第一部 6.短剣の持ち主−1
ライアンとの約束時間まではまだ間があったが、サンジェルマンは本館を通って彼と落ち合う場所に向かっていた。
今日は、ライアンとは旧知の仲であるユーゴ・ベアールが来城する日だ。
ベアールと彼が会えるようにとライアンが事前にとり計らってくれたため、今日、二人は初めて会話らしい会話を交わすことになる。
腰に差したジェニーの短剣の鞘に触れると、サンジェルマンは、王が彼女の人工的な流産を示唆された際に見せた躊躇を思い出す。それと同時に、いやな胸騒ぎも沸きあがってくる。
本館と違って多くの使用人が行き交う西館に踏み入るなり、サンジェルマンは、ベアールが既に来ている、と勘づいた。年若い下女から年配の召使女までが、どことなく浮ついている。ベアールは外見にも恵まれているが愛想もよく、良くも悪くも女に対しては平等なため、身分や年代を問わず、女たちの間での人気は大変なものだ。女たちの落ち着きのなさはベアールの出現によるものだろう。
「ベアール殿はどこに?」
試しに一人の女を呼び止めて彼が問うと、女は嬉しそうに笑い、あっさりと返答した。
「二階においでです。先ほどは女官長様とお話をされているようでした」
サンジェルマンは女を解放し、階上に続く階段に足を向ける。こんな用事がなければ一生関わりのない種類の男だろう、とベアールの顔を頭に思い描きながら。
女官長の部屋に近づくにつれ、普段とは声色の違う彼女の話し声がサンジェルマンの耳についた。どうやら部屋の扉は開放されているらしく、戸口付近で彼女がベアールと会話をしているようだ。
女官長室の出入口の木枠に寄りかかるようにして、一人の男が室内に顔を向けてしゃべっていた。背はサンジェルマンと同じか若干低いくらいだ。茶色に近いブロンドの髪が顎より少し下までゆるやかに流れ、半袖からのぞく上腕筋は、剣の使い手だけあって見事なものだ。日に焼けた筋肉質の腕や足に生成りの上下服がよく似合う。腰帯には彼の象徴ともいえる、黒と銀色の二色使いの鞘に入った剣が差してある。
サンジェルマンに気づいた女官長の視線を追うようにして、ベアールが髪を揺らして振り向いた。鼻筋がしっかりとしていて、大きな青い瞳を持っている。彼とベアールの視線がぶつかった。
「これは――サンジェルマン様ではないですか!」
彼が目礼すると、ベアールが、びっくりするほどに愛らしい笑顔を向けた。
「後ほどお話ができると楽しみにしておりましたが――ご無沙汰しております! お元気でしたか?」
ベアールが笑顔をたたえたままで彼に歩み寄り、彼の前で止まると再び、大きな瞳を嬉しそうに揺らして笑った。彼はライアンと同年代の三十歳前後のはずだが、笑うとできる目尻の皺は、皺の持つ意味とは逆に少年のあどけなささえ思い起こさせる。女たちはこの笑顔に太刀打ちできないのだろう、とサンジェルマンはひそかに納得した。
「私は相変わらずだ。貴公も元気そうで何より」
「ええ、私は変わらず達者にしておりますよ!」
二人はひととおりの挨拶を交わすと、女官長に振り返った。彼女に視点をあてながら、ベアールが尋ねる。
「サンジェルマン様、女官長様にご用だったのでは?」
「いや。貴公がこちらにいると聞いて、寄っただけだ」
ベアールがサンジェルマンに視線を移し、にっこりと笑った。それから、女官長の方にその魅力的な唇を向ける。
「女官長様、私はサンジェルマン様とお話があるので、これにて失礼させていただきます。お会いできて嬉しかった」
ベアールが腰をかがめて女官長の頬にキスをすると、彼女は残念そうな表情を浮かべ、サンジェルマンの方を恨めしそうに見た。
「ベアール殿に確認いただきたいことがあって、ライアン殿に頼んで彼に時間を作ってもらったのだ」
そうですか、と彼女は落胆を隠しもせずに言い、ベアールをもう一度見上げた。ベアールが彼女に片目をつぶってみせ、少し困ったように笑う。サンジェルマンはまるで自分に非があるかのような彼女の反応に気分を少し害したが、気を取り直して彼女に挨拶をした。
