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第一部 7.眼下に望む街−2

 開いた地下扉の下に階段が現われ、その段上にある“合図”が位置を変えているのを見たとき、扉を支えるジェニーの左手は大きく揺れた。ケインがついにここまでやって来て、彼女の伝言を知ったのだ。室内に誰の目もないことはわかりきっていたが、ジェニーは、背後をそっと振り返る。そこにはもちろん誰もおらず、朝の弱い光がゆらゆらと見えるだけだ。

 ジェニーは口をすぼめて息を細く吐き、震える手を伸ばして合図として使っている木片を拾い上げる。それを裏返してみると、「予定どおりに決行」というケインからの短い返答が白い文字で記されていた。ジェニーはその一文字ずつをもう一度目で追って、ケインの意思を確かめる。とうとう、現実の脱出に向けて二人は動き出す。

 ジェニーは早朝の淡い光が照らす床面の一部をしばらくぼんやりと見つめていた。昼間は汗ばむほどの陽気になる気候でも早朝の城内はひんやりとしていて、ジェニーの肌からは体温が少しずつ奪われていく。ジェニーは肌の表面が冷えていくのを気づいていながら、あと数日もすれば自分がこの城から去るという実感で胸が息苦しくなるまで、体を動かすことができない。

 ――もはや、王の子を堕胎させる猶予はない。

 アリエルからの情報では、堕胎処置をすると母体の体調が一時的に非常に悪化するそうだ。数日間寝込むか、最悪の場合には死に至ることもある、とアリエルはジェニーを脅すように警告した。ジェニーが妊娠を途中で終わらせることを恐れてのアリエルの発言だろうが、彼女は事実を誇張して言いはしてもジェニーに嘘はつかないだろう。おそらくは体力を持続的に必要とする逃亡を前にむしろ体力の温存に努めるべきなのに、ジェニーに、そんな危険は冒せない。

 男たちの話し声のような音が不意に耳につき、ジェニーはようやく顔を上げた。一つだけ開けられた窓から、後宮の裏で番をする衛兵たちの会話が風にのって届いたのだろう。衛兵の交代時間には彼らがもっと騒々しい声をあげることから、ジェニーの起きている今は、それよりもっと早い時間にちがいない。

 ジェニーは天井を仰ぎ、喉をしめつける息苦しさから逃れようと大きなため息をついた。

 ケインはきっと、約束どおりに準備を整えてくれている。ケインと一緒に城を出たら、叔母の住むベルアン・ビルを目指せばいいともわかっている。

 王への復讐心を忘れてはいないが、兄や家族がどこかで無事に生きているかもしれないという小さな希望がわいた今、城から脱出することにもう迷いはないはずだ。その希望がジェニーの背を押し、力を与えてくれる。

 ジェニーは再び、力なく息をついた。

 けれども、王城に永久の別れを告げることに未練などまったくないのに、ジェニーの心には一点の灰色の曇りが残って消えない。それが何なのか、ジェニー自身にも説明がつかない。そしてその陰りのせいで、ジェニーの足は床からいつまでも離れようとしてくれないのだ。

 ぼんやりとしていたジェニーは、唐突に室外に響いた召使の声にはっとなり、思わず扉から手を放しそうになった。ジェニーがあわてて右手も扉にそえると、ジェニーの耳に召使ではない誰かの低い声が聞こえてくる。声の主も会話の内容も特定できなかったが、混じりあった複数の音がジェニーの寝室に近づいてくることだけはジェニーにもはっきりとわかった。ジェニーは焦り、地下扉を急いで、しかし慎重に床面に降ろしてぴったりと閉じ、その上に敷物を元通りの位置に敷いた。誰かが寝室の扉に手を触れ、押しあける。

 平然とした表情を作って寝台横に急いで飛び出したジェニーの前に、扉の向こう側から誰かが頭をひょいと出した。白金色の髪が扉越しに揺れるのを見て、ジェニーの息はとまりそうになる。

 室内に顔を出すなり不可解そうな顔を一瞬浮かべ、ゴーティス王は寝台から天蓋に伸びる彫刻柱の横に立つジェニーを見つけると、驚いたように両目を見開いて立ち止まった。彼の瞳に出会ったジェニーの全身が、その場に凍りついたように身動きできなくなる。

