第二部 1.出口のない森−3
小城にいると、気分がすさむ。
ゴーティスの苛立ちの元凶はカサンドラだ。王妃であり、彼の妻。
王城にいれば日々に忙殺され、注意も散漫となれるのに、ここでは、ゴーティスはカサンドラに向き合わざるをえない。彼女は常に夫に従順だ。腹の中にたまった不安や不満を決して表さず、あくまで貞淑な妻として、ひたむきにそこにいる。夫が他の女と消えようが、冷淡な態度をとられようが、彼女は動じないふりをする。傷ついた心を抱えながら、そのくせ次の瞬間には、夫の翻意を期待して、彼女は潤んだ瞳を彼に向けるのだ。
(あんな目で見るならば、文句の一つでも言えばよい。ジェニーのように)
カサンドラの一挙手一投足がジェニーと対比され、妻への鬱陶しさがつのる。
ジェニーを彷彿させなかったら、彼女の存在はゴーティスにとって取るに足らないものだ。結婚など契約の一つなだけ、それ以上でもそれ以下でもない。けれども、未熟な少女であるカサンドラは、国同士の提携の上に成り立つ結婚に、情を交えようとする。ジェニーとは反対に、彼を恐れながらも、愛そうとする。
日を追うごとに、妻への煩わしさが、殺意にじわじわと形を変えていく。ゴーティスは平常心を保つのに必死だ。底なし沼の淵にたぐり寄せられている。沼につま先が触れてしまう日が迫っている。
ゴーティスは王城に早く帰りたかった。人込みの中で、彼女をその他大勢のうちの一人に変えてしまいたい。
(フィリップの妻のように、物欲と性欲を満たせばよいのなら、この結婚はもっとうまくいくだろうに)
この二日間、ゴーティスは妻とまともに顔を合わせていない。昨夜にいたっては、彼女の待つ寝室にも戻らなかった。
王城からは、ヴィスコンデールの街を遠くに望むことができる。山も森も川も一通りあるが、ここの景色や空気は、故郷のそれとはやはり異なっている。全てが新鮮だ。標高の高い山脈が視線の彼方にどっかりと腰をおろし、その山頂は万年雪をたたえている。森の木々は天につき抜けるように立ち、緑が果てしなく濃い。首都より北方に位置する土地のせいか、空気が澄んでいて、鋭い。
ゴーティスは馬を走らせながら、気分が次第に高揚していくのがわかった。
目指していた平原は、思いのほか、遠かった。一面にひろがる森の存在が、人々の距離感を奪っていたらしい。目的の平原に到達するには、この気味の悪い “北の森”を抜けて行くほかはない。
ゴーティスと護衛たちは、鬱蒼とした、暗い森の中に入った。ところが、いったん中に入ってみると、森は予想外に手入れがよく行き届いていた。木々は適宜に間引きされていて、馬車が通れるほどの道が確保されている。明るい日光は木々の間をすり抜け、地面にまで届いている。朝方の雨でぬかるんだ地面には、まだ新しい何頭かの蹄の跡が残っていた。森のうす気味悪い外観から予想されるほど、そこは人間を寄せつけない雰囲気ではない。
湿った風が耳にふれ、ゴーティスはふと、カサンドラ付きの衛兵の顔を思い出した。人見知りの彼女が心を許す、数少ない人間の一人だ。
今朝、ゴーティスが外出する際に妻のいるらしい部屋の前を通り過ぎると、その衛兵が一瞬だけ目を強め、ゴーティスを一瞥した。衛兵の目には悪意があった。ゴーティスが、衛兵にとっては主人である王妃を冷遇するのを快く思っていないのだろう。衛兵は、見た目だけでいえば王妃と同じくらいの年齢で、その若さゆえに感情の抑制がきかないらしい。
とはいえ、その衛兵はヴィレールの近衛兵であり、本来の主人は王であるゴーティスだ。気に染まぬからとの理由で主人を睨むなど、どうやっても許される行為ではない。しかし、ゴーティスは文句も言わず、彼の前を素通りした。
(ジェラールといい、衛兵といい、恋にかまけていい身分ではないか)
二人の、熱にうなされたような視線を思うと、口の中にざらりとした苦味がかすかに混ざる。その種の視線が自分に注がれることを、ゴーティスはどれほどジェニーに求めていたことか。
ゴーティスは、恋する対象がこの世に存在する二人が羨ましかった。実体のない骸を心に抱き続け、過去に恋を置き去りにした彼自身とは大きな違いだ。
(あの女は……いつになったら、ここから去ってくれよう?)
