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第一部 6.短剣の持ち主−2

 サンジェルマンと部下がついさっきまで密談していた部屋に三人が入ると、ベアールは部屋の隅にあった寝台まで進み、疲れた様子でそれに腰掛けた。二人はさっきと同様に窓際に歩み寄って、ベアールの様子を観察しながら、考えをめぐらせ合う。入室する際にもベアールはサンジェルマンの部下の存在を疎んじるような目線を向けたが、彼は再び、部下の男を困惑したようにちらりと見た。

「彼は今回の事情に通じている。気になさらないでもらいたい」

 サンジェルマンがベアールを制すように言うと、彼は小さく息をついて、投げやりな調子で片手を上げた。

「そうですか。そうですね、ええ、ここでの話を口外しないでいただけるならね、構いませんよ」

 サンジェルマンは部下と顔を見合わせる。

 ベアールの陰りのある表情を目にするのは、サンジェルマンも初めてだ。彼は常に明るく得意げで、女たちが側にいれば艶っぽい表情に変わる。その彼がサンジェルマンの視線を拒み、寝台から壁、天井にと視線を次々にめぐらせているのは、既に直面してしまった事実から少しでも目を背けたいからのようにも思える。

 サンジェルマンが口を開こうかとしたそのとき、

「サンジェルマン様はそのご身分にそぐわず、ずいぶんと質素な暮らしをされているのですね」と、感心したような、だがどこか呆れたような口調でベアールが言った。

「寝に帰るだけの場所だ、日々の暮らしには事足りる」

「ええ、そうでしょうね」

 聞く前から彼の返事をわかっていたというように、ベアールは淡々と言った。そしてまた、彼は無言で室内を見まわす。

 サンジェルマンは話を先延ばしされることに嫌気がし、窓際からベアールのいる寝台へ足を踏み出そうとした。すると慌てて、ベアールが言った。

「実は、本日こうして私が急ぎ参ったのは――」

 サンジェルマンが立ち止まると、ベアールが幾分ほっとした顔となった。

「例の、短剣の件です」

 ベアールにサンジェルマンが短剣を託してから、まだ十日にも満たない。

「まさか、持ち主がもうわかった、と?」

 サンジェルマンは答えを全く期待せず、ベアールに問いかけた。ベアールは、なぜか渋々といったふうに首を縦に振る。

「貴公に依頼してまだ十日も経たぬが?」

「ええ、そうなんですが、まあ」

「はっきりしないようだが、それはたしかか?」

 彼が詰め寄るとベアールは寝台から音をたてて立ち上がり、両手を広げて言い放った。

「ええ、確かですよ。父がそう言うのだから、間違えようもない!」

 サンジェルマンは、隠居間近と言われている現在のベアール家当主の顔を思い出した。息子ユーゴは、父親の外見上の特徴をよく受け継いでいる。

「父というと、ご当主が?」

「そうです」ベアールが頷いた。

「私の父が、私が遊戯台に置いておいた短剣を偶然に見かけ、私にその入手経路を問いただしたのですよ。その時の父といったら、それはもうすごい剣幕で――私は唖然としましたよ! でも、私が入手方法を明かせないと知ると、これまたひどい落胆ぶりで。我が親ながら哀れに感じましたが、そこはやはり、サンジェルマン様との約束を破るわけにもまいりませんから――」

 ベアールが笑みを無理にたたえてサンジェルマンを見上げたが、彼は笑い返さなかった。彼はまだ、肝心の短剣の持ち主を明かしていない。調査をすべきベアールが放置していた短剣を、父親が見かけたために持ち手が判明したという、偶然の産物だったことは、この際目をつぶろう。

 ベアールはすぐに真面目な顔になり、非常に居心地が悪そうな様子で話に戻った。

「まあ、私も父に問いただしたのです。そこまで父がこれに固執する理由は何かと。見たところ、何の変哲もない、単なる古い短剣だ。それほど立派な意匠でもなければ、素晴らしい切れ味を持った刃というのでもない。だが、サンジェルマン様は持ち手を知りたいとおっしゃり、父は入手先を知りたがる、いわく付きの短剣だ。それがベアール本家の所属である以上、次期当主となる私にも知っておく権利はある。それに、持ち主が特定できれば、本来あるべき場所にそれを返却することもできる――サンジェルマン様はそれをお望みではないかもしれませんが」

