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第一部 5.王の子−7

 隣国からの使者を無事に送り出した次の日、朝早いうちから青空は広がり、すがすがしい空気が王城を包んでいるというのに、サンジェルマンの心はどうにも晴れなかった。昨日の夕方に知ったばかりの知らせは彼の気を散らせ、昨夜の眠りまで浅くした。

 王の執務室に続く廊下で、サンジェルマンはその予期せぬ報告をした張本人である女官長と合流すると、まずは隣にいた侍従長に黙礼し、続いて彼女に挨拶した。侍従長の緊張した表情から、彼も同様に事情を知っていることがうかがえる。女官長はサンジェルマンに言葉短かに挨拶を返したものの、発した声が既にうわずっていて、彼女が尋常でないほどに興奮していることが彼にも手に取るようにわかった。そしてその態度は、サンジェルマンの心をさらに重くする。

 朝の執務室には既に王が姿を見せており、先客が一人いた。隣国の使者との調整役を担当していたランス公だ。三人が室内に入っていくとランス公はやや硬い笑みを浮かべて会釈し、王の許可を得てそそくさと退室していった。

 王は三人から順番に挨拶を受けながらそれぞれの顔を興味深そうに見て、最後にサンジェルマンを値踏みするように見た後、それまで座っていた椅子にさらに深く腰掛けた。

「今日はどうやら、ものめずらしい報告が聞けるようだな」

 王の面白がった口調が、女官長の体をほんの一瞬、身震いさせた。

 

 女官長がもたらした報告に、王は皆の予想どおりに大きな驚きを見せはした。だが、王はそれをあっさりと一蹴した。

「王には初めてのことでにわかには信じ難く、いえ、驚かれても無理もないとは存じますが――」女官長が震える声で先を続けると、王の視線が冷ややかに変わった。

「ありえぬな」

「王、このような重大事に誤りがあってはならないと時期を待ち、何度も侍医に確認をとった結果にございます。王、ジェニー様がご懐妊されていることは――間違えようのない事実なのです」

「女官長、おまえ……」

 王がテーブルの上で両手を組んで、あきれたように顔を小さく横に振っている。サンジェルマンがそれを知ったときと同様に、王も彼女の報告を全く信じていないのだ。

 昨日この話を知ったサンジェルマンも、「ありえない」と王と同じ言葉を口にして笑ったものだ。最初はまるっきり信じようともしなかった。ところが、女官長の横にいたアリエルが怪訝そうに自分を見返す表情を見つめるうち、彼は以前からの彼女たち二人の接触に、特別な意味があったことを突然に理解した。アリエルは、憶測で物事を判断しないはずだ。サンジェルマンはアリエルを見つめながら、つきつけられた事実に驚愕して、言葉を失った。

 無言の王が作り出す緊張に朝の執務室が飲み込まれようとしていた。女官長は王の反応にひるんだらしく口をつぐみ、サンジェルマンは彼女の期待と喜びに輝く顔が瞬く間にしぼんでいくのを見ながら、彼女に同情していた。彼女の隣に立つ侍従長は、この場の状況に困惑を隠しきれない様子だ。

「ありえぬ」

 女官長にあらためてそう繰り返した直後、王が眉間に大きな皺を作って顔をしかめ、大きな音をたててテーブルに肘をついた。王が、顔を覆った手の下で何やら毒づいている。王はため息をつきながら何度か頭を左右に振り、手で口を覆った。

 何が王に起きたのか分からずに誰も何も口をはさめない中、王が呻いた。

「あの女……」

 悔しそうにも聞こえる口調で王が呟き、顔を上げた彼とサンジェルマンの視線が合った。すると、王は唇を噛んで彼を見返し、眼差しを鋭く変える。

 少なくとも、これは王が望んでいた展開ではないらしい。

 とすれば、今回の件については王の信条が曲げられたのではなく、用心深い彼にあるまじき過失か、不注意による結果だということだ。

 王が顔を両手で抱えたまま、低い声で嘲笑した。

「――俺の子だと? あやつがこの俺の、子を?」

 王が突如立ち上がり、女官長の前までつかつかと歩いてきた。生気を体中にみなぎらせ、唇には冷笑にも似た微笑がのっている。彼が近づいてきただけで、サンジェルマンたちの周囲の空気が彼の迫力に負けて後退していく。