恋というには重過ぎる、苦い古傷をかばうように、ゴーティスは片手で胸をゆっくりと押した。
頬にぶつかる湿り気のある外気は、彼の目に飛び込んでくる世界を、たちまち、違う風景にと変えていく。髪の中を抜けていく森の空気が、ゴーティスにあの忘れられない夏の日をよみがえらせる。ゴーティスは馬を煽って速度を上げ、方向転換をして、木立の中へ走り入った。
行く手にある景色が、彼女を追って山に入ったときの木立が、互いに溶け合っていく。くらくらと目眩がした。虚勢を張った心に、風穴が開く。幻影と現実のはざまに、体が吸い込まれていく。
ゴーティスは奥歯を噛んで、過去に必死で抵抗した。次から次へと頭に流入してくる想いに心を乱され、体が今にも破裂しそうだ。追ってくる護衛たちが口々に何かを叫んだが、馬の操縦に集中していなければ、ゴーティスは、すぐにでも発狂してしまうだろう。
ゴーティスは何も考えたくなかった。何も心に侵入させたくなかった。だが、何を見ても、何を感じても、全てがジェニーに結びついてしまう。
思い出さずにいるにはどうすればいい?
この苦痛を、どう乗り越えればいい?
ゴーティスが欲しいのは、確固とした答えだ。過去を切り離してくれる、救いの手だ。
運悪く、その日のゴーティスには、サンジェルマンもライアンも同行していなかった。ゴーティスが快適な日々を過ごしていると安心し、二人ともが揃って、別件でラニス公の居城に出かけていた。二人のうちのどちらかがいれば、ゴーティスの暴走を止められたのだが。
ゴーティスは、実際にはそこに在りはしない川を目指していた。追いすがる護衛たちの声が風の叫びに同化する。視界の先にある風が、幾重もの声となってゴーティスを呼び寄せる。ゴーティスは馬を駆り立てた。
もっと早く、もっと急げば、今度こそジェニーの手を逃さずにすむ。ライアンに地面に倒される前に、彼女の手を掴まなければ……。
「ああっ……わああああっ……!」
突如、耳をつんざくほどの獣のような鳴き声が辺りに響き渡り、ゴーティスは我に返った。ゴーティスの見ていた山の斜面が風の中にかき消され、周囲の景色が急に迫ってくる。
ジェニーとケインを追う近衛兵の姿が、消えた。ゴーティスの全てが、この場の現実に戻っていく。あのときと違って、ゴーティスが今乗っている馬は黒い。木々の色も、空気の温度も、あの日とは別ものだ。崖の前に立つジェニーは、もういない。
ゴーティスが冷静に返って手綱を引くと、馬が停止したのと前後して、近衛兵が一人、息せききって隣に馬をつけた。
「王!」
男はゴーティスを見て、ほっとしたように白い歯を出して微笑んだ。ここ半年の間に彼の担当となった、新入りの護衛だ。現実が、ゴーティスに追いついた。
「ご無事ですか、王?」
胸の動悸はまだ安定しない。だが、知人に似た笑い方をする近衛兵を目にすると、ゴーティスの追い続けた過去の遺物たちが、遠くへ遠くへと流されながら、波間に消えていく。
「……無事だ」
幻から解き放たれ、小さな落胆を感じてはいたが、ゴーティスは胸をなでおろした。
そして、間髪入れず、また、野太い悲鳴がゴーティスの耳に届いた。今度ははっきりと聞き分けられる。
人間の男の声だ。
◇ ◇
夜明け前まで降り続いていた小雨のせいで、朝一番の空気はしっとりと濡れていた。館の裏にある林は、辺りにたちこめる真っ白い靄に埋まって、その上にあるべき空との境界線が見えない。どんよりと重い空は、いつ再び雨を落とそうかと意地悪く笑っているようで、朝が訪れたというのに、すでに一日の終わりを告げる日の弱さだ。山や森と近接するこの地方は、一日のうちで何回も、天気が気まぐれに変わる。
モーリスは敷地内に留まっているマリーを案じ、せめて午前中だけでも天気がもってくれればよいが、と、好き勝手に動く灰色の暗雲をうらめしく眺めた。王夫妻のラニス公訪問に伴い、モーリスの農園では使用人たちの外出が規制されている。緊急な用件でなければ各自の家から離れないように、というラニス公直々のお達しだ。モーリスは使用人全員と、特にマリーに対しては厳しく、その命令を守るように言い含めてあった。
