第一部最終回 8.遠のく瞳−5
歩みの遅れより人目につかない方を優先し、ジェニーとケインは馬を捨てた。
二人はさらに隣の山に渡り、乱立する木立の間に身を隠すようにして進んでは、茂みがあればその陰に移動し、周囲の様子をうかがって、危険がないと確認できるとまた歩いた。
山は通常の営みをしている。小鳥たちは楽しそうに声高に歌い、風はそよそよと木の葉を優しく揺らし、吹き抜けていく。ジェニーは突然の小動物の出現に何回か肝を冷やしたが、それは近くに侵入者がいないことを表しているようなものだ。
ケインはそれまでにもまして耳に神経を集中させているようで、ジェニーとは必要以上に口をきかなかった。二人には短剣一本しか武器がなく、戦いに秀でた近衛兵に見つかったら最後、二人の命はないと同じだ。今のところ、ケインが麓で見たという近衛隊の接近は感じられなかったが、見えない敵に怯える時間が二人の神経をすりきらせている。
こんな移動の仕方を続けていたら、体力より先に精神が尽き果ててしまう。
ジェニーは、二人の精神が消耗されてしまう前に人知れず国境を越えるか、姿を隠してくれる夜が早く来て欲しかった。
二人は何度目かに茂みの陰で腰をおろし、ジェニーは首筋にかいた汗を手で拭って、少しでも心穏やかになれるようにと深呼吸をした。ひと呼吸ごと、心臓の音が速度を落としていく。隣で膝を抱えるケインの視線は、木立の奥に固定されたままだ。
「……大丈夫?」
つぶやくようにケインが言い、ジェニーに振り返った。その顔色は真っ青で、唇に血の気がない。
「少し疲れたけど平気。それより、あなたこそ大丈夫? 顔色がすごく悪いわ」
ケインは唇を押し上げて笑ったが、そのひきつった笑顔はとても大丈夫な様子には見えなかった。まだ具合が回復していないのだ。
ジェニーが彼の額に触れようと手を伸ばすと、彼はそれをよけ、少しむっとしたように口をとがらせて「心配いらない」と囁くように言った。それから、進行方向に目を移す。
ジェニーは左右を見渡し、二人のたどってきた後方をそっと振り返った。遠くの物音も聞き分けようと耳をすましたが、草木が風にそよいでいるだけだ。日は真上から少しだけ西に動き、明るく地上を照らしている。ジェニーの視界にある全てが自然で、不自然なのは、むしろ二人の存在の方だ。
ジェニーはふと、王軍は本当に自分たちを追って山に入っているのだろうか、と疑問に感じた。
国境付近で二人が出てくるのを待ち構えているだけではないか? ケインが、国境警備隊か何かを王軍と見間違えた可能性だってある。それに……あとどれぐらい歩けば国境なんだろう?
「――ここをまっすぐに行って、主道を越えて下っていくと、川に突き当たる。川の向こう側が国境だよ」
ジェニーの心を読んだかのように、ケインが不意に言った。彼はまだ、前方にぼんやりと目を向けたままだ。
「じゃあ、もう少しで国境なのね?」
ケインは小さく首を振った。横顔が、なんだかとても疲れている。
「ねえ、ジェニー」
「うん?」
「ここからは……別々に行こう」
ジェニーがはっとして息を飲むと、ケインがジェニーを見て弱々しく微笑んだ。
「私はここで少し休憩していくから、先に行って。きみは一人でも大丈夫だよね? 私もすぐに追いつくから、国境の向こうで再会しよう」
ジェニーはケインの色素を失った唇を見た。
彼をここに置いていけ、と?
