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第一部 8.遠のく瞳−4

 人間二人がすれ違うには狭すぎる地下階段が暗闇の奥に伸びていく光景を思い出すたび、ゴーティスは屈辱と怒り、とほうもない悲しさで胸がふさがれる。後宮内にあるどの地下通路も王城の外に直結してはいないが、東館か本館か、ともかく、いずれかを経由して、ジェニーは王城の外に脱け出たのだ。狭く暗い通路を通っての脱出も、彼女の勇気をもってすれば難しいことではない。

 ジェニーの侍女はまだそう信じている口ぶりだったが、ゴーティスはジェニーが地下のどこかでさまよっているとは全く考えなかった。賢い彼女は地下にはりめぐらされた迷路のような通路を長時間かけて調べ――ゴーティスには彼女にそれほどの用意周到さがあるとは考えにくかったが――そして、経路を突き止めたに違いない。彼女はその手間さえいとわず、埃っぽく真っ暗な地下通路を延々と歩くことを選んでまで、ゴーティスのもとに留まるのを拒んだのだ。

「あの、王……?」

 前方から掛けられた声に、ゴーティスはテーブルに落としていた目線を上げた。焦点のあったゴーティスの目に、近衛兵の証である青い制服が目に入る。そして、ゴーティスと目が合うと、男がひるんだように慌てて頭を下げた。

 ライアンからの遣いとして、執務室に入室許可を与えられた男だった。どれぐらいの空白の時間が過ぎたのかは知らないが、男はそこでしばらくつっ立っていたらしい。

 ゴーティスは目の前に誰かがいながら思考が飛んでいた自分に腹が立ち、短くため息をついた。男が何度も瞬きして動くまつ毛を目にして、ゴーティスは体を伸ばし、椅子の背もたれに背を預ける。

「ライアンの報告とは?」

 ゴーティスが口をきくと、男ははっとして顔を上げた。男の表情から、ジェニーが見つかったという報告ではない、とすぐに悟る。

「申し上げます」彼は敬礼し、言った。「国の全ての関所で、女と同じ身体的特徴を持つ者は全員拘束するように伝令を出しました。ラニス公領地にある国境沿いの山々には捜索隊を派遣し、また、ベルアン・ビルと旧ヴェスト地区にも別部隊を向かわせ、到着次第、あちらでの捜索を開始する予定でおります」

 たかが一人の女のためだけの、大掛かりな捜索。

 それは口惜しくもあり、ばからしくもあるが、皆が恐れるヴィレール王ゴーティスを手玉に取ったジェニーにはそれもふさわしい気がする。

「捜索方法は任せる。俺が欲しいのはあの女の身柄だけだ。俺に差し出される瞬間まで意識が残っておれば、それでかまわぬ」

「ははっ」

 男がうやうやしく返事をした。

「報告はそれだけか?」

 ライアンらしからぬ報告だ、と思いながら、ゴーティスは男をうかがい見た。捜索状況を伝えるためだけに早馬を走らせるような彼ではない。

「いえ、もう一件。その、それが例の女だという確かな証拠はないのですが……気になる目撃情報がありまして」

 男は歯切れが悪いだけでなく、その顔には恐怖が入り混じった緊張を浮かび上がらせていた。ゴーティスは男を促すように頷いた。

「聞こう」

「は。女の姿が消えた日の早朝のこと、ヴィスコンデール近郊の農家の庭先に干してあった服が何者かに盗まれたと役所に届け出がありました。ちょうど家の裏手にいた幼い息子が、まだ若く、明るい色の髪で、上等な服を着ていた女を目撃しております。その服は農夫が売ってしまったとかで手元には残っていませんが、ただ、その、彼女には連れがいまして……。その、共にいたのは痩せた金髪の男で、背中の、肩の近くに痣があったそうです。痣の位置から、それが罪人の証である焼き印ではないかと農夫が疑い、役所に報告したために今回の件がわかりまして――」

 男はゴーティスと目が合い、顔をこわばらせて口を閉じた。ゴーティスは彼をちらりと見ただけなのだが、彼はゴーティスから顔をそらすように顔をうつむかせる。

 ゴーティスは、しかし、男がもたらした情報にそれほど驚かされはしなかった。いや、正確に言えば、驚きはしたが、ジェニーの逃亡した事実以上に衝撃を受けなかった。誰かの手引きがなければ王城からの逃亡は完遂できない、と想像していたゴーティスの考えをあらためて裏打ちされただけだ。