 王は視線だけで室内を素早くさぐってから、ジェニーに注意を戻した。ジェニーはきちんと敷物に隠したはずの地下扉の存在が気になって仕方がなく、緊張がいやでも高まってくるのを感じていた。王はジェニーの出方でも見るつもりなのだろうか、戸口から中に入ろうとしない。ジェニーは王を部屋に踏み込ませたくない一心で彼から目をそらさず、王はそれをすべて承知の上だというように、表情をやや硬くして彼女を見つめ返した。お互いに口をきこうともせず、お互いの軽率な行動で相手を無用に挑発しないよう、お互いに冷たく牽制し合っている。

 半分だけ開いた扉の背後で召使らしき女の声がした。王は注意をそがれたらしく、顔を後ろに斜めに向けると、さがれ、と一言だけ言い放った。室内に視線を戻した王はまた無表情でジェニーを見つめ、何も言わない。やがて、ジェニーがそろそろと胸から手をおろすと、王はその手の動きをじっと目で追い、それがジェニーのお腹の上に運ばれるまで目をそらそうともしなかった。

 ジェニーが緊張感に疲れて小さく息をもらしたのを機に王がゆっくりと視線を上げ、それまで半開きにしていた扉を後ろ手に静かに閉める。それから、王は開放されている窓の方を眺め、無表情だった王の唇の両端はわずかに上にあがった。

「・・・・・・ずいぶんと早起きだな」

「あなたこそ」

 王がジェニーの方に一歩、二歩と足を踏み出した。ジェニーはそれと同じ距離だけ後退したかったが、そうすれば地下扉に彼を誘導してしまうのではないかと危惧して、思いとどまる。ジェニーが動かずに王の歩みを見据えていると、王は満足そうに表情をゆるめた。早朝だというのに、ジェニーに歩み寄る王の全身はすがすがしい精気にあふれている。

「目が赤い」

 ジェニーの前に来ると王は彼女の瞳をのぞきこみ、面白そうに目を輝かせる。「泣いたのか?」

「違うわ」

 王が目をしばたたかせる。

「違うのか。俺が恋しくて泣いておったのではないのか」

 ジェニーが王をむっとして見ても、王は意に介せず、といった調子で、ただ、ジェニーを見ている。

 王が腕を組み、半袖からのぞく彼の上腕筋がもりあがった。ケインよりもずっと鍛錬を積んだ筋肉のつく、たくましい腕だ。半袖の下に見え隠れする腕が少し白かったので、夏に近い日の下で彼の腕が既に日焼けしていることがわかる。ジェニーがそこから目をそらすと、王と視線がぶつかった。王はジェニーに見られていたのを気づいていたらしく、眉をわずかに上げて瞳をきらめかせる。そんな王の目に対すると、ジェニーはなんだか落ち着かない気分にさせられた。

「こんな朝早くから、何をしに来たの?」

「これはまた、とんだご挨拶だな」王がジェニーに目を細める。「ここに来るのに理由が必要か?」

 王が急に手を伸ばしてきたのでジェニーはそれを避けようとしたが、その前に彼の手がジェニーの頭を捕らえた。ジェニーは王の手に力任せに引き寄せられると予想したのに、彼はジェニーの頭を上からなで、耳まで届くその大きな手でジェニーの頬を包む。それから彼はジェニーの前髪を親指で払い、その髪を一束取って手の中でもてあそぶように触った。ジェニーに何かを無理強いさせるような行為はみられない。王のやわらかな視線が、彼が指でつまむジェニーの髪の毛先に注がれている。

 ジェニーが反抗することも忘れて王を見ていると、彼がおもむろに視線をあげた。憂いをたたえた王の表情は、何かをジェニーに伝えたいようにも見えたが、逆にジェニーの言葉を待っているようにも見えた。王がジェニーに顔を少し寄せ、瞳をのぞき見る。王が彼女の手を慈しむように握っていた夜が思い出され、ジェニーの鼓動が大きく胸を打ち始めた。


