第一部 7.眼下に望む街−1
真夜中の王の訪問に気づいた日の翌朝、アリエルは通常より遅めにジェニーの部屋にやってきて、昨夜はよく眠れたかとジェニーに尋ねた。ジェニーが、朝まで一度も目覚めずに熟睡できた、と昨夜の出来事をふせて答えると、アリエルはわずかに間をあけた後に、そうですか、と小さく微笑んだ。
アリエルが王の毎夜の訪問を知っていたのは明らかだった。でも、その質問を最後に、今までの間、彼女はそれらしきことにふれもしない。
この数日間、ジェニーは王の顔を垣間見ることすらなかった。昼間はもちろんのこと、夜中にジェニーは何度か目覚めて寝室を見渡したが、彼の姿をそこに見つけることはなかった。誰もいない室内の暗闇を目にすると、王に手を触れられた夜のことが、まるで夢のように思えてくる。そういえば、ジェニーはしばらくの間、彼と面と向かって接してはいない。
ジェニーが、ケインに剣技大会の開催日を知らせる合図を地下階段の入口部分に置いたのも、その同じ日の早朝だ。ここ数日の就寝直後、召使が退室してから、ジェニーは毎日隠し扉を開いて、ケインが合図を見たかどうかを確認している。けれども、今のところ、彼がそこまで来たような形跡も返事もない。
ジェニーは、自分の“合図”が位置も変えずに放置されているのを見るたびに少しがっかりしたが、その毎回にケインとの約束を思いかえし、忍耐強く待とう、と心に決めていた。ジェニーの緊張感は、次第に高まっていった。
剣技大会が目前に迫り、それ以前の具合の悪さが嘘のように、ジェニーの体調はとても安定していた。ジェニーはまったく平らなお腹を見つめながら、もし自分が妊娠を継続すれば、子ども時代に近所で見た妊婦と同じことが、いずれ自分の身に起こるだろう、と漠然と想像した。その妊婦は、少しずつふくらんでいくお腹を半年間はかかえていたように記憶している。
ジェニーにとっては妊娠自体が途方もなく未知のことで、それ以外、自分の体に具体的にどんな影響があるかなど、予想もつかない。女官長や侍医の定期的な巡回がなければ、ジェニーは自身の妊娠のことを思い出しもしなかった。
召使が手際よくテーブルを整える後ろ姿を何とはなく見ながら、ジェニーはケインの顔をぼんやりと思い起こす。彼は、ジェニーが意に反して居城しているとは知っていても、王の女として後宮に置かれた彼女の立場を知りはしない。彼は優しいが、ジェニーが王の子を宿したと知ってもなお、その優しさを保っていてくれるかどうか。
召使が振り返って、ジェニーに物問いたげに首をかしげた。ジェニーは、何でもない、と彼女に片手を上げて示す。
召使は膝を折って挨拶し、テーブルの反対側に回りこんで作業を続けた。ジェニーは、彼女の痩せた胸から続く平らな腹を見つめる。
逃亡後に、もしケインとの未来が待っているのなら、彼には真実を告げなければならない。ジェニーはそう思っている。それが、ジェニーの望む妊娠ではなくても、ジェニーが妊娠の継続を選択しなかったとしても。
けれど、とても――とても、ケインには話せない、とジェニーは思う。
朝食後、いつものように女官長が短時間だけ立ち寄った。十分な睡眠はとれているか、朝食は好き嫌いをせずにきちんととっているか、体調にどこか変化はないか。そんなことを、日課のように、ジェニーに念入りに確かめる。そのうえで、母体が健康に保たれることの重要さを、早口でまくしたてる。
その九割以上はここ連日繰り返されている口上で、彼女が次に何を口にするかも、ジェニーたちには予想がついている。そしてその予想どおり、女官長はジェニーからアリエルや召使に向き直り、主人の体調を常に観察し、ほんの些細でも体調の変化をみとめたら侍医を呼ぶように、と彼女たちにくどくどと言い含める。それから、昨日と同様に、「ああ、忙しい」とため息をつくのだ。
