第一部 1.遭遇−4
サンジェルマンの心配をよそに、王の捕らえた娘ジェニーは大きな問題を起こすこともなく、王が機嫌を損ねて問題が引き起こされることもなく、七日間に及ぶ遠征の旅は終わろうとしていた。
彼女は最初の数日こそ脱出を試みてはみたものの、周囲にいる屈強で女ひでりの兵士たちの存在に逃亡をはばまれて、あきらめざるをえなかったようだ。彼女は極度の緊張と深い悲哀の感情で神経をすりへらせ、また、慣れない天候と環境のせいで日増しに弱っており、帰国が近づくにつれて元気になっていくゴーティス王とは正反対だった。
ヴィレール王国の主城であるラ・ヴィスコン城は、大きな海洋に通じるシエヌ河を眼下に臨む小高い丘に建つ。小国の王城としてはかなり立派な居城で、初代王が莫大な私財を投じ、外国の技師を雇って造らせたものだ。他国と比べれば決して広大ではないものの、その頑丈さや内装・造作の良さ、実用性と審美性を兼ね備えた構造などは、非常に優れた城だといえる。
くっきりと晴れ渡った秋晴れの空の下、ヴィレール軍はついに王城の門をくぐった。王城に戻る道すがらに所属地へ帰還していった分隊もあるため、実際に王城に入ったのは十分の一程度の人数にまで減っていたが、それでも、戦馬車と軍隊の列を王城の広場内に収めて重厚な門扉を完全に閉ざすまでには、相当な時間がかかった。
事前に連隊の勝利は伝聞されていたこともあり、王城の衛兵たちや使用人たちは大きな歓声をあげて彼らを迎え入れ、知り合いの顔を見つけては抱きあって喜びあった。
久々に目にした自分の城と見慣れた人々の姿に、ゴーティスは早速自分の幌の中へ舞い戻って、新しい住人となる者をそこに見つけた。彼の寝台の上で、当初は身につけることを散々嫌がっていたものの、寒さに耐え切れずに受け入れた彼の毛皮にくるまって、眠っている娘がそこにいた。目の下にはうっすらと青い隈ができていたが、頬は赤みが差しており、一時期よりは体調が復活しているように思えた。
彼はその寝台に大股で歩いて近づいていくと、彼女の頭のすぐ近くで靴をドン、と踏み鳴らした。
「ジェニー、起きろ! ヴィレールに帰国したぞ!」
びくっとして起きた彼女の顔のすぐ上に顔を近づけ、彼はおどけて頭をぴょこんと下げた。
「ようこそ、我が城へ」
「――城?」
ジェニーが何のことかまだわからずにぼんやりしているのを気にも止めず、彼は冷たく笑った。
遠くから人々の騒ぎ立てる声が聞こえてくる。彼女は整理のつかないらしい頭を何とか動かそうと、深呼吸をした。その前を、落ち着きのない態度で彼は通り過ぎて行く。
「サンジェルマン! サンジェルマンはおるか?」
「御前に、王!」
彼の呼び声に答え、幌のすぐ外から声がした。ゴーティス王が幌を外側にめくると、金髪の小さな頭がそこから見えた。
「入るがよい」
主人の言葉で、彼は身軽に馬車の上に飛び乗ってきた。ヴィレール王以外にジェニーが唯一、毎日顔をつき会わせた相手だ。彼はジェニーを見ると、意識的に無関心な様子を見せた。
「この娘をモンペール女官長の元へ連れて行け。それから……今宵の宴に出せるよう、身支度を整えさせろ」
王がジェニーのうす汚れた顔や服をちらっと見て顔をしかめた。サンジェルマンは、敵に施されることを可能な限りに拒否するこの少女に、女官長も手を煩わすだろうと思った。サンジェルマンが数度、彼女の手足や顔をふき取ってやった以外は、敵に体を触らせることを許さず、おそらく彼女は自分の体を洗うこともしていないはずだ。最初に出会った時も灰で顔や腕は汚れてはいたが、今の彼女の姿はとても人前に出られたものではない。
