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第二部 2.決意−2

 ラニス公地での滞在最後の夜、フィリップが主催する宴が終わる時点でも、サンジェルマンはまだ戻ってこなかった。ゴーティスは席から立ち上がりざま、出入口をさりげなく振り返ってみたが、開いた扉の向こう側の廊下には、行き来する使用人たちしか見えなかった。サンジェルマンも、彼の部下らしき者の姿もない。

 彼がゴーティスに命じられた任務を終えて帰るには、少し時間がかかっているようにも思える。

 男児を抹殺するのに手間取っているのか、幼い女児を伴う旅程に時間をかけているのか――。


 ジェニーの子は、男と女、どちらなのだろうか。

 それが男だとしたら、サンジェルマンによって亡き者とされる。

 ゴーティスは母親としてのジェニーの姿を知らないが、男児の死は、ジェニーを深く悲しませ、不幸のどん底に突き落としてしまうだろう。彼女はゴーティス側の都合を理解できるはずもなく、彼に怒り狂うだろう。だから、彼女の息子がどう死んだのかは、永遠に封印されなければいけない。

 だが、ジェニーの子が女だとしたら?

 ゴーティスはフィリップの幼い娘を目に浮かべ、軽く頭を振った。

 女児であろうと男児であろうと、ジェニーとケインの二人が愛を交わした結果が子の存在だ。そう考えると、ゴーティスは、嫌悪感から吐き気をもよおした。ケインがいくら憎いとはいえ、どうしてその子を引き取ろうなどと考えたのだろう?

 ゴーティスは自分がたまらなく愚かに思えた。顔を見たその瞬間に子に手をかける自分を、ゴーティスは、あまりに簡単に想像できる。

 ゴーティスはテーブルに手をついた。意識が遠のくように感じられたのだ。それから顔を上げると、テーブルの対面に立つカサンドラと視線がかち合った。

 今回もそうだが、彼女は、思いつめたような、何かを求めてすがるような目つきでゴーティスを見て、気まずそうにさっと目をそらす。おそらくは、共に部屋へ引き上げようと、ゴーティスから声を掛けられるのを待っているのだ。彼がそういった気遣いをすることは、今までに一度もないのに。

 ゴーティスは早くこの席を去り、階上の一室で休んでいるジェニーのもとに行きたいと思っていた。具合の悪かったジェニーを小城から無理に本城へ移動させたため、彼女の体調がずっと気がかりだった。彼女には医師を付き添わせ、体調に急変があれば、ゴーティスのもとに知らせが飛んでくることになっていた。けれども、そんなことは単なる気休めでしかない。ゴーティスは彼女の顔色を直に見て、自分の手で、彼女のその冷たい唇や冷えた体を暖めてやりたかった。彼女の紫色の唇が、ゴーティスの頭にこびりついて、離れない。


 カサンドラがフィリップに挨拶を受けたのをいいことに、ゴーティスは彼女を無視して歩き出した。すると、そのフィリップが彼をあわてて呼び止めた。

「何だ」

 一晩でげっそりとやつれたような彼を見て、ゴーティスは足を止めた。

「少しだけ、よろしいですか?」フィリップは無理やりに頬を上げたような、おざなりの笑顔を向け、部屋の奥を示す。

 例の事件の話だろうと思い、ゴーティスはフィリップについて歩いていった。フィリップが立ち止まった地点で、ゴーティスが部屋の扉の方を再び見ると、カサンドラがそわそわとしながら出入口の脇にたたずんでいた。外の通路には、彼女の若い衛兵も控えている。彼女は何も言わないが、ゴーティスから注意を向けてもらえることを、ひたすら待っているようにも見えた。

 用があるならなぜ自分から口を開かないのかと、妻の依存体質はゴーティスを苛々とさせ、意地悪な気持ちにさせる。

 フィリップがカサンドラの存在を気に留めたのを機に、ゴーティスは彼女に目配せし、退室するように促した。すると彼女は明らかに落胆した顔をし、しかし反論はせず、すごすごと去っていった。


 寝室に続く廊下の手前でフィリップと挨拶して別れた後、彼とは逆方向に曲がったゴーティスは、その行く手にカサンドラの姿を見つけて立ち止まった。二人は約十五分前に晩餐の場で別れ、彼女は衛兵と連れ立って寝室に引き上げていったはずだ。だが今、彼女は共の者を誰も連れず、一人で彼を待っている。