アリエルが仕事に戻る女官長を扉の前まで見送り、忙しさにきりきり舞いの女官長の体を心配する言葉をかけると、女官長が微笑んだ。
「多忙さでいえば、王の比ではないわ」
その口調はいつになく誇らしげだ。アリエルの肩越にジェニーと目が合うと、彼女は目じりに多くの皺を集めて笑顔になった。
女官長が退室すると、アリエルが入口扉近くの台の上に置いた木皿を持って、にこにことした笑顔をたたえてジェニーの元にやって来た。ジェニーは、女官長が来る直前に用事から戻ってきたアリエルが何かを手に携えていたのは見ていたが、女官長の来訪で、それを彼女に問う機会を逸していた。
「何を持ってきたの?」
アリエルがひときわ大きく微笑み、ジェニーの前にそれを置いた。木皿の上には、薄い緑色の布に包まれた物が載っていた。
「なあに?」
「開けてみて下さいませ。きっと、お気に召しますわ」
ジェニーが布の端をつまみ上げると、香ばしい匂いが鼻をかすめた。ジェニーは期待しながら包みを大きく開け、そこに茶の単色の、後宮の食卓や茶会で見かける華美な物とはまったく違う、素朴な焼き菓子を見つけて息を飲んだ。二口ほどで食べられる大きさで、木の葉の形をしており、気泡の目立つ粗い生地の表面には、胡桃らしき実の粒が所々に顔を出している。その菓子が十個ぐらいだろうか、山となって薄緑色の布に包まれている。
「ノワ・パイ! アリエル、これ、どうしたの?」
ジェニーは驚きの声をあげ、そのうちの一つを指でつまみあげてアリエルに掲げて見せた。アリエルが嬉しそうに白い歯を見せて笑う。
「やはりご存知でしたか。お懐かしいでしょう? ジェニー様の出身地方の郷土菓子だとか」
「ええ、そうよ! でも、どうしてこれがここに?」
「サンジェルマン様の部下にジェニー様の故郷付近を旅する者がいて、帰城途中にお求めくださったそうですわ」
「じゃあ、サンジェルマンがくれたの?」
「たぶん、きっと、ジェニー様はお喜びになるだろうからと――ええ、サンジェルマン様がくださったのです」
アリエルは振り返ったジェニーの顔をとらえ、妙にゆっくりと頷いた。
「美味しそうな匂いがしますわね」
「美味しいわよ」ジェニーはアリエルに言い、緑の包みを見やった。「こんなにあるんだから、あなたにも食べてもらわないと」
アリエルは首を横に振ろうとして、何かを思い出したかのようにそれを止めた。
「そうですね、せっかくだから頂きますわ。ジェニー様、今召しあがるようでしたら、何か飲み物を用意させましょうか?」
「ううん、飲み物はいらないわ」
ジェニーは手のひらに置いたノワ・パイの葉柄をじっと見つめた。なつかしい菓子だ。それを日常的に口にしていた頃が自然に思い出され、胸の奥がきりりと痛む。
一家で各地を転々としたジェニーたちは根っからの地元民ではなかったが、中央の街の付近一帯で食されているノワ・パイは、ジェニーや兄ローリーの大好物だった。母が作るか、どこかの家庭からもらってきたノワ・パイを兄妹で分けて食べるとき、兄はパイを明かりの火であぶって、少し焦がしてから口に運んでいた。彼は、それが“ヴェスト流”の食べ方だ、とよく笑っていた。
「ジェニー様、どうかされたのですか?」
「何でもない」
胸の痛みが涙となってにじみ出そうな気がして、ジェニーは顔を勢いよく上げた。
「ただ……ただ、兄を思い出しただけ」
アリエルが同情的な色を表情にたたえた。
「お兄様のことは聞きましたわ。どこかで……生きていてくださることを願うばかりです」
ジェニーはむっとして、アリエルに振り返る。
「何を誰に聞いたか知らないけど、兄が生きていられるはずはないわ。あんな……あんなひどい状況で生きているなんてことは――」傷ついた兄が自分を見ようと、顔を何とか動かそうとした情景を思い出し、ジェニーの声が震える。彼が落下してきた屋根の下に埋もれたのは、そのすぐ後だった。