 あの女は――どこまで驚かせてくれるのだろう。

 報告を聞き、ゴーティスは腹が立ちはしたが、一連の行動をやってのけた彼女をあがめるような気持ちすら覚えた。今頃になって、自覚していた以上に彼女が好きだったのだ、と気づかされた。そして、ゴーティスは今、彼女がますます好きだった。

「それを、ライアンはジェニーとみなしているわけか」

「は、はい」

「その可能性は高かろう」

 近衛の男が驚いたように顔を上げた。

「ジェニーを国境の外に絶対に出さぬよう、捜索を続けろ。その罪人は、見つけ次第、必ず殺せ」

 男は返事をし、退室していく。

 扉が閉まり、ゴーティスは窓の外に目を向けた。広大な青空には、白い雲が一つだけ、ゆっくりと手前に流れてきている。後尾を指で引っぱられたような、雫の形にも見える雲が、ゴーティスの方に向かってだんだんと近づいてきていた。だが後部の丸い部分はいつまでもそこに留まり、雲が流れてくるにつれ、先端部分が細く長く尖っていく。

 ふと、ゴーティスは、ジェニーの捜索など中断し、彼女の望むままにさせた方がいいのではないか、という思いにとらわれた。この捜索の末に彼女が捕らえられれば、彼女は間違いなく断罪される。王である夫に手をかけた母親のときと同様に、ゴーティス自身が彼女の断罪を選択することになる。

 母親の場合は許されざる罪を犯した経緯があったにしても、一般論としてはどうであれ、ジェニーに対してそれがはたして正しいことなのかどうか――。


 数日間、ゴーティスは迷い、考えていた。ジェニーが城内にいないと確信しつつも、そのときはまだ、頭の片隅のどこかで、ジェニーがそのうちにひょっこりと顔を出すのではないかという虚しい幻想を抱いていた。王命により閉め切られたサロンの扉を見れば、サロンも主人ジェニーの出現をひたすら待っているかのように思えた。

 ゴーティスはジェニーを待っていたのだ。

 もしもジェニーが突然にゴーティスの前に再び現われて、地下で迷って困っていた、などと言おうものなら、ゴーティスは彼女をすかさず怒鳴りつけ、文句を散々わめき散らした後で、死ぬほど心配した、と恥をしのんで言ってやるつもりでいた。


 そして、ジェニーが行方不明となって一週間が経とうとする頃、ゴーティスはサンジェルマンの部下の訪問をひっそりと受けた。国外にいるサンジェルマンが出先でジェニーの逃亡を知り、捜索隊に合流するという連絡だろうか、と予想しながら初対面の男の前に出ると、男は厳しい顔を崩さず、ゴーティスへの挨拶も早々にこう告げた。

「王、五十二号が逃亡いたしました」

 男のはっきりとした口調が、ゴーティスが記憶の底に沈めていたある男の存在を無理やりに引き上げた。

 思い出したくもなく、口にものぼらせたくない存在だ。

「何を――言うておる?」

 一度は腰を浮かせた椅子に何とか体を落ち着かせ、ゴーティスは不快な思いをさせた男に苛立って、彼をにらみつけた。しかし、彼はゴーティスの反論など聞き入れないというように態度を崩さず、おごそかな口調で繰り返した。

「五十二号が逃亡したのです、王。看守に傷を負わせて脱獄しました。城内のあらゆる場所を捜し回ったのですが、いまだ、行方がつかめておりません。我々の不徳の致すところで……誠に申し訳ございません」

 ささくれだった冷たい手で心臓を掴まれることがあれば、きっと今のような気分だ。

 ざらついた胸の内が、冷たさと接した面から急激に体温を上げていくのをゴーティスは他人事のように冷静に感じとった。

「それはいつの話だ」

 男は垂れた頭をあげ、ゴーティスに答える。

「剣技大会の最終日前夜です」

 ゴーティスは胸にわきあがる熱い気に耐えられず、額を押さえて椅子から立ち上がった。静かに起きたはずが、椅子は彼の足の後ろにひっくり返って倒れた。椅子が床とぶつかる衝撃音が耳に届くと、強烈な怒りがゴーティスの胸の中全体にあっという間に広がる。

