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第一部 7.眼下に望む街−3

 三日後の夜には盛大な宴、その次の三日間には年一度の剣技大会をひかえて、王城は誰もがそれぞれに準備に忙しく、そして、高まりつつある期待と緊張に満ちた日々を送っていた。

 ゴーティスは、数年来その行事を欠席していた従兄弟フィリップが今年から出席すると知ってもそれほど驚きはしなかったが、彼が妻や弟を伴うと聞き及んで、驚きを隠せなかった。特に、フィリップの弟ジェラールは、小さい頃から臆病で気が弱い。風の噂にだが、ゴーティスが各地に戦に繰り出すようになってからというもの、常にゴーティスを恐れ、動向を気にし、やみくもに注意を向けられないように自宅にずっとこもっていたと聞く。従兄弟の一人なだけであるジェラールは、ゴーティスにとっては取るに足らない存在だったのだが。だがともかく、その彼の重い腰をフィリップは上げさせたのだ。

 かくして、体調が思わしくない彼らの父ラニス公の代理として、フィリップたち三名が今日の夕方前に王城に参上するという。

 フィリップからは、延び延びになっていたジェニーへの返礼を持って行く、と数日前に書状が届いた。そこには、ジェニーへの感謝があらためて表明されているとともに、彼女の行為に対するゴーティスへの感謝も添えられていた。彼の直筆の手紙文面のあちこちから、彼のあからさまなジェニーへの好意が読み取れる。

 フィリップは、ジェニーに再会したいに違いない。

 そこによこしまな思いは感じられなかったが、だとしても、ゴーティスにとって、決して面白くはない。


 毎朝の剣の練習を終えてゴーティスが東館に戻ってくると、眼下に見えるサロンに濃い緑色のドレスを着た女の後ろ姿が見え隠れしていた。女は中庭の出入口付近に立っており、ゴーティスの立ち位置からは女の顔や髪の色は見えない。付き添いの侍女らしき女の存在もない。

 ジェニーにしてはめずらしい色の服装だと思いながらも、この時間帯にそこにいるのは、彼女以外に考えられない。ゴーティスは先日のジェニーの真面目な面持ちを思い浮かべ、自分が予想以上に混乱を味わった瞬間も思い出した。

「王、この後に朝食が――」

 ゴーティスが部屋を去りかけると、室内で待機していた侍従長に声を掛けられる。振り返ると、彼は白髪の混じった眉を寄せ、わずかに心配そうに顔をくもらせている。ゴーティスは、彼が心配性で常に顔色がすぐれなかったこと、最近になって血色が良くなったと皆から言われ、顔をほころばせていた日のことを思い出した。

「長くはかからぬ」

 ゴーティスが部屋の出入口の手前で立ち止まって侍従長を見ると、彼が眉を上げ、驚いたように目をみはる。

「はい……!」

 侍従長の頬がバラ色に変化し、彼の隣に並んでいた召使の女たちも同様に驚いて、一同に戸惑っていた。侍従長が唇を震えさせながらも顔をくずし、泣き笑いのような笑顔となる。ゴーティスは、唇にのぼった笑みを噛んだ。

 ゴーティスは彼らのいる部屋をあとにする。

 ゴーティスが笑いかけると侍従長たちが幸福そうに微笑み返す日常があったのは、それほど昔のことではないのだ。


 東館からサロンに行くためには、後宮につながる通路をたどるより中庭を突っ切る方が早い。

 ジェニーと対峙するほとんどの場合が、彼の望まない、面白くない結果に終わるのに、ゴーティスは彼女がいる場所に足を向けずにはいられない。しかも彼女を前にしても、以前ならば躊躇なく組み敷いた彼女の体に、ゴーティスは手も出せずにいるのだ。