ベアールは機嫌が良いようで、近衛の控室へ向かう道すがらに出会った数人に明るく挨拶し、サンジェルマンには何度か政治情勢の話題をふった。ベアールは社交慣れしている人物らしくなかなかに博識で話の切り返しもうまく、人に合わせた会話の展開法を心得ているようだった。そして、サンジェルマンの隣を歩いている限り、ベアールは女たちの視線に追われていると知っていながら、完璧にそれを受け流していた。
二人がライアンとの待ち合わせ場所に入ると、やはり約束の時間より早くに来て、窓の前に立っていたライアンが驚いたように二人を見た。
「先ほど、偶然にお会いしたのですよ」
ベアールが先に口を開き、ライアンに近づいていった。彼らは既に会って挨拶を交わしていたらしく、一言、二言だけ何かを言い交わすと、サンジェルマンのいる入口の方に振り返った。
ライアンが人払いをした後らしく、部屋には三人以外、誰もいない。サンジェルマンは中央に置かれたテーブルに歩み寄り、椅子を引いた。その対面にはいく分緊張した面持ちでベアールが座り、ライアンは席を取ることを拒んでサンジェルマンの斜め後ろに立った。開いた窓から漏れてくる昼間の喧騒がなければ重苦しい沈黙ばかりが流れる空間に、サンジェルマンが腰帯から短剣を外す音が響いた。
「早速だが、ベアール殿に見てもらいたい物がある」
サンジェルマンがそう切り出して視線を上げると、ベアールが頷いた。「何でしょう?」
ライアンの体がサンジェルマンに近づき、ベアールの視線もライアンに走った。
「これを」
サンジェルマンが鞘入りの短剣を紋章のある面を表にしてベアールの前に差し出すと、ベアールはそれを一秒も見ないうちに、拍子抜けしたように彼に問い返した。
「この短剣がどうかしましたか?」
「……貴公の家の物か?」
「ええ。かなり古い物のようですが――」と、ベアールは短剣を手に取って、興味もなさそうにひっくり返し、消えかかった意匠を見つめる。「誰の持ち物かまでは私にはわかりませんがね。これは当家の、ベアール本家の短剣ですよ」
一度確認して知っていたことだが、その家の人間からあらためて証言されると言葉を失う。サンジェルマンが黙ったかわりに、ライアンが口を出した。
「それがベアール家の誰の物か、知る者はいるのか?」
「それは、何とも言えませんね」
次に顔を上げたベアールは、興味深そうにサンジェルマンとライアンの顔を見やった。
「何やら事情がおありのようですね。差し支えなければ――私にも少し、お聞かせ願えますか?」
ライアンはそれにまつわる事情を知らない。彼もこの短剣に興味を持っていることをサンジェルマンは知っており、彼がわずかながらテーブルの方へ身を乗り出したことに気づいたが、サンジェルマンはベアールへの返答を拒んだ。
「協力を仰ぐ立場で申し訳ないが、詳しい事情は語れない。私がこの短剣の持ち主を特定しようと動いていることも、他言しないでもらいたい」
失望の色を瞳に浮かべ、ベアールが短剣に視線を落とした。手の中で短剣をもてあそぶようにして、紋章と意匠部分を見ている。
「ベアール殿、必要とあればこの短剣を託してもかまわぬゆえ、貴公の家で……誰の持ち物かを突きとめてもらえぬだろうか? それに、過去に紛失または盗難にあった短剣の存在もあわせて調べてほしい」
ベアールは難色を示した。
「しかし、当家は特に剣の類は多数持っておりましてね。探すとなると――」
「私からも頼む」
ライアンが口をはさみ、意外な応援を得たことにサンジェルマンは驚いた。
「貴公の手を煩わせることにはなるが、ここはひとつ頼まれてやってくれないか」
ベアールはライアンの顔を見つめていたが、やがて苦笑して、言った。「わかりました、お二人に頼まれては私だって断れませんよ。これは私がお預かりしましょう。少し時間はかかるかもしれませんが――家の者にあたってみます」
「恩に着る」
サンジェルマンが真摯に言うと、ベアールが微笑んだ。
それからベアールは短剣をつかむと、腰につけていた布袋に無造作に放り入れた。サンジェルマンは彼のぞんざいな短剣の扱い方が気にかかったが、ともかく、それが一週間か一ヶ月か、彼の持ってくる結果を待つ以外にはない。
◇ ◇
カローニャの使者を送り出して二日目、剣技大会まで残すところ、あと三日。
