表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/104

第二部 1.出口のない森−7

 北の塔にある部屋に通じる階段付近に、見張りの衛兵の姿はなかった。ゴーティスが指示したとおり、衛兵が持ち場を離れたのだ。照明となる松明の少ない北の塔は暗く、狭い螺旋階段の先は暗がりに消えている。細い階段をのぼっていった突き当たりが、ゴーティスの目指す一室だ。足音を消して階段を上がるゴーティスの前方で物が擦れるような小さな音がし、ゴーティスは唇の端にあがってきた笑いを抑えた。

 予想どおりの展開だ。誰かいる。

 ゴーティスがもっと先に進むと、わずかな弱い光が暗闇に射しこんだ。頂上の部屋が近いのだ。ひそやかに動く何者かの影が、壁面に、やはり弱々しく映っている。

 ゴーティスが息を殺してそっと近づくと、その影を作る人物が、部屋の前の暗がりの中に輪郭を現した。男だ。彼は背伸びをして、扉に付く小窓から室内を覗きこんだり、小窓の端ぎりぎりまで移動したり、何とかして室内の様子を見極めようとしているようだった。背後に迫ったゴーティスの気配にも気づかないらしく、その必死ぶりは滑稽だ。

 ゴーティスが立ち止まって男の動向を見守っていると、男は何度かためらうような仕草をした挙句、部屋の木の扉に手をかけた。

「――そこで何をしておる?」

 男が飛び上がった。

 ゴーティスの視線の先にいる男は、頭だけをまわすようにして振り返り、怯えきった顔を見せた。カサンドラの衛兵だ。

「俺が連れてきた娘を、妃のために偵察に来たか?」

「いっ、いえ! 申し訳ございません、私のつまらぬ好奇心からでございます……!」

「ほう? 妃に忠誠心の厚いおまえが、自らの好奇心を満たすためだけに持ち場を離れたのか?」

「……」

 衛兵が素早く頭を垂れた。若すぎる彼が、王に対する不満を隠すにはそうするしかない。

 ゴーティスが壁から背を離すと、衛兵はあわてて戸口の前から身を離し、道を譲った。といっても、螺旋階段は、二人が体を触れ合わなければすれ違うことができない幅だ。彼はゴーティスとは反対側の壁面に体をはりつけ、顔を背けて、視線を床に落とした。彼の頭が小さく揺れているのは、王に反抗できない口惜しさに歯を食いしばっているからかもしれない。

 衛兵の前でゴーティスが扉に手をかけると、彼の目がすかさずそこに動いた。

「今宵は、この小城にフィリップたちを招待して遅くまで飲む予定だ。中の娘はフィリップへの土産。妃もおまえも、案ずることは何もない」

 衛兵の頭の揺れが止まった。その頭を見つめつつ、ゴーティスは扉を押し開け、部屋と衛兵の間に立ちふさがった。

「妃に問われたらそう伝えるがいい。今宵の席に妃は呼ばぬ」


 内々だけで酒の席を持ちたいと、昨日顔を会わせたばかりの王から三人が急な招待を受けたのは、晩餐前のことだ。

 のんきな妻と気弱な弟は、王の申し出に応え、早々に出発した。二人を先に行かせることは気がかりだったが、フィリップはもっともらしい理由をつけ、遅れて訪問することを決めた。

 フィリップは、少しでも長く自宅に残りたかった。そのときの彼は、今にでもモーリス宅から連絡が入るかもしれない事態で、それどころではなかったのだ。モーリスたちがいわれのない襲撃に遭っているかもしれないのに、のんきに酒を飲んでいる気分ではない。なぜこんな一大事のときに呼び出すのだ、と彼の事情を知らない王に軽い苛立ちさえ覚えた。マリーの無事を確かめるまで、フィリップは気が気ではなかった。

 

 待てるぎりぎりの時間までフィリップは自宅でねばったが、ついに彼の待ち人は現れなかった。夜も更けた頃になって、妻やジェラールに遅れ、フィリップはゴーティス王の滞在する小城に入った。大きな不安は頭から抜けなかった。そして、王のいる一室に通される直前、フィリップは居城から追ってきた使いの者に引き止められた。

「今……聞くべき内容か?」

 はい、と使者は答えたが、尋ねるまでもなく、近衛隊隊長がわざわざ小城にいるフィリップに使いを遣わすというだけで、事の重大さはわかっている。

 彼女の死。モーリスの死。

 胸騒ぎどころではない。最悪の事態を想定して、フィリップの目の前が灰色に変わる。

 しかし、彼にもたらされた報告内容は彼の予想より少し外れていた。一部、想定外の事実さえ判明した。

 あと五分、使者の到着が遅れていれば、知らなくて済んだ報告だった。フィリップは、それを知ったうえで王に対面するはめになったことが、心から恨めしく思えた。

 