 ゴーティスは男の横を通り抜け、執務室の扉を開け放った。「誰かおらぬか!」

 室内での物音に反応したらしい近衛兵が二人、控え室に待ち構えていた。それに加え、侍従長が心配そうに両手をすり合わせている姿も見える。

「おまえたち、今すぐに馬を用意しろ! 今すぐに、だ! 俺もライアンの部隊へ合流する!」

 侍従長は何か言いたそうだったが、ゴーティスは彼をまるっきり無視した。男たちが走りさり、それから、ゴーティスは室内にまだ残っているサンジェルマンの部下に振り返る。彼の他の部下たちと同様に肝のすわった男なようで、ゴーティスの怒りを目の前で見ても怯えた様子は見せない。ゴーティスは男につかつかと近づいた。

「おまえたちは何をしておったのだ! あんな腰抜けに脱走を許すとは何たる失態! よいな、どんな手を使うても五十二号を捕らえ、確実に息の根を止めろ! 絶対に逃すでないぞ! 五十二号を殺すまで城に戻れると思うな! よいか、万が一、もしもあの男を仕留められないときには、おまえたちは――その一家全員も、死に目に遭うと心得るがいい……!」


 出発の準備が整えられるまでのほんの短い時間、ゴーティスは自室に戻り、部屋にある窓から空を見上げた。王城の建つ地方は、夏の期間はほとんどが晴天で青空が広がることが多い。今日もまた抜けるような青空で、ゴーティスから見える空には雲ひとつ浮かんでいない。

 そうやって空を見上げているうち、ゴーティスはなぜか笑いが止まらなくなり、体がそれに伴って震え始めた。晴れ上がった青空に目がくらんだ。ゴーティスは視界からそれを隠すように両手で目を覆い、両目に押し付けられた手には体の震えが伝わってくる。

「よもや――ケインと逃げるとは!」

 その後もしばらく、笑いは続いた。体の震えも止まらない。

 だが、ゴーティスは無駄に体の欲求に逆らうことはしたくなかった。笑いたいなら、笑えばいい。

 戸口で誰かがゴーティスを呼ぶ声がし、出発の準備が済んだことが知らされた。ゴーティスは顔を覆った手の下から返事をした。そして、窓辺から離れようとしたそのときになって初めて、視界がかすみ、手のひらが冷たくなっていることに気づいた。ゴーティスが不思議に思って手のひらをよく見ると、両手ともに、透明な水で濡れている。ゴーティスは、泣いていた。

 ゴーティスは唇を噛み、窓の外に再び目を向けた。青空を目にするとあらたな涙がにじみ、彼の視界はいっそうぼやける。体も震えた。それでも、この眩しい青空から目をそらさず、脳裏にこの光景を焼きつけておかねばならない。

 ――自分のものにならぬジェニーを、自分の手で殺してしまうために。


  ◇  ◇


 遠目から見た低い山は、実際に入っていくと緑が深く、どこまでも上り坂が続くように思えた。そのせいで広野を駆け抜けるのと同じ速度で馬を進めることはできないが、徒歩で山越えをするよりはずっと速い。ケインによると、この山を越えた先の国境には関所が設けられているそうだ。ただし、関所を避けて越境する者は後を絶たないらしい。

 ケインが一緒にいてよかった、とジェニーは心の底より思っていた。彼の存在があるおかげで、ジェニーは身の安全が確保され、寂しさを感じずに旅を続けてこられている。二人であるために、旅行者として不自然に映らない。そして、彼はこの地方に度々来たことがあるらしく、近辺の事情にも通じている。土地勘もないジェニーだけでは、何日たってもヴィレールから抜け出せなかっただろう。

 山に入ってから休憩もとらずに馬を進ませ、服の下にうっすらと汗をかいてきた頃、ジェニーと併走していたケインが不意に振り返って、手招きした。ジェニーが馬の手綱をしめて足並みを止めつつ彼を見ると、彼が、獣道のような脇道にそれていこうとしている。

