第一部 5.王の子−3
少し前、ジェニーが風邪で食が細くなったとゴーティスも聞いていたが、そのせいか、彼女の頬の肉がわずかに落ちたようにも見える。ゴーティスに名を呼ばれると彼女は顔を上げ、彼女に一歩近づいた彼の顔を、今になってやっと彼の存在に気づいたとでもいうように見返した。サロン内にもれる陽の光が彼女の顔右半分を照らし、瞳が琥珀色に透き通って見える。
彼女の肌や唇の色を注意深く見てみるが、それほど体調が悪そうでもない。ジェニーの体調が不安定だから夜の訪問は控えてもらいたい、と大げさに騒ぎたてる女官長の言動を思い出し、つい込み上げてきた笑みをゴーティスが指で押しとどめようとすると、彼の前のジェニーが大きく眉根を寄せた。
「来い」
笑みを隠せないまま、ゴーティスは顎をしゃくってジェニーにサロンの奥へ移動するように示した。ところが、彼女は口を固く結んで怪訝そうに彼を見つめ返すだけで、いつもの鋭い緊張感も体から放たれていない。いつになく反抗心の薄い態度だ。
「何だ、俺の顔に何かついておるのか?」
そう言いながらジェニーの腕をつかもうとすると、彼女は素早く一歩退き、鋭く彼を見返した。
「いいえ、そうじゃないわ」
彼女は首を振り、そして次に、どうにも納得のいかないような表情を見せる。ゴーティスは苛つき、彼女を見据えた。
「では何だ」
ジェニーは彼の問いには答えず、唇を閉じて、中庭の方に顔を向けた。ゴーティスは質問を無視されたことにむっとし、ジェニーに近づいて、彼女が胸の前で組んでいた左腕をぐいっとつかみあげる。ジェニーがゴーティスの手から離れようと腕を後ろに引っぱったが、彼がその倍以上の力で押さえていたために自由になることが叶わず、彼女が、今日初めてとなる反抗的な表情を顔に浮かべた。
「何――」
「俺が尋ねておるのだ、答えろ」
ゴーティスが押し殺した声で言うと、ジェニーはさらに反抗心を瞳にたたえ、怒ったように肩で短く息をついた。
「あんなことをしたから……あなたがいつもと何だか違うと思ってたんだけど――気のせいだったわ」
「あんなこと?」
ジェニーは再びゴーティスの手から腕を引き抜こうとしたが、彼はそれを許さなかった。
「放してよ!」
「放せだと? は――おまえは俺に命令できる立場か? 俺に手荒にさせるのはおまえだ、おまえはもう少し従順な態度を身につけたらどうだ」
ジェニーが明らかに怒った様子で彼をにらみつけ、ゴーティスもむっとした。しかし同時に、彼女が報告で聞かされていた状態よりはずっと元気だとも実感し、それはそれで安堵する。
少しの間、二人の間では、ジェニーが自由になろうと手を引いては彼が押しとどめるという、小競り合いが繰り返された。が、そのうちに、ゴーティスは小さな諍いがばかばかしくなって彼女の腕をすんなりと放した。彼から自由になったジェニーは彼の斜め向かいの壁際に急いで移動し、彼が追ってこないことを確かめて、大きく息をつく。そして、彼女は口を結び、ゴーティスの視線を避けるかのようにサロンの出入口の方に顔を向けた。
それを目にすると、剣先で浅く突かれたような、軽症の火傷にも似た痛みがゴーティスの喉元に走り、彼女に近づこうとした足がいやおうなしにそこに留まる。どちらの足も、まるで何かに怖気づいたようにそこから先に踏み出せないのだ。やるせない怒りと口惜しさで、ゴーティスの肩先がじわじわと熱くなっていった。