「だめよ、そんなの」
彼が、肩で大きく息をつく。
「なにもここでお別れっていうんじゃない。別々に国境を越えるだけだよ?」
「……いや」
「ジェニー」
「いやよ! それなら、休憩してから二人で一緒に行くわ! 国境を目前にしてあなたひとりを残していくなんて、できるわけがないじゃない!」
「ジェニー、静かに」
ケインが目を細めてジェニーを見つめ、その両手首をつかんだ。手首にまわる彼の指が冷たい。
「ケイン、具合が悪いなら――」
「ジェニー、言い争ってる時間はないんだ」
そう告げたケインの顔はとても寂しそうだ。彼が冷たい指に力をいれ、ジェニーの手首を握る。
彼の瞳の奥をじっと見つめているうち、ジェニーは愕然とした。彼がもうずいぶんと前から追っ手の接近に気づいていたのだ、と悟って息が止まりそうになる。ジェニーがまったく勘付かなかった敵の気配に気づきながら、おそらくはジェニーを怯えさせないように、彼はここまで黙っていたのだ。
ジェニーが自分の至らなさや追いつかれる口惜しさに思わずあえぐと、ケインがジェニーの額に唇を置いた。彼の唇も、肌にあたる頬も冷たい。唇を離すとき、彼は、大丈夫、とジェニーに囁いた。
「……あなたを置いてはいかない」
ジェニーがそう言うのを、ケインは頷いて聞いていた。しかし、一緒に行くつもりがないのは明らかだ。ジェニーはケインの手を引き、自分の温かな手の中でそれを握り締める。
「早く行って、ジェニー」ケインがその手を押し戻して言った。「もうまもなく、追っ手が二、三人やってくる。このまま川まで走っていくんだ。きみ一人なら……きみなら、たとえ見つかったとしても、王は命まで奪いはしないだろうから」
あの王が、直下の女に鼻を明かされたままでいられるとは到底思えない。ケインが見た王軍は、ジェニーに対しての、王の報復心の表れではないだろうか。
「一緒に来て。それに……あの王は私に相当に腹を立ててるはずよ、殺されるに決まってるわ」
ジェニーはケインの手を引いて起き上がらせようとしたが、ケインは首を振り、その手をふりほどこうとした。
「行って」
「早く立って」
「行くんだ」
「ケイン、立って! こんなところで殺されたいの!」
ケインが上目使いにジェニーを責めるように見上げ、言った。
「きみは……殺されないよ。だって、王は、前にもきみを殺さなかったじゃないか」
ジェニーは彼にあっけにとられるとともに、ゴーティス王を彼の顔に重ねて思い出した。黄色のかった彼の瞳に、王の濃い緑色の瞳の光がきらめく。でも、王は、もう既に過去の存在なはずだ。
「……あのときとは事情がちがうわ」
ケインにそう答えると、“狩りの館”で殺されかかったときの王の囁き声がジェニーの耳によみがえり、王城の屋上での彼の言葉ひとつひとつが、あのときと同じ調子で甘い熱を持って語られていたことに気づく。
そうすると、一刻を争うこんな場にいるのに、ジェニーは屋上のあの場に戻って、彼の肌を背中に感じているような気がした。彼と触れた背中から、心臓の鼓動が聞こえる。離れたいのに、離れると不安に思える。ジェニーには、今いるこの現実の方が夢の中のようだった。
「早く行って、ジェニー」
半ばあきらめたようなケインの口調にはっとし、ジェニーは彼に反発して言い放った。
「ケイン、早くして! むちゃだってことはわかってるわ、でも、ここで死ぬわけにはいかないの! 追っ手がとりあえずは二、三人なら、なんとか逃げ切れるかもしれないでしょう!」
「相手は武装した近衛兵だ、私たちが――」
「来て!」
ジェニーは両手に渾身の力を込め、彼の腕を引っぱった。彼が体勢をくずして地面に転がりそうになって、ジェニーを呆れたように見上げる。
「なんて頑固なんだ、きみは」
「ここまで来て、あきらめたくないだけよ」
ジェニーがケインを見つめていると、彼は大きく息をつき、それから、地面に手をついてジェニーの前に起き上がった。ジェニーがなおも彼を見つめていると、彼は服に付いた土を払いながら、ジェニーに言った。
「追いつかれたら、二人とも殺されるよ」
「追いつかれる前に、逃げ切るの」
ジェニーは勇気を振り起こして、笑った。
「国境を越えたら休めるわ、ケイン」
ケインがジェニーの手を取った。同意の印というように、その手を力強く握る。