 二人の休む寝室は反対方向にあり、この廊下の奥には、ジェニーが医者と共にいる部屋がある。カサンドラはそれをなぜか知っていて、ゴーティスの先回りをしたのだ。先に休むふりをしておきながら、夫の行く先で待ち伏せしたカサンドラの行動力は意外だった。

 ゴーティスは何事もなかったかのように、彼女の方に向かって再び歩き始めた。ここでカサンドラに何かを責められたとしても、ゴーティスには彼女をまともに相手にする気はない。ましてや、彼女を思いやって、彼が今ここにいる理由を優しく説明してやる気もない。彼女が、所在なさげに下を向いた。

「迷うたのか?」

 いつもと同じくおどおどした彼女を見つめ、ゴーティスは自分の背後を指差した。

「部屋は向こうだ。先に戻っておれ、俺はこちらに用がある」

「……あの……!」

 すれ違いざま、自分の手をぎゅっとつかんだカサンドラに、ゴーティスは驚いた。ゴーティスがその瞳を見ると、彼女ははっとして手を離し、頬を真っ赤にさせて彼から顔をそむけた。

「王、あ、あの……私……」 

 思い切った行動を起こしたくせに、彼女ははっきりとした文句を口にしない。

 ゴーティスはいつものように、カサンドラに苛立った。ゴーティスが彼女を見ていても、彼女はいつまでも顔を上げない。ゴーティスが苛立ちを抑えきれずに唇の隙間からため息を漏らすと、彼女はますます顔を硬くし、俯いた。

 いらいらして怒鳴りたくなるのを堪え、ゴーティスは、体を縮めているせいで子どものように小さくなっている彼女を見下ろした。カサンドラは、ジェニー以上に華奢で、折れそうなくらいに手足が細い。それからゴーティスは彼女をやり過ごそうと、震える彼女に向かって身を傾け、右頬に軽く唇を押しつけた。

「これで満足したか、妃殿。明日は出発の日だ、早く休むがよい」

 ゴーティスはそう囁き、カサンドラの横を通り過ぎようとした。

「王!」

「まだ、何か用か」

 うんざりしながら振り返ろうとすると、ゴーティスの背中にカサンドラが飛びつき、彼女の腕が後ろから彼の腰に巻きついた。泣き声にも似たカサンドラの叫びが、通路の冷えた空気を切り裂いた。

「どうか……どうか、お待ち下さいませ……!」

 おとなしい彼女がゴーティスの腰にすがりついて、彼の足は引き止められた。

「今宵は部屋へ……部屋へお戻り下さいませ! お部屋に……!」

 彼女は思った以上に力強くゴーティスの腰を引っ張り、ゴーティスは呆気にとられて、腹の前で結ばれた彼女の手を無感動に眺めた。

「どうか、王……」

 ゴーティスは、聞き分けのない幼児さながらの彼女の行為にため息をつかされた。すると、彼女の手がゴーティスの腰にいっそうきつく縛りついた。

「お……願いでございます……!」

「カサンドラ」

 ゴーティスは通路の突き当たりにいる衛兵に目をやった。その男の背後にある部屋に早く足を踏み入れ、ジェニーの無事を確かめたかった。

「おまえは先に部屋で休んでおれ。我が妻の願いとあれば俺も聞き入れてやりたいところだが、今宵は用事がある」

「いいえ、いいえ……!」

「わがままを申すな。一国の王たる俺にはすべき任務が山ほどある。今宵だとて、同様だ」

「でも、今日だけは……今宵だけは……」

「さっさと部屋に戻れ」

 ゴーティスの背に触れていたカサンドラの顔が離れた。ゴーティスが動こうとすると、彼女のほそい声が通路に響いた。

「ああ、王! 私にも、私にだって……王、私には、この国の世継ぎを産む使命があるのです! そのためには、王にも……王のご協力がないと……!」

 声は弱々しい嗚咽に変わり、彼女はまたゴーティスの腰にしがみついた。

 夫の顔色を常にうかがうカサンドラが、決死の行動に出たといえよう。これまでの彼女の行動を鑑みれば、賞賛に値する行為だ。

 ゴーティスは廊下の奥にいる衛兵を見つめ、冷めた心でため息をついた。これがほかの男相手なら、彼女の行動も功を奏していたことだろう。世間一般の夫なら、妻がそこまで精神的に追い詰められていたのだと、彼女に優しい言葉の一つでも掛け、抱きしめてやるところだ。