サンジェルマンはジェニーをマントでくるむようにして後宮の裏口に通じる通路を歩き、手を離せば倒れてしまいそうな頼りない少女を盗み見た。足取りはふらつき、顔色は真っ青。初めて足を踏み入れる外国の王城と居並ぶ立派な衛兵たちの姿に圧倒され、言葉を失っている。あの恐ろしいゴーティス王に反抗できる力強さを持ちながら、一瞬で壊れそうな脆ささえ感じさせる、不思議な娘。
外の明るさに比べてほの暗く長い廊下を彼らは無言で歩き続け、縦長の窓をいくつか通り過ぎた。
「ジェニー、つらければ、私の腕につかまって歩きなさい」
見かねた彼はジェニーの前に自分のひじを差し出したが、彼女は頑なに無視した。敵一味の手など、間違っても借りるつもりなどない、とでもいうように。
行き場をなくしたひじを仕方なく引っ込めたサンジェルマンは、心の中で重いため息をついたが、その強情さになぜか失笑してしまった。この種の強情さは、幼少期のゴーティス王に通じるものだ。
ゴーティス王の姿を彼女に重ね合わせ、彼はなんだか微笑ましいものを見るように、くしゃくしゃになって乱れた髪に被われた彼女の横顔を黙って見つめた。
後宮は王城の中でも最も奥に位置するため、たどり着くまでには時間がかかる。通常ならば侍女たちが行き交うはずの延々と続く廊下にはひと気がなく、二人の靴音だけが気味悪く響いている。
城の奥深くに通じる暗い道。遠くに聞こえる人々の歓声が遠のき、サンジェルマンの高い靴音が大きく共鳴する。
急にジェニーの手に引っ張られたサンジェルマンはあやうく後ろ向きに転倒しそうになって、あわてて態勢を直した。
「ジェニー?」
後ろを振り返った彼は、ジェニーが口をあけて床にくずおれているのに驚いて、急いで彼女を助け起こした。
彼の手にふれた彼女の指先が死人のように冷たい。腕に抱えた彼女はすでに意識がなく、彼は青くなって彼女の体を揺すって言った。
「ジェニー? しっかりなさい、ジェニー!」
彼女の指は硬直していて、何の反応も返ってこなかった。サンジェルマンはあわてて彼女を腕に抱き抱えると、一目散にモンペール女官長の元へ疾走した。
その日の夕方、サンジェルマンが身支度を済ませて王のいる部屋へと参じると、王は入浴をすませてちょうど着替えをしている最中だった。着替えを手伝う女たちに囲まれている。
祝宴用に見合う王の衣装。王族だけが身につける緋色の肩掛けには金色の縁取りがついており、ところどころに高価な色とりどりの宝石が縫いこんである。付き人の一人が紺色の長衣の上にそれをまとわせると、王の圧倒的な存在感が周りを威圧した。
主人と目があったサンジェルマンは小さくお辞儀をし、一行のいる部屋と間続きになっている小さな控え室に移動する。今夜の凱旋祝いの宴会に出席するため、彼も日常の地味な格好よりは多少良い衣装に身を包んでいる。
男の一人が装飾用に選んだ銀のサークレットをゴーティス王に差し出したところ、彼は何かが気に入らなかったらしく、それをむげに拒否した。彼を怖れてただでさえ口数の少ない使用人たちは、その否定の言葉を耳にしただけでいっそう身を縮ませ、誰もがぎこちない表情に変わり、伏し目がちとなっていく。そんな使用人たちの中に新顔の女がいて、王が少し興味を引かれて見やると、彼女は必要以上に緊張して顔をこわばらせた。
使用人たちの態度は、彼の勘に触り始めているようだ。
「どこか、苦しい部分はございませんか?」
サークレットを持参した男が勇気をふりしぼって訊いた問いに、王はじろっと白目を向けた。
「服を着せたおまえたちが分からぬのか?」
「は、いえ……」
男が何か返答しようとするのを制止するように彼が再度にらむと、男はすぐに口をつぐんだ。一行の間に嫌な緊張感が流れる。
「よい。用が済んだらさっさとさがれ」
「ははっ!」
王の言葉が終わるのと同時に、彼らは蜘蛛の子を散らすように素早く退散していった。各自が手にそれぞれの荷物を持ち、彼の機嫌が損ねられる前に視界から一目散に消えなければというように。