ジェニーは追っ手の迫る後方に振り返り、その姿がまだ見えないことを確認して前を見た。斜面の向こうには自由な未来へと続く道。川を渡って国境を越えてしまえば、ゴーティス王の影響力がない土地だ。
二人はやっと、再び道を進み始めた。最初は歩き、そのうちに早足になり、周囲を気にしながら駆け出した。ジェニーの手に触れるケインの手は、まだそれほど温かくない。
斜面を降りていくと水の流れる音が聞こえてきた。ジェニーが予想していたより大きな音で、木々の合間からは白いきらめきがのぞいている。ジェニーはケインをちらりと見てみたが、彼は硬い表情で行く手を見つめているだけだ。
追っ手はまだ来ていないが、ケインが力尽きる前に、どうしても川を渡りたい。
二人は山肌から主道に降り立った。主道からさらに山肌を下ると川岸に行き着く。坂道の上下に目をこらしてみるが、誰の姿も見えない。ジェニーが下を眺めてみると、二人の目指す川が見えた。川幅はおよそ二十メートルだろうか、だが、深さがありそうだ。川の水が茶色く濁っているのは、雨で増水したからだろう。
ケインがジェニーの手を一度放し、今度は腕を取った。ジェニーがケインに振り向くと、彼は緊張をたたえた顔でジェニーをじっと見つめている。
ジェニーは、自分の心臓の音を意識した。胸の高さから、音を放つ位置がどんどん上にのぼって、そして、それは胸騒ぎのような切なさに変わっていく。鼓動と連動して、お腹も熱く波打っていることをジェニーは意識する。ただ、痛みや不快感とは少し違う。
お腹に手をまわし、ジェニーは左右と前後、天に向けて伸びていく木々の上にのぞく空を見た。
ジェニーの胸を打つ鼓動は、緊張と不安からのものだけではない。
ゴーティス王が、近くに来ている。
ゴーティスはラニス公領地の国境にいた。ジェニーの故郷や他の国境線の選択は、ゴーティスの眼中にはなかった。ケインと一緒であれば国境を越えるほかなく、彼はこの周辺の地理に通じていて、この地の延長線上にはジェニーの親類が住む地方がある。
ゴーティスが追跡班に途中合流したことは、領地を治めるラニス公にも、隊全体にも知らされなかった。ライアンは、最初こそ身の危険を案じて反対を唱えたが、ゴーティスの決意の固さを知ると何も言わなくなった。ゴーティスを迎えた一部の近衛兵たちも、何も言わない。
手の内から逃げた女を追うことで彼らのいい笑い者になっているだろうことを想像しながら、ゴーティスはその屈辱を舐めてでも、ジェニーとケインを自らの手で捕まえ、亡き者にすることを優先した。逃亡する直前に心を開いた素振りを見せたジェニーと、ゴーティスが好きな者を目の前からいつでも簡単に奪っていくケインが、許せなかった。
馬上のゴーティスは、川岸に迫る国境の川の流れを見るでもなく見ていた。昨夜か今朝に上流では雨が降ったらしく、水位を増し、濁った川の水が小枝や枯葉を押し流していく。流れは一見ゆるやかに見えるが、実際は見た目よりずっと急流のはずだ。川を挟んで向こう側には、なだらかな平野が一面に広がっている。その開けた広野を切り裂くように、馬のひづめの音が響き渡った。
「女がいました!」
ゴーティスは川面から顔を上げた。振り返ると、ライアンの正面に馬が一頭、走り寄ってきていた。王、とライアンに呼びかけられるまでもなく、ゴーティスは知らせを持ってきた近衛の男の元へ馬を近づける。
「どこだ」
「この上の道にいます! ちょうど今追い詰めているところですので、直に捕獲できるかと……!」
「案内しろ」
ゴーティスが馬首を山に入る道に向けると、男が助けを求めるようにライアンに振り返った。ゴーティスはライアンから制止されるかと思ったが、彼は何も言わなかった。ゴーティスがこの瞬間を待っていたことを知っているのだ。しかし、ゴーティスが馬を動かすと、ライアンはその横にぴったりと張りつくように馬を寄せてきた。男が、ゴーティスを見て、こちらへ、と馬を先に進める。
「男も一緒か?」
「いえ、女ひとりだけです!」
「――ひとり?」
馬を走らせる直前、ゴーティスは木立に挟まれた坂道の先を見た。深く暗い山ではないが、女ひとりで移動するには危険すぎる。
ゴーティスたちは坂道を駆け上がった。近衛兵らしき男の声が風に乗って聞こえてきて、手綱を握るゴーティスの手のひらが熱くなる。その手は、ジェニーの肌を覚えている。
ゴーティスは彼女を殺すために会いにいくのに、もう一度、彼女に触れたくてたまらなかった。