 けれども、誰か一人の女のために動く心臓は、ほかの誰かのためにやすやすと動きはしないのだ。涙ながらの彼女の訴えは、ゴーティスの心を捕らえることはなかった。逆に、ジェニーの居場所に向かう寸前で足止めされた状況に、ゴーティスは腹が立った。

 ゴーティスは自分の腰にかけられたカサンドラの腕に手を触れた。そのとたんに嗚咽が止み、彼女の腕から力が衰える。

「世継ぎを、な」

 ゴーティスは両手を使って彼女の腕を取り去った。

「そうだ、王妃の役目は子どもを産むことだ。おまえは正しい」

 カサンドラの腕をはぎ取ってゴーティスが彼女に向き直ると、彼女は鼻をすすりあげながら彼を見上げた。彼女の両目には涙が溢れ、頬に伝わった涙の跡が通路の明かりに照らされていた。期待感だろうか、彼女は顔をほころばせかけたが、ゴーティスは彼女の腕を無情に押し戻した。

「だが、今宵は協力できぬ。一人で部屋へ戻れ」

「でも、私の任務は一人ではできないのです……!」

「手を放せ」

「ああ、どうか! 部屋に独りでいるのは、もう十分で――」

 ゴーティスはカサンドラの腕を振り払った。

「ならば、おまえ付きの衛兵でもかまわぬ、誰か別に相手を見つけろ! 俺は狭量ではないゆえ、一度、二度ならば目をつぶってやる! さあ、向こうへ行け!」

 カサンドラは、目をひん剥いたかと思うと、数歩後ろによろめいた。

 ゴーティスが彼女をよけて歩き出すのと、カサンドラが逆方向に走り出すのは、ほぼ同時だった。



 頭上で女がしのび笑いをしているような気配を感じ、ゴーティスははっとして目を覚ました。見慣れない部屋の窓の外は、夜の闇がいっそう深くなっている。壁面に掛かった絵画の中の婦人像を目にし、ゴーティスは今も夢か幻に身を置いているように思えて、さっと周りを見回した。室内には、ゴーティスと、寝台に眠るジェニーしかいない。

「……気のせいか」

 医者と入れ代わりにジェニーの傍につき、ゴーティスは知らない間に眠ってしまったらしい。ゴーティスの手の先には、ジェニーの手があった。自分の手が彼女の手に繋がっているというだけで、ゴーティスは安心する。

 ジェニーの手は温かく、彼女は安心しきったように眠っていた。処方された薬のせいで彼女の眠りは深く、ゴーティスのいる間、彼女は一度も目を開けない。目を開けて自分を見てほしいとも思うが、この平和で静かなときが破られるのを惜しんで、ゴーティスは沈黙を保つ。

 しかし、ふと、ゴーティスはジェニーの額にかかる前髪を触った。彼女に、特に反応は見られない。次にゴーティスは、彼女の存在を実感しようと、ぎゅっと強めに力をこめて彼女の手を握った。すると今度は、彼女は顔をわずかにそらせ、眉間に小さくしわを寄せた。彼女は、眠りを邪魔されるのが気に入らないらしい。その正常な反応に気をよくして、ゴーティスは笑う。

 ジェニーのいない日常を、もう受け入れたくない。自分の視界に彼女の姿を毎日組み込まなければ、気が済まない。

 ゴーティスは、ジェニーを王城に戻すつもりでいた。彼女を引き入れようとすれば、王城から大反対されることは分かりきっていたが、ゴーティスには何の迷いもなかった。

 ジェニーはもう、モーリスの館には戻れない。ゴーティスがそれを許さず、フィリップも彼の意思に倣うからだ。彼女は自分の帰る場所はほかにあると思っているから、ゴーティスは、激しく、大きな抵抗に出合うだろう。だが、彼女が何と言おうと、彼女の帰する処はゴーティスのいる処だ。彼女の意思など、どうでもいい。


 サンジェルマンの帰着の知らせはまだなかった。彼が小城に留まっているかもしれない、とは、ちらりとも思わない。ゴーティスは、彼はどんなに遅くなろうとやって来る、と確信に近い思いを抱いていた。彼は、“女児”を伴って現れるのだ。