王の執務室の隣にある部屋ではランス公が自分の順番を待っていたのだが、彼の前に入室していった者と王の案件が長引くと、時間を持て余したらしい彼がやはり同室にいたサンジェルマンに愚痴をこぼし始めた。ランス公は諸国との外交を担当し、前回のアストリアや今回のカローニャの使者との調整に一役も二役も買った張本人だが、その訪問の二回ともが双方の国に実りある結果をもたらさなかったことに、ある程度の納得はしながらも、落胆と責任を感じているらしい。それはランス公が責めを負うことではない、とサンジェルマンが言っても、彼の浮かない表情は一向に変わらない。
「カローニャは鉱物資源の豊富な国だ、縁者となっても良かったのでは……。もしも、十二歳の第二王女ではなく美女と評判の第一王女を妃にと差し出してくれれば、王の気も――変わったのであろうか」
「ランス公、王は妃候補が気に入らぬからといって議事を否決なさるお方ではありませんよ。諸事情を総合的に判断なさって、ご決断されたまでです」
サンジェルマンは彼を見て、静かに微笑む。
二国の使者はともにヴィレールへの同盟申し入れを目的として訪問したが、両国の国勢や自国にもたらされるはずの恩恵を考慮し、現時点では同盟締結をしない、という最終決断をしたのはゴーティス王だ。その二つの英断について、サンジェルマンは王を誇りに思うとともに、昨年以前の彼との変化をはっきりと感じている。
特にアストリアはヴィレールより財力が乏しく、実質、ヴィレールへの併合を念頭に置いた同盟の申し入れだった。以前の王であったなら、国土拡大のためにその国を吸収してしまう選択をしただろう。だが王は、「今のヴィレールには新しい国土より国力の充実が必要」と、戦に明け暮れて各地を制圧した日々とは真逆の発言をして、反対者たちを黙らせた。
また、婚姻によるヴィレールとの同盟成立を提唱したカローニャは、十二歳になったばかりの第二王女をゴーティス王の妃候補として挙げ、彼女より年齢的に王に近い第一王女が直前に婚約が整った件を言い訳のように説明した。それは、兄王子たちからの信任も厚い第一王女を悪名高いヴィレールにやりたくないがための防御策では、とヴィレール側にカローニャの誠意を疑わせる一件にもなった。そして、その兄王子たちは、祖父である現王が体調を崩して以来、後継を争って不仲だという説が流れている。
「たしかに、次王が決まるまではカローニャの情勢に不安はあるがね……」
渋々ながらもランス公がつぶやいたとき、執務室の扉が開いた。すると、それまでの暗い顔はどこへやら、彼は瞬時に表情を明るく変えてサンジェルマンに別れを告げる。
ランス公が執務室に消えていって間もなく、サンジェルマンは衛兵から、部下が面会したがっていると知らせを受けて部屋を後にした。部下は一階の衛兵待機室にいるという。階上まで上がることが許可されない階級に属する、彼の部下だ。
雑然とする衛兵待機室に足を踏み入れるなり、サンジェルマンは待ち人の顔を認識して息を飲んだ。その部下を任務地に派遣して二ヶ月も経っていない、予想外に早い帰還だ。
日の光がわずかにしか届かない部屋の隅に存在を溶け込ませるようにたたずむ男を見て、サンジェルマンは良くない知らせを予想して落胆する。男は戸口に立ったサンジェルマンに気づいてもにこりともせずに、数人の若い衛兵がたむろする室内を斜めに横切って、足早に彼に近寄って来た。
「無駄足だったか」
サンジェルマンの呟きが聞こえなかったらしく、男は彼の前で頭を下げて帰任の挨拶を丁寧に述べた。早かったな、と彼は声をかける。
だが、部下が顔を上げると、その瞳は意気揚々として輝いていた。その表情の明るさで、サンジェルマンは自分の思い違いを予感した。
「サンジェルマン様、見つけましたよ!」
部下の声は談笑している衛兵たちの声に紛れてしまうほどの音量だったが、サンジェルマンは咄嗟に男の背後に目を光らせ、誰も自分たちを振り返っていないことを確認した。目をみはって部下を見ると、部下は無言で、彼から少しも目をそらさずに唇の両脇を小さく上げる。
サンジェルマンは驚きを隠し、慎重をきして、彼を外へと連れ出した。大きな宴を控えているせいで城内は普段より人の往来が多く、二人は静かに話ができる場を探して二転三転と場所を移ることになった。部下も心得ており、彼と廊下を歩いている間は一言も口をきかない。