はたして、ジェニーは――そこにいた。山の急斜面を背に大きな木の陰に立ち、おそらくは武器もないというのに、男たちに三方向から包囲されつつあっても降伏する素振りを見せていない。
彼女もまた、ゴーティスたちの接近に気づいた様子だった。だが、後から現れた一行の中にゴーティスが混じっているとは気づいていないようだ。ゴーティスは、その目立つ色の髪を覆って、隠している。
ゴーティスは、ジェニーをその目で見る瞬間まで、彼女が本当に王城から逃亡したのだと心の奥底では信じられずにいたようだ。彼女が逃亡を果たして無事でいる事実がどうにも口惜しく、けれど、その無事を知って、ほっとしている。
ゴーティスは、ジェニーの体から香り立つ気高さのようなものに圧倒されかけていた。彼女の放つ生気に心が揺らいだ。そこに堂々と立つ彼女を、自分が手にかけてよいものかどうか、わからなくなる。
だが、隣のライアンが背中から弓矢を取り出す様を見て、ゴーティスは王城の自室での決意を思い出し、現実に戻った。
「それを貸せ」
ゴーティスが手を伸ばすと、ライアンは躊躇うように弓を持った手を後ろに引いた。
「よこせ!」
ゴーティスが苛立って言うと、ライアンは弓と矢を両手に揃え、ゴーティスに手渡した。
ゴーティスはジェニーと自分の間をはばむ物のない地点を探しだし、馬上で弓を構えた。ゴーティスたちに背を向けていた男がそれに気づき、少し右によける。ジェニーは木の陰から左半身を見せ、男たちの接近に備えている。彼女は、体をほとんど動かしていない。
ゴーティスは弓を引き、ジェニーの心臓の位置を狙って矢を構えた。迷いを生じさせる前に、矢を放ってしまうしかない。ぎりぎりと弦の張る音が耳に痛かった。だが、そのおかげで、他の雑音は耳に入らない。ゴーティスはジェニーの胸だけを見据えて、矢をつかんでいた指をついに離す。
ところがまさにその瞬間、ゴーティスの左側からジェニーに矢が飛び、彼女が小さな叫び声をあげて体を地面の上に滑らせた。矢が彼女の体に当たったのか、かすめただけなのか、その瞬間に何があったのかは、わからない。彼女が地面に落ちていくのしか、見えなかった。そして、彼女が体を沈めた瞬間、ゴーティスは手に持った弓矢を放り投げ、馬から飛び降りた。
地面はゴーティスが踏みしめた足元から崩れるように滑ったが、ゴーティスは斜面を斜めに駆け降り、立ちはだかる木を寸前でよけ、地面をつかもうともがきながら山肌を落ちていくジェニーを必死に追った。ジェニーは斜面に抵抗しており、ゴーティスは彼女に追いつけないとは考えなかった。
ゴーティスは転びかけながら、彼女が上に向けて伸ばす腕に手を伸ばした。手は何度か空をつかみ、ジェニーの指がすぐそこにあるのに、彼女の手を掴めない。だが、絶対につかんでみせる……!
「ジェニー!」
ゴーティスの左足が斜面で滑り、臀部が地面にぶつかって、体が山肌を加速して落ちていった。そのおかげで、ゴーティスはやっとジェニーの手をつかむことに成功する。そして、彼女の体を巻き込むようにして自分の体の方に引っぱり、全てのものから彼女を保護しようと、その全身を腕の中に包んで固定した。ジェニーの生身の体が温かかった。その手触りがなつかしく、愛しかった。
ジェニーの無事に安堵したそのとき、ゴーティスは背中に衝撃を受け、二人は急斜面の上でようやく止まった。
背中はひどく痺れていた。自分のうめき声に混じり、遠くで自分を呼ぶ複数の声がゴーティスに聞こえてくる。
埃か土が顔にかかり、ゴーティスは数度咳き込んだ。すると、腕の中でジェニーが動き、力の萎えた彼の腕をそっと押すようにして、ゴーティスの前で身を起こした。
ゴーティスがなんとか片目を開くと、無傷のジェニーの顔がそこにあった。
……どうやら、彼女は無事らしい。
「ゴーティス王、どうして……?」
ゴーティスには答えられなかった。背中の痛みで口が開けられず、自分で、なぜ彼女を救おうとしたのかがわからなかったせいだ。
彼女は……無事だ。
ジェニーの瞳がまばたきするのを見て、ゴーティスの手足から力が抜ける。
もう一度目を閉じると、ジェニーの手がゴーティスの顔に触れ、鼻や口の脇にあった土を払いのけた。それから、頬にジェニーの長い髪がぱさりと落ちてくる。顔の上に、ジェニーの吐息がかかった。
「王、ご無事ですか!」
