第一部 5.王の子−4
【注意】
*不快感を与えかねない描写を含みます*
部屋に漂う濃厚なベリーの香りにめまいを覚え、ジェニーがアリエルに吐き気をうったえたところ、彼女が大まじめな顔をして侍医を連れて来たのにはジェニーも驚いた。侍医に遅れること少し、女官長までもがジェニーの部屋に急いで駆けつけてきて、アリエルの横で侍医の診療をはらはらとしたように見守っている。ジェニーは、自分の体調にわずかでも変化があると繰り広げられるこの種の展開に慣れつつはあったが、彼らの大げさな対応にはあきれるばかりだ。
ところが、今回だけは普段と少し様子が異なっていた。
ジェニーから見れば形ばかりのいつもの診療を終えただけだというのに、侍医は女官長に振り返って何やら言葉少なに囁いたかと思うと、アリエルをジェニーの側に残し、二人はジェニーへの挨拶もそこそこにその場を去ってしまったのだ。侍医が話しかけたときに見せた女官長の反応が印象的で、ジェニーは、自分が何か重大な病に侵されているのではないか、と急に不安になった。そして、もしそうであるのなら、ここ最近の過剰ともいえる自分への対応全てに説明がつく。
「ねえ、アリエル」
二人の出ていった扉の方を見ていたアリエルが振り返り、ジェニーの押し込まれた寝台の方へ腰をかがめて身を寄せた。
「はい。何でしょうか?」
「私、まさか……重い病にでもかかっているの?」
ジェニーが不安にかられて問うと、アリエルは目を丸くして、そして、彼女を安堵させる笑顔を浮かべて頭を左右に振った。
「いいえ、そうではありませんわ」
「本当に? それじゃ、いったい――」
そのとき突然に部屋の扉が開き、女官長の急を要する声がアリエルを呼びつけた。「アリエル、ちょっと来てちょうだい!」
ほどなく部屋に戻ってきたアリエルは、ジェニーに付き添っていた召使にベリーの皿をさげるように伝えると、ジェニーのいる寝台横に椅子を持ってきて座った。アリエルの頬はうっすらと赤く、まじめな顔をしてジェニーの視線を捕らえる。ジェニーは彼女が何か大事な話をするのだと勘づいて身を起こしかけ、彼女にやんわりと止められた。
「私の病気の話なのね?」
「いいえ、ちがいますわ」
アリエルは子どもをあやすかのように笑い、ジェニーをゆっくりと、じっくりと見つめる。ジェニーは面くらい、アリエルに先を急がせた。
「じゃあ、何なの?」
アリエルが微笑みを絶やさずに答える。
「ジェニー様のお体の話でございます」
「つまり、病気なん――」
アリエルはジェニーの問いをさえぎり、瞳をのぞきこんだ。「ジェニー様、最後に月の障りがあったのはいつか、覚えていらっしゃいます?」
「えっ?」
この数ヶ月の期間に複数回訊かれた質問だが、ジェニーはそれほど重要視もしていなかった。「それは、ええと――」
ジェニーはあらためて思い返してみて、それが規則的におとずれていないことを、今さらながら気づく。
「――私、二ヶ月半も遅れてる……!」
はい、とアリエルが慌てずににっこりと笑い、ジェニーは拍子抜けした。
「はい、って――アリエル」
アリエルは笑顔のままだ。
「アリエル、じゃあ、私の体のどこが……悪いの?」
「はい?」
あまりにも彼女が驚くので、ジェニーは逆に混乱する。
「そんなに遅れているのよ。私の体はどこか、おかしいんでしょう?」
ジェニーが声を荒げると、アリエルは穴があくほどにジェニーの顔を見つめた後、まあ、と一言だけ言い、ジェニーの方に体を少し寄せて彼女の疑問を穏やかに否定した。
「いいえ、おかしくなどありませんわ。ジェニー様はいたって健康でございます」
「健康? 訳がわからないわ、じゃあ、なぜそんな――」
「ジェニー様はまだ、“子の持ち方”を教えられていなかったのですね。……ええ、まだお若いのです、それも無理はございませんわね……」
彼女が自分だけ納得して満足するのを見ても、ジェニーはあまりいい気分ではない。
ジェニーは寝台に両手をついてアリエルの方へ体を移動させ、彼女の注意を引いた。
ジェニーが近づくとアリエルはさらに微笑みを深くさせ、言葉の一語ずつを慎重にかみしめるようにしてジェニーに告げた。
「ジェニー様は病気なのではございません。ジェニー様のお腹には……赤子がいらっしゃるのですよ」
「えっ……?」
ジェニーは聞きなれない名前を聞いたときのように戸惑い、やがてアリエルの伝えた意味が頭の中に浸透していくと、耳を疑って絶句した。
「驚かれたでしょう? しばらく体調がすぐれなかったのはそのせいなのです、ジェニー様。ジェニー様のお腹には……王の御子がいらっしゃるのです」
ジェニーは再度耳を疑った。
「子どもなんて、そんなはずは――」驚きのあまりに自分の声が途絶え、ジェニーは二の句を次ぐことができなかった。
“お腹に――王の御子が――”
耳の奥でアリエルの声がそう繰り返し、ジェニーは息がつまる。
嘘だ、そんなこと。
「アリエル! 今、王の……子、って……?」
そう口にした自分の言葉自体が信じられず、不本意ながらも語尾が震えた。聞き間違いに違いない、と、ジェニーは藁にもすがる思いでアリエルの唇を必死で見つめる。けれども、ジェニーの切なる願いもむなしく、アリエルはからかうように笑って否定もしないで、ジェニーをまっすぐに見て同意してみせた。
「はい。王の御子ですわ」