「どこへ行くの?」

「道は悪いけど、こっちの方が近道なんだ」

 ケインがにっこりと笑ってそう教える。

 ジェニーは彼の背後にある獣道の先を眺めた。二人のいる場所は日光がさんさんと降りそそいでいたが、その先は木々の濃さが徐々に深まっていく。

「来て、ジェニー」

 ジェニーを急がせるように、めずらしく苛立ちを含んだ口調で彼が言う。

「うん」

 ジェニーが馬の腹を蹴るのを見届け、ケインは自分の馬を促し、先導をとって脇道に入る。彼が馬を操る仕草で、ジェニーには彼がまた焦っていることがわかった。国境を前にして気が急いているのに違いない。

 日なたより日陰が多くなってくると、それまでの疲れが心地よい気だるさとなってジェニーの手足の先に充満していった。辺りは静かで、小鳥のさえずりや動物の動きまわる音がしない。馬が草や落ち葉を踏みしめる音のほかに、何も聞こえなかった。山が静まりかえるというのはなんだか奇異に感じられる。山は侵入者の二人の存在を知って、じっと息をひそめているかのようだ。

 二人の通る道はそれまでと比べて道幅が極端に狭く、体の間近にまで伸びてきている枝をよけながら行かなければならないのに、ケインの歩みは速かった。彼の進む速度はそれまでとほぼ同じだ。そして、彼はジェニーに一度も振り返らない。

「もう少し待って、ケイン!」

 馬五頭分ほどの差をつけられたとき、ジェニーはついに前方の彼に叫んだ。すると彼はすぐに手綱を引いて馬を止め、くるりと後方を振り返った。それから、彼の右手に広がる林の方を、何かを探すように見つめる。

「ケイン?」

 彼に近づきながらもう一度彼の名を呼ぶと、ケインが無言で、唇に人差し指をつけた。ジェニーははっとした。急に彼の性急さの理由を理解したように思え、彼がそうしたように、右側の林の中をそっとうかがい見てみる。光が細長い線となってところどころに差し込む木々の間には誰も何もおらず、動く影もなく、特に異常は見られない。ジェニーがケインに視線を戻すと、彼はジェニーの馬の足取りを注意深く見つめていた。

「ごめん、ジェニー。少し気が急いていたみたいだ」

 ジェニーがケインに追いつくと、彼が申し訳なさそうに小声で謝った。それはいいの、とジェニーは言い、彼が気にする、右側に傾斜していく林を再び見やる。

「それより、何か――誰かいるの?」

「……裾野の方から馬が二頭、それに、上の方にも何頭か――数はわからないけど、たぶん、さっきの道を移動してきてる」

 ジェニーが驚いてケインの目を見つめると、彼はジェニーに小さく頷いた。

「追っ手かもしれないってこと?」

 ジェニーが訊くと、ケインはやるせなさそうに息を吐いて空を見上げ、口惜しそうに答えた。

「下からの二頭はそうだと思う」

「ケイン、でも、なぜそれが追っ手とわかるの? あなたの耳がいくらよくても、音だけじゃ――」

「さっきの町でサンジェルマンに会ったんだ」

 ケインはジェニーの問いをさえぎって言い、ジェニーが驚いた反応を見せると、苦笑した。ジェニーは言葉が出ず、ただただ驚いて、彼を見つめる。

「彼を当然知っているよね? 私はさっきの町で彼に顔を見られた。彼がきみの顔を見たかどうかまではわからないけど、彼は私が王城から逃れたことを知ってしまったんだ、必ず私を追ってくる。私に王城の外で生きていられては困るんだ。彼は私を捕らえ、今度こそきっと、亡き者にしたいはずだ」

 ケインは自分の身に迫る危険を人ごとのように淡々と説明する。ジェニーは迫りくる不安に寒気を覚え、鳥肌のたった腕を押さえた。

「上から近づいてくる者たちは誰なのかわからない。旅行者か地元の者か、それとも山賊なのか。どちらにしろ、用心にこしたことはないと思う」

「……ええ、そうね」

 急ごう、とケインはジェニーを促し、背中を向けた。ジェニーも彼に続いて、馬を進ませる。

 ジェニーは彼の無言の背中を見つめ、それから、自分の背後に広がる木立をこわごわと振り返った。明るい林は静まりかえっている。それを目と耳で確かめると、ジェニーは前方を行くケインの背中をまた見つめた。