「今の話はまことであろうな、女官長? 俺をたばかると……承知せぬぞ!」

「は、はい、もちろんでございますとも! 来春にはご出産を迎える予定にございます!」

 女官長の返答を聞き、王は目をひん剥いたかと思うと、三人にくるりと背中を向けた。そして、床を大きく踏み鳴らして、さっきまで座っていた椅子に戻る。

 王はテーブルに両足を乗せ、何かを深く考えこむように押し黙った。執務室には張りつめた緊張と沈黙が再び流れ、サンジェルマンは女官長とは別の意味で王の反応をつぶさに観察した。王の顔には、ほんのわずかだったが、戸惑いが行き来していた。


 女官長からの最初の報告以外に、特に目新しい連絡事項はなかった。一連の報告が終わって三人が退室の意を告げると、王が女官長を引き止めて訊いた。

「ジェニーの一件はどこまでの人間が知っておる?」

「今のところは、侍医と彼女の侍女や召使、それに私たちだけです」

 彼女の返答を聞くと、王は満足そうに頷いた。

「当分の間、俺が許可するまではこの件を他言するな」

 女官長は一瞬の間の後に神妙な顔をして、はい、と返事をした。

 三人が退室しようとすると、今度は、王はサンジェルマンに部屋に残るように告げた。

「おまえに所用がある、サンジェルマン」

 ジェニーの妊娠の一件を聞いて以来、サンジェルマンは王がそう言い出す瞬間を予感していたようなものだ。

「はい、王」

 女官長と侍従長が去ってから彼が王を見ると、王は素っ気なく顎をしゃくって、彼に部屋の奥の方に来るように示した。

 サンジェルマンが王の座る席の前に立つと、王は彼を上目使いに見て、肩を揺すって笑い出した。その低い声には嘲りが混ざっていて、彼は、王が王自身を笑っているのだと理解した。

「見たか、女官長のあの得意そうな顔を! これがまるで自分の手柄とでも言いたそうな顔であったぞ! サンジェルマン、おまえはいつ知った?」

「昨日です。すぐにでもご報告にあがりたかったのですが――」

「ふん。これが昨日でも今日でも、どちらにせよ同じこと」

 皮肉そうに笑う王の顔を見ながら、サンジェルマンは、確かめずにはいられないことを口にした。

「王、本当にジェニー嬢には……?」

 彼がそう切り出すと、王は笑いをぴたりと止めて、挑むように彼を見返した。だが、すぐに視線をそらし、大げさに息をついて彼に答えた。

「あやつは俺以外に男を知らぬ、俺のほかに誰がおると言うのだ? まったく、あれほど注意しておったというに――俺の、なんと愚かなことよ!」

「そうでしたか」

 王がじろりとサンジェルマンを見て、テーブルから足を降ろす。

「あやつは他の女たちと違って俺に抗い、逃れようとするゆえ、俺は何度か……二、三度ではあるが、俺自身がし損じたこともあれば、ジェニーに避妊剤を飲ませそこねたこともあった」

 想像の範疇にあった回答に、サンジェルマンは静かに王に頷き、理解を見せる。王は自分の過失に悔いているような口ぶりだった。王はこれまで、子種のない、継承者を生むには致命的な欠陥を持った王、という屈辱的な皆の噂をものともせずに徹底した避妊を心がけてきたのだ、ジェニーが抵抗する状況を考慮すれば、王を一方的に責めることもできまい。