「あんなむごい……」
ジェニーは、兄のためにも果たすべき復讐を投げ出す選択をしたことで、悔やみ始めていた。復讐が不可能である以上は王城からの逃亡が最良の選択だ、と砂を噛む思いで、自分の気持ちに一定の整理をつけたつもりだった。
頬がひきつるのを感じながら、ジェニーはアリエルの戸惑った顔を見つめる。さっきまでアリエルの顔に浮かんでいた同情心は、今は影を潜めていた。
アリエルが視線を何度か落ち着きなく行き来させた後、遠慮がちにジェニーに言った。
「あの……お兄様は、本当に亡くなられたのでしょうか?」
ジェニーは質問の意味がわからず、ぽかんとして口を開いたままに彼女を見返した。
アリエルが質問を繰り返した。
「お兄様は本当に亡くなられたのでしょうか? ジェニー様は、お兄様が亡くなられた時に居合わせたのですか?」
ジェニーは穴があくほどに彼女を見つめ、急に我に返って言った。
「いいえ。実際に見たわけじゃないわ。そうじゃないけど――」アリエルの質問の意図が捉えきれず、ジェニーは混乱する。
「でも、あなたは実際に目撃していないからそんなふうに言えるけど、彼は本当にひどい傷を負って、その後に落下してきた黒焦げの屋根の下敷きになったのよ?」
「ええ、その話は聞いております」と、アリエルはサンジェルマンの名を言いかけて、途中で口をつぐんだ。
アリエルがそれを誰から聞いたかなど、ジェニーにはどうでもいいことだ。
「わからないわ。それを知っているなら、なぜそんなことを言うの?」
アリエルは黒目がちな瞳を見開いて、ジェニーを見た。彼女のその反応は、ジェニーの方がおかしなことを言っている、とでもいうようだ。
「サンジェルマン様がおっしゃるには」と、アリエルは今度は情報源の主の名を隠しもせずに答えた。
「後でその場に戻った際、その瓦礫は既に崩されていて、下にいたはずのお兄様の姿は、影も形もなくなっていたそうにございます。自力でそこから這い出したか、それとも誰かの手助けがあったのかはわかりません。ですが、その周辺では見つけられず、連行された捕虜の中にもいなかったそうですわ。それが……お兄様が生きておられるという証しにはもちろんなりませんが、亡くなられた、という確証もないのではありませんか?」
数秒間、ジェニーの周囲の音は何も耳に入らなかった。無音の世界で、ジェニーはアリエルの唇が自分の名をかたどって動くのを見た。
「えっ……」
そのうちに目に力が入るようになり、ジェニーは、思い出したように瞬きをする。他人のまぶたを無理に動かしているように、不自然な感覚だ。ジェニーの耳の周りが温かくなって、その温かみが徐々に耳の内側に向かって広がっていく。
「ジェニー様?」
アリエルが顔を近づけてジェニーに呼びかけ、ジェニーは体を震わせて彼女を見返した。
「ジェニー様、大丈夫ですか?」
アリエルは心配そうにジェニーを見ながら、手の中に持っていたノワ・パイを木皿の横にそっと置いた。それはジェニーがさっきまで掴んでいた一つで、いつのまにか落としてしまったものを彼女が拾ったらしい。
ジェニーは、ええ、と返事をして頷いた。ヴィレール軍の奇襲による惨状があまりに衝撃的で、兄の残像があまりに鮮明すぎて、アリエルの話にある可能性など、ジェニーは今まで考えつきもしなかった。
ジェニーは、家族の誰の死体も見てはいないのだ。
アリエルの言った視点から考えれば、ジェニーの両親の生存だって大いにあり得る。可能性に期待し過ぎることはできないが、悲観的になり過ぎる必要もないのだ。
そう思いつくと、ジェニーは体の中にあらたな小さな力が生まれてくるように感じた。