ライアンの声が近くですると、ジェニーの髪がゴーティスの頬からさっと離れた。斜面を降りてくる何人かの土を蹴る足音がし、それを合図にしたように、ジェニーがゴーティスから離れる気配があった。男たちの声と地面を滑る音が次第に大きくなり、ゴーティスはジェニーが座っていた場所に手を伸ばし、目を細く開いた。しかし既に、彼女の姿はそこにない。
「女を捕らえろ!」
ライアンの命令がゴーティスの頭上に飛んだ。背中の痛みがうすれつつあり、ゴーティスが両目を開けると、正面に立っていたライアンがまた叫んだ。
「女は生け捕りにしろ! 男の方は罪人だ、殺せ!」
ゴーティスが身震いしてライアンの視線の先を見ると、小さくなっていくジェニーの向こうに誰かがいた。金髪の男だ。
顔までは見えないが、数年ぶりの再会となる、弟ケインに違いなかった。
ケインは右腕に傷を負っていた。ひどい傷ではなさそうだったが、服の上腕部が裂け、赤い血が布地ににじんでいる。左前方を行くケインを追いながら、ジェニーは彼の体に何本も矢がかすめるのを目にした。
近衛隊たちは、本気で彼を殺そうとしている。
山肌の斜面がさらに急角度になり、ジェニーたちは左上を走る主道に近づかざるをえなくなった。正面を見ると、木立が途切れ、そこだけ明るい光の当たる、開けた地がある。その地の向こうには青い空が見えた。ただ、そこには、ジェニーたちを護る盾となり、追っ手の視界をふさいでくれる木々がない。でも、そこに向かう以外に道がない。
ジェニーはケインを呼び、ケインの隣に寄った。ジェニーを生け捕りにするように命じられた彼らは、少なくとも、自分を瀕死の状態にさせるような攻撃はしないだろう。ジェニーの体はケインの盾となる。
それが効果的に働いたかどうか定かではないが、彼らは二人に矢を放ってこなかった。
二人の男が先回りしていたが、なぜかジェニーたちに近づいてこなかった。ジェニーがその空地の端に沿ってケインと歩き、顔を上げると、彼らとは別の男たちが逆方向からも近づいてきていた。近衛兵四人だ。
ジェニーたちを見つけると、仲間の動向を気にかけながら、彼らと同様に弓を手にする。二人に逃げる余地を与えないように、だが、二人とは一定の距離を置いて、それぞれの足を止める。
隣を歩くケインの息が荒かった。ジェニーも疲れていたが、ケインの体が心配だった。
その彼の呼吸の合間に水流の音が混じるのを耳にし、ジェニーは、彼の体越しに右側をなにげなく見た。ケインのすぐ向こうは崖で、ジェニーから見えた空の下には、茶色く濁った川が音をなして流れていた。喉が急につまった。
二人にはもう、後がない。
ジェニーはそれをあらためて知った。
近衛兵たちと睨み合うように崖の前に立ったジェニーたちの前に、彼らに遅れること少し、数頭の馬に乗った男たちが現われた。先頭にいるのはライアンで、馬上から、氷のように冷たい目でジェニーを射抜く。狩猟の館での紳士な態度とは一変している。
彼は、ジェニーたちに容赦しない種類の男だろう。
ジェニーはケインを後ろ手にライアンを見返した。すると、ジェニーから目をそらしたライアンが訝しそうに眉をひそめ、次に、茫然としたように動きを止める。
彼の視線がケインに向いていると知り、ジェニーは不思議に思って、そっとケインに振り返った。ケインはぎこちない微笑を一瞬だけジェニーに見せたが、すぐに強いまなざしと変わって、正面に顔を向けた。ジェニーが前に振り返ると、ライアンの後方から、今度は髪を見せたゴーティス王が男たちの間を割って現れた。王自ら馬を操っているので、体に怪我や異常はなさそうだ。
彼がなぜ自分を助けたのかは、今もジェニーにはわからない。彼が自分を愛しているからだと甘い期待を持つほど、彼を信用してはいない。それどころか、彼という人をそこまでよく知らない。
それでも、ここで彼と対峙することになるだろうと、彼にさっき助けられたとき、ジェニーは予感していた。というより、期待していたのかもしれない。
王はちらりとジェニーに視線を走らせたが、彼の興味はむしろケインのようだった。ジェニーが初めて見るような、暗い怒りをこめた表情でずっとケインを睨みつけている。ケインもたぶん、王を睨み返している。王が何の命令も発しないため、ジェニーたちを取り囲む男たちも弓を構えた姿勢で動かない。
そんな状態が続くと、命の危機を感じる前にジェニーは混乱する。ケインは何者で、ケインとゴーティス王の間に何があるのだろう?
