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第一部 5.王の子−6

 口をつけもしなかった夕食後にやってきた女官長を追いやり、心配そうに付き添うアリエルを無理に室外へ追い出し、看護の召使さえも拒否して室内に独りでいることを勝ち得た後、どれくらいの時間が既に経ったのか、暗闇をいくら見つめてもジェニーにはわからない。

 ジェニーは悩み考えることに疲れきって、寝台からふらふらと這い出した。外から物音も声も聞こえてはこなかったが、隣の部屋ではアリエルか召使が控えているだろうことぐらい、簡単に予想がつく。

 ケインなら、暗闇の濃度で時間がよめるのだろうか?

 裸足で床をそっと歩き、ジェニーは窓のある壁面まで近づいた。以前、ジェニーの逃亡を危惧して塞がれたことのある窓も、今は本来の機能を果たすような形に戻されている。隣室に続く扉を気にかけながら、ジェニーは物音を出さないように注意して、窓にかかる木扉の鍵をゆっくりと開けた。外を明るく照らす月光が、室内にまであふれ出してくる。

「エクリシフェ」と、ジェニーは子どもの頃に父親に教えられた、月の女神の名を呼んだ。

「こんな時にだけお祈りすることをお許し下さい。でも、助けがほしいのです。私はどうすればいいのか……本当にわからないのです。どうか、迷える私を正しい方向へお導きくださるよう――」

 ジェニーが床へ膝をつこうかと思ったそのとき、背後の暗がりで物音がした。あまりにも驚いてジェニーが胸を押さえながら振り返ると、そこには、床の扉から上半身をのぞかせた、ケインの驚いた顔があった。


 薄明かりの中で二人は声を失って見つめ合った。

 ジェニーからほんの数歩先、ケインは隠し扉を手で押さえ、微動だにしない。ジェニーは目をこらしてケインを見たが、彼が今そこにいる事実がどうにも信じられず、少しでも動けばその姿が背後の闇に溶けていきそうな気がして、足がなかなか踏み出せずにいた。

 先に動いたのはケインだった。彼は、口を開きかけたが途中で気が変わったらしく、無言で頬をゆるめて笑みを作った。地下階段から部屋の床に足を上げようとしている。

「だめよ、戻って!」

 我に返ったジェニーは咄嗟にケインの元に走り寄り、押し殺した声で彼を制した。ケインが戸惑い、扉を片手で支えた格好で静止する。

「隣に人がいて、いつこっちに来るかわからないから――」ジェニーが彼の脇にしゃがみこむと、寝台の方を注意深く見つめていたケインが彼女を見て、にっこりと笑った。

「大丈夫だ、二人とも寝ているよ」

「えっ?」

「いびきが聞こえるんだ。二人とも、相当に疲れているらしいね」

 ケインが苦笑し、ジェニーは見えない扉の方を半信半疑で振り返り、耳をすました。何も聞こえない。ジェニーが彼に目で問いかけると、ケインは肩を小さくすくめてみせた。

 部屋の出入口はケインの立つ場所のちょうど対角線上にあるが、誰かが戸口に立っても、運良く天蓋が視界の邪魔になってくれるので彼の姿は見えないはずだ。彼の聴覚が自分よりずっと優れているとジェニーは知っているが、念のためにそっと後退して扉を見、それが動く気配のないことを確かめた。

「誰も来ないよ」

 ケインは階段を一歩上に上がり、ジェニーと目線を合わせる。

「でも、気をつけないと――」

 ケインが木扉を肘で支えようとして体を横向きに変え、ジェニーはそれを見ていて突然、彼の大きな変化に気がついた。薄暗さに慣れたジェニーの目に、ケインの肌の白さが飛び込んでくる。

 ジェニーは口をきくのも忘れ、ケインの眉のすぐ下にある瞳の輝きを見て、鼻筋の線を追い、扉を支える彼の腕をたどって、彼の顔に再び視線を戻した。秀でた額、ふたえの上の線に向かって曲線を描くまつ毛は濃く、わずかに下向きに流れた両目は前よりずっと大きく、光って見える。髭に囲まれた、ふっくらとした唇が赤く浮き立つ。額にかかるブロンドの髪も前に見たときより金色に近い。どこもかしこも色が明るくなり、上品なたたずまいさえ感じさせる。肌の色が違うだけで全くの別人だ。 

