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第二部 2.決意−3

 ラニス公本城の庭園は、ちょうど春の装いに変わりつつあり、白やピンクといった淡い色の花が咲き乱れていた。山から下りてくる空気は涼やかで、朝の空気はまた特別に心地よい。ジェニーがここに来て既に一週間、今朝も、彼女は屋内で召使たちに構われるのを厭い、庭園をあてもなく歩いていた。毎日庭に来るジェニーの姿に見慣れた庭師たちが、作業の手を休め、口々に挨拶をする。ジェニーも挨拶を返す。彼らの誰もがにこやかに接するが、ジェニーは、彼ら全員が彼女を追う監視の目だと、とっくに気づいている。


 ジェニーが本城へ移動した次の日の朝、ジェニーと顔を会わすこともないうちに、王はいつのまにか城を発っていた。

 衝撃的な再会のわりに、あっけない別れ。

 彼との再会そのものが白昼夢のようにも思え、予想外の淡々とした最後に、ジェニーは、自分が望んだほど彼は自分との再会に喜んだわけではないのだと落胆し、それを当然のこととして受け入れようとした。ところがその矢先、「王はあなたを王城に迎え入れるつもりだ」と、ラニス公から告げられたのだ。ジェニーは驚きのあまり、しばらく口がきけなかった。

 ラニス公によると、王城からの迎えが来る日までジェニーを城で手厚くもてなしてもらいたい、というのが、ゴーティス王のたっての願いなのだそうだ。しかしその本意は、彼女が一人で逃亡することがないように、ラニス公に身辺を注意深く見張らせる、ということだ。王は、ジェニーを足止めする切り札を手に入れているというのに、それでもなお、彼女が逃亡するのではないかと疑っている。そして、王の勝手で一方的なその要求は、律儀なラニス公によって、忠実に実行されているのだ。

(カミーユを捕らえられて、私が逃げるはずがないじゃない……!)

 ゴーティス王は、ジェニーの娘カミーユを奪い去った。ジェニーの心の拠り所であり、弱点である彼女を、王は拘束したのだ。ジェニーは激怒した。

 王城に引き取られた、とラニス公は表現したが、母親であるジェニーの知らぬうちに娘を連れ去るという乱暴さは、誘拐とどこが違うのか。どんな事情があろうが、それが子の父親であろうが、王であろうが、許される行為ではない。子どもを勝手に連れていかれて、怒らず、悲しまずにいる母親が、どこにいるというのだろう?

 王の子なのだから王の手に渡って当然、というラニス公には、ジェニーの怒る様が奇異に映ったようで、困惑しきりだった。ジェニーが心情を説明すれば彼は穏やかに耳を傾けてくれたが、ジェニーの常識は通じず、彼はいつまでも彼女を理解できず、二人の会話はどこまでも平行線をたどって決して交わりはしなかった。お互いに困惑を深めるだけだった。王城でジェニーが接した人々と同じ考え、同じ反応だ。王という絶対的な壁の前に、独立した個人は、為すすべもなく立ち尽くすしかないのだ。

 だが、王に猛烈に怒り、理不尽で一方的な彼の行動に反発しているのに、ジェニーは彼の顔が見たくて仕方なかった。ジェニーが王を思い出して唇を震わせるのは、憤りと恋心からだ。彼を見れば怒りを感じる自分がいるのに、彼を近くに感じられるところに居たい、と思う自分もいる。

 ラニス公は、「王はあなたを愛しておいでだから」と度々、口にした。けれども、王は不可解で気難しく、心の内をさらけ出さない。彼の言動の裏にはいつも何らかの含みがある。通常なら、側に呼び寄せることが愛情の表れだとしても、ラニス公の言葉をうのみにするのは、ジェニーにとって、簡単なことではなかった。


 王に憤慨し、口惜しさに涙をにじませ、心をときめかせた一週間と数日が過ぎ、ついに、王城からの使者がやって来た。ジェニーはラニス公に呼ばれ、使者が待つという部屋に向かった。戦いに出向く前の兵士のように、ジェニーの気分は高揚していた。