「彼女は妊娠三月、いえ、もしかしたら四月目に入っている、とのことでしたね」

「そのようだな」

 サンジェルマンの前で王が表情を引きしめ、彼の言葉を待つかのように瞳を見返す。

 ジェニーの笑顔を思い浮かべるとサンジェルマンの良心が痛まないわけでもない。だが彼は、 王が庶子を持つことをどんなに恐れているか、あまりにも知りすぎている。


 数年前、とある下級貴族の娘が王の寵愛を受けて子を孕んだはいいが、彼女の妊娠が公となる前に、王自らが腹の子共々、その命を奪った事がある。女の存在がきっかけで、王や当時はまだ成人前だった王弟を亡き者にした後に、彼女の産む子どもを擁立して勢力を広げようと暗躍していた一派の存在が明るみに出た。主犯の男は死罪となり、王暗殺未遂の名の下に男の一家は滅亡の憂き目にあった。一家は王の実母の実家に流れを組む分家であり、その半数以上の人間が何らかの形で死を迎えたため、この事件は今でも恐怖をもって語りつがれている。ただし、ほとんどの者は、その事件の主軸計画に沿った女の妊娠の事実を知りはしない。

 王位継承の不要な争いを巻き起こす種となりえる分子は、この世に存在させてはならない。

「早めに手を打たねばなりません。こんなこともあろうかと……子を流す薬を入手してあります。ただし、母体を多少の危険にさらすことにはなりましょうが――」

「そうよな」

 王に少しの動揺が見えたのは、サンジェルマンの目の錯覚ではないようだ。

「されど……しばし待て」

 望まぬ妊娠の結末など想定できていただろうに、と彼は意外な思いで王を見返した。

「それほどの猶予はないのですよ、王? あまり遅くなると母体への危険が増します」

「わかっておる」

 王が決まり悪そうに視線を横に流し、サンジェルマンはますます意外に思って彼を見つめた。

「王が彼女を心配されるお気持ちは理解しますが……子のもたらす影響がどれほどのものかは――」

 王がかっと目を見開いて、椅子から滑り降りた。

「それを俺が知らぬと言うか!」王の両手がサンジェルマンの胸ぐらをひっつかみ、彼の鼻に触れるほど口を近づけ、顔をひどくゆがめて怒鳴った。「他でもない、この俺自身が身をもって知っておることぞ! 子の存在がどう影響するかなど、それを俺が知らぬとでも言うか!?」

「いえ、決して――」

「俺は子を始末することに何の躊躇もしておらぬ!」

 王がサンジェルマンの体を床にたたきつけるようにして倒した。

「子、だと? おお、あの女、よくぞ俺の子を孕んでくれおった! 子の存在がどれほどに影響力を持つか、ジェニーは、あやつは運良く庶民の出だ、まったく想像もできぬだろう! あの女の場合、庶子の王位継承権を主張することなど考えつきもせぬはず! されど、母親の意思も身分も関係なく、周囲は庶子の存在を最大限に利用しよう! それを――おお、それを俺は人一倍、わかっておるわ!」

 王の怒鳴り声は怒りにあふれているのに、妙に哀しさばかりが胸に伝わってくる。

 サンジェルマンは床にぶつけられた肩や腕の痛みも忘れて、醜くゆがんだ王の顔を見つめた。

 あの一族の話がからむと王は例外なく激昂し、手がつけられなくなる。王があのときの娘を愛してやまなかったことも、彼女は王など少しも気にもかけていなかったことも、サンジェルマンは把握している。でもだからといって、王の心の深い谷間を埋めてやることは彼にはできないのだ。

