第一部 5.王の子−8
ジェニーが自身の妊娠を知って一日経ち、王は訪問を約束していた夜になっても、ジェニーの前に現れなかった。急用ができたのだという。
王の存在に邪魔されないおかげで、ジェニーはケインとの前夜の約束を事実として徐々に実感できるようになり、彼との再会と思わぬ脱出計画がジェニーの心の負担をずいぶんと軽くはしてくれた。でもその一方で、王に手を下すことなく志半ばで去ってしまうことへの迷いや、説明のつかない、去りがたい想いは、彼女の胸にずっと渦巻いて消えていない。それに、王の子が胎内にいる事実もいまだ、彼女にはうまくのみこめていない。
ジェニーの前日の動転ぶりを心配して、召使に加え、アリエルまでが前夜から泊まりこみで彼女の側に付いていた。ジェニーの頭は食事の一切を拒否していたが、残念ながら、彼女の食欲は失せてくれない。アリエルが言うには、ジェニーの腹にいる子が食事を要求しているからだそうだ。
次の日になっても、ジェニーはアリエルと口をきく気にもならなかった。だが、ジェニーがうたた寝をして目覚めたとき、自分が眠りに落ちる前と同じ姿でアリエルが傍らにいてくれたのを見て、彼女には心配をかけてはならない、とジェニーは思った。そして、赤の他人の、年も身分も下の自分に献身的に尽くしてくれる彼女に、あらためて心を打たれた。
「どうしました?」
いつもと変わらないアリエルの声に、ジェニーは胸がつまる。
「まあ。どうされたのです?」
「このままでいさせて」
ジェニーがアリエルの手に自分の手を伸ばすと、彼女はその手を見て微笑みを浮かべ、ええ、そうしましょう、と優しく囁いた。
「……あなたは、私の母親みたいよ」
ジェニーがつぶやくと、アリエルがしたり顔で答えた。「では、私はとても幼い頃に母親になったのですね」
ジェニーがしのび笑いをもらすと、アリエルの同様の声がそれに重なった。その後にしばしの沈黙が流れたが、苦痛な時間にはならなかった。
「ジェニー様、こんなことを申し上げるのは失礼だとわかっておりますが」アリエルが遠慮がちに切り出し、ジェニーは彼女に笑いかけて先を促す。
「ジェニー様は、私の実家にいる末の妹によく似ておりますよ」
「妹に似ているぐらいで失礼にはならないわ」
アリエルが楽しそうに口角を上に向け、「今から申し上げることが失礼なのですよ」と笑う。
「私の末の妹はシャーロットと申しまして、年もジェニー様と近く、私とちがって髪の色も同じような明るい栗色ですわ。乗馬もいたします。彼女はとても元気で、いえ、元気すぎて、兄や友人たちとよく騒ぎを起こすものですから、母が嘆いておりますわ」
女官長様に叱られるジェニー様のように、とアリエルが付け足す。
「そうね、私に似ているかもしれない。でも、アリエルとはあまり似ていないようね」
「彼女は父親に似たのでしょう。私も彼女を見ていて心配なところはありますが、情の深い、優しい子です」
アリエルがジェニーとつないだ手に力を込めたので、ジェニーも彼女の手を握り返した。
「アリエルはシャーロットが大好きなのね?」
「もちろんです。それに、ジェニー様も」
「私もあなたが大好きよ」
もったいないことを、と、アリエルは言ったが、彼女が嬉しがっていることはその笑顔から明らかだった。彼女の笑顔を見ていると、ジェニーのねじれた心がだんだんとほぐれていく。視線が合った二人は笑いあったが、ふと、アリエルがジェニーから視線を外し、声調を落として切り出した。
「ジェニー様、私はこう思うのです」
「うん?」
「ジェニー様の王に対するお気持ちがどうであれ、お腹の中の赤子は王の御子であり、ジェニー様の御子でもあるのです。生まれてくる子どもには、何の罪も落ち度もないのです。私は、シャーロットが家に生まれた日のことを今でも鮮明に記憶しております。あの子はとても愛らしくて――皆で守っていかなくては、と、私はまだ幼いながらも兄たちと誓いあったのです。そういったお気持ちを、いずれジェニー様も御子に持てるのではないかと。……いえ、ジェニー様であれば、もっと確固とした愛情を抱くのだと、私は少しも疑っておりません」
ジェニーは真顔となったアリエルを見つめた。
「それは、買いかぶりよ」