マリーは気立てがよく、皆を退屈させない娘だ。貴族の女にありがちな高慢さが微塵もない。ラニス公ことフィリップと彼の弟ジェラールは、両名とも、片田舎の貴族の末裔だという彼女に執心だ。人付き合いを敬遠したがるジェラールが、何かと些細な用事を見つけては、月に一度の割合でモーリスの農園にやって来る。彼がマリーを慕っていることは、その態度から一目瞭然だ。ただし、臆病な彼は、本人にその気持ちを伝えていない。
そして、彼の数倍以上に多忙なはずのフィリップは、弟を上回る頻度でモーリス宅に顔を見せる。その訪問の半分以上は彼女と会う目的といえるだろうが、弟と恋の火花を散らすような関係にあるかというと、それはモーリスにも断定できない。フィリップが彼女に接する態度には、敬愛が多分に込められている。
モーリスは、自分の娘ほどの年かさであるマリーを、とても可愛がっていた。
ヴィレール王夫妻の滞在もあと三日。ここまでの四日間は、一日が過ぎるたび、次の日はいつも前日より長く感じられていた。
別棟の戸口に立ったモーリスは、ついさっきドゥーヴルから預かったチェス盤を持ち直し、扉を押し開けた。焼けすぎたパンの香りが鼻につく。奥では、使用人の女たちが大笑いし、賑やかにしゃべっている。彼女たちも、以前とはすっかり様変わりして明るくなった。それもこれも、マリーが来たおかげだ。
モーリスが廊下をたどっていると、「おはようございます、旦那様」と、服の裾で両手を拭きつつ、使用人の女が出てきた。
「おはよう」
「今朝は肌寒いですわねえ。旦那様、マリー様をお探しですか?」
「ああ。いるかね?」
「マリー様でしたら、子馬の具合が良くないとかで、先ほど馬舎に行かれましたよ」
「おやおや、またか。彼女は、馬が本当に好きなのだね」
「ええ、ほんとに。乗馬もお得意なようですからねえ」
マリーの話題が出ると、誰もが嬉しそうに笑う。
「よかった、彼女はそれほど退屈していないのだな」
「ええ。カミーユ様もいらっしゃいますもの」
女が目を細め、階上へ続く階段の方に振り向いた。
「そうだな。では、私もカミーユと会ってくるとしようか」
女が満面の笑みでモーリスに言った。
「上にいらっしゃいますよ。外で遊べないジャンヌたちもカミーユ様に会いに来ています。後でお茶をお持ちいたしますわ、旦那様」
そう言って、丸い顔をさらに丸くして笑顔になると、彼女は奥へと戻っていった。
モーリスが階上へと向かう階段を数段のぼると、今度は子どもたちの騒ぐ甲高い声が聞こえてきた。ジャンヌの声もそれに混じっている。天気が悪いと、使用人の子どもたちは皆、この別棟の二階に集まるのが習慣化している。二階は、マリーが日常を過ごす部屋だ。
階段の半分を上がったところで、モーリスは階下から大声で呼ばれた。
「旦那様! 旦那様、こちらにおいでですか!」
聞き慣れた下男の声だ。彼がモーリスを呼びに来たということは、急な来客でもあったか、誰かが怪我でもしたか、どちらかだ。
モーリスは階上に行きかけた気持ちを戻して、仕方なく元来た道を戻る。玄関扉の前に、下男がそわそわと落ち着かない様子で立っていた。
「どうした?」
「お客人がお見えになっております、旦那様。初めてお会いする方ですが、ラニス公から緊急のご使者だそうで」
この時間帯にモーリス宅に到着するには、ラニス公居城を夜明け前に発つ必要がある。そして、ラニス公からの緊急の知らせは、これまでのモーリスの人生でたった一回きり、前ラニス公の訃報だけだ。
何か、一刻を争う変事があったのか。モーリスの胸が、意図せぬ衝撃で急に冷えた。
再び降り始めた雨の中、小さな平屋建てのドゥーヴル宅に着いたモーリスは、体に付いた雨の雫を軒先で軽く払い落とすと、戸口を小さくたたいた。すると、扉の内側からは何の反応もなかったが、同じ壁面にある小さな四角形の窓に人の動く気配を感じた。誰かが、来訪者の彼の姿を確認しているのだ。