 そのうち、ジェニーの視線が移動している最中も笑いを堪えているようではあったが、ケインが口を指で押さえて笑い出した。

「ジェニー、そんなに驚かなくても」

「だって――」ジェニーがそっと息を吸うと、ケインが瞳を細くして笑った。

 ジェニーはケインの顔の造作を見ているうちに、彼の気品は生まれ持ったものだろう、と気がついた。彼は育ちがよく、たぶん、貴族だ。

「……こんな顔だったのね」

 ジェニーが目を大きく開いてケインを見ると、彼はわざと不機嫌そうな顔を作ったが、すぐに表情を嬉しそうに崩した。

「顔は何も変わっていないんだけどな。入浴場を偶然に見つけたから、ちょっとだけ拝借させてもらって、全身を洗ってきてね。見違えた?」

「ええ、全然ちがう人みたい」

 ケインはジェニーの返答に満足したようだったが、床に腰を降ろした後、顔を少し曇らせた。

「そうか、全然ちがう人みたいか。それは少し、困るな」

「困るって、どうして?」

「ほら、毎日見まわりにくる看守が私を見たら、いつもと違うと気づくだろう? まさか、外に出て入浴した、とは言えないよ。気づかれないようにしないと……うーん。毎回、何とかして体を隠しておかないといけないな」

 ケインは頬をふくらませながら唸り、ジェニーの視線に気づいて、照れたように笑う。

 ジェニーは彼につりこまれて微笑んだ。彼の無邪気さに出会うと、ジェニーの肩の力が自然に抜けていく。

 ジェニーが初対面の人物に会ったかのように彼をなおも見つめると、彼はそんな彼女の瞳を見上げ、苦笑する。

「そんなに見られると気恥ずかしいね。まだ、見慣れない?」

「何だかへんな感じ。今日が初対面みたいで」

 ケインがくすくすと笑った。

 それから彼は木扉を両手で支え、地下から床に両足を上げた。右の二の腕にある血管を太く浮き上がらせ、ケインは両手を使ってそれをそっと閉める。彼の視線がジェニーの背後に動いたのは、隣室の動向を探ろうとしたからだろう。そして彼は両足をジェニーの体の横に投げ出し、彼女と目を合わせた。

「はじめまして」

 ケインが小声でうやうやしく挨拶し、ジェニーの笑いを誘う。

 ジェニーの反応に気をよくしたらしく、ケインは満面の笑みで彼女を見つめ、ジェニーも彼を見つめ返した。すると、彼はさらに嬉しそうに口角を上げ、眼差しを優しく変えた。この人に出会うと、安心する。

 なめらかな白肌に、ケインの黄色に似た瞳が幻想的に映える。ケインの体がわずかにジェニーに近づいた。

 ふと、ジェニーはゴーティス王の顔を思い出し、王の緑色の揺れる眼差しをケインの中に見た。ジェニーが困惑して両目を閉じ、目の前から視界がなくなると、王の緑色の瞳は遠くにかき消されていく。ジェニーが安堵して次に目を開けたとき、ケインの唇は笑みを失い、彼はジェニーをじっと見つめていた。

「あなたって――男の人なのに、きれいな顔をしてるのね」

 ジェニーが思わずそう口にすると、ケインがそれを否定するかのように首を振った。

 それからケインは目を上げ、床についていない方の手をジェニーの首の後ろに向けて伸ばす。ジェニーが息を小さく飲むと、ケインが身を寄せながら囁いた。

「きみの方が、ずっときれいだ」

 首にまわされた彼の手は温かく、その手が導く先にはケインの顔がある。ジェニーの顔が近づくと、彼は瞳を明るく輝かせて笑みをこぼした。ジェニーは彼につられて笑った。

 ケインの唇は渇いていて冷たかったが、ジェニーが唇を離した後に鼻の上にそっとつけられた彼の唇には、心地よい温もりが戻っていた。


 ジェニー、と彼女の頬の上でケインが囁く。返事のかわりにジェニーが小さく頷くと、ケインがためらったように息をついた後、さらに小さな声で囁いた。

「きみは泳げる?」

「ええ、泳げるわ」

 胸に沸いた疑問の全てをおしとどめ、ジェニーは答えた。 

 よかった、とケインは独り言のように言い、ジェニーから体を離して、下を向く。ケインの次の句を待ちながらジェニーが彼の波打ったブロンドの髪を見ていると、彼がおもむろに頭を上げた。熱情のこもったさっきの表情とうってかわり、真剣そのものだ。