 王の隣にはヴィヴィエンヌが当然のように席をとっていた。彼女はおそろしいほど上機嫌で、遅れてやってきたフィリップに優雅な笑みを投げかけた。そうしていると、まるで、彼女こそが王の妻のようだ。二人の対面にいるジェラールは、それまでずっと肩身の狭い思いをしていたのだろう、兄を見ると大きく安堵し、笑顔に変わった。そして、フィリップがよく知る王の瞳は、恐ろしいほどに明々と燃えていた。彼が知る限り、これはゴーティス王以外の者たちにとって悪いことが起こる前ぶれだ。

 フィリップはジェラールの隣にある空席に座った。彼の斜め前にいるヴィヴィエンヌは既に少し酔っているようで、頬が赤く色づいている。王妃の姿はどこにもなかった。

「今宵は王妃様がいらっしゃらないようですが?」

 フィリップが王に尋ねると、ヴィヴィエンヌが王をちらりと見て意味深に笑った。

「妃はまだ酒が楽しめぬゆえ、今宵は呼んではおらぬ。心配は無用だ、俺が不在でも困らぬよう、子守をつけておいた」

「まあ、意地悪なことを。王妃様はまだお若いだけですのよ、王」

 男に媚を売る女を見るのは気分がよいものではないが、それが自分の妻ならなおさらだ。

 王の腕をたしなめるようにたたく彼女に呆れ、フィリップは天を仰ぎたくなる。気まずそうに、ジェラールも義姉を見つめていた。

 フィリップの杯に酒がつがれると、ヴィヴィエンヌの目には夫の姿がますます映らなくなったようだ。彼女はその目にありありと好奇心をのぞかせ、隣の王に体を寄せて言った。

「王、これで全員が揃いましたわ。今宵は何を見せてくださいますの? 私、もうすっかり待ちくたびれましたわ」

「おや、俺だけでは不足か? それは残念だな」

「まあ、そのような意味ではございませんわ! 王にはたいへん楽しませていただいておりますわ。そうではなく――」

「なに、わかっておる。――余興をここへ」

 王が部屋の入口にいた衛兵に合図すると、正面の扉が開けられた。


 広く放たれた扉から、一人の娘が両脇を衛兵に支えられるようにして姿を現した。長い髪には櫛が通っておらず、一般的な村娘が着るような萌黄色のドレスは所々が汚れていた。ヴィヴィエンヌが、場違いのような彼女の登場にあからさまに顔をしかめた。

 娘は疲労困憊している様子だった。娘の頼りなさに、誰もが口をつぐんで彼女のふらつく足取りを見守っている。二人の衛兵は、彼女をまっすぐに王のもとへと連れていこうとした。フィリップは、彼女が背後を通り過ぎていく際にその横顔をさりげなく見上げ、はっと息をのみそうになった。

 彼女だ――。

 フィリップは再び彼女を盗み見て、人知れず安堵の息をついた。

 フィリップがやきもきしてその安否を心配していた、マリーこと、ジェニーだ。彼女は生きていたのだ。

 だが、心の底からの安心は、次に、強い戸惑いと動揺をフィリップにもたらした。彼女が危機を切り抜けたことは本当に嬉しい事実だが、なぜ彼女がここにいるのか、その理由がフィリップにはちっとも理解できない。

 彼女は――用なしとなって、王に後宮を追放されたのではなかったのか?

 王がジェニーを見る眼差しに、彼女に対する何らかの情の類が残っていることは、フィリップには意外だった。ますます混乱した。

(王はこの彼女が不要だったのではないのか?)

 彼女が王城から出られたとしたら、王の寵愛を失って追い出されたとしか考えられなかった。それとも、王は彼女とどこかで偶然に再会し、昔の情がわきあがって、手元にまた呼び寄せたくなったとでも言うのか。

 だが、もしそうであるなら、彼女をフィリップたちの前にわざわざ晒す必要はない。

 予想外の不安がのしかかり、フィリップは妻の手を引いてこの場を逃げ出したくなった。王が不穏な企みを心に持っていることは、間違いなかった。


「……この娘は何ですの、王?」

 彼女を蔑むように見ていたヴィヴィエンヌが、複雑な思惑のからむ沈黙を破った。

 王は彼女にただ笑い、連行されてきたジェニーに告げた。「彼らに挨拶を」

 すると、ジェニーがわずかに顎を上げた。王は彼女に手を伸ばしたが、彼女は無反応だった。髪に隠れていて彼女の横顔がのぞけなかったが、フィリップの目には、二人の間でしばし、視線だけによるせめぎ合いがあったように感じられた。

「挨拶を」

 王はジェニーを見上げたままでもう一度そう言い、彼女にさらに手を伸ばした。ジェニーは衛兵にせっつかれ、王に向かって、手をそろそろと上げる。王がその手をつかんで引き寄せると、彼女はよろめき、王の膝に手をついた。その弱った姿に、フィリップの胸がきりりと痛んだ。

 王がジェニーの腕を支えて直立させると、彼女はついに顔を上げた。ジェラールが彼女を指差し、何かを言いかけ、呆然として止まる。

「マリー、皆に挨拶を」

 王の口からそう紡ぎ出されたとたん、フィリップの体から血の気が引いた。

 ヴィヴィエンヌはジェニーとは初対面だったが、王の脇に佇む彼女を見て、それまでのにこやかな笑顔を醜く一変させた。その豹変ぶりには寒気が起きるくらいだ。ヴィヴィエンヌが、会ったこともない彼女に対して、理不尽で不愉快な思いを抱いているのは明らかだった。