 やがて、王が口を開いた。

「おまえ、剣技大会を見るか?」

「えっ?」

 剣技大会という言葉を耳にして、ジェニーはそれまでとは違う意味で激しく動揺し、思わず一歩退いた。王が首を左に少し傾げて、言う。

「おまえは剣に興味があろう。近々、国で最大の剣技大会が開催されることはおまえも聞いておるはずだ。おまえが見たいのであれば、席を用意してやる」

 当然、王はジェニーとケインがその前夜に脱出を企てていることなど知りはしない。計画が漏れたのではない。ジェニーは自身にそう言い聞かせて平常心を取り戻そうとするとともに、王の口から出た、命令ではない、ジェニーに選択の余地を残した意外な申し出にひどく面くらう。

「あ・・・・・・それは、王城の外で開催されるんでしょう?」

「そうだ。専用の会場がある」

 そう返答してからジェニーの質問の意図に気づいたらしい王が、小さく眉をひそめた。「ただし、おまえには俺の目から見える場所に席を取らせる。当日は多数の人間が出入りするゆえ、通常の数倍も厳重な警備となろう。不測の事態が起きた場合、何人たりともその場から這い出せぬようにな」

 そして王は不敵に笑い、ジェニーにもう一度確認をする。「見たいか?」

 前夜に城を抜け出すジェニーに、そこに行けるはずもない。

 ジェニーは再び心臓が騒ぎ出すのを感じ、咄嗟に胸を手で押さえた。王が、まつげをわずかにふせる。

「いいえ、行かないわ。女官長やアリエルも・・・・・・大反対だから」

 ジェニーの目の前で王の顎が揺れた。

「ふん、そうか」

 王はそう言い放ち、ジェニーのお腹あたりに視線を注ぐ。「女官長の言葉をきくとは、おまえも従順になったものよ」

 それから、王はジェニーにくるりと背を向け、出入口の方に歩き出した。王が立ち去ると思ったジェニーだったが、彼は扉の手前で左手に折れ、テーブルの前に立った。テーブルの上には、ジェニーがサンジェルマンからもらったノワ・パイの載った皿が二日前からずっと置かれている。王はその薄緑色の包みに手をのばして中身を確認すると、そのうちの一つを指でつまみあげ、まじまじと眺める。ジェニーは、胸からお腹に手をおろした。

「おまえ――産む気か?」

 だしぬけに聞こえてきた王の問いにジェニーがびっくりしていると、王がゆっくりと振り返った。彼はジェニーの視線を受けていると知りながらそれを無視しているが、視線の行き先は、ジェニーが手で庇うように守るお腹だ。

 王が、感情を感じさせない口調でジェニーに尋ねた。

「俺の子だというに、おまえは産むつもりか?」

 体内の血が逆流したかのように、怒りとも口惜しさとも言えない激情がジェニーの喉元までやってくる。その感情のほとばしるままに、ジェニーは叫んだ。

「違うわ、あなたの子なんかじゃない!」

「違う、だと?」王が声を荒げ、顔を上げた。「ならば、誰の子だ?」

 いっそ、ケインの子だったらいいのに。

 ジェニーはあえぎ、王を力の限りににらみつけた。王もまた大きく顔を歪め、不愉快そうにジェニーをにらみ返している。

「俺の子でなければ誰の子だ」

 王が殺気だった声で問う。ジェニーは口惜しさで胸がいっぱいになり、もう一度あえいだ。

「あなたじゃなくて・・・・・・私の子よ!」

 そう言い放った直後、ジェニーはその発言をした自分に心底驚き、唖然となった。今の今まで、子の母親だという自覚は微塵も感じられなかったのに。

 ジェニーは口を覆っていた手をお腹に伸ばしてそこにあった自分の右手をつかむと、顔の前にかざした。意識下で母親としての自覚など何もなかったのに、ジェニーが知る前に、彼女のその手はいつもお腹を気にし、我が子を護っていた。