 “サンジェルマンが、追いかけてくる”

「ケイン」

 ジェニーが辺りをはばかって呼びかけた小さな声は彼の耳に届いたようだ。ケインが馬を止めずに振り返る。

「ケイン、あなたは……何者なの?」

 ジェニーの投げかけた質問に、ケインは困ったように笑った。少しうつむいた彼の表情が、ジェニーがどこかで見たことのある男の顔に重なる。

「私が怖い?」

「ううん、そんな意味じゃないの。でも、サンジェルマンから命を狙われるなんて――」

 ケインが遠くを見つめるような目をして、だがすぐに、嫌なものから目をそらすように両目を閉じた。

「ごめん、今は何も言えない。でも、国境を越えたらきっときみに事情を話すよ。約束する」

 彼の困ったような、悲しさを含んだ笑顔を見て、ジェニーはそれ以上、何も追求できなかった。

 

 ケインが選んだ近道を通り、二人は遅くともその日の夕方には二つ隣の山に渡り、国境を越える計画でいた。ところが二人は、次の日も、そのまた次の日の朝も山中にいた。ケインにひどい腹痛と発熱があり、途中で足止めをくらったのだ。

 今の季節の山は食料にはことかかない。ケインを介抱する合間に、ジェニーは近くの野いちごや木の実を採集し、今までの空腹を取り戻すかのように夢中でそれを口にした。空腹が満たされるにつれ、ジェニーは自分が相当に疲れていたことに気づかされた。この機会に乗じて休息できることをありがたく感じた。

 その後、ジェニーが心身ともに癒され、ケインの熱が下がって何とか移動できるまでに回復したのは、ジェニーがケインに折り重なるようにして眠りに落ちて目覚めた、二日目の朝のことだった。

 それから二人は、それまでの遅れを挽回しようと進行速度を上げ、隣の山に移動した。この山の麓が二人の目指す国境だ。

 周囲に気を配り、なるべく人目につかない道をとって二人が進んでいくと、途中から湿った空気に変わった。馬の歩く道が湿り、そのうち、濡れた地面に移り変わる。ジェニーの真上にある空はもう青かったが、こちらの山では雨が降ったのだ。濡れた土の匂いが地面からたちのぼっている。

「ここで待ってて」

 ジェニーを残し、ケインが山を下る道を確認しに見晴らしのよい地点に行った。この山の反対側は国境とつながっている。二人が自由を勝ち得るまで、あとほんの少しの辛抱だった。

 ほどなく、ケインがひどく落ち着かない様子で小走りで戻ってきた。その彼の青ざめた顔を一目見るなり、ジェニーの胸に鈍痛が走る。

「何かあったの?」

 ケインは衝撃を受けたように顔をあげ、ジェニーをそのまま見つめた。遠くからは小鳥が幸せそうにさえずる声が聞こえてくるのに、ケインはなんて悲しそうな顔をしているのだろう。

「ジェニー」

 ケインの声を聞くとジェニーの鼓動は一気に加速した。一言も聞きもらさないようにと、ケインの唇を注視する。

 ケインは泣いてはいなかったが涙をぬぐうような仕草をし、ジェニーを避けるように地面を見つめた。その沈黙が耐えられない。ジェニーが、もう一度彼に声を掛けようとしたときだ。

「麓に青い制服姿の部隊が見えた。あれは近衛隊、それも、たぶん……王軍だ」

 ジェニーは言葉を失い、ケインも無言で、気が抜けたようにお互いを見つめた。頭の中が空白に変わり、手をどう動かして手綱を扱い、足をどうすれば馬から降りられるのかさえ、そのときのジェニーにはわからなかった。

「ジェニー」

 ケインの声で我に返り、ジェニーはとっさに後方を振り返った。

 後ろからはサンジェルマン、前方には近衛隊。国境線は、近衛隊の向こう側だ。

 ここで、ぐずぐずしてはいられない。

 でも――じゃあ、私たちは、どちらに進めばいい……?

ここまで読み続けていただき、本当にありがとうございました。

いよいよ、次回が第1部の最終話となる予定です!

次回の話は少し長くなってしまうかもしれませんが、最後までぜひぜひおつきあいくださいませ♪

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