アリエルが大きく頭を振った。
「ジェニー様こそ、ご自分をわかっていらっしゃらないのです」
「アリエル、私はあの王が嫌いなのよ? 家族を――少なくとも私の兄を奪った彼の子を持つことを、私に喜べと言うの?」
ジェニーが反論すると、アリエルがめずらしく強い語気でジェニーに尋ねた。
「ではジェニー様、子の父親が王であるというだけで子までお嫌いになれますか? せっかく授かった命なのに要らないと? ……ジェニー様、どうしてもというご所望であれば、お腹の子を始末する処置もないわけではありません」
そんな方法が存在するとは、ジェニーは予想だにしなかった。
「そんなことができるの?」
アリエルが頷くのを見て、ジェニーはそれが本当だと知り、さらに驚く。
「そんなことが、本当に?」
ジェニーがどう返事をすべきかと言いよどんでいると、アリエルが納得したように微笑んだ。
「ジェニー様は深い愛情を持てるお方ですよ。いずれ、ご自分でもおわかりになります」
彼女の用いた表現に、ジェニーは聞き覚えがあった。
その夜はアリエルがジェニーの寝室で付き添っていた。昨夜やその前夜よりもかなりすっきりとした気分で、今夜、深い睡眠が訪れるだろうことはジェニーにもよくわかっていた。ジェニーは寝台に体を横たえ、アリエルが長椅子にすわって肩をまわしている様を眺めた。静かな夜だった。
夜中、かすかな足音を聞いた気がして、ジェニーはふと目を覚ました。部屋はほぼ真っ暗だったが、天蓋から伸びる薄いカーテン越しに何かが動く様子が見える。
その前の晩にも、アリエルが夜中にジェニーの様子をたびたび確認しに寝台近くまで来ていたことを思い出し、ジェニーは大した注意も払わずに再び目を閉じた。体が急速に下降していく感覚があって、自分が二度目の眠りに入ろうとしているのだとジェニーは感じた。カーテンがそっと開けられる、小さな音がした。
温かで柔らかな手の感触。寝台脇に来た誰かの手が、ジェニーの手に触れた。
ケインを思い出し、ジェニーは夢の中でため息をついた。ジェニーが指をゆっくりと曲げてその手に触れると、その瞬間にその手がびくりと震えた。しかし、ジェニーが手をつかんで放そうとしなかったので、それは彼女の手をそっと包み返した。その温かさは、安心感を与える。
ジェニーが眠いながらも細く目を開けようとすると、彼女の手をやわらかく包んでいた誰かの手が動き、ジェニーの頬にその指が触れ、そして、頬全体が手で覆われた。信じられないくらいに心地よく、ジェニーは、自分の顔が自然にほころんでいくのを感じた。すると、その手が動いて、ジェニーの唇の上を二度、大事なものを触るように指を滑らせた。ジェニーは、夢の中で小さく微笑んだ。
何度試しても開こうとしないジェニーのまつ毛の向こうに、ぼうっとした白い人間像が見えた。その周りだけが光り輝いている。
ジェニーは目をもう少し開けてそれが何なのか見極めたかったが、周期的に襲ってくる眠気がやってきてジェニーの体の力は抜け、視界は闇に消えていった。
ここ数日間の口癖ともなっている“忙しい”という言葉を連発し、女官長が慌ただしくジェニーの部屋から立ち去ってしまうと、室内にいた誰からともなく笑いが起こった。召使二人は彼女の出ていった扉を見てはお互いに顔を見合わせて笑い、アリエルは二人をたしなめる。だが、アリエルの困ったような笑みは隠しきれない。
「女官長様はジェニー様を心配なさっておいでなの。ご自分の孫でも持つかのようにジェニー様のことを喜んでいらっしゃるから、少しでも時間があればここに顔をお見せになりたいのよ」
「でも、ここに来てまであんなに忙しそうにされなくても」
召使の一人がアリエルにそう言いながら、助けを求めるようにジェニーの顔を見る。
「そうね、いつにもまして慌ただしいわね」
ジェニーが彼女の肩を持つと召使たちはくすくすと笑った。
「まあ、ジェニー様まで。女官長様は実際にお忙しくて、気が急いておられるのですよ。城には滞在客もおられ、近く、大きな行事が控えておりますからね」
女官長を庇護しながらも、アリエルが召使やジェニーの笑いに誘われて表情を崩す。
