音をたてて粉々に割れた。それにも腹を立てたゴーティスはついに怒鳴り声を出し、外に待機している衛兵を呼びたてた。
「衛兵はおらぬか!」
「御前に、王!」
一人の衛兵が素早く入室してきた。ゴーティスは激しい怒りのこもった目を彼にも向けたが、彼は当然、その視線に目を合わせようとしない。
彼の頑なで非常に怒り狂っている表情を目にした衛兵は、一瞬にして事の重大さを確信したようだ。寝台で泣き崩れる裸の女に驚いた事をすっかり隠し、これ以上彼の機嫌を損ねて死人が出ないよう、任務に徹することに決めたらしい。
「衛兵、今すぐこの女を城の外へ放り出せ! 即刻だ!」
「ははっ、ただいま!」
衛兵がタチアミラに駆け寄って肩をつかむと、彼女は首を激しく振り、奇声ともとれる声を出した。
「おお、王、お許しを! どうか、どうか、今一度! 王、お側にいさせてくださいませ、お願いでございます……!」
「女、静かに!」
女の悪あがきがさらに悪い事態を招くことを恐れ、衛兵は一喝したが、半狂乱となっている彼女に効き目はない。王がそんな懇願を聞く耳を持たないのは知っているはずなのに。
「王! おお、王! どうか私に今一度!」
「うるさい! さっさと連れてゆけ!」
「ははっ!」
叫ぶ女を両腕で抱え、衛兵は一刻も早く、彼の前から去ろうとした。男の腕の下で、つかめるはずもない王の手を求めて彼女は必死に両腕を伸ばし、自分を哀れんで叫んでいる。
「さあ、早くこちらへ来い……!」
暴れる彼女を必死に抱えて衛兵が扉を通り抜けようとしたとき、ゴーティスは彼を後ろから呼び止めた。
「待て、衛兵」
それは、不気味なくらいに穏やかな声だ。
彼は、とばっちりを受ける可能性に恐怖で顔をひきつらせ、一方の彼女は期待に表情を明るくし、ゴーティスの方へとふり向いた。ゴーティスは、大股で彼らの方へと歩み寄っていく。にこりともせず、冷たい目を彼女に注いで。
「ひっ――!?」
いきなり、ゴーティスはタチアミラの口に手を突っ込んで舌をつかんだ。
タチアミラの期待に輝いた表情が一瞬にして恐怖に歪む。彼女を支える衛兵も目を白黒させながら、つっ立っている。
ゴーティスは彼女の口に手を伸ばしたかと思うと――右手に隠し持っていた短剣で下からそれを振り払った。生温かい赤い血にまみれた小さな肉片が、床にポトリと落ちる。
「んぐっ……!!」
口をおさえるタチアミラの両手の指間から、血があふれ出て腕を伝わり、流れ落ちていく。焼けるような痛みでうめき声をあげながらも、彼女は目の前の王に対する恐怖から叫び声を出せず、彼女はひきつった表情を元に戻せなかった。衛兵も、王の怒りを買う恐ろしさから、彼女の体を決して放そうとはしない。
手に飛び散った血を服の裾で拭い、多少気がはれたゴーティスは息をついた。そして、床に根が生えたかのように動けない衛兵を見て、言った。
「これで静かになっただろう。連れていけ」
「……は!」
衛兵は床に投げられた王の短剣から視線をそらさず、返答した。
タチアミラの身に起こった悲劇は、瞬く間に後宮の住人たちに伝わった。後宮中は王の残酷さに震えおののき、それがいつ自分たちの身に降りかかるかもしれない、と誰もが底知れぬ恐怖に身をふるわせた。伝える者がいないジェニーのみ、その事件を知らずにいた。
◇ ◇
王の愛人の一人が減って数日後、ヴィレール王国に雪が飛来して冬の始まりを告げた。屋外への出入りがままならなくなる不自由さから、冬季はゴーティス王が不機嫌になる。昨年の場合も同じで、この時期は、彼と直接に関わる機会のある人々は彼に人一倍神経を使い、自分がうっかり彼の機嫌を損ねて命を落とすはめにならないよう、最大限の努力をしようとする。それは後宮内でも周知の事実だ。
本来ならば新参者ジェニーにも最優先の注意事項として伝えられるべきだが、彼女は誰からも何も知らされなかった。王の訪問が皆無だったことで、後宮の人々が彼女を軽視する傾向があり、侍女でさえ、彼女に何も言わなかったのだ。
王城に初雪が降った日の夜、ゴーティスは真夜中に目を覚ました。胸の内が騒いで落ち着かない。戦にでも馬を駆りたてたい気分だったが、冬場ではそれも叶わない。彼はおもむろに起き上がり、靴を履いた。無意識に剣を身につけ、上着を引っ掛けて外に出る。