使用人たちが出て行く気配を感じ取り、サンジェルマンはさりげなく姿を現した。部屋の中央に据えられた華奢な長椅子に、ゴーティス王が独り、座っていた。それだけで宝石のように輝かしい髪には何の装飾品もつけず、緋色の肩掛けの下には濃紺の長衣、黒と金の帯を締め、首からはそれぞれに大きな連珠がついた首飾りを三本垂らしている。腕輪はしていない。
腹心の出現に王は気だるそうに顔をあげ、近づいてくる彼を見上げた。白に近い琥珀色の長衣には淡い朱色の上服が重ねられ、その上に黒・白・黄の細かい刺繍を施した短い丈の肩掛けをまとっている。腰帯は上服よりも濃い赤に茶が混じった色で、金色の房が三つ付いているものだ。長衣の裾からは青銅色の靴が見え隠れし、濃い金色の髪もきれいに頭にとかしつけている。
王の前に来ると、サンジェルマンは柔和に笑い、彼の座る椅子の横に広げられた腕輪の山に目をやった。
「腕輪はどちらを着用されるのですか?」
「おまえはどれがよい?」
「そうですね……」
あくびをかみ殺す王を笑顔で見ながら、彼は王の衣装にあう腕輪を目で探した。
「今日の衣装であれば、こちらが合うのではないでしょうか。赤玉も入っていますし、金細工も素晴らしい出来ですよ」
そのうちの一つを取り上げた彼がそう言うと、王はそれを横目にまたもやあくびをした。
「そうか。ならば、それはおまえがつけろ」
「王? これは王の為に用意されている装飾品ですよ。」
サンジェルマンが苦笑すると、ゴーティスはその手から腕輪を取り、元あった場所へとそれを放り投げる。
「ふん、どれも俺の好みではない。それより、おまえもせっかく正装しておるのなら、腕輪ぐらいつけてもよかろう?おまえは容姿に恵まれておるわりには地味すぎる。他の男どものようにもっと着飾っておれば、女の注意もさらに引くというものよ」
「私は華美な服装を好まないのです。それに、私のような立場では、地味で目立たない方が何かと好都合なのですよ、王」
「ほう? 世の男どもに聞かせてやりたい言葉だな」
王の放り投げた腕輪を他の装飾品の場所へと移していたサンジェルマンは、そこでふと彼の左手に目をやり、そこに残るケガの跡に初めて気づいた。野犬に噛まれたかのような歯型だ。今の今まで全く気づかなかった。
「王、その傷はどうなされたのです?」
呆然と傷痕を見つめるサンジェルマンの視線に、彼はすっと真顔に戻った。
「これか? 見てのとおり、歯型だ。何ともあっぱれな歯型ではないか?」
「お戯れを! ああ、不覚にも今の今まで気づきませんでした!」
サンジェルマンの心配そうな表情と勢いに彼はちょっと不快に思ったらしく、顔をしかめた。
「どちらで傷を負ったのです? 野犬の噛み傷は放っておくと大変な事態になりかねないのですよ、適切な治療をお受けになられましたか?」
「おまえは、ますます女官長に似てきおったな」
「王!」
「案ずるな、消毒はしてある。それに、これは――」
噛まれた状況を思い出してつい笑い出す彼を見て、サンジェルマンはあっけにとられる。
「――これはな、戦地でひろってきたあの娘ジェニーが、この俺に噛み付いてつけたのだ。俺の手に屈するのを嫌うてな。何とも反抗的な野犬ではないか? くっくっ……俺は、あの娘の行動には感服するわ!」
そのまま大笑いする彼とは対照的に、サンジェルマンの顔は驚愕に引きつった。
あの“ジェニー”が王の手に噛み付いた? 王にケガをさせたと?
王の体に傷をつけた娘を、むざむざと私は介抱してしまったのか?
自分の喉に大きな唾液の塊がゆっくりと降りて流れていくのを意識し、サンジェルマンは冷や汗をかきながら主人の不自然に上機嫌な様子を再度見つめた。
いや、それよりも――それよりも、自分に抗った娘を、王は手打ちにされなかった……?