一時期の落ち込みから比べると、ジェニーは比較的落ち着いていた。ここ数日、真夜中にジェニーの枕元に来るらしいケインの存在は心強い。それに加え、アリエルの説得が功を奏したのか、ジェニーは王の子とあえて意識をせずに、自分の妊娠について冷静に考えられるようになりつつある。アリエルから追って教えられた“子の持ち方”を完全に理解し納得できたわけではないが、彼女が言っていた“子の始末”の処置を行わない限り――ジェニーはその選択をすべきかまだ迷っている――自分が妊娠している現実が覆ることもない。そう考えると、その現実を嫌悪感から否定しても何の意味もない。
退室していく召使たちの姿を見送って、ジェニーはアリエルとさっき交わしたばかりの会話をふと思い出した。
「――そういえば、剣技大会というのはいつ開催されるの?」
ジェニーが問うと、アリエルが首を傾げて問い返した。
「まあ、ご存知でいらっしゃったのですか?」
「ええ、ちょっと聞いたものだから」ジェニーが言葉を濁して扉の方に顔を振ると、アリエルも少し憤慨した様子で扉を振り返った。
「ジェニー様は剣に興味がおありですものね」アリエルが納得したように言い、ジェニーに視線を返す。「大会はたしか――今月の最終日が初日のはずですわ」
開催日から逆算すると、ジェニーとケインの脱出決行までは二週間足らずだ。それを認識するとジェニーの体が緊張して強張った。
「優勝者にはかなりの褒賞金が与えられますから、毎年、この大会には全国各地から勇士が集って剣の腕を競い合うのですわ。どの試合も見ごたえはありますが――ジェニー様、大会を観覧なさりたいのですか?」
「見物できるのでしょう?」
観覧する気はなかったがジェニーがそう答えると、アリエルが諭すような口調に変わった。
「ジェニー様のことですからそう仰せになると思ってはいましたが……今はお体のこともありますから、ご無理をさせるわけにはまいりません。今回はおやめくださいませ。王も、外出を許可されないと思いますわ」
アリエルの口ぶりは穏やかだが、表情はいたって硬い。
「そう……」
ジェニーが反論せずにいると、アリエルは安堵したように表情をやわらげた。
「剣の使い手といえば――あの王も出場するのでしょう?」
「王が? まあ、めっそうもない! 王は剣に関しては秀でた才能をお持ちですが、そんな危険な場にお出になって出場者たちと剣を合わせるなどとんでもない! 王は、初日と最終日に観覧席で試合をご覧になるだけでございます」
「そうなの? あの王のことだからてっきり、参加するのだと思っていたわ」
ジェニーが何気なく言うと、アリエルがジェニーの顔を不安そうにうかがい、ためらいがちに言った。
「ジェニー様、王は以前より常々、大会の上位進出者たちと交剣されることをお望みだそうですわ。王がその者たちに負けるとも思いませんが――後生ですから、ジェニー様から王に、出場を後押しするような発言はなさらないで下さいませ」
ジェニーは彼女の懸念を知って唖然とした。
「そんなこと、考えもしないわ。話す機会なんかないもの。あの人は近頃特に多忙で、私が接する機会すらないじゃない」
するとアリエルが意外そうに瞳を見開き、ジェニーを茫然として見つめる。
「どうしたの?」
「まあ。では、ジェニー様を起こされなかったと……?」
「……何のこと?」
アリエルは手で喉を押さえて深い息を吐き、切ない目をしてジェニーを見た。
「アリエル?」
「なんといじらしいこと。ジェニー様を……それほど想っていらっしゃるのですね」
「アリエル? 何の話なのよ、ねえ?」
問いに答えようとしないアリエルにジェニーが口を尖らせると、彼女は笑顔に戻って言った。
「ジェニー様、今日は昼寝をたっぷりしておきましょうか」
「昼寝を? なぜ?」
アリエルはジェニーの問いには答えず、愉快そうに微笑むだけだ。
アリエルの勧めどおりに昼寝をしはしなかったが、ジェニーはその夜、王城脱出の日を思って人知れず緊張していたことと、アリエルの意味深な物言いが何となく気になっていたせいもあって、うまく寝付けなかった。身体は休息を必要としていて早く眠りに落ちたがっていたが、ジェニーの目はさえていく一方だ。