「そんなことはない。いずれは然るべき者に返す所存だ」

 サンジェルマンの顔を見ていたベアールが眉を上げた。

「これは――既に持ち手をご存知のようですね」

「……現在の持ち手を知っているだけだ。本来の、ではない」

 彼の返答に納得したかどうかわからないが、ベアールは目を伏せて、先を続けた。

「ともかく、そういった話をして父を説き伏せ、持ち手の名を出させたのです。父は、その名を口にするまで長いこと迷っておりましたが――正直、私も今申し上げるのを躊躇っておりますが――父は、私にようやく名を告げてくれました。と言いましても、その名を知らされても、私には誰のことかすぐにはわからず、家の者に尋ねてみてやっと記憶がよみがえったのですがね」

「その者とは?」

 サンジェルマンはすかさず彼に尋ね、その表情のどんな変化も見逃さないようにと彼に視線を定めた。ベアールはひるんでサンジェルマンとその部下を一瞥し、少し言いよどんだ後、やがて腹を決めたように言った。

「アルベール、私の兄です」

 ジェニーの父親と同じ名だった。だが、世にありふれた名前でもある。

「貴公の……兄?」 

 サンジェルマンの口に力が入らず、息だけに押し出された言葉が空中に浮遊していったように感じられた。

「はい」

「兄とは――ああ、不慮の事故で亡くなるまで、貴公の前に模範試合を担当していたという?」

 ベアールがゆっくりと頭を左右に振った。

「それは二番目の兄ヴィクトールです。彼ではなく……私の長兄です」

 ベアールが、いたたまれなくなったように窓際へ歩いていく。ベアールは眉をひそめて親指を唇に押し付けながら窓の外を眺めた。窓から入る光が、彼の髪を明るい色に戻していた。


 サンジェルマンが窓の方に一歩近づくと、ベアールが顔だけを彼に振り向けて言った。

「サンジェルマン様、あの短剣をどういった経緯で入手されたのか、教えてはもらえませんか」

 ベアールの隣にいたサンジェルマンの部下が、じろりとベアールに視線を向ける。

「それはできない」

 サンジェルマンが答えると、ベアールが窓を背に彼に体をくるりと向けた。

「サンジェルマン様、極秘事項なのは承知していますが、私の家にも関わるかもしれぬことです。どうか、お聞かせ願えませんか」

 サンジェルマンの目を見つめ、ベアールは嘆願する。けれど、サンジェルマンは事務的に答えた。

「悪いが、現段階では明らかにはできない。それがたとえ貴公の兄の物だったとしても――誰かに与えられたか、盗まれた可能性もある」

 ベアールは憤慨したようだったが、紳士らしくそれをさっと隠した。

「ええ、当然にそれは否定できませんよ。誰が持っていたかにもよりましょう。……誰が持っていたのです? サンジェルマン様はご存知でしたね。それも、私には教えていただけないのですか?」

 ジェニーの顔を思い浮かべながら、サンジェルマンは彼を見返した。

「持ち主は若い女だ」


「若い女……ですか」

 彼の返答を聞いてベアールは眉をひそめ、心当たりを探そうとでもするように、目玉をぐるりとまわした。やがて、彼はやるせなさそうに深いため息をつく。どうやら、思い当たる節はないらしい。サンジェルマンは静かに彼に歩み寄り、行く手を阻むように彼の前に立った。

「それで――ベアール殿、その貴公の長兄とやらは今どこにおられる? 私はおそらく、面識がないと思うのだが?」

 サンジェルマンが問うとベアールは肩をすくめ、ややこわばった顔をあげて苦笑した。

「私も兄とは数えるほどにしか会ったことはありませんよ。私と兄は十五も年が離れておりましてね。兄は近衛に所属していたために留守がちで、さらには私が物心つく頃までには家を出ていたこともあって、どんな顔をしていたかも思い出せない。今どこにいるか――さあ、どこにいるのか、はたして生きているのかどうか。それは私も、とりわけ私の父も知りたがっておりますよ」

 ベアールの年から長兄の年齢を計算してそれがジェニーの父親として妥当な年齢だと分かると、にわかに現実味を帯びてきた可能性に行きついて、サンジェルマンの下あごが強張った。彼の前にいるベアールが不審そうに視線を斜めに変え、サンジェルマンを見返した。