 ジェニーが続きを促すと、彼は一瞬だけ視線を泳がせた。不安と期待に胸を高鳴らせてジェニーがなおも彼に先を促そうとすると、彼は、わかっているというように片手を上げた。

「――城外へ通じる出口が見つかったんだ、ジェニー」

 ジェニーは反射的に彼に頷き返した。

 ケインの硬い声が淡々と説明する。

「前にも話したように、地下水路を通っていく。水路をたどっていくと、最終的に城の北側にある貯水池に繋がるんだ。その貯水池というのは城壁を挟んで造られていて、水中には柵のついた水の出入口がある。そこを泳いで通り抜けられれば――城壁の外に出られるんだ。柵はいくつか壊しておかないと人間が通り抜けることはできないけれど、それは、私が事前にやっておく」

 ――外に出られる。

 彼の報告を耳にしながらジェニーは自分が泳ぐ姿を頭に思い描いたが、それはさっきまで彼女の頭の中でずっとめぐっていた過去の残像の一つのようだった。ジェニー、とケインに目の前で名前を呼ばれるまで、ジェニーは、彼が話をしている姿さえも現実とは受け入れられずにいた。

「どうしたの、大丈夫?」

「あ……ええ、大丈夫よ。私――びっくりして」

 自分の放った言葉が頭の中で反響している。

 ケインは心配そうにジェニーを見上げ、ジェニーは彼を安心させるために再び、大丈夫、と繰り返した。

 ケインがジェニーの背に両腕をからませてジェニーの体を抱き寄せ、彼女の頬に唇を押しつける。ジェニーは片手を床について不安定な自分の体を支えながら、ケインの頭を反対の手で包むように抱きしめた。

「私とここを脱出しよう、ジェニー」

 夢の中での宣告のように聞こえて、ジェニーの手の力がふわりと抜ける。ジェニーの右手が体の重みに耐え切れずに全体重がケインに寄りかかり、ジェニーを受け止めようと反応したケインの体が瞬間的に後ろに揺れた。ジェニーはケインの肩にしがみついたが、彼の体がたじろいだのはそれきりだ。

「ごめん、平気?」

「大丈夫よ」

 ジェニーはいまだにケインの説明に実感がわかず、夢見心地のような気がしていた。でも、背にまわされたケインの腕の感触は本物だ。彼の腕の温かさを感じながら、これが混迷の地から自分を救い出せる唯一の道だ、とジェニーには思えてならなかった。

 彼がジェニーの額に唇をつけ、彼女をひとしきり抱きしめる。

「ああ、ジェニー。きみとは数えるほどしか会ったことがないのに、私はもうきみが大好きだ。きみに会えてよかった」

 ジェニーの肩に顔をうずめながら、ケインが嬉しそうに瞳を閉じている。

「私も、あなたが好きよ」

 彼は片目を開けてジェニーを見ると、幸せそうに瞳を揺らした。ケインは心から幸せそうに笑い、その笑顔は人を惹きこむ。

 ジェニーは彼の笑みに重ねて微笑んだ。ケインの体温を感じていると、ジェニーの頭もゆっくりと平静を取り戻していくような気がしていた。


 しばらくして、消え入りそうな声でケインがジェニーを呼んだ。

「決行は……剣技大会の前夜にしようと思う」

 ケインがジェニーの肩から顔を上げ、ジェニーの瞳をまっすぐに見つめる。

「剣技大会なんてあるの?」

「毎年、今月末くらいにあるはずだ。専用の闘技場で三日間にわたって剣の腕を競い合う大会で、観客は貴族のみだけど、誰でも出場可能だ。開催前夜には城で大きな宴が催されるから皆の注意はそちらに向くし、衛兵たちも浮き足だつだろうから、人の目を盗んで城を抜け出すには最適な日だと思う」