何度かむなしく寝返りを繰り返し、仰向けに姿勢を戻して、ジェニーは数度の深呼吸を試みた。ひんやりとして気持ちのよい空気が体内に取り入れられ、手足の先からゆるやかに力が抜けていくのを感じながらも、やはり、ジェニーが眠気に誘われることはない。
剣技大会の日取りを教えるためにケインを訪ねたいとも思ったが、隣室に控えている召使がいつジェニーの寝室を覗きに来るかもしれない。ジェニーの体調を案じて召使が当分の間は常駐するようになったと知ったのは今日のこと。思えば、夜中に訪ねてきていたケインと召使が部屋で今まで鉢合わせなかったのは、偶然とはいえ本当に幸運だった。
ジェニーは胸の上で両手を組み、天蓋を見上げる。
「大変、ケインにそれを警告してあげないと!」
階段に“合図”を置かなければ、とジェニーが身を起こそうとしたとき、寝室の扉のすぐ近くで誰かの話し声が聞こえ、ジェニーは慌てて寝台に身を戻した。声はまもなく消えたが、室外から扉の開けられる気配。
ジェニーは急いで横向きに体勢を変え、息をひそめて体の動きを止めた。扉が静かに閉まり、辺りをはばかるような靴音が室内を歩いている――召使ではない。アリエルとも違う。
ジェニーは考えをめぐらせながらも、目覚めていることが相手に悟られないようにと目を固く閉じた。ほどなく、ジェニーの左側にある薄手のカーテンに何者かが触れた。
ジェニーは無意識に息を殺し、それが誰であれ、自分のもとから去ってくれるときを待った。天蓋から垂れたカーテンはいつまでたっても引かれない。だが、その場を去っていく靴音がしないため、その人物はカーテンの薄布一枚越しにジェニーと相対しているはずだ。
ジェニーは身を硬くして動かず、あまりに長く感じられるその瞬間の到来を待ち続ける。
突然に、それまで息づかいすらしなかったのに、湿ったため息がジェニーの背後で聞こえた。遠のいていく足音がそれに続き、木のきしむような音がしたので、ジェニーはその誰かが寝台近くの椅子に腰掛けたのだと判断した。そして、また、さっきよりは少し長い吐息。
ジェニーは両目をそっと開いた。胸の鼓動が早まっている。
ジェニーの寝室に出入りできる人間などほんの一部の者だ。それも、彼女の就寝中に。
寝台脇にいる人物の正体の見当がつくと、ジェニーの鼓動はさらに早く激しくなり、静まりかえった室内の空気を伝わって、当人に届いてしまうのではないかと思うほどに高鳴った。ジェニーは自分を必死に抑制しようと心の中で数を数えて、ごくゆっくりと息を吐いた。
できるだけ自然に見えるように、慎重に、ジェニーは寝返りを打って仰向けになった。寝台の左側の方に注意を向けていたが、椅子に座る人物が動き出す様子は感じられなかった。ジェニーは左目を少しだけ広く開け、カーテンの薄布を透して侵入者の正体を見極めようとしたが、淡い明かりの手前にいる人間の顔は影になっていて、目鼻だちさえ確認できない。ただ、明かりの炎に照らされ、頭の輪郭が白く輝く線となって浮き立っている。
――ゴーティス王だ。
ジェニーは自分の目がとらえた彼の姿に半信半疑になって、抑えていた息を少しずつ吐いた。
就寝中のジェニーの部屋に入ってきた彼の意図は知らないが、下手に動くか音をたてるかして彼の注意を引き、不要な刺激を与えることはジェニーも避けたかった。
そのうちに、椅子の上で膝を立てていた彼がふと寝台の方に顔を向けた。驚きのあまりに声をたてそうになるところを何とか抑え、ジェニーは早くなった脈を弱めようと意識してゆっくりと息を吐く。
すると、それを合図にしたかのように、彼が椅子から床に降り立ったのがジェニーの視界の隅に映った。そして――彼は床を踏みしめるようにしてジェニーの方に歩いてくる。
足音が止んでカーテンが開かれるまで、数秒の間があった。彼の行動は不可解で不気味で、ジェニーは寝たふりをしてやり過ごそうとしか考えられなかった。ジェニーは目を強く閉じすぎてまぶたが震えないように力加減を調整するのがやっとで、体の上に出しっぱなしの手のことまで考えつく余裕はなかった。だから、お腹の上にあった自分の手に王の手が触れると、ジェニーは反射的に手を大きく震えさせてしまった。