「どうかされましたか?」

「何でもない」

 サンジェルマンはベアールの疑問を払拭しようと笑みを浮かべたが、彼は簡単にはごまかされなかったようだ。

「サンジェルマン様、もしや――私の長兄の居場所に心当たりがあるのでは?」

「いや、残念ながら」

 サンジェルマンが首を横に振ると、ベアールが下唇を少し噛み、さらに真剣な口調で尋ねた。

「私はサンジェルマン様が我が家の短剣を調査する意図は存じませんし、それを問う気もありません。けれど、サンジェルマン様はもしや、現在の短剣の持ち主というその若い女と長兄にはなんらかの縁があるとお考えなのではありませんか? もしそうだとすれば、私どもベアール家も無関係ではなく、真実を知る必要がある。そうではありませんか?」

 ベアールはサンジェルマンの部下にも挑むような目つきを向けたが、男はまったくの無反応で無表情を保っていた。それからベアールは、サンジェルマンに視線を戻して彼を見据える。

「無論」と、サンジェルマンはベアールの挑戦的な瞳を受けて微笑んだ。そして、彼を見ながら付け加える。「その仮定が正しければ」

 ベアールが隠し切れない落胆と苛立ちを顔ににじませ、サンジェルマンに近づこうとしてその場に足を踏みとどめた。部下が警戒を強めて動き出そうとするのをサンジェルマンは無言で制し、ベアールが服の裾を手で握りしめる様を見つめる。

 もしも身分の上下が逆だったら、サンジェルマンはベアールに殴りかかられていたのかもしれない。

「ベアール殿、逆にお教え願いたい」

「……何でしょう?」

 ベアールの声は冷たかったが、彼は感情を必死で抑制しようとしているようだった。

「貴公の長兄はなぜ家を出られた?」

 ベアールが気おくれしたように言葉を失い、サンジェルマンを無言で、そのどこまでも青い瞳で見つめ返す。

「長兄というからには家督を継ぐ立場であったはず。それをせずして家を出たとあれば――」

流行病はやりやまいで隔離されたのですよ」と、ベアールが急に無表情になって彼の言葉を淡々とさえぎった。「その後にそこから逃げて行方知れずとなったそうで……いまだに、足取りはつかめておりません」

「行方知れず?」

 サンジェルマンは彼の態度にどうにも腑に落ちないものを感じ、彼の説明が信じられなかった。サンジェルマンに見つめられ、彼が決まり悪そうに両手を広げてみせる。

「サンジェルマン様、ベアール家といえど、他家と同様にそれなりにやっかい者を抱えておりますよ。いったい、兄の失踪を知ってどうされるというのです?」

 サンジェルマンの質問でベアールの警戒が一気に高まったことは確かだ。彼の反応に確かな手ごたえを感じ、サンジェルマンは先を続けた。

「私だとて貴家の事情をあれこれと知るつもりはない。ただ、場合によっては――失踪の真相のほどによっては、貴公の仮定が証明されるかもしれない」

 ベアールが口を半開きにし、それから、真意を探るようにしてサンジェルマンを見る。彼もベアールの疑いのこもった目を静かに見つめ返した。その目が頼りなさそうに大きな迷いを映し出すまで、大した時間はかからなかった。

「場合によっては――」

 ベアールが目を泳がせながら、心ここにあらずといった調子でつぶやく。サンジェルマンは彼の言葉を繰り返した。「場合によっては」

 ぼんやりとした目でベアールが彼を見る。

「ベアール殿、私は私の調査のためだけに尋ねているのであって、貴家の内情に興味はない」

 サンジェルマンがきっぱりと言うと、ベアールが不意に窓際から離れた。サンジェルマンが反射的に退くと、彼はおぼつかない足取りで寝台に向かってふらふらと歩いていく。それから力尽きたように寝台に腰を降ろし、大きな息をついて正面の壁に目をやった。疲労が彼の顔に色濃く影を落とし、実年齢よりずっと老けて見せる。彼は斜め下に視線を落としては時おり意を決したように目を上げ、思い出したかのように何度か短いため息をついた。サンジェルマンは、彼がそうやって納得するまで躊躇するのを辛抱強く待つ。