「そんな! だって、私と彼は結婚だってしていないのよ!」
「結婚せずとも子は持てるのですよ、ジェニー様」
冷静なアリエルの返答に腹が立ち、ジェニーは彼女の制止を振り切って寝台から飛び起きた。
「ジェニー様!」
「そんなこと、あるわけないわ! あの王の――あんな人の子どもなんて、私が妊娠するわけがないじゃない! 私たちのあいだに愛情なんか、そんなもの、何もないのよ!」
「落ち着いてくださいませ、ジェニー様」
「ああ、嘘よ! そんなことって……!」
ジェニーは寝台から飛び降り、彼女に近づこうとするアリエルからあとずさって叫んだ。
「向こうへ行って!」
「ジェニー様、お気持ちはわかりますが、そんなに興奮されてはお体に障ります!」
アリエルが必死にジェニーの右腕をつかんで、冷静になるようにと何度も懇願する。
「放して! じゃなきゃ、今の言葉を取り消して! 私はあんな男の子どもなんか――」
ジェニーが手を振りまわすと、アリエルが悲鳴に似た声をあげた。「ジェニー様!」
アリエルがジェニーの左腕をつかもうとし、ジェニーはそれを振り払った。
「そんなこと信じないわ!」
けれど、アリエルの泣きそうな顔を見ているだけで、彼女の放った言葉の数々が決して嘘ではないのだとジェニーは痛感する。なぜ愛してもいない王の子を妊娠したのか、その原理はまだ理解できなかったが、自分が妊娠しているというのはまぎれもない事実なのだ。そう、ジェニーは認めるしかなかった。
「ジェニー様、どうか!」
気が遠のいて、アリエルの姿が次第に遠のいていくように感じた。
アリエルの手に引っぱられるようにして、ジェニーの体は寝台の上に投げ出された。この寝台の上で王に組み敷かれたことを思い出し、悪寒がする。
ジェニーは、愛し合う夫婦にこそ、天から子どもが与えられるものだと信じて疑いもしなかった。
どうしてあの王の子どもが、自分のお腹の中にいるのだろう? 愛してもいない男の子どもを孕むなど、ジェニーにとってはこの世に起きえない、ありえない展開だ。
ジェニーの悲鳴を聞いて、隣の部屋から女官長と侍医、その助手が血相を変えて走りこんできた。アリエルがジェニーに妊娠の事実を告げる役目をきちんと果たし終わるまで、隣で控えていたに違いない。ジェニーの腕も体からもとっくに力が萎えているというのに、アリエルは彼女の左手を押さえ続け、それとは反対側の腕を侍医の助手が押さえつけ、侍医が顔をこわばらせて医療箱の中から何かを取り出そうとしている。女官長の青ざめた顔が、侍医の背後で不安定に左右に揺れていた。
目の奥が重くて、目覚めているのに、夢の中をいつまでもさまよっているような不思議な感覚が続いていた。頭のてっぺんを鋭い痛みが断続的に襲う。寝室には普段とちがう香り――たぶん、ジェニーの精神を安定させるための花の匂い――が充満し、ジェニーはどう体勢を変えてもしっくりしないことをわかりながら、寝台の上で何度も寝返りを打った。
なぜ自分が妊娠したのか、理由を繰り返し考えてみても答えが出るはずもない。
ジェニーは途中で理由を探すことをあきらめたが、いずれにしろ、ジェニーの頭には次から次へと様々な場景が映しだされ、心は一時も休まらない。侍医はジェニーの精神を和らげる処方をしたそうだが、今のところ、まったくもって効果をなしていない。
声に出して大きなため息をはき、ジェニーは半分まで引かれていたカーテンの生地に手を伸ばした。それを今にも手で払いのけ、ジェニー、と名を呼びながら、ゴーティス王が入ってきそうな気がする。続けて、王がジェニーの腕を押さえて冷笑する光景が出てきたかと思うと、倒れた彼を剣で貫こうとしたが間際に狙いをはずしてしまった瞬間が、ジェニーの脳裏に鮮やかに浮かんだ。胸が痛み、目の奥が重くなる。
“復讐をやめるかわりに、俺を愛せ”
王の声が耳元で囁き、ジェニーは顔を両手で覆った。それは命令口調であったのに、どこか懇願しているようだった。
サロンでアリエルに口づけた後にサンジェルマンを見て大笑いし、微笑しながらジェニーを見る彼の顔が頭に浮かぶ。アリエルからジェニーに視線を移す前のほんの一瞬だけ、彼ははにかむような表情をした。
アリエルが、ジェニーと一緒にいる王を見る限り、王は世間の評判ほどに恐ろしい人物とは思えない、と何度か口にしている。しばらくは戦も仕掛けていない。最近の王の動向を考え合わせると、実は彼の真実の姿は少し違うのかもしれない、とジェニーの頭をよぎったこともある。
その考えを打ち砕くように、ジェニーは兄ローリーに剣を振りおろす王の姿を思い起こし、悔しさと無念を思い出した。それでも、王の様々な側面がジェニーを交互に襲って、ジェニーはますます混乱を極めるばかりだ。
ジェニーは寝台に突っ伏し、うめき声をあげた。
それに、ジェニーは絶対に認めたくなかったが、王の体からはずれた剣が石の床を打ちつけ、ジェニーの腕に強烈な衝撃が走ったあの瞬間、彼への復讐を果たすことはもう二度と叶わないだろう、とジェニーは頭のどこかで悟っている。
――子ができたということは、王を愛せという、神さまからのお告げ?
だが、ジェニーは厳格に神の存在を信じてはいない。
もう、何が正しくて、何を信ずればよくて、何をしたらよいのかわからない。
これからどうしたらよいのかと途方にくれ、ジェニーは室内の暗闇をぼんやりと眺めた。