急に内側から開いた扉に、彼の寝室を護る衛兵たちは驚いて振り向いた。青白い顔色のゴーティス王が無言で現れ、彼の体から発散される妙な高揚感で、彼らは屈強なはずの体を瞬時に硬直させた。
「王、どちらへ……」
「すぐに戻る」
「ははっ」
衛兵たちの間を抜け、王は廊下の奥へと一人で歩いて行く。廊下のつきあたりに行き着く途中で、王の後ろに衛兵たちがその存在を消すようにして合流した。彼はもちろん二人に気づいたが、二人の気配は彼の神経を害するほどではない。
ゴーティス王の進む方向から二人は彼が後宮を目的地としていると想像していたが、彼はそれに続く通路に注意を向けることすらせずに素通りした。そして、ひっそりとしている城の本館に入る。
衛兵の二人が彼の意図を測りかねていると、彼は中央通路を左に曲がり、階下に続く階段へ向かった。その時点で、彼らは王が何をしたいのかとはたと気づいた。地下には、城内の住人たちが“死の練習場”と呼んで恐れる王専用の剣の特別練習室がある。衛兵たちは、彼についてきた自分たちの身が危ういかもしれないと、緊張と恐怖で急激に胸の鼓動を一気に高まらせた。
練習場と名はついていても、ゴーティス王がそこで剣の腕を上げるために練習している姿は、ここ数年の間に目撃されたことはない。そこは誰もが怖れて近寄ろうとしない、王が年に数回、自らのどうしようもない血の高まりを治めるための犠牲者を出す部屋だ。
「衛兵」
「ははっ!」
二人はびくっと体をふるわせて、前を行く彼を見た。
「衛兵待機室に行って、交剣相手を一人連れて来い。あまりにも弱い奴を連れて来たら、おまえたちのどちらかと代わってもらうぞ」
「は、はい!」
二人はお互いを見て、役目を譲りあい、牽制しあった。やがて、一人が今歩いてきた階段を戻り、王の命令を持って衛兵待機室へと向かう。
冬の地下は地上より幾分暖かだが、地下特有の湿った、空気のこもったにおいがする。ほの暗く狭い通路を目的の部屋を目指し、ゴーティス王と衛兵は静かに歩いていた。彼と一対一になり、彼の後ろを歩く衛兵の緊張感は増すばかりだった。
「いっ?」
いきなりゴーティス王が立ち止まって振り返り、衛兵が心臓が飛び出すほどにびっくりして小さな悲鳴をあげた。
「しっ!」
王が衛兵に鋭く言い、壁際に身を寄せる。
「――王?」
「静かに。こちらへ来い」
彼は、王が顎をしゃくって自分の隣を示すのを見て、生きた心地がしなかった。ついに死ぬのかと思い、家族の顔さえ脳裏に浮かんだ。
「早う!」
王がむっとして押し殺した声で言い、衛兵は息をのんで隣に向かう。ゴーティス王の右手が腰の鞘から剣をゆっくりと抜き、目の前で光を見た衛兵は、鋭く光る刃先から視線が動かせなかった。脇の下に冷たい汗が一筋流れていく。だが、剣先は衛兵の方に向けられているのではなく、ゴーティス王の緊張と視線ももっと前方に向けられていた。
「部屋に……誰かおる」
衛兵がその方向へ視線をやる前に、王がかすれた声で言った。衛兵が驚いて目を見開くと、彼はまた顎をしゃくって“死の練習場”の扉を示した。
全身の動きを止め、衛兵が息をひそめて耳をすました。かすかに、何かがうごめく鈍い物音がしている。彼の反応を見たゴーティス王は剣を握り直し、足音を消して扉に近づいていく。
「王、私が先に――」
「邪魔立てをするな」
扉の前に着いたゴーティス王は真っ黒な炎を瞳に燃やし、衛兵の言葉を遮った。彼はその気迫に怯え、口をすぐに閉じた。
扉越しに音の根源を確かめようとしたゴーティス王だったが、ここはその部屋の目的のために従来よりも分厚い扉に交換されており、室内で起きる音の種類が特定できなかった。彼は、扉に強く耳を押しつけた。
「男の声だ」
衛兵がはっとして目を見開く。王はなおも音を聞き分けようとして耳に神経を集中した。
「それに、女もいる」
衛兵に振り返った彼は苦々し気に歪んでいて、こめかみに青筋が立っていた。衛兵はその言葉で、室内にいる、命知らずで愚かな男女が何をしているかを瞬時に理解した。
「入るぞ」
部屋は剣を振り回す男たちが余裕で飛びまわれるほどに広い。ゴーティスが静かに扉を開けると、室内はほんのり暖かく、通路と同じくらいの明るさ――つまり、人工的な明かりがそこにはあった。