「おまえが……マリー?」

 フィリップが制止する間もなく、軽率にも王の前で、彼女は敵意むきだしの形相でジェニーを睨みつけた。

「ヴィヴィ!」ヴィヴィエンヌは、困惑して彼女を見つめるジェニーにつかみかかろうという勢いで椅子からいきり立ったが、フィリップの制止でそこにかろうじて留まった。が、ヴィヴィエンヌは感情が抑えきれないらしく、こめかみに青筋をたてて、彼女を見据えている。

「おまえが……おまえが、モーリス宅にいたマリーなのね……!」

 ジェニーには戸惑いと緊張が見え隠れし、どう返事をすべきかと迷っているようだった。ヴィヴィエンヌの気迫に押され、その場に流れる奇怪な緊張に恐れをなしたのか、ジェラールの目が助けを求めるようにフィリップにすがりつく。ただ一人、王だけは顔色ひとつ変えず、ヴィヴィエンヌとジェニーを交互に見つめている。

 王はどこでどうやって彼女と会い、いったい、何の目的で彼女をこの場に連れてきたのか。

 王の無表情がフィリップには恐ろしく、いつにもまして、王の真意がはかりかねる。

 自分たちに何をさせるつもりなのだろう?


 おもむろに、王がジェニーの腰を引き寄せた。

「フィリップ、おまえにこやつを紹介する必要はなかろう?」

 フィリップが一人だけ驚いて王をうっかり見てしまうと、王はゆっくりと笑顔をたたえてみせた。

「のう、おまえだけが全ての事情に通じておるようだ。ここにおる全員にわかるよう、事の次第を説明してもらえような?」

 王の落ち着いた口調はそれだけで恐怖をそそる。

 フィリップがほかの三人をうかがい見ると、不審そうな、戸惑った瞳が返ってきた。ジェニーがひときわ大きな戸惑いをもって、彼を見つめ返した。

「フィリップ、公妃の誤解ももっともだ。この女を人知れず保護しておったのは、おまえであろう?」王が言った。

 つまり、王の急な招集はそれについての釈明を聞くためだったのだ。

 フィリップは力尽きた。

「……はい」

「フィリップ様……!」

 王の手にはむかうように体を横に揺らした彼女を、フィリップは長年悩まされていた胸のつかえがとれたような気分で見つめた。

「ああ……。ああ、よかった、ようやく記憶が戻ったのだね」

「――記憶が?」

「彼女はずっと記憶を失っていたのです、王」王と皆の不可解な表情に応えるように、フィリップは説明した。「彼女は私の顔も名前も覚えていなかったのです。これまでずっと――あなたは私を名で呼んだことはなかった。私を、“ラニス公”としか認識していなかったね?」

「……はい」

 フィリップがジェニーに笑いかけると、彼女は瞳に涙をにじませて頷いた。

「なるほど」

 王は椅子に背を預けながら、フィリップに尊大な口調で言った。

「では早速、おまえの説明を聞くとしよう。こやつがおまえの保護下に置かれることとなった経緯を、最初から話せ。無論、この女と俺の受けた襲撃についても、おまえは把握しておろうな? それについても、嘘偽りなく、ここで全てを明らかにしてもらう」

 フィリップの近衛兵たちが北の森で王に遭遇した一件は、この部屋に入る直前に報告を受けていた。だが実際にそのことを王に突きつけられてみると、目に見えない何かに周囲を隙間なく包囲されたようで、彼の背中は恐怖で痙攣した。


 ついさっきまで息巻いていたヴィヴィエンヌは、フィリップ以上に、“この女と俺の襲撃”とのくだりに敏感に反応していた。それを目にして、それまでわずかに残っていた彼女への望みは、フィリップの中でこっぱみじんに砕け散った。

 嫉妬にかられた女の、なりふり構わぬ愚行。個人の身勝手な理由で近衛を動員する罪の重大さは、王族の一員である以上、彼女も知っている。

 フィリップが妻に哀れみを含んだ怒りを向けると、彼女はうろたえ、ひどく青ざめた顔をしていた。彼の目と出合うと、彼女は夫が事情を知っているのだと悟ったのだろう、ひるんで唇を震わせた。

 今頃になって慌てたところで、もう十分に遅い。

 だが、妻をそんな行動に飛躍させてしまったフィリップの後悔も、もう遅い。

 フィリップを庇ってか、口を開こうとしたジェニーを目で制し、フィリップは王に告げた。

「王の御身を危険にさらした責任は、私にあります。私が知ることを……全てお話しいたします」

 王が眉を小さくひそめて頷き、椅子に身を深く沈めた。

 フィリップは、王が自分の釈明を静かに聞く姿勢でいることにまず驚いた。そしてまた、王が、座れ、と隣のジェニーに椅子をあてがったのを見て、王が今でも彼女を慕っているのだと知り、そのことに二重に驚かされた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