 居並ぶ美女たちを尻目に、女と呼ぶには幼すぎる彼女に執心する自分の気が知れない、とゴーティスは自嘲する。ジェニーは幼稚といえるほどに真正直で、周囲の大人たちのような計算を知らず、皆が厚遇する王ゴーティスを心のままに冷遇し、反発する。だからこそ、彼女はゴーティスの機嫌を簡単に損ねる。だが、彼女の言動すべてが真実に基づくものだと、ゴーティスはよく知っている。

 いつだったか、それと知らずに触れたゴーティスの手の感触に安心し、微笑むジェニーを目にしたとき、それが寝ぼけていた上での反応だったとはいえ、自分の行為で彼女が喜んだ事実はゴーティスの心を一瞬にしてからみ取った。彼女の本物の微笑を再び手に入れようと、ゴーティスは世の男たちの真似をして彼女の好きな書物や菓子を贈ってみたが、どうやら、彼女は目もくれなかったようだ。ゴーティスからの物品を遠ざける傾向もあったらしい。

 ……サンジェルマンの名をあげなければ、あのノワ・パイでさえ、口にしたかどうか。

 彼女の反応に出会うと歯ぎしりするほどに口惜しく腹立たしいが、数日間と彼女の顔を見ていないとゴーティスの心はざわざわと波立ってくる。

 まるで、自分の牢の鍵を自分で持っている囚人のようだ。不愉快な環境からはいつでも出られるのに、彼の自由意志で牢内にいつまでも留まっている。

 衛兵のいるサロン出入口からゴーティスが中を眺めると、見慣れない侍女らしき者の後ろに、彼が東館から見かけた緑色のドレスを着た人物がみとめられた。その体格と髪の色を目にしたとたん、ゴーティスの歩く速度が劇的に落ちる。

「……王!」

 ほとんど立ち止まった彼のもとへ、滑るようにオルディエンヌが走り寄ってくる。彼の愛人たちの内でも目立たない存在ではあったが、過去数ヶ月にわたって彼女の顔すらも見ていなかったために、彼女の印象はかなり薄れていた。地味ではあるが整った彼女の目鼻立ちを見ながら、ゴーティスの期待と興奮は、あっという間に冷めていく。

「ここでお会いできるとは、思いもしませんでしたわ……!」

 オルディエンヌは彼の側に急いで来てはみたものの、はじらうように顔をうつむけて微笑んだ。背の高い彼女は顔の位置がゴーティスにも近く、滑らかな肌の表面がよく見える。

 ゴーティスが口を開かずにいると彼女が顔を上げ、彼にそっと近づいた。

「王……」

「おまえと――ここで会うのは初めてだ。おまえは、外を好まないと思うておった」

「まあ、そんな」オルディエンヌがにっこりと笑い、彼に目を合わせようと視線を上げた。「毎朝ではありませんが、私も……ここに来ているのですよ」

 ゴーティスが知る限りでは、朝はおろか日中でも、オルディエンヌがサロンに降りてきたことはなかった。人付き合いを苦手とする彼女がジェニーのいる朝のサロンに合流した光景も目にしたことはなく、そんな噂も耳にしたことがない。彼女のわずかな言いよどみが、それが嘘だと物語っているようなものだ。

 ゴーティスは彼女が笑みを作るために口角を押し上げるのを、見知らぬ誰かを見るように眺める。

「それは知らなんだ」

 彼女が挨拶のキスをしようとゴーティスの口元に唇を寄せようとし、彼がわずかにそれをよけて頬を出すと、彼女はおとなしく頬に口づけをした。唇は柔らかく、冷たかった。

「よかった、お元気そうですわね」

 オルディエンヌはゴーティスの腕と触れた体を離さず、目を細くして微笑む。露出しようとしなくても服に隠しきれないオルディエンヌの胸を一瞥し、ゴーティスは彼女の朱色の唇に気づいて、彼女が以前よりも濃い化粧をのせているのを不審に感じた。