「……おまえとは二度と会わぬと思うておったが、五十二号」
やがて、王が低い声でそう切り出すと、背後のケインの体に力が入るのがジェニーにもわかった。
「私は五十二号なんて名じゃない。ケインという名があるんだ!」
ジェニーの前で近衛兵の何人かに動揺が見られた。とりわけ、ライアンの動揺が激しい。
「勝手に囚人番号をつけられて、それも、五十二という数字! 私があなたに何をした? 私が、母上の死に責任があるとでも言いたいのか!」
ゴーティスがジェニーに視線を投げ、それから唇を歪めて皮肉そうに笑った。
「おお、おまえは思うたほど頭が悪いわけではないらしい。その通りだ」
ケインがいきりたったように息を吐いた。
「母上に手を下したのは、王、あなたじゃないか!」
王が嘲笑した。
「俺が好き好んで殺したとでも? ……あの場合、断罪するほかなかろう! 忘れたか、おまえの母親は夫を殺したのだぞ? あの女は、おまえに将来の道筋をつけるために大臣たちと密通し、実権を掌握し、おまえに家督を継がせる気のなかった夫を亡き者にした。おまえは、あの女の間近にいて何も気づかなかったのか? ――気づかなければ、おまえの無知、気づいておったなら、おまえの怠慢が、あの女をあそこまでの行動に駆り立てたのだ。おまえの父親がどれほど家を大事にしておったか……。その誇りを踏みにじったのは、他ならぬおまえであろう!」
「でも、自分の母親を手にかけるなんて!」
「そのおまえの甘さが事態を招いたのだ! 一度ならず、二度までもあの女の家につけこまれおって!」
――実の母親を殺した?
ケインと王の母親が……同じ?
二人は、兄弟……?
ジェニーは耳にした事実に衝撃を受け、体を大きく震わせて、王を見た。ケインに向けられていた彼の瞳がジェニーに素早く動く。哀しみを映し出していると思った彼の目は、ジェニーの予想に反して冷たいままで、彼の感情は、そこから読み取れない。
王がケインを見据えて、言う。
「……今回もまた女の背に隠れるのか、ケイン? 母親と、その姪ルイーズと、今はジェニーと」
王の顔に浮かんだ一瞬の哀しさを目にして、ジェニーは、一度は治まっていた胸のあえぎを再び聞いた。王は、射るような目でジェニーを睨んだ。
「なぜルイーズの名なんか? 彼女はあなたが好きだったじゃないか、よくそう話してたよ!」
「――おまえは、物事を知らなさすぎる!」
王が吐き捨てるように言い、ライアンの手から弓矢をむしり取った。王の顔色が赤く変わっていた。
「そこをどけ、ジェニー!」ケインに狙いをつけながら、王が怒鳴った。「あのときにおまえを殺しておくべきだった! こうなる前に――おまえが俺の元から全てを奪い去ってしまう前に、殺すべきだった!」
ジェニーは王を見上げ、ケインを庇って手を広げた。ケインがジェニーの肩に手を置いて名を囁いたが、ジェニーは譲ろうとしなかった。
「どけ、ジェニー!」
「いやよ!」
ジェニーが言い返すと、王の顔に驚愕が広がった。だがその直後、彼はうめき声をあげ、弓を持ち直してジェニーたち二人に向けて狙いをつけた。
ジェニーはその矢の先から目をそらさなかった。上げた両手もおろさなかった。恐怖はほとんどなかった。彼に命を奪われることが、不思議なくらいに自然に思えた。彼を見ると、ただ、温かな想いが胸全体に広がっていくだけだった。
王は怒りの形相で矢を二人に向けていたが、なかなか矢を放たず、やがて、短く叫んで馬から滑り降りた。ジェニーたちに歩み寄りながら、腰から彼の剣を勢いよく引き抜く。彼の後ろで、ライアンも馬上から飛び降りた。ケインがわずかに後ずさり、ジェニーは背後を気にして振り返る。