彼は戸を再度たたき、扉越しに自分の名を告げた。今度は、そこに人の吐息が感じられた。
「モーリスだ、ドゥーヴル。私一人だ。ここを開けてくれ」
もう一度言うと、躊躇するような一瞬の間の後、戸が細く内側に開けられ、中から彼のよく見知ったドゥーヴルの顔が現れた。モーリスを見て、彼が緊張を解く。
「旦那様……!」
彼に二の句をつがせず、モーリスは開けられた戸と壁の隙間をするりと通って、中に入った。そして、急いで後ろ手に戸を閉め、用心深く鍵をかける。それからやっと、息を潜めて彼を見ていた他の家族たちの視線にぶつかった。彼の妻、息子二人、娘二人、そして、マリー。マリーの無事な姿を確認するなり、モーリスは長い安堵の息を吐いた。
「一体何があったんです、モーリス様?」
事態を把握していないマリーが、彼を心配そうに気遣い、近づいてきた。ドゥーヴルの妻が水差しを手に、彼女の横に優しく寄り添っている。
「詳しく説明している時間はないが――」
モーリスは水をもらい、一息でそれを飲み干した。それまで気づいていなかったが、緊張のあまり、喉が干からびるほどに乾いていた。
「モーリス様、私の事で何か、ご面倒をおかけしているんですね?」
一同を代表してマリーがそう口にすると、彼は目をつぶって天井を仰いだ。
「モーリス様。どうか、何があったのかお話しください」
人の心にまっすぐに入ってくるような彼女の瞳に、モーリスはとても抗えない。ドゥーヴル家族も不安そうに、心配そうに事の行方を見守っている。モーリスはマリーの茶色の瞳に再び出会い、彼女が微笑むのを見てから、口を開いた。
「……理由ははっきりとはわからないが……マリーの身が狙われている」
一同に緊張が走った。
しかし、マリー本人がそれほど驚いていなかったように見えたのは、モーリスの気のせいだろうか?
「さっき、ラニス公の名を語る使者が来て、彼女を引き渡すように言われた。しかし、どうもおかしいところがあってね。用心のため、彼女の代わりに、マリアンヌを差し出したのだよ。彼らはなんら疑わず、マリアンヌを連れて帰っていった」
マリーが、困惑したように視線を揺らしている。
「取り急ぎ、ラニス公には知らせを走らせた。今日か、遅くとも明日中にはラニス公の使者が来られるだろう。だが、それまでの間は、我々だけで……彼女を危険から守らねばならない」
一同は黙って彼を見つめていた。彼自身と一同の緊張をほぐすため、彼はぎこちなく笑い、一人一人の顔を順番に見ていく。最後にマリーを見ると、彼女は怒りのような強い光を瞳に宿らせ、彼をまっすぐに見つめ返した。
「当分は、彼女には本宅に居てもらおうと思う。執事には、男たちを何人か配備させるように伝えてある。おまえたちも、他の者たちと共同で辺りに気を配っておいておくれ。いいね?」
「もちろんです、旦那様」
ドゥーヴルの妻が何度も首を縦に振る。その手は、マリーの手に力強く握られていた。マリーは青ざめてはいたが、あまり動揺してはいないようだ。
「モーリス様、あの、カミーユは今、どこに……?」
けれども、カミーユに話が及ぶと、マリーの顔は不安そうに変わる。モーリスは彼女に必要以上の動揺を引き起こさないよう、言葉を慎重に選んで切り出した。
「彼女は……アントン家に一時期だけ預かってもらうようにした。マリー、心配なのはわかっているよ。しかし、カミーユが一緒では目立ってしまう、それはわかるだろう? 運のよいことに、相手は彼女の存在を知らない。アントン家にいれば、彼女はそこの一員だとみなされるだろう。この状況下では、きみとは別々に居た方が安全だ。私だってこの選択は辛いが……マリー、わかってくれるだろうね?」
マリーが納得して頷くまでに数十秒が過ぎた。彼女にとっては受け入れ難い、耐え難い選択だろうが、たぶん、他に良い方法はない。モーリスがここに来るまでにも、再三考えたのだ。彼女もそれを最後には理解したのだろう。
「カミーユを……お願いします、モーリス様」
モーリスは、彼女が泣きわめく種類の女でないことを感謝した。