 王城に入ることが嫌でも、抵抗するだけ無駄だ。それに今は、カミーユもそこにいるのだから、ジェニーは、彼女を取り戻すためにそこに行くしかないのだ。

 ジェニーと娘は、今までに一日たりとも、お互いから離れたことはない。毎日、違う感情がジェニーの心を行き交ったけれども、日を追うごとに増してきたのは、カミーユと離れた寂しさだ。カミーユは元気すぎるほど元気だが、彼女がちゃんと食事をしているのか、お腹をこわしていないか、ぐっすり眠れているのか、母親が恋しくて泣いているのではないか、毎日毎日、ジェニーは彼女のことを思って心配した。毎時間毎分、彼女を腕に抱きしめたくて、寂しくて、どうしようもなくなる。そして、二人が離れる原因を作ったゴーティス王には、毎日、新しい怒りを感じていた。


 開かれた扉の先、ラニス公の隣に、二年前と変わらない微笑をたたえたサンジェルマンが立っていた。ジェニーは扉をすり抜けようとし、サンジェルマンの対面に立つ男を何気なく見て、男に目が釘付けとなった。ジェニーと目があって、男が軽く会釈した。

「ああ、嘘……!」

 ――兄ローリーだ……!

 ジェニーは感極まって、男に駆け寄ろうとしたが、あらためて男の容貌を目にして、立ち止まった。男はジェニーの記憶にある兄よりは体格がよく、濃い青い瞳を持っていた。ジェニーと同じ茶色の瞳ではなかった。

 ジェニーが足を止めると、男の瞳がサンジェルマンに動き、困ったように笑った。笑い方も、ローリーとは異なった。

(ローリーじゃなければ、誰?)

 ジェニーが男の存在に戸惑ってサンジェルマンを見ると、彼は胸に手をあて、ジェニーに礼をした。

「久方ぶりだ、ジェニー嬢。お元気そうだ」

 彼は以前のような柔和な笑顔を見せたが、ジェニーにはなぜかその言葉が本心ではないと思え、かすかな寒気を感じた。

「こちらはユーゴ・ベアール殿だ」

 ジェニーが聞いたこともない名前を持つ男は、ジェニーに歩み寄って、その手に口づけを落とした。

「初めまして」

 ベアールが破顔し、彼の顔面いっぱいに笑みが広がる様子を見たジェニーは、彼はやはりローリーとは別人なのだと、がっかりした。すると、彼の大きな笑みは苦笑いに移り変わった。

「妹にまで間違われるとは、たいしたものだね。私とあなたの兄は、本当にそっくりらしい」

「――私の兄のこと、知ってるの?」

 ジェニーが驚いてベアールを見ると、彼は肩をすくめた。

「私が実際に彼に会ったことは一度もないのですがね、彼を知る者たちが私を見て、あなたと同じように勘違いしたのですよ。私の姉はさすがに間違えませんでしたが、彼と私の父がよく似ている、と言っておりました。私は父に生き写しですから、そこはやはり――同じ血筋を引く者同士、なのでしょうね」

 ベアールがサンジェルマンに振り返って、笑う。

 ジェニーはひどく混乱した。ベアールの口から流れ出た数々の言葉は、一本の繋がった筋となって、ジェニーの頭にすんなりと入っていかなかった。サンジェルマンがベアールに笑みを返し、そして、ジェニーにすかさず言った。

「ジェニー嬢、すまなかった。まだあなたには、あなたの“家”について説明していなかった」

 また、自分の知らないうちに、何かが勝手に進行している。

 サンジェルマンの事務的な口調に不安と不信感を覚え、ジェニーは彼に眉をひそめた。

「私の家って、私の故郷のこと?」

「いえ、あなたの父親の実家、つまり、ここにおられるベアール殿の家のことだ」

 ベアールは、紋章の入った帯止めと剣の鞘を身に着けている。紋章入りの物品を所有し、装着できるのは、貴族だけだ。そしてサンジェルマンに同行してきたのだから、ベアールはヴィレールの貴族だ。サンジェルマンは、ジェニーがベアール家の一員だと言っているのだ。