二人の前に来た王は、剣を両手で握り、二人を交互に見据えて言った。
「おまえたちが共にいる姿など、夢にも想像しなかった。俺の元からジェニーを奪うのは、さぞや気分がよいことだろう、ケイン?」
ケインがまた、わずかに後退した。
「ジェニーはあなたのものじゃない。それに、私のものでもない」
王が失笑した。
「おまえ、俺に説教するつもりか」
「そうじゃない」
ケインの穏やかな口調がかえって王を怒らせているようだ。彼はケインからジェニーに目を移し、いっそう怒ったように顔を歪めた。
「おお、では両名ともに覚悟はできておるということか。俺の目を騙し、欺いた罪を悔いてはおらぬと?」
王が剣を振り上げる前に、ジェニーの腰にケインが後ろから手をまわす。そして、ジェニーの耳の後ろから、ケインが言った。
「誰もあなたを欺いてなんかいない。全て――逆恨みじゃないか」
王が逆上して剣を振り上げ、ジェニーは今度こそ斬られる、と覚悟を決めた。だが、彼は急に驚愕した顔を作ると、一度上げた剣を宙で止めた。
「……ジェニー、おまえ……よもや、その腹の子は……?」
王の視線はジェニーがケインの腕に重ねた手で止まっていた。ジェニーの手の下でケインの腕がびくりと動き、ジェニーは茫然としている王の顔を見た。衝撃を受けたその顔を目にすると、ジェニーは身が切られる思いがした。王の誤解を知って即座に否定しようとしたが、ジェニーの口からは、言葉がひと言も出てきてくれない。
やがて、王が顔を上げた。
「……おのれ、ようもここまで愚弄しおって……」
王があらたな怒りに身を任せ、剣を握り直す。すると、力の抜けていたケインの腕に力がこめられ、ジェニーは彼に思い切り引き寄せられた。
ジェニーは背後から抱きしめられ、耳元でケインの囁き声を聞いた。
「きみを、死なせはしないから」
彼が後ろにさがっていったが、二人の背後にそんな余地はなかったはずだ。
「待って! 待って、ケイン――」
ジェニーが焦って正面の王を見ると、彼がジェニーの前で初めて、その顔に恐怖をたたえた。
「あ……」
ジェニーの足が地面を離れ、体が不安定になる。
ジェニーと王の視線が絡まり、彼が走り寄ってきた。ジェニーが自由のきく上半身を必死に起こして彼の差し伸べた手に手を伸ばそうとしたが、その前に、ジェニーの世界は青空にいきなり変わった。ジェニーの手は、後ろからケインの腕に引き戻された。
「いや――」
「ジェニー……!」
風が空を切る音が響き、ジェニーの髪が天に伸びていく。
「ゴーティス王……!」
王の声が風のごう音にかき消されて聞こえなくなると、ジェニーはついに王と離れるのだと知って、胸の真ん中に大きな亀裂が走ったように感じた。胸の奥をずっと騒がせていた声が、胸の内に収まりきらない。
ジェニーは胸が熱くなり、目が熱くなった。離れていく空に透明な滴がいくつか散らばり、それがゴーティス王の緑色の瞳に見えて、ジェニーは無我夢中で手を伸ばした。
ジェニーは彼の瞳を見失いたくなかった。彼を、失いたくなかった。ここで、離れたくなかった。
でも、届かない。彼の声はもう届かず、ジェニーの声も届かない。
丸い滴は遠くで光り続けるだけで、ジェニーがいくら手を伸ばして掴もうとしても、決してそこには届かなかった。
……あなたと、離れたくない!
「ゴーティス王……!」
ジェニーの流したいくつもの透明な滴は、やがて、ジェニーの視界を全て覆いつくしていった。
第一部(完) 第二部へ続く
長々と、第一部の最後までお付き合いいただき、どうもありがとうございました!!
お話は第二部に続きます。第二部で完結です。
ちょっと休憩してGW明け頃に更新を再開しますので、またぜひともお立ち寄りくださいませ♪