「――ところで、あの娘はどうした? おとなしく女官長の言うことに従ったか?」
くるりと向き直った彼は、サンジェルマンを見て、眉をひそめた。
「は? あ、いえ、それが」
「ふん、今度は何をやりおった?」
歯切れの悪いサンジェルマンにいらいらしたように、彼は先を促した。
「その、実は、女官長の元へ連れて行く前に彼女は倒れてしまいまして。おそらくは過労か風邪だろうと思いますが、現在は熱を出して部屋でふせっておりまして――」
サンジェルマンの説明が終わりもしないうちから、彼は押し殺した皮肉げな笑い声を立てはじめた。
「くっくっ……倒れただと?」
彼は髪をかきあげ、サンジェルマンに顔を向けた。
「どこまで俺に抗おうというのだ、あの娘は! まったく、病になってまでも俺を遠ざけたいのか!」
肩をゆらして笑いつづける彼を怪訝に思いながらも、サンジェルマンはすべき事を彼に切り出すために、体を乗り出した。
「おそれながら、王? 娘に侍医をつけて休養させはしましたが、王に負傷させたのがわかった今――あの娘を部屋で介抱させておくわけには参りません。王のお体に傷をつけてのうのうと生きているなど、まったくもって許されぬこと。すぐにでも、私の方で相当の処置を行いたいと思います」
処置、つまり、処刑である。それがどんな軽微な傷であれ、王の体に傷を負わせた者は死罪と相場は決まっている。
サンジェルマンの厳しい表情を見た彼は、むっとして口を尖らせた。
「処置? 俺が退屈しのぎに連れてきた小娘に、何の処置が必要だと?」
「あの娘は王のお体に傷をつけたのですよ、王。それなりの刑を与えねばなりません」
「あれの処遇は俺が決める。おまえが口を出すことなど許さぬぞ」
「しかしながら、王」
「サンジェルマン」
焦ったサンジェルマンに、彼はなんともぞっとさせる嫌な目を向けた。激情にかわるちょっと前の表情だ。感情のない人工的な透き通った彼の瞳は、サンジェルマンを射抜くかのようだった。
「俺が決める、というのが聞こえなんだか? あの娘の命運は俺の手の内だけにある。それを忘れるな」
ヴィレール軍が帰還して三日後、サンジェルマンは、ジェニーが回復の様子を見せたことをゴーティス王に報告した。王は、ここ数日間は朝遅くまでゆっくりと睡眠をとっており、体力も気力も充満しているようだ。
彼女についての報告を王は無関心に聞き流しているかのようではあったが、サンジェルマンが話終わると、明夜に再び開催される宴の席に彼女を出席させるよう、指示を出した。
「おまえも宴には同席せよ。もし姿が見えなかったら、許さぬぞ」
「はい」
サンジェルマンが頭を下げると、彼は笑みを浮かべ、それまで寝そべっていた椅子にまた体をあずけた。
王の機嫌は、悪くない。
――明日の夜、今度こそ、王に抵抗したあの娘は亡き者となってしまうのかもしれない。
王に無礼を働いた上で生かされているジェニーの存在を面白くないと感じていたサンジェルマンは漠然とそう考え、心の内で何となくほっとしていた。
その当日、王城内にいくつかある内の比較的小さな広間では、こじんまりとした宴が開かれていた。まだまだ早い時間帯のせいか、卑猥な冗談もきかれず、ゆったりとした上品な口調の会話が続く今夜の宴は、連隊長以上の貴族身分の人々が集う男たちの宴だ。人々は一様に和やかに談笑している。給仕の女たちも連日の宴よりは落ち着いた雰囲気で飲食の用意を執り行い、サンジェルマンもよく見知った顔ばかりがそこには並んでいる。ジャン・ジャック近衛隊隊長、ライアン副隊長、それに側近たち。誰がどこに座るかという席は特定されてはいなかったが、入口から最も遠い上座から離れていくにつれて身分も下がっていく順番で、人々の席は自然に決まっていた。