 一方の王は、呆れたような形相でジェニーを見ていた。王にそんなふうに見られると、彼に対する途方もない怒りがジェニーの中でどんどん膨らんでくる。

「は、そうか」

 王が手を額にあて、何度か大きく瞬きをした。「まさに、おお、それは間違えようもない」

「何を――」ばかにするような言い方にジェニーが憤慨すると、王は下に向けていた顔をジェニーに上げた。彼は苦笑していた。それを隠すように手で押さえた彼の口元から、息に似た笑いがもれてくる。ジェニーの頬に一気に熱がこもる。

 ジェニーがなおも王を苦々しい思いで見つめていると、王は口元から手を取り去って両頬をもっとゆるめ――それまでの苦笑を軽やかな笑顔に変えた。ジェニーが常に見てきた、唇だけにのった表面的な笑みではなく、瞳までが上機嫌に弧を描き、笑っている。夏の晴れた日の湖のように、瞳の中で笑みがきらきらと反射している。ジェニーが今まで王と接してきた記憶の中で、彼がこんなにも気持ちよさそうに笑う姿は今まで見たことがなかった。

 ジェニーが茫然としていると、王がジェニーから唐突に視線をそらし、唇を指でこすった。どうやら、王はジェニーのそんな反応に気を悪くしたようだ。ジェニーが目を奪われた王の笑顔はすっかり息をひそめ、彼の態度の変化でジェニーも我に返った。

「だけど子は・・・・・・子を、始末することもできると聞いたわ」

 ジェニーがやっとそう言うと、王が少し眉をひそめ、意外な驚きをもってジェニーに振り返った。

「ほう? おまえの口から、人間を“始末する”などという言葉を聞けようとは」

 ジェニーは彼を精一杯にらみつけながら、唇をかむ。王はジェニーの真意を探ろうとでもするようにジェニーを見ていたが、やがて目をそらし、それまで手に持っていた茶色の菓子を皿に戻した。王はまた無表情に戻っていて、胸の内がさっぱり読めない。ジェニーが唇を噛み続けていると、抑揚のない口調で王が言った。

「そうしたければそうするがよい」

「えっ?」

 王の表情に変化はない。ジェニーは女官長やアリエルの顔を思い出し、反論した。

「私に、そんな選択肢が本当にあると思うの?」

 ジェニーのとがめるような口調に、王は幾分冷たくも見える笑いを浮かべた。

「それは、おまえの子ではなかったのか?」

「ええ、そうよ」

「おまえは、女官長の指図どおりに子を産み、あるいは子を始末するのか?」

「いいえ、そんな気はないわ」

 王はジェニーの返答に満足したようだった。

「ならば、おまえが決めろ」

 ジェニーは戸惑って王を見つめた。すると、その戸惑いを納得済みとでもいうように、王は淡々と続けた。

「おまえが子を持たない選択をするのなら、サンジェルマンにその旨を伝えろ。おまえの侍女に――そうよな、ノワ・パイはもう要らぬ、と伝言させろ。あの男はそれで理解して、女官長にも誰にも知られず、ごく自然にみえるように問題を対処する」

 女官長やアリエルは過保護とも言えるほどにジェニーの妊娠を保とうとするのに、王はあまりにも簡単に、まるで他人事のように妊娠の放棄を口にする。

 膝から力が抜けかけ、ジェニーは必死で力を入れて支え直す。

「もし、そうじゃないなら――」ジェニーが言いかけると、王は疑わしそうにじろりとジェニーを見た。

「逆の場合は、何も言わずにおればよいだけのこと」

 王はまたノワ・パイの入った皿に視線を落とした。皮肉そうな笑みを口元にため、ほんの少し前に見せた、輝かんばかりの笑顔の持ち主と同一人物にはとても見えない。

 ジェニーがあれこれと思案していると、王が振り返って彼女をじっと見た。

「おまえ・・・・・・」

 ジェニーが不審そうに見返すと、王はわずかに顎を上げて挑戦的にジェニーを見つめた。ところがすぐに、王はジェニーにあてた視線を横にそらすと、何かを言い出そうとして口をつぐんだ。王が何かにひるむ反応をジェニーに見せたのは、これが初めてだ。

 ジェニーの足がふらりと一歩前進すると、それにはじかれたようになって王が顔を上げた。その目は、既に普段と同じ鋭い目に戻っていた。

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