 ベアールが口にするのをそこまで気に病むお家事情を無理に吐かせるのは酷に思えたが、だからこそ、サンジェルマンの知りたい事実に重要な意味を持った理由なのだ、と感じられた。


 ベアールが手のひらで片目をこすり、やっと視線を上げてサンジェルマンを振り返った。サンジェルマンが微笑むとベアールは彼の部下にも厳しい目をやり、くれぐれも口外しないように、と念を押した。サンジェルマンは部下が秘密を漏らすことはないと分かっていたが、ベアールの安心を増すためにも、「決して口外するな」と部下に申しつけた。部下は小声で返事をし、入口扉の近くに移動した。

 膝の上で手を何度か組みかえ、サンジェルマンと目が合ったベアールは記憶の端をたどるように言った。

「兄が当家を“出ていった”のは二十数年も前のことです」

 ベアールが唇を小指でなぞりながら、それとわかる作り笑いを浮かべた。

「しかし、兄は当時の流行病にかかって隔離されたとされました。兄が自発的に家を出たとするには、許されざる理由があったのです」

 ベアールに彼のペースで話を進めさせようと、サンジェルマンは口を挟むことは避け、相槌だけを打つ。サンジェルマンが頷くのを待って、彼は、最初からお話しましょう、と静かに言った。

「ベアール家の他の人間の例にもれず、当時の兄も剣の名手で将来を有望視されていたそうです。当然、父もいずれは兄に家督を譲るつもりで、決まった許婚者もおりました。父が言うには、長兄は私の母によく似た風貌で父の性格を受け継いでいたとのことです」

 ベアールが心なしか怯えたように体を収縮させた。

「ところがある日、兄はまるで散歩にでも出かけるように、身一つで突然に家から出ていきました。両親も家の者も、兄が任務で忙しくて帰ってこないものだとしばらくは疑っていなかったのです。そんなことが当時はよくあったそうで。それが、兄がどこにもいないと気づいたのは――兄の許婚者が、帰宅した彼女の兄、当時の兄の同僚に彼の行き先を尋ねられて初めて発覚しました。兄は近衛の詰め所にも隊の宿舎にも友人宅にも、どこにもいなかった。いきなり消えてしまった。そして、そのときまでには、兄が勤務に出てこなくなって二週間が経過していました。それを知った両親は――」

 彼は咳払いを一度し、寝台の上で姿勢を正す。サンジェルマンは彼の唇を見つめた。

「そのとき、私の両親は兄が女と逃げたと知ったのです。つまり、駆け落ちですよ」

 ベアールがサンジェルマンを見て自嘲的に笑う。

「兄はそれまでに度々、両親に婚約を破棄してその身分違いの女と結婚させてくれるように頼んでいたそうです。時には激しい口論にもなったとか。兄は、相手の女を愛人とすることに我慢ならなかったようですね。貴族らしからぬ、というか、愚直というか……私には到底理解できない行動ですが、ともかく、両親がその結婚を許すはずもなく、兄は恋に落ちたその女と手に手を取り、家も身分も全て捨てて、去ってしまったわけです」

 駆け落ち自体は、貴族社会で日常茶飯事にあるとは言えないが、特に身分違いの男女の場合においては起こりえることだ。長兄の行為は身内の恥だとはされるだろうが、ベアールにあそこまで躊躇させるには、何かが足りない気がする。

 サンジェルマンの納得いかない様子に先手を打つかのように、ベアールが重苦しい口調で続けた。

「両親はそれを知ると激怒し、そして相手の女を知って――恐怖に打ち震えました。駆け落ちが不名誉だからと兄を勘当することはもはや叶わず、当時の流行病だった重い伝染病にかかって遠く隔離したことにしたのです。伝染病となれば誰も、許婚者でさえも会いに来ようとは思いませんからね。そうやって時を稼いでいる間に兄を見つけて家に連れ戻そうと考えたのです。兄の仕出かした事はそのとき既に兄一人だけの問題ではなく、ベアール家全体に関わるものとなっていました。両親は必死で兄を捜索したそうです。でも見つからなかった」

 ベアールが落ち着きなく、両手の指を絡み合わせては解いている。口をきくのもはばかられる重い空気が部屋を鎮圧し、サンジェルマンの喉の底を緊張の塊がゆっくりと流れていった。