「……そんなの、ありえないわ」

 ジェニーがサンジェルマンを見上げると、彼は彼女を覗き込むように見つめながら、ゆっくりと頷いた。気づけば、ラニス公やベアールが、心配そうに二人を見守っている。

「にわかには信じ難いだろうが、事実だ。ジェニー嬢、あなたは正真正銘、ベアール家の血をひく一人だ」

 ジェニーは、とんでもない、と自分の内で叫び、真っ向から彼の言葉を否定した。

「ちがうわ、そんなこと、あるわけない。私は貴族なんかじゃないわ! それもヴィレールなんかの――」

 おもむろに、サンジェルマンが腰のあたりから短剣を出した。古ぼけた鞘の形状や絵柄に、ジェニーははっきりと見覚えがあった。ジェニーが紛失したものと嘆いていた、彼女の短剣だ。彼が何の目的でそれを出したのかは分からないが、ジェニーは否応なしに目を引きつけられた。

「それは……私の短剣だわ」

「そう、あなたが父親からもらった短剣だ」

 サンジェルマンは同意し、ベアールを呼び寄せて、彼の剣を差し出させた。彼の剣の鞘には、ジェニーの短剣にあるのとまったく同じ図柄の、つるぎの紋章が彫られていた。

「だから? 同じ紋章入りの物を持っているからって、私がその家の出身だってことにはならないわ」

「ええ、私だってそうは思わなかった」

 サンジェルマンは再び、柔和な微笑を見せた。

「ジェニー嬢、あなたにはベルアン・ビルに叔母がおられるだろう? 未婚ながら息子をもうけ、そこでひっそりと暮らしている、ジョセフィーヌという女性。あなたの父親の妹だ」

「ええ、そうよ」

「私とベアール殿は彼女に会ったのだ。それで、判明した。彼女はベアール殿の実姉で、あなたの父親は、家を飛び出して行方不明となっていた、彼の長兄なのだと」

「そんなの……嘘よ」

「いや、事実だ」

 とても信じられなくて、ジェニーは両手で顔を覆った。指の隙間からベアールと視線が合うと、彼の目が同情を含んだ眼差しに変わった。彼がそんな表情をすると、まるで兄に見つめられているようだ。兄が生き返ったように感じられ、なつかしくて、ジェニーの胸が痛んだ。


「――それゆえ、私は今から、あなたをベアール家にお連れする」

 次にサンジェルマンが放った科白を不審に思い、ジェニーは尋ねた。

「でも、カミーユは王城にいるんでしょう? 王城に行くんじゃないの?」

「いえ」サンジェルマンが否定した。「テュデル宮の改装が終了するまでの間、あなたにはベアール家で過ごしていただきたい。それほど大掛かりな改装ではないゆえ、ほんの一月ほどだ。離宮は、王妃様のおられる後宮ほど手は行き届かぬかもしれないが、あなたにはむしろ都合がよいだろう。何不自由なく生活できるよう、整えさせるつもりではいるが――」

 思いがけない単語を耳にし、ジェニーの心が端から内側へと一瞬で凍りついた。

(王妃? 彼は、“王妃”と言った……?)

「……どうかされたか、ジェニー嬢?」

 サンジェルマンに呼ばれた自分の名前が耳の中でくぐもって鳴り響き、やっと、ジェニーは我に返ることができた。けれども、自分の体を直立させる二本の足の感覚が、戻ってこない。

「王は……結婚したの?」

 怪訝そうにジェニーを見た後、サンジェルマンがちらりとラニス公を見た。「――知っていると思っていたが?」

 ジェニーは首を振った。

「知らなかったわ」

 だがジェニーはそう答えながら、約二週間前、まだモーリス宅にいた頃、「ヴィレール王ご夫妻が当地を訪問されるため、外出を控えるように」とモーリスに命じられたことを思い出していた。過去の記憶が消えていた当時、ヴィレールの王は、庶民のジェニーが一生関わることのない、無縁の存在に過ぎなかった。遠すぎる存在で、気にかけもしなかった。だが、ゴーティス王がジェニーにとってどんな存在かを認識していなかった頃から、ジェニーは既に、彼が妻帯者だと知識として知っていたのだ。