「近頃はめっきりお忙しくなったと知り、王の身を案じていたのです。外国からお客様が来ていらしたとか?」

「もう帰った。だが、すぐに別の客人たちが城に来よう」

「剣技大会に参加される方々でございますね」

 ゴーティスが頷くと、彼女はまたうつむいて小さく微笑む。

 それを目にしたとき、ゴーティスは、彼女が、自分に誘いをかけているのだとようやく気がついた。彼の要求を拒みはしなくても、一度も欲求を表さなかった彼女が。驚いた。彼がそうやって見ていると、オルディエンヌは微笑んで彼を見上げる。

「王、今年は私も大会を観覧したいのですが……よいでしょうか?」

 彼女の願いに、ゴーティスはまたもや耳を疑う。

「そんなに驚かないでくださいませ、王。私もたまには外で気分転換をしたいのです。その、他の方々も、観覧なさるのでしょう?」

「――他の者?」

 ゴーティスが声をひそめると、彼女が胸を彼の腕から離し、言った。

「後宮にお住まいの方々――カトリーヌ様やジェニー様や……」

 他の女への対抗心から、彼女にしては積極的な行動に出たのか。

 オルディエンヌは話を続けようと努めていたが、ゴーティスが唇を引き締めたことに気づいたらしく、それ以上に続かなかった。それまでのさわやかな笑みが、ぎこちない愛想笑いへと変わっていく。

 ゴーティスは、大会への出席を自らジェニーに提案し、断られたときの情景をよみがえらせた。その他大勢からは参加の許可を請われる一方で、王である彼が直々に申し出る唯一の相手には断られるとは、なんとも皮肉なことだ。サロンで彼女に会えると考えてのこのこと足を運び、勘違いだとわかったときのゴーティスの落胆をジェニーはわかりはしないだろう。

 ひと気のないサロンの入口に目をやると、ジェニーが今にもそこに足を踏み入れそうに思え、ゴーティスの胸は熱くなる。ゴーティスは、自分をそんな状態に陥らせるジェニーがいまいましくもあり、そんな自分に対しても、いまいましく思えてならない。

 ゴーティスがオルディエンヌに注意を戻すと、彼女は不安そうに視線を泳がせた。たぶん、彼を寝所に誘おうとして失敗したことを自覚し、彼の機嫌を損ねたのではないかと心配している。

「大会に出席したくば女官長に話せ」

 ゴーティスがそう言うと、彼女の頬が少しゆるんだ。

「よいのですか? ありがとうございます、嬉しゅうございますわ」

「おお、どうせなら前夜の宴にも出席しろ。宴は華やかな方がよい。おまえたちの席を用意させておくゆえ、他の者にもそう伝えておくがよい」

「ま……あ。では、カトリーヌ様とジェニー様に――」

「ジェニーはよい」

「えっ?」

 オルディエンヌが戸惑って彼を見上げる。

「あの女は宴の席にはいらぬ。おまえたちがおれば十分だ」

 オルディエンヌはあきらかに戸惑っていたが、彼の返答が嬉しかったのか、照れたような笑みを表情に混じらせている。

 彼女もまたジェニーの存在を気にしていたのだ。ゴーティスは、彼女の女のさがを初めて垣間見たような気がした。

 ゴーティスが東館に戻ろうと踵を返すと、王、とオルディエンヌに呼び止められた。ゴーティスは浅い息をつき、後ろを向く。

 すると、彼女が華奢な手を彼の肩に伸ばし、体を寄せてきた。その柔らかな体の重みにゴーティスの手は彼女の腰に自然に伸び、彼女が自分の唇に口づけるのを許した。それから彼女は口を開いて舌を押しつけ――彼にそれ以上の展開を期待していたようだった――しかし、ゴーティスは彼女の欲求には応えないで、唇だけを表面的に受けた。彼女はとても肉感的なのに、何の官能も感動も得られない。ゴーティスは、この口づけが単なる物質的な触れ合いでしかないことを思い知らされた。

 唇を離した後に、王、と彼女はもう一度囁き、ゴーティスの顔の前で神経質そうにまつげを震わせる。ゴーティスは彼女の腰から手を離し、何も言わず、彼女に再び背を向けた。

 