「相手の女というのがやっかいで」

「目上の、誰かの女だったのか?」

「え? いいえ」

 思わず尋ねたサンジェルマンに、ベアールは失笑して否定する。

「それなら兄が殴り殺されるだけで済むでしょう。その方が何倍もよかったかもしれません。女はもっとややこしい立場で……庶民ともいえず、貴族ともいえず――」

 サンジェルマンはベアールのすぼめた口元を見つめた。言葉を慎重に選ぼうとしているのか、言い渋っているのか、ベアールの言葉の先がなかなか続かない。

 サンジェルマンはジェニーの母親の名を頭の中で思い出した。ミレイユだ。

「女の名は?」

「名、ですか? 名など知りません」

 不愉快そうに唇をゆがめ、ベアールが答える。サンジェルマンが肩をすくめると、ベアールは腹をくくったのか、すらすらとしゃべり出した。

「兄と逃げた女は――その当時にヴィレールと敵対していたフランドル王国をご存知かどうか。今はもう崩壊して一部はヴィレールに併合されておりますが、女はそこの……間者だったのです。そして、兄もそれは承知だったのだと思います」

 間者との密通は大罪だ。国家反逆罪として関係者全員に重い罰が下る。

 たぶん、サンジェルマンは事の深刻さに気づいて顔色を変えたはずだ。ベアールが焦ったように立ち上がり、彼に向けて数歩足を踏み出した。

「ああ、どうか誤解なされないで! 兄は間者の女と逃げたとはいえ、仮にもベアール家の者です、国を裏切ったりはしない! もちろん、当家の誰一人として過去にも未来にも国家に背くような愚かなことはしません! どうか、その点だけはどうか、ご信用いただきたい!」

 ベアールの真剣で必死な形相から、彼の話した内容は事実だろうとサンジェルマンにも直感で分かった。二十数年昔のことだが、ベアールの長兄と間者の女は単に純粋に恋に落ちただけで、情報漏えいなど何もなかっただろう。何より、後者が目的であったなら、彼が女との結婚を親に求めることもなかったはずだ。

 粉々に割れて飛び散った彫像の欠片が、一つずつ元の位置に戻って本来の形を取り戻していくようだった。ベアールや部下から今までに得た情報が、サンジェルマンがもしかしたら知りたくないかもしれない事実に向けてじわじわと到達していくのを肌で感じ、サンジェルマンは耳の奥に鋭い痛みを覚える。


 ベアールはうな垂れていた。顔も曖昧だという長兄のせいで、自分の家が存続の危機に晒されるかもしれないことを恐れ、それを自ら暴露してしまった悔いのようなものも見える一方で、彼はそれを真摯に受け入れている。サンジェルマンはそれを目にして、ベアールが一生関わらない種類の人間だと分類したことを撤回した。

「ベアール殿」

 サンジェルマンが呼ぶと、ベアールは口を結んで顔を上げた。

「貴公にはもしや――行方知れずとなった姉か妹もおられないか?」

 ほんのわずかに唇を開いたベアールの反応だけで、サンジェルマンは自分の当てずっぽうの推理が正しかったことを知った。

「何を……我がベアール家の何を、そんなに知りたいのです?」

 ベアールの口調はずいぶんと気弱だった。こみ上げてきた胸の高まりを押さえ込み、同じように高揚しているらしい部下を黙殺すると、サンジェルマンはベアールの顔をのぞきこんだ。ベアールは大きな瞳を訝しげに細め、困惑したように彼を見返した。

「貴家の事情を知りたいわけではない。私はただ確認したいことがあるだけで――それには貴公の協力が多分に必要となる。貴公にとっても、有益になると思う」

「有益かどうかはともかく、ここまできたら協力などいくらでもしますよ。何をすればよいのです? 私だけで事足りるのですか?」

 ええ、とサンジェルマンは笑って頷いた。ベアールもようやく、硬い笑みを返す。

「剣技大会を終えたその足で、私とともにベルアン・ビルに向かってもらいたい。会ってもらいたい者がいる」

「それはまた遠い地ですね。しかし……その者とは、私が知る人物なのです?」

「わからない。それを貴公に確かめてもらいたいのだ」

 ベアールは煙に巻かれたように不思議そうに彼を見つめた。だが、彼が笑みを再び見せると我に返り、依頼を承諾した。


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