「王――」

 王が興味をなくしたように、サンジェルマンからいきなり手を放した。そして、吼えるように罵り声をあげ、テーブルを力まかせに蹴りつけた。


 王が落ち着くまでしばらく待ち、サンジェルマンは彼がやっと顔を上げたときを見計らって、声を掛けた。

「それでは……私はもう少しだけ待つことにいたします」

 王が鋭く彼を見据え、彼の意味するところを理解したのか、無言で頷いた。

「いつでも手は打てるように、準備だけはしておりますゆえ。その時が来たら私に教えてください」

 王が唇を真横に引き、わずかに目を細めて床を見つめた。サンジェルマンは幼少の頃より王の剣仲間で、当時はまだ王子だった王が、そんな表情を見せた後には必ず、人知れず涙を流していたことを覚えている。それはほとんどが悔し涙だったが、いつの頃からか――おそらくは母親を断罪したときあたりから――、サンジェルマンが王の涙を目にすることもなくなった。

 自分の肘にできた擦り傷から血がにじんでいるのを見つけ、サンジェルマンは王の全身に目を走らせた。

「傷の手当てをさせましょう」

 王の横に立って、出血している王の手の甲をサンジェルマンが指し示すと、王がせせら笑うように言った。

「いらぬ」

「そうはまいりません」

 王がむっとしたようにサンジェルマンをにらんだが、彼は負けずに笑い返した。

「王が負傷されたのに放置したといって女官長に叱られるのは、常に私なのです。私だとて、あの甲高い声を長々と聞かされるのは相当な苦痛ですよ」

 サンジェルマンがなおも笑顔を見せると、王の眼力が若干弱まったようだ。王からの反論がなかったのを同意と捉え、サンジェルマンは人を呼び、傷の手当てをさせる手配をした。


 召使が去り、サンジェルマンが王の席の方に振り返るとそこには彼の姿はなく、彼は窓際に移動して外を眺めていた。視線が下に向いているので、後宮と東館に挟まれた中庭を見ているのだろう。窓際からなら後宮のサロンも見えるはずで、王は、今日はそこにいるはずもないジェニーの姿を探しているのかもしれない。サンジェルマンは漠然とそう思った。

「王」

 サンジェルマンの呼びかけに王が振り返り、テーブルの方へと戻ってくる。

「他に所用がないようであれば、そろそろ閣議の時間にもなりますゆえ、私はこれで戻ります」

「用事は他にない」

 サンジェルマンはいつもより丁寧に退室の挨拶を述べ、王が彼を送り出そうとした。しかし扉を開く前にサンジェルマンはふと立ち止まり、疲れた様子で椅子に体を沈めようとする王を見て、再び王の方に歩みを戻す。王が怪訝そうに眉を上げた。

「王、これはよい機会です。この際――しかるべきところから、正妃を娶られてはいかがです?」

 王に口をはさませる前にサンジェルマンがそう言いきると、王が唖然としたように彼を見返した。

「国外の、由緒ある家の娘がよいでしょう。今回の来訪国は国力にいささかの不安がありましたが、近いうちに使者がおみえになるカローニャは、広大な面積を持った大国です。何人かの王女がおられるとも聞いております。それ以外にも、ヴィレールの名は諸国にとどろいているはずですから――それゆえ、最近になって各国がこぞって使者をよこすのです、王さえその気になれば、妃のなり手はいくらでもありますよ」

「俺が……結婚だと?」

「はい。何の不思議がありましょう? 一国の王たる方が独り身だからこそ、様々な問題が生まれてしまうのです。独身でい続けることには限界があるのです。ジェニー嬢が流産し、女官長がそれを城内で公にしてくれれば――王が子を為せると知れば、これまで王妃選びに重い腰をあげなかった大臣たちも、すぐにでも動いてくれましょう」

 王は目をぎらぎらとさせてサンジェルマンの言葉が終わるまで黙って聞いていたが、彼が言い終わって王の抵抗を待っても、彼の予想に反し、王は一言も言葉を発しなかった。ただし、それ以上にサンジェルマンに言葉を続けさせるのは許さなかった。

「王?」

「出て行け」

 低くかすれた声で、王が彼に命令した。


読んでくださる方々、読んで感想・意見までくださる方々、私が執筆する上でホントに大きな励みとなっています。

どうもありがとう!


☆Merry Christmas☆

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