彼が扉越しに聞き分けた声の主を見つけるのは簡単だった。女の甘ったるい声が彼らのいる空間に充満し、男のしゃがれた喘ぎ声が湿った空気の中に響いていた。四角い部屋の左側、壁にほど近い床には重なり合って動く物体があった。衛兵はその正体をみとめて、あらためて大きな衝撃を受ける。一方のゴーティスの方は、つかつかとその男女の方へ近寄って行った。
ゴーティスに背を向けている男の下半身は裸で、床に膝をついた彼のふくらはぎには剣による古い傷痕があった。その男の腰にからまる女の足が白く闇に浮かび、床に体を投げ出した女は髪を振り乱し、快楽のために口を半開きにしていた。男が顔をのけぞらせて女を動かす度、女の口から声が振り絞られる。
恍惚に身を委ねながらも瞳を開けた女は、快楽を共有する相手の後ろにいきなり現れた侵入者の姿を見つけ、はっと驚いた。女がその人物が誰かを判別するまで、数秒もかからなかった。
「あ! あああ!?」
彼女はあわてて男の腕をつかんで知らせようとしたが、彼は、女が自分にもっと激しさを強要しているのだと勘違いした。彼女の驚愕の表情さえも都合よく解釈し、男は女をつかむ手に力を込める。
「待っていろ、今――」
「ちが、ちがう! 後ろを! 後ろ……!」
女に手を強くはたかれ、男は面倒そうにゆっくりと後ろを振り返った。
「ああっ!?」
男の背後には、唇を震わせて彼らを見下ろすゴーティス王の姿があった。
「王!? なぜここへ! あ……そ、その、私たちは――」
行動を移すのは女の方が早かった。あれだけ締めつけていた男の体からぱっと脚を離すと、周りに散らばっていた衣服をかき集め、いまさらのように体を隠した。それを視界の端にとらえつつ、ゴーティスはあとに残された男の髪をむんずとつかんだ。
「ひいいいいい!」
男の髪をつかんで床に引き倒した彼は、女にもちらりと視線を走らせた。
「おまえたちの名を訊く気はないぞ! 一瞬で死ねることを、俺に感謝するがよい!」
「おお、どうか王――!」
ゴーティスは男の髪を引っ張りあげて体を浮かすと――目にも止まらぬ速さで男の首元を深くえぐった。男の首から、天井へと血流がほとばしる。
勢いよく噴出した男の血が目に入り、女は火がついたように泣き叫んだ。必死で、両手で目を拭っている。男が気絶して後ろにひっくり返ると、彼女は汚物か何かのようにそれを手で押しやり、気が狂ったように体についた血を取ろうとしていた。
肩で息をしたゴーティスはそんな彼女を軽蔑して見た。さっきまではあんなに情熱的にからみあっていた情夫に何の未練もないかのようだ。裸の女はまだ若く美しい部類だったが、その白く輝く裸体は下品で汚らわしかった。
「女」
ゴーティスが剣先で彼女の顎をつつくと、彼女はひるんで彼を見上げた。どこかで見たような顔だ。
「王、おお! どうか、どうか、私にご慈悲を! 私は悪くないのです、男にここに連れ込まれただけで……!」
「おまえの汚らわしい言葉など聞くつもりはない!」
女は一言の悲鳴をあげることさえ叶わず、彼の放った左胸への一刺しで絶命した。
女は男の胸の上に倒れ、男の首筋から流れる赤黒い血が彼女の金色の髪を赤く汚す。二人の体から流れ出る大量の血が、床に大きな赤い染みを作っていく。血液ににおいはないと言われるが、室内に生臭い血のにおいが漂った。
二人を惨殺したゴーティスは、妙にすっきりとした気分で立ち上がった。気づけば、彼も一人目の男を切った際の返り血を浴びて、上半身が真っ赤に染まっていた。剣を宙で振り、刃の半分についた血を払う。
ゴーティスが扉の方に向くと、そこには彼の犠牲者となる予定だった衛兵の男と、その男を連れてきた衛兵が扉の前に驚愕の表情を浮かべて立ちすくんでいた。
「お、おケガは、王……?」
彼と一緒に部屋に最初に入った衛兵が青ざめた顔でゴーティスに尋ねた。
「ない。返り血だけだ。俺はこれから湯殿へ行く」
「は!」
その衛兵に続き、扉の前に立っていた男たちも彼に道を開けた。愚かな男女が先客としていてくれたおかげで、ひとりの衛兵は命拾いした。その安堵感を表面に出して王の機嫌を再び損ねてしまうのを恐れ、男はいつまでも神妙な表情を作っていた。