自分を無視しようというジェニーの態度に腹が立ったゴーティスだったが、彼女の落ち着きなく揺れる視線を見ているうち、ジェニーがいつになく動揺していることに気づいた。彼女は、中庭にいる彼女の侍女とサンジェルマンの動向をどうやら気にしているようだ。ゴーティスは彼女の視線の先を同じように見やり、窓の向こうに広がる緑色の大地とサンジェルマンの金色の頭半分しか見えないことを確認して、彼女を再び振り返った。
「ジェニー、何を焦っておる?」
「――えっ?」
「侍女をあの男に取られるとでも思うのか? それとも、その逆か?」
ジェニーが面食らって彼を見つめ、もう一度中庭を眺めた後、今度はあきれるような顔に変わった。
「そんなこと、思うわけないじゃない」
ジェニーが口を尖らせ、腕を胸の前で組んだ。
「そうよな、たかが侍女だ。常に共におって、おまえが何も気づかなかったわけもあるまい」
ところが、彼女が瞬間的にひるんだ表情に変わり、ゴーティスは意外に思って彼女の顔に目を凝らした。「――気づかなかったのか?」
ゴーティスが眉を上げると、彼女がちらりと彼を見返した後、呟くように言った。
「知らなかったわ。私は、てっきり……」
「一目見ればわかるだろうに」
ジェニーがむっとなってその瞳に強気の光を宿らせ、彼をにらむように見返した。
「わからなかったの」
ゴーティスが中庭の方に振り向いてからサロンに視線を戻すと、ジェニーの場所からはサンジェルマンの頭さえ見えないはずだが、彼女も中庭の方を眺めていた。彼と離れているせいか、ジェニーの体から緊張感が消えつつある。何を言ったのかはゴーティスには聞き取れなかったが、ジェニーのかすれた呟き声がし、短い吐息が次に続いた。彼はジェニーの思案げな顔を凝視し、彼女の注意を引いた。
「おまえ……今日はどこか妙だな」
「……それは、こちらの台詞だわ」
「俺が? 俺が、何かおかしいと?」
いつになく普通に言葉を返す彼女を訝しく思いながら、ゴーティスは続きを促すように彼女に目で問い返す。すると、彼女が一呼吸おいて、言った。
「まさか――あなたが、二人の仲を取りもとうとするなんて……」
そう言った後、ジェニーが己の放った言葉を噛み締めるように、自分自身に何度も頷いていた。ゴーティスは彼女の放った言葉に唖然とし、うつむき加減の彼女の横顔を見つめる。
「は? 俺がいつ、あの二人の仲を取りもったと?」
彼女が、微かに眉をひそめて振り返った。その彼女の反応も彼を苛々とさせる。彼は吐き捨てるように言った。
「あの男はあまりにも女に奥手で、やること為すことが遅々としておって、なんともふがいない。見ておるだけで苛々させおって、気分が悪い。俺はそれを解消したかっただけだ」
ゴーティスが苦々しく思って二人のいる中庭の方に視線を投げてからジェニーを見ると、彼女のなんとも不思議そうな顔に遭遇した。
「……何だ、その目は?」
彼が不愉快に思って言うと、彼女はゆっくりと息を吸い、まるで自分自身に話しかけるかのように静かに言った。
「サンジェルマンは、あなたが止めろと一言言えば、いつでも身を制する人なのに。でも、そうしないで、あなたはむしろ彼をたきつけて、アリエルとの仲を……取りもった」
「ふん。ずいぶんと知った口をきくではないか」
ゴーティスは彼女の言葉を鼻で笑ったが、ふと、彼女の言わんとする意味に引っかかって、首をひねった。
「“取りもった”?」
ジェニーが、彼の声に反応して彼に注意を向ける。
「取りもつ――」
ゴーティスは再び、彼女の言ったことを理解しようとその言葉を反芻した。そして、次に顔を上げたとき、ジェニーが意外そうに自分を見ている顔にぶつかって、彼はそれまで組んでいた腕をゆるめて彼女に尋ねた。
「今度は何だ?」