サンジェルマンが自分の座る席に近づいていくと、王座のすぐ脇にある椅子に、見慣れない若い女が所在なさそうに腰を降ろしていた。透ける素材の薄い黄緑色のドレスを軽やかにまとい、上に結い上げた髪からほつれて揺れるおくれ毛がたおやかだ。うなじから肩にかけての華奢な線には、彼にも見覚えがあった。
女の緊張した表情の中に居座る明るい茶色の瞳を見つけた時、サンジェルマンは、やっと、その娘が捕虜のジェニーだと気づいた。綺麗に化粧をされて着飾っているせいだけでなく、元々の顔立ちもそんなに悪くない方なのだろう。病み上がりとあって顔色はまだよくないが、初めて見た彼女の本当の姿に、彼は正直、びっくりした。
そわそわとその場に座っていた彼女は知った顔であるサンジェルマンに気づき、一瞬だけだが顔をほころばせ、しかし、その直後に元の緊張した顔に戻った。
サンジェルマンが彼女の斜め後ろに席をとってまもなく、急に人々のざわめきがぴたっと止まった。遠くの出入口から、ゴーティス王がひとり、意気揚々と姿を現したのだ。十二分に休養をとって活力を取り戻していた彼は瞳がきらきらと光輝き、体中から力がみなぎっているように見えた。着けるのを拒否したはずの銀のサークレットを、今は素直に頭に身につけている。
自分の席の近くに大人しく出席しているサンジェルマンの姿をみとめ、ゴーティスは、満足そうな笑顔を見せた。
「おお、よう来たな。そのまま、最後まで退席するでないぞ」
それから自分の座席に座った彼は、そこに居心地が悪そうに視線をさまよわせるジェニーを見つけ、一瞬目を見開いた。そして、ゆっくりと唇の両端があがる。
ジェニーの頭のてっぺんから足の先までを舐めるように見つめ、王は、まるで舌なめずりをするかのように満足げに唇の端をなめた。彼は一言も言葉を発しなかったものの、彼の発するぬめりのような感触は彼女もしっかりと感じていた。服を着ていながらも丸裸にされたような気分にさせられ、彼女は一刻も早くこの場から逃げ出すことしか考えられなかった。
ジェニーが彼の視線を逃れてうつむいていると、その視線の先に赤茶色の杯が不意に差し出された。はっとして目をあげると、ゴーティス王の挑戦的な視線とぶつかる。
「酒をつげ、ジェニー」
背後からの脅迫めいたサンジェルマンの視線にも後押しされ、ジェニーには選択の余地がない。
仕方なく、差し出された杯に酌をする。王は故意に、ジェニーの歯型のついた左手を彼女に見せるようにして杯を持っている。その意図にむかむかと腹が立った彼女だったが、この場で騒ぎを起こすのは自分の身も危うくし、得策ではない。二度目の酌の催促にも静かに従った彼女だったが、込み上げる怒りを抑えることだけに必死だ。
王は酒で満たされた杯をゆっくりと口元へ運んだ。彼女がいまいましそうに見ていることも、たぶん、彼は承知の上だ。
すぐに空になった杯を彼女の前へと突き出し、彼は次の酒を催促する。彼女によって酒が満たされた杯は一息で飲み干され、またすぐに彼女の前へと出される、その繰り返しがしばらく続いた。
王は何も言おうとせず、ジェニーも口をきくつもりもなかったのだが、怒り心頭で耐えられなくなった彼女は、できるだけ冷淡に皮肉をこめて言ってやった。
「……次から次へと、よく飲む人ね」
ジェニーがやっと口を開いたことに満足したらしく、彼は片方の眉をあげてにやりと笑みを浮かべ、彼女を見た。
「酒はヴィレール人のたしなみだ。俺が酒ばかり飲んでおるのは、おまえが食べ物を一切よこさないせいだ。見ろ、他の女どもは酒も食物も渡しておるぞ?」
「私は、あなたの給仕じゃない!」
その小声は周囲の談笑にかき消されて他の人々の耳には届かなかったはずだが、ジェニーは後ろにいるサンジェルマンが動く気配を感じ、彼がそれに敏感に気づいたのだ、と思った。王はほんの少し瞳を細めてジェニーを見つめ、彼女も彼をまっすぐ見返していたが、それはとても恋人同士が見つめ合うような、愛情のある微笑ましい光景には見えないだろう。