 ケインはジェニーの背にまわす腕に力をこめ、言った。

「だから、その日がいつか、調べておいてほしいんだ」

 ケインの腕がかすかに震えていて、彼の抑えきれない不安と緊張が伝わってくる。

「わかったわ」

 ジェニーはケインの瞳を見て答えた。彼もジェニーから目をそらさない。

「ジェニー、私と一緒に……逃げてくれるね?」

 ジェニーは迷わず、ケインに同意した。

「もちろんよ」

 ケインの表情がほっとしたようにゆるむ。

 ところが、ケインの問いに答えるなり、ジェニーは妙な違和感に急に襲われた。説明しがたい切なさがジェニーを引きとめ、行く手を阻もうとしている。

 ジェニーが不可解な自分の感情に戸惑っていると、ケインが訝しそうにジェニーを見た。ジェニーはケインを心配させないようにと無理に笑い、何でもない、と彼の肩を軽くたたいた。

「きっと、うまくいく。これからは毎夜、私はエクリシフェに私たちの成功を祈るわ」

 それを聞いたケインがびっくりしたように眉を上げた。

「それ――まさか、月の女神のこと?」

 ジェニーは目を見開き、彼を見返す。

「知ってるの?」

「娘が魔王の城から逃げ出したときに月光で夜道を照らして正しい道筋を教えたっていう、エクリシフェのこと? もちろん、知っているよ。これはヴィレールの神話で、私はヴィレール人だからね」

 ケインがジェニーの返答を待つように見つめるので、ジェニーは小さく肩をすくめた。

「ヴィレールの神話だとは知らなかったわ。きっと、有名なお話なのね。私が幼い頃、父にその話をよく聞かされたの」

 ケインはどことなく腑に落ちない様子だったが、ジェニーがケインに手を伸ばして微笑むと、彼は彼女を見返しながらその手を取った。

「膝を床について」

 ジェニーがそう言うと、ケインはジェニーの意図をすぐに察したらしい。開放された窓の方に向き、彼はジェニーに並んで右ひざを床につけた。

「きみとこうやって祈る機会があるとはね」

「私はあまり信心深い方じゃないけど」

「大丈夫、私はそれなりに信心深いから、神は私の祈りなら聞き届けてくださる」

「ケイン!」

 ケインがくぐもるような声で笑い、ジェニーに片目をつぶってみせる。

「怒らないで。さ、一緒に祈ろう。二人で祈れば、彼女はきっと、娘にしたのと同じように私たちをお導きくださるよ」

 ジェニーは納得して頷いた。ケインとつながれたジェニーの手が淡い月光の中で揺れ、床に薄い影を落とす。

 ジェニーの手にキスをし、私たちをどうかお救いください、と、ケインがつぶやいた。そうしながら、彼はジェニーに目を閉じるようにと促す。ジェニーは言われるままに静かに目を閉じ、彼の言葉を口の中で繰り返した。追ってくる魔王の手から娘を護ったように、とケインが続けると、ジェニーはゴーティス王の冷笑をまた思い出した。「魔王」という呼び名が彼を思いおこさせたのだ。 

 ジェニーは何気なく、自分のお腹に手をそっと伸ばした。

 静かで穏やかな夜だった。隣室からは物音も聞こえない。隣にいるケインが真摯に祈りを捧げる声がしばらく聞こえ、ジェニーもそれを復唱した。

 ところが、その行為とは裏腹に、ジェニーがいくら待っても祈りにはちっとも集中できなかった。そればかりか、ジェニーが彼と共に祈ろうとすればするほどに落ち着かなくなって、気が散ってどうしようもないぐらいだ。 

 ジェニーは仕方なく目を開けた。月の青い光は二人の体にまで届き、月の女神に祈るにはぴったりな夜だというのに。

 ケインはジェニーの様子には気づかず、穏やかな表情で祈り続けていた。


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