ジェニーが何かを言いかけ、否定するように首を左右に小さく振り、それから、彼をまた不思議そうに見上げた。
「何だ、いったい?」
声を荒げたゴーティスに、ジェニーが言った。
「あなた……あの、ゴーティス王……よね?」
彼女が怪訝そうに彼を見返した。
「……なに?」
不可解に思ったゴーティスがジェニーに問い返すと、二人の間には今までにない奇妙な沈黙が流れる。
中庭にいるサンジェルマンの頭の位置は変わっておらず、彼と侍女の声もしない。不意に訪れた暫しの沈黙は、ジェニーの硬い声でいきなり破られた。
「まだ戻らないの?」
彼女の瞳には普段と同じ緊張感が戻っていて、それに伴い、ゴーティスの口調も自然に冷めたものとなった。
「ここには少し立ち寄っただけだ。おまえに追い立てられるまでもなく、俺はもう戻る」
答えながら、ゴーティスはサロン出入口に体を向きかけ、自分が動けば率先して先に反応する他の者と違い、その場に立ち尽くすジェニーを振り返った。後宮に住む他の女たちと同様の退屈な日々を過ごしているはずだが、彼女たちがたまに受ける彼の訪問の終わりに見せるような、名残惜しそうな表情を、ジェニーは決して浮かべない。
「――おまえ、毎日、暇を持て余しておろう?」
ふと思いついて彼が口を開くと、予想どおりに彼女は顔をしかめ、ゴーティスは思わず失笑した。
「やはりな」
彼は笑いをかみ殺し、ジェニーがむっとして唇を噛む様子を見つめた。
「退屈で死にそうなおまえの相手を、もっとしてやりたいところだが――」彼がそう言うと、ジェニーが身を固くさせて反応した。いつもどおりの、真正直な反応。
「あいにく、俺は明後日まで体があかぬ」
彼女が体から力を抜くのがわかり、ゴーティスは視線を中庭に移して言葉を続ける。
「それゆえ――あの男に書物をいくつか選ばせ、おまえに届けさせるとしよう」
彼がサンジェルマンのいる中庭から室内に目を戻すと、ジェニーが、信じられないといった顔で彼にふらっと一歩足を踏み出した。
「えっ?」
ジェニーの注意を引いたことにゴーティスは満足し、にやりとする。
「……え?」
彼女があまりに凝視するのできまり悪く、彼は逆に素っ気い口調で言った。
「書物は与える。だが、むやみにここであの男と会うな。俺は、王が家来に女を取られたなどという不愉快な噂を耳にする気はない」
ゴーティスはジェニーに一方的にそう告げると、サロンの入口の方に歩き出した。彼女が動き出す気配は感じない。
「書物の受け取りは、おまえの侍女にさせろ」
ジェニーが息をのむ音が彼の耳に届いた。
「それって――」
彼女が追ってくるような気配があったのでゴーティスが振り向くと、彼女は近寄ってきてはいなかったが、彼の体に伸ばすかのように手を出した。だが、それを宙で不意に止めた。
彼がジェニーの浮いた右手を見つめると、彼女は慌ててそれを体の脇の位置へと戻す。それから彼女は、大きな困惑をその顔に映し出し、彼に素早く背中を向けた。
サロンで王と別れて部屋に戻った昨日、ジェニーにサンジェルマンとの仲を訊かれ、恋仲ではないがお互いに慕っていると思う、とアリエルは素直に白状した。ライアンへ恋心を抱いていたはずなのに、とジェニーが疑問を口にすると、アリエルは、サンジェルマンと直に接し、自分の身分や立場におごらない、誠実な彼を大切に想うようになって初めて、ライアンへの想いが憧れだとわかったと答えた。でも、だからといって、王家に近い高貴な身分であるサンジェルマンと下級貴族の自分がつりあうとは思っていない、と彼女はひとごとのように語る。
「サンジェルマンが持ってきたの?」
「はい」