召使に自分たちを邪魔しないように言い含め、サンジェルマンは階上の空き部屋に部下と入り、廊下に声が届かない窓際へと移動した。最終地のここに到着するまでの間に断片的に聞いた情報をつなぎ合わせれば、彼の報告の大筋は既にわかっていたが、それをあらためて確認する意味でも、サンジェルマンは事の次第の説明を彼に求めた。部下は眉にかかる前髪を指で無造作に払いのけ、その下から鋭気に満ちた目をのぞかせて、笑顔になる。
「ベルアン・ビルにジェニー様の叔母はおりました」
サンジェルマンがその意味をかみしめるようにして頷くと、部下はより低い声となって話を続けた。
「叔母ジョセフィーヌ・ゲンスブールは皆からはジャンヌと呼ばれ、夫を病で早くに亡くしてからは、村はずれの館に十歳の息子一人とひっそりと暮らしております。近くに住む老夫婦が毎日その館に通い、二人の世話をしている模様です。当地には、戦で夫を亡くした同じような境遇の女だけの世帯がいくつかありまして、彼女も最初は私を警戒して扉を開けてくれなかったのですが……私がジェニー様を保護する者の代理として彼女を捜索している旨を告げると、それはもう、たいそうな喜びようで。ジェニー様の出身地が――ヴィレールによる統治に代わったと彼女は知っておりまして、行方不明となった家族の身を以前より案じていたようです。彼女は、ジェニー様の父親の妹にあたるとのことでした」
部下の声がかすれ、彼は用意されていた水に口をつける。サンジェルマンはそれを見守り、彼が続きを話し始めるのを静かに待った。
「残念ながらジェニー様の両親の安否はわからないのですが、彼女はすぐにでもジェニー様に会いたい、私に同行する、と言いはりまして――僭越ながら、私の判断で、こちらよりあらためて近いうちに出向く旨を取り決めてまいりました」
部下はサンジェルマンを仰ぎ見て、彼の返答を待っている。サンジェルマンは、彼を安心させるように微笑み、答えた。
「よくやった。近々、私が彼女の保護者としてベルアン・ビルに出向こう」
「は」
サンジェルマンは男が口をつけた杯の隣にあった杯に水を入れ、口にふくんだ。水はもうぬるかったが、喉全体にじわりと染み込んでいく。水が喉にふれて初めて、彼は、自分が驚くほど喉が渇いていたことに気づいた。
「ただ、サンジェルマン様、訪問される際にはご注意いただきたい点がありまして」と部下が控えめながらも力強い口調で言う。「彼女はヴィレールに並々ならぬ警戒を抱いているようなのです。我々がヴィレール人であることは伏せた方が賢明かと存じます」
「心得た。兄家族がヴィレールの犠牲になったとみなしているのだ、よからぬ感情を持つのも当然だろう」
「いえ、それだけが理由とはどうも言い切れぬようで」
「どういうことだ?」
しかし、部下にその根拠を尋ねても彼の所感としか言いようがないらしく、サンジェルマンは仕方なくそれ以上の追求をあきらめた。それから彼は、ジェニーの叔母の置かれている現状をしばらく聞き、おおよその訪問日を決めた後に二人は会話を終了した。
彼らが小声でしゃべりながら階段を降りていく途中、サンジェルマンは階下から誰かが階段を自分たちの方に向けて上がってくる足音を聞いた。狭い踊り場が二人の前に現われると、そこに召使女の黒い頭が見え、それが二人の方にくるりと振り返った。
「ま、サンジェルマン様? 今、お知らせにあがろうとしていたところです」
顔を上に向けて彼女は言い、思い出したかのように膝を折って軽く挨拶をする。
「どうした? 城から何か連絡でも?」
「いいえ。急ぎとかで来客の方がおみえに――」と召使女は二人から彼女の背後に顔を向け、サンジェルマンもそれにつられて彼女の後ろに続く階段をのぞき見た。男の履く固い靴音が聞こえ、サンジェルマンの視界に入ってきた茶色に似た頭髪の持ち主が、上を仰ぎ見て彼に笑う。
「どうも、サンジェルマン様」
「……ベアール殿?」
ベアールはその場に止まり、サンジェルマンと視線が合うと、笑顔をぎこちないものに変えた。サンジェルマンは一瞬言葉につまり、隣にいた部下を思わず見ると、部下も何かを感じたらしく、顔をひきつらせていた。