第一部 4.復讐のとき−6
ゴーティスは朦朧とする意識の中で、銀色の剣のきらめきに目を奪われ、それが空気を切る音を聞いた。ついに人生が終わるのか、と、彼はきらめく光の眩しさに両目を細める。
うすれゆく視界の中で、ゴーティスは、細く流れていく赤い血と、ジェニーが両手で顔を覆って泣き崩れる姿を目にした。
やっと念願の目的を成し遂げたというのに、彼女の泣き声はとても悲痛だ。その声はゴーティスの胸ぐらを掴み、彼の心ごと激しく揺さぶる。
「……?」
――数秒後、ゴーティスは自分がまだ生きていることに、突然、気づいた。体全体が痺れていて、腹の底が押さえ込まれているような痛みはあるが、剣で斬られた時の鋭い痛みは感じられない。
一体、何がどうなったのか、すぐには理解ができなかった。
ゴーティスは自分のものでないような体を何とか持ち上げて右側に体重を移し、体勢を変える。体のすぐ横に、ジェニーに奪われた彼の剣が放り出されていた。誰かを斬ったとしたら刃に残っているべき、赤い血の染みは見えない。
それからジェニーに目を移すと、顔を覆う彼女の腕には赤く細い筋が一つ、はっきりと見えた。
彼女は、彼を殺さなかったのだ。
ゴーティスは困惑し、ジェニーをあらためて見つめる。
手をかけなかった? だが……何ゆえに?
けれども、剣で刺されなかったと安堵しても、彼の死が遠のいたとは言えない。もしかしたらジェニーは、剣を使うより、苦しむ彼を放置して死に至らしめる方を選んだだけなのかもしれない。
息苦しさはさらに増し、今は咳き込むことさえ難しい。腹に当たる自分の腕も冷たい。
ゴーティスはジェニーを見つめながら、まだ死にたくない、と切実に願う自分に気がついた。父のように、毒によって死にたくない、とも思っていた。視界に映るジェニーの姿を失いたくない、と漠然と感じていた。
それでも、目を閉じ、息をしない方が数倍も楽だ。
まだ何も、まだ何もかも、やり遂げてはいないというのに――。
ゴーティスの意識が遠のきかけた時、不意に唇に温かい何かが触れた。直後、割れるような声が頭の上に響く。
「口を開けて、早く!」
ゴーティスが言われるままに震える唇を開くと、その温かな塊は彼の口をさらに割って入り込み、あっという間に喉の奥に突っ込まれた。彼が突然の息苦しさに襲われて身をよじると、その肉の塊は素早く、彼の喉からするりと抜け出ていく。彼は咳き込み、そのおかげで、新しい空気が