王の手はジェニーの手の反応に驚くこともなく、彼女の手全体を手のひらに入れるようにして上から覆った。逃げようと思えば簡単にできるほどにしか彼の手には力が込められていなかったが、嫌悪や恐怖のせいでなく、ジェニーの手から力は抜けていた。王の手はジェニーのそれよりずっと温かく、彼の手に重ねられたジェニーの手の甲が、じわりと温かな熱を持っていく。
この温かで柔らかな手の感触と心地よさを、ジェニーは既に知っていた。
ここ数日間、不安ややり切れない思いにさいなまれていたジェニーの心を支えてくれたのは、この夜中の手の温かさだ。
ジェニーは自分の思い違いに気づいて叫び出したくなった。
訪問者はケインではなかった。よりによって、王の手を好ましく思うなんて。
彼の手の体温と同じにまで温められたジェニーの手から、彼の手が離れていった。次に彼はその手を下に移動させ、ジェニーの臍のあたりにそっと置く。掛布をとおして彼の高い体温がジェニーの腹にも伝わってくる。
ジェニーは彼がいつ自分の服を剥ぎ取るかと警戒を強めていたのだが、彼の手はしばらく微動だにせず、やがて、彼女の手に触れたときと同じように、体の上からいきなり消えてなくなった。
揺れるカーテンの作った風でジェニーは目を開け、カーテンの向こうにゴーティス王の後ろ姿を見つけた。彼は明かりの置かれた台に近づいてそれを手に取ると、もう一度ジェニーのいる寝台の方に振り返った。ジェニーと王はお互いの顔を見てはいたが、室内の薄暗さから彼女が王の表情を確認できないのと同様に、彼の側からも彼女が目を開けているところまでは見えないだろう。王はそれから踵を返し、そのまま部屋を出ていった。
彼を見送ったジェニーは脱力して、彼の手に包まれていた自分の手に視線を向けた。
毎夜、毎回、男の手が慈しむように握っていた、彼女の手。
ジェニーは“狩猟の館”での王の告白じみた言葉を心より信じてはいなかった。最近になってジェニーへの態度を軟化させた女官長が時々、「王の寵愛を一身に集める」とジェニーのことを形容してもジェニーにはしっくりこず、最も信頼のおけるアリエルが言う「王に想われている」という台詞も説得力に欠ける、とジェニーは思っていた。彼の言動からは、ジェニーへの多少の関心は見えるものの、それは彼にかしずこうとしないジェニーに対する征服欲と言えなくもない。それに彼は、ジェニーの知る、わかりやすい愛情表現をすることはない。
ジェニーは、王が掛布の上から触ったお腹を手でなで、彼の出ていった扉のある方向を見た。ジェニーの体に触れた彼の手から下心は感じられず、むしろ、愛情の類を彷彿とさせた。
まさか、そんなはずはない、とジェニーは頭をよぎった考えを即座に否定して、首を振る。
王の愛人と称する女たちは、大人の魅力にあふれた官能的な美女揃いだ。彼にとってのジェニーは、珍しい退屈しのぎの一種に違いないのだ。
ジェニーは寝台の上に身を起こし、暗闇に慣れた目で隣室へ続く扉を見た。隣室も既に沈黙を守っている。部屋の静けさの中で、ジェニーの心音だけがやけに響いている。
「だけど、もしかしたら――」
ジェニーは目をつぶり、小刻みに顔を揺らしてその考えを振り払おうとしたが、自身を納得させられなかった。王の本心はわからないが、その仮定を事実だとすれば、解決される疑問点がいくつかある。もし彼が、彼自身が宣言したようにジェニーを愛そうとしているのなら、連夜にわたる彼の不可解な行動も彼女の顔をのぞきにくるためだと、説明がつくのかもしれない。
ここまで来てなぜ自分を起こさなかったのか、と想像したところで、ジェニーははっと気づいた。そして、全身に鳥肌が立ったかのような寒気を感じた。
ジェニーの父親が早朝から夜更けまで働いていた頃、幼いジェニーは起きている時間帯に彼と会えなくて、彼の帰宅時に自分を起こしてくれない母親をなじったとき、母親は笑顔で言った。
「あなたのパパは、あなたが幸せそうにぐっすり眠っているのを起こすなんてかわいそうでできない、って。寝顔でも何でも、あなたの顔が見られるだけでパパは幸せなのよ」
自分の手に視線を落とすと、ジェニーは手の甲に感じていた王の体温を思い出して、愕然とする。
でも、もし本当にそうだったら……?
王の出ていった扉を見つめて、彼の揺れる瞳を思い出すと、ジェニーの心臓が、一度だけ、大きくあえいだ。