いきなり、王がジェニーの手首を掴んだ。彼の目は、酔いがまわっている目だった。
「何するのよ!」
ジェニーが振りほどこうとするのを頑として拒み、彼は彼女の腕を強く引っ張り寄せた。酒壷を胸にかかえた格好で、ジェニーは彼の腕の中に抱かれた状態になった。
「おまえは、もう少しにこやかにできぬのか! 俺の、このヴィレール王の隣におるのだぞ?」
彼はあきれたような口調でしゃべり、本気でつっかかっているとは思えなかったが、それでも、彼女の頭の中に、何かの警鐘が鳴り響き始めた。
「この俺の側に席をとれる者はそうそうおらぬ。捕虜の分際でここにおるのを有難いと思え」
「有難くなんかないわ! 私はあなたなんか大嫌いなのに!」
「ほう? これはまた、はっきりとものを言う娘だな」
頬がふれるほどに近距離で二人はお互いに火花をちらしあい、彼女は怒りで顔が赤くなるのを感じた。
彼が、ジェニーの前に静かに人差し指を立てる。
「――されど、ジェニー、言動に気をつけるがよいぞ? おまえの生死は、俺の一存で決まる」
「私は誰の所有物でもないわ。死ぬのも怖くない。気に入らないのなら、早く殺したらいいじゃない!」
王の顔色が変わっている。
押し殺した声での会話だったので周囲の雑踏にまぎれて聞こえるはずもなかったが、背後のサンジェルマンの目には二人がどんな会話をしているか、なんとなくわかっていた。サンジェルマンは、彼が激昂して手がつけられなくなる状況を極端に恐れていた。
――どうやら、サンジェルマンの見る限り、王の機嫌は良くない方向へと一直線に向かっている。
ゴーティス王の表情が急にさめて、つかまれていたジェニーの腕も解放された。やっとのことで自由の身となった彼女はあわてて、彼の近くから体を離して元の席へと移動する。息を整えながら彼の方に注意を向けると、彼はナッツに手をのばしているところだった。
「酒をよこせ、ジェニー」
緊張した面持ちのジェニーが笑いもせずに新しい酒壷をあけると、ゴーティス王もまたにこりともせずに杯をさっとあおる。奇妙な、異常ともいえる緊張感がそこには漂っていた。
しばらく宴が続き、ゴーティスの元に交代で訪れていた要人たちがとだえるころには、すっかり夜も更けていた。そして夜の闇が濃くなるにつれて、男たちの歓談は徐々に賑やかで色めいたものにと変貌していっている。いくら身分の高い者ばかりが集結するとはいえ、そこは男ばかりの集まりだ。遠征生活を送ってきた軍人たちは情事にも飢えていた。
出席者たちは宴会中にそれぞれに目当ての給仕女を見つけておき、王が退散した後につづいて自分たちも退席するのが慣例だった。宴会後の情事は、貴族社会では容認されている。そのため、出席者たちは上座にいる王と横の女との進展具合をさりげなく気にかけているのだ。
数々のめずらしい海外からの果物、羊・豚・牛・兎・鹿・鳩・鴨の肉料理、川魚料理、豊富な種類のキノコ、彩りを添える野菜、濃厚な上質ワインと麦酒、蒸留酒。そこからたちのぼる匂いと人々の熱気にあてられ、ただでさえ体の弱っていたジェニーは気分が悪くなってきていた。目の前には無言で酒を口に運ぶ世に悪名高いヴィレール王、斜め後ろにはまるで自分を監視するかのように動向を見守っている彼の腹心がいる。彼女はほてる顔を時々手で押さえ、視線をあちこちにさまよわせて、宴の終わりをまだかまだかと首を長くして待っていた。
その彼女の様子に気づいていながらもきっぱりと無視し、給仕女たちからの直接的ではないが絡みつくようなねっとりした視線にいい気になりながら酒をすすめていたゴーティスは、そろそろ退屈になってきた。彼の元に来る出席者たちも短い挨拶をするだけで、彼を適当に放っておいてくれる。彼が隣に新しい女を座らせている時には、部下たちは彼の元で長居をしようとはしないのだ。