午後遅く、アリエルが女官長に呼ばれて出かけていったため、ジェニーはアリエルが代わりにジェニーの側に付けていった召使とともに部屋に残された。ジェニーはそのとき、アリエルが不在の間にサロンに行ってみようと思い立った。いつかのように階段で転倒されては取り返しがつかないからと、女官長はジェニーが出歩くことに対していい顔をしないが、多少の日光を浴びることは大目にみてくれている。それは、アリエルの貢献するところが大きいのだが。
ジェニーがサロンに行くのはほとんどが午前中で、この時間帯にサロンにいることはあまりない。召使にサロン行きを宣言するように伝えると、ジェニーは召使の反対を聞きもせず、部屋を出た。召使は彼女を独りにさせられないので、慌ててジェニーの後を追ってくる。
部屋の外の廊下は閑散として静まりかえっていたが、階段に近づくにつれ、階上か階下からの女たちの声が、空気を伝わって二人の耳にも届く。
ジェニーが階段口に差し掛かると、召使はジェニーの後方にぴったりと付くようにして周囲に注意をめぐらせた。以前の転倒事件――事故としてとりなされたが――からの教訓だ。一階の廊下が見えてくる頃になると、聞こえてくる声の数が増えたことに加え、忙しそうに動き回る者たちの気配が伝わってきた。ジェニーが廊下に降り立つと、ちょうど通りかかった中年の女が軽く頭を下げ、通り過ぎていった。
その女とは逆方向に直進すると、廊下の左手にサロンの入口が見えてくる。ジェニーの召使は、あきらめたように黙って、ジェニーの斜め後方を歩いている。扉のないサロンの入口は、周囲に比べて明るく光っていた。
小声でしゃべる女たちの存在に二人が気づいたのは、サロン入口の間近に着いたときだ。入口のすぐ内側で、おそらくは若い女が二人、ため息まじりの暗い口調で何やら話している。
会話の内容まではわからなかったが“王が”という単語を聞き取って、ジェニーはそこで足を止めた。ところが召使はそのまま進んでいこうとしたので、ジェニーはそれを素早く制する。立ち聞きするような趣味の悪い行為はしたくなかったが、ジェニーたちが立ち止まっただけで、女たちの話し声は意味を持った会話となって廊下に漏れてきた。召使が困惑したようにジェニーの顔を見たが、ジェニーは唇に指をあてて、もうしばらく待つように伝えた。
女たちはため息をつき、職を失ったらどうしよう、と盛んに心配していた。やっとの思いで城での仕事にありつけたのに、と片方の女が嘆く。ジェニーは、王城勤務が女たちの憧れともなっている社会的風潮を知っている。
「ああ、いやだわ。あの方々が追放されたら、当然私たちも解雇よ!」
「そうよ。でもジェニー様の専属にでもなれば、話は別よ。ここ数日は王の姿をお見かけしないけど、毎夜、ジェニー様の所におみえになっていたんでしょ?」
ジェニーの両頬がかっと熱くなる。王が夜毎にジェニーを訪ねていたのは後宮中が知る事実で、知らないのは当人だけだった、とジェニーが気づかされた瞬間だ。
「だからって、追放の対象から外れるのかしら? 後宮はもともとは王妃のための住まいでしょ? 王のご結婚が正式に決まったら、相手国にも誠意を示さなきゃいけないから、後宮を未来の妃に明け渡すつもりなんじゃないかしら」
女二人が、同時に深いため息をついた。
王の結婚――。
独身の若いゴーティス王にとって当たり前の話だったが、彼に関していえば、それが突拍子もない非現実に思えて、ジェニーは今聞きかじった内容が信じられなかった。
王の結婚話が進行中で、もしそれが本決まりとなれば、後宮に住む愛人たちが一掃されるかもしれないということ。あの王が、特定の女一人の夫となるということ。
ジェニーには、それが現実のこととしてどうにも想像できない。
ふと召使の視線を感じてジェニーが振り向くと、彼女は真っ青に顔色を変え、怯えたようにジェニーを見つめていた。