 ゴーティスの鼓動が胸を大きく打ち始めた。

 ゴーティスは子どもなど要らないし、興味もない。興味を持とうとした過去はあるが、それは、自分の一部がジェニーに受け入れられた結果として、子を受け入れてみようと思ったからだ。ただ、当然、子の父親が誰であれ、ジェニーが、その子の母親である自覚は変わらないはずだ。彼女は、昨夜うなされていた無意識下で、「殺さないで」と何度も子の助命を嘆願していた。

 ジェニーには、物理的に、帰る場所はもうないが、それがどこであろうと、彼女が帰りたがるのは子の居場所である。つまり、もし彼女の子が王城にいるのなら、彼女が帰る場所もまた、おのずとそうなるということだ。

 女児の方が都合がいいと気づいてから、ゴーティスには胸やけに似た、はっきりとしない不快感が渦巻いていた。


 ちょうどそのとき、王、と、部屋の外から控えめな男の声がし、ゴーティスはその声から来訪者を特定して、つい身構えた。静まりかえった部屋で扉がきしんで開く。サンジェルマンがゴーティスを見て、普段の笑みを浮かばせた。

「遅かったな」

「は。申し訳ございません」

 ゴーティスがジェニーと繋ぐ手に、彼の視線がちらりと注がれたようだったが、彼は何も言わなかった。彼は、床を一歩一歩踏みしめるように、ゴーティスの方に歩いてきた。

「幼児を連れての旅では、どうしても歩みが遅くなりまして」

 “幼児を連れて”。

 予想どおりの返答だった。

 これで――子を盾に取って、ジェニーを王城に連れていける。

 ジェニーを得られた嬉しさと、子どもを得た嫌悪で、ゴーティスの心が二つに割れた。

「つまり、娘だったわけか」

「はい」

 想像でしかなかった未来図が、ごとり、と大きな音をたてて動き、現実の将来へ進んでいく。緊張で、ゴーティスの下腹が鈍くうずいた。

「お会いになりますか? とても元気で、それは美しい御子ですよ」

「顔を見る気はない」

 サンジェルマンが優しい笑みを浮かべた。

「そうですね、城に戻ればいつでも会えましょうから」

 その笑顔は、小城を出発するときの彼の印象から考えると、ゴーティスには不可解に映る。ゴーティスは片方の眉を上げ、サンジェルマンを重く見据えた。

「どうかされましたか?」サンジェルマンが言った。

「……おまえは、ジェニーの子が娘だったとしても、殺すものだと思うておった」

 ゴーティスが答えると、まさか、と彼は目を細めて笑った。

「その方がよかったですか?」

 からかうような軽口は、むしろ不愉快だ。ゴーティスが無言で見返すと、彼は小さく肩をすくめた。

「ああ、王には参りましたね。――そうですね、当初は、私もそのつもりでおりましたよ。子の存在は何かとやっかいですからね」

 彼が悪びれずに言うのを、なおも不可解に思ってゴーティスは見つめる。

「ふん。では、何ゆえ?」

 室内に入ってきて初めて、サンジェルマンがジェニーを見た。

「私に、王の御子は殺せません」

「――なに?」

「王、子の父親について、彼女に尋ねたことはおありですか? ジェニーの娘は、王の瞳を持ち、王にもよく似ております。あの娘が王以外の父親を持つとは、とても思えません」

「幼少の頃のケインと俺は、見分けがつかぬほど似ておったそうだ。子が俺と似ておっても、何ら不思議はない」

「ですが、あの御子は――」

「こやつは否定しなかった!」

 ケインとジェニーを追い詰めた崖の手前で、彼を庇ってゴーティスの前に立ちはだかる彼女は、ゴーティスが彼女の胎内にいる子に言及したとき、何も言い返さなかった。ケインの子ではない、と反論しなかった。そのときにお互いを支えあうように重なっていた二人の手が、ゴーティスの目に焼きついている。

 その光景を思い出すだけでも苦痛だ。そしてそれは、ゴーティスにとって信じる以外にない、揺るぎない真実だ。

 ゴーティスが声を荒げたせいで、ジェニーが低くうめいて、顔を左右に振った。

「王」

「それはケインの子だ」

「王、せめてジェニーに――」

「黙れ」

 ゴーティスは彼女の手を握りなおし、サンジェルマンを睨みつけた。思い出したくもない苦痛とどす黒い嫌悪で、ゴーティスの口の中がからからに乾いていた。

「今度その話を持ち出してみろ、サンジェルマン。そのときは……娘の命は俺が葬りさる」

 ゴーティスの視線の先で、サンジェルマンが、あきらめたように、開きかけた唇を結んだ。


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