 王が、どこかの女と結婚した。

 二年前にも同盟による政略結婚の話が出ていたぐらいだ、少し頭を働かせれば、彼がいつまでも独身でいないだろうことは、ジェニーにも想像できたはずだ。王が結婚したのは、ヴィレールが他国と同盟関係を結んだ結果だろう。彼が結婚したのは国益のためだろうと頭では理解できるが、ジェニーの心が納得できるはずがない。

 ゆっくりと流れこんできた悲しみが、速度を増して、ジェニーを襲った。今にも押しつぶされそうな胸の痛みに、ジェニーの息が乱れた。鼓動が全速力で体中を駆け巡って、悲痛な思いが体の隅々まで行き届く。

 王が昔言った「おまえとなら同盟を結ぶ」という言葉が、ジェニーの胸のうちにむなしく響いた。それには、彼がジェニーを信じ、彼女とだけは心を通わせようとした想いが込められている。その頃と今の自分の気持ちが違うからこそ、わかる真実がある。

(私は、彼が好き……!)

 ジェニーは立っているだけで苦しくて、呼吸ができなかった。胸のうちを叫び出したかったが、何から言えばいいのか、ジェニーにはわからなかった。胸には涙が溜まり、膨張し続けるのに、実際のジェニーの目からは本物の涙は出ない。悲しすぎて泣くことすらできないとは、こういうときを言うのかもしれない。

 ジェニーが言葉を失っていると、サンジェルマンが言った。

「ラニス公、ベアール殿、少しだけ、席を外していただけますか?」

 ジェニーが無理やりに顔を上げると、サンジェルマンの微笑みがわずかに暗い翳を帯びた。


 ラニス公とベアールが退室するなり、サンジェルマンの顔から笑みが引いた。

「王が結婚されていることが、そんなにも衝撃的だったのか」

 彼にはめずらしい、少し高圧的な言い方に違和感を覚えながら、ジェニーは彼を見返した。

「あの人はまだまだ結婚しないと思っていたの。……勝手に」

「あの方の立場をわかっていない、都合のよい考えだ。王はこの国のために結婚されたのだ」

 それはジェニーにも理解できる。

「されど、どういった心境の変化だ? “おまえ”は王のもとから他の男と逃げ出したというのに、王が結婚されたと知って、一度失った地位が惜しくなったのか?」

「そんなの、そんなことは一度だって思ったことはないわ! 私はただ、王が結婚するとは思っていなかったの、ただ、それだけよ……!」

 ジェニーがケインにどんな種類の気持ちを抱いていようと、王とは別の男と王城から逃亡した事実は消えない。言い訳すらできないことが口惜しくて、ジェニーの目にうっすらと涙がにじんだ。サンジェルマンは彼女の涙に気づいたらしいが、何も言いはしなかった。

 それから、サンジェルマンは手近にあった椅子に腰掛けた。そして、抑揚を感じさせない口調で、ジェニーに言った。

「いっそ、おまえが死んでくれていたらよかったと、私は時々思う」

 ジェニーは衝撃を受け、サンジェルマンの無表情にも見える顔を見つめた。彼は、にこりとも笑わなかった。

「どうして」

「理由ぐらい、賢いおまえなら想像がつくだろう」

「私がいると、いろいろと不都合だから?」

 王妃にとって、王の愛人など邪魔なだけだ。王城にとっても、ジェニーは面倒な人物との認識しかないだろう。

 ほら、分かっているじゃないか、というように、サンジェルマンが眉を上げた。

「カミーユを返してくれれば、私は……どこかに行くわ」

 行く当てなど当然ないが、王に妃がいる今、ジェニーは彼の愛人の一人になるために、王城に出向きたくはなかった。カミーユさえいれば、ジェニーは何とか、どこででも生きていける。

 サンジェルマンが目を細めてジェニーを見て、力なく、首を振った。

「それは無理だ。あの娘は王の御子だ、王城で面倒をみる。それに、おまえを自由にするわけにはいかない」

「サンジェルマン、彼女は私の娘だわ!」

「王の娘でもある」

「ええ! だけど、彼女は私の娘なのよ!」

 サンジェルマンが、にっこりと笑って言った。

「子は渡さない。“ジェニー”、おまえにあるのは、王城に行くか――死んで行けなくなるか、そのどちらかの選択だけだ。私としては後者を望むが……おまえは、どうしたい?」


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