アリエルは普段どおりにもの静かな笑みをたたえて返事をしたが、書物に落とす視線が明らかに優しく変わる。
昼過ぎにはもう、ジェニーの元に複数の書物が届けられた。両手に書物を抱えて運んできたのはアリエルで、彼女は昨日から数度目となる王への感謝を繰り返した。単に任務を果たしたアリエルに罪はないし、書物にも興味があるが、それがあの王からの贈り物となると、ジェニーは素直にそれを手に取ることもできず、台の上に置きっぱなしにしている。
隣の寝室を整えていた召使が二人のいる部屋に現れ、他に用事がないかとアリエルに問いかけるような目つきをするのを目にした後、ジェニーは台に積まれた四冊の書物に再び視線を移した。あの王がどんな顔で、こんな“つまらぬ用事”をサンジェルマンに命令したのだろう。
召使が挨拶をして退室していき、アリエルが書物のある台に近づいて、ジェニーに尋ねた。
「ジェニー様はフランドル語もお出来になるのでしょう? 王がフランドル語の本も含めてくださったそうですわ、それをお読みになりますか?」
ジェニーは王の気遣いに慣れずに何だか苛々とし、いいえ、と一言だけ答えて、書物の隣にあるベリー類の盛られた皿を一瞥した。それもまた彼女の好物であり、「王からの下賜」といって午前中に届けられたものだ。新鮮なベリーの実はいまいましいほどに赤く、ちょうど今が食べ頃な程度に熟していて、甘くさわやかな香りを放っている。ジェニーは、それにも手をつけていない。
「そちらを、召し上がります?」
ジェニーは皿や書物の山から顔をそむけた。
「いらないわ」
断固とした拒否がジェニーの声ににじみ出ていたが、アリエルは常にジェニーには王を敬う態度を求めるというのに、そのときは何も言わなかった。
少したってアリエルが隣にやってきたのでジェニーが顔を上げて見ると、彼女はジェニーを見返し、わずかに寂しそうにも見える笑みを浮かべた。ジェニーが無理に微笑み返すと、アリエルが何かを言いたそうな表情になったので、ジェニーは、話すようにと彼女に促した。
「ジェニー様、今、城には隣国のご使者がいらっしゃっているそうですわ」
「……そうなの」
サンジェルマンからの情報だろう、とジェニーは判断し、それが理由でゴーティス王は忙しいのだと理解した。
「聞くところによりますと、ここ数年来、この城には諸外国からの訪問者は皆無だったそうでございます。それがここにきて立て続けに――今回のご使者が帰られたらすぐにまた、別の国からの訪問客があるとのこと。訪問目的は正式には知らされておりませんが、皆の間ではもっぱら、ヴィレールが各国と同盟を結ぶという噂でございます」
「“同盟”? あんなに各地を侵略し続けていたヴィレールが? ――あの王が?」
「あくまで、皆の噂ではございますが」
アリエルはそう前置きし、ジェニーに向かって力強く頷いた。
「でも、だけど、同盟って……。そんなこと、とても信じられない……」
「私にも真実はまだわかりません。けれど、事実、隣国からの訪問客もあることですし。それに――ジェニー様? 今年に入って半分も経とうとしておりますが、ヴィレールは一度の戦も始めていないではありませんか」
ジェニーが王城に連行されてから、ヴィレールは一度も戦をしていないのは事実だ。けれど、ジェニーは、自分の故郷の街のあちこちで黒煙が上がっていた光景を瞬時に思い出した。
「これから、再開するのかもしれないじゃない」
ジェニーが言葉を返すと、アリエルの顔がゆっくりと笑顔に変わった。
「ええ、わかりませんね。ジェニー様? 王は明夜ここに来られるそうにございます。王に、それを直接お尋ねになってはいかがです?」