 ◇  ◇


 明後日にせまった決行を前に、ケインは脱出に備えての準備に余念がなかった。ケインはジェニーと王城からの脱出を約束しながら口で言うほど実感がわいていなかったのだが、彼女からの決行日の知らせを実際に目にするなり、それは急に現実味を帯びた。

 十八年あまりも慣れ親しんだ王城からいなくなるのがどんなことなのか、ケインには想像もつかない。ただ、ジェニーは彼とともに城を逃亡することを願い、彼らは本当に、ゴーティス王のもとを去ることになる。

 突然に襲った武者震いに、ケインは体に巻きつけたぼろ切れのような毛布ごと、自分の体を抱きしめる。

 水中の柵を壊す作業にはかなり苦労したが、それも何とかやり遂げた。地下牢から城外に通じる水中の出口までの経路を何度も往復し、その風景を目で見なくても覚えているくらい、彼らがたどるべき道はケインの頭の中にたたきこまれている。衛兵が城壁の周囲を見回るのは朝、夕方の日に二回で夜間はない。ただし、城壁の上には常駐の衛兵が当然いるだろうから、それが最大の障害になるはずだ。

 衛兵に見つかる可能性を思うと、ケインは恐ろしくて仕方がない。

 万一の場合に備えて、今も足の下に隠してある短剣を携帯するつもりではあるが、ケインは今までの人生で人を傷つけた経験が一度もない。剣の練習は幼少時より義務的に重ねてきてはいても、自分が剣を手にとって戦う機会などないとふんでいたから、実際に衛兵と剣をかち合わせる事態になれば、自分が勝つ自信などまったくなかった。あの恐ろしい王に剣を向けたジェニーの勇敢さとは、とても比べものにならない。

 それでも、ジェニーと一緒だと何とかなる、という根拠のない自信がケインの不安を和らげる。彼女と一緒にいれば強くなれそうな自分がいる。彼女が自分を頼りにしていることは知っているし、彼女のためにも、ケインは頼もしい自分になりたかった。

 そのうちに“梟の男”の足音が聞こえ、ケインは毛布を頭からすっぽりと被って、体全体を隠した。男は牢内のケインに決して近づこうとしないので、彼の、囚人としては不自然な清潔さに目を留めることもなかったが、万事において慎重でいる必要がある。

 ケインが牢の奥に退いて男の到着を待っていると、やがて、通路の扉が開けられた。男はいつもの食事のほかに、何か白い物を手に携えていた。

 男は食事の載せられた盆をいつものように格子の間から押し込み、反対側の手に持っていた白い布のようなものを、その横の床に無造作に置いた。丸めて置かれたので、ケインにはそれが何なのか判別できない。

「服だよ」

 しゃがれた声が牢内に響き、ケインは目を丸くして男を見た。男は斜視で、その目がケインを見ているのかどうか、よくわからない。

 ケインがその白い服と男を見比べるようにしていると、男が牢内をのぞきこむようにして、ケインに言った。

「それは末の息子の服さ。まだ新しいがね、あんたにやるよ」

 ケインは白い物体を見た。脱出を前に思いがけない贈り物ではあるが、男が自分に親切にする理由がわからない。

「それはありがたいけれど……なぜだ?」

 ケインが問うと男が満足そうに笑った。

「うちの地域には、息子の無事を祈願して同じ年頃の恵まれない男子に服を施す、って慣わしがあるんだよ。あんたはまだ二十かそこらだろ? だからさ。息子のために受け取ってやってくれ」

 ケインはその服を手に取って礼を言いたかったが、そうするには男の間近で彼の体をさらすはめになる。不本意だがそれをあきらめ、どこを見ているかわからない男の目を見つめて、ケインは礼を言った。

「そういうことならば、ありがたく頂こう」

 男は満面の笑みでケインに頷いた。ケインも笑い返す。

 ケインにとっては、幸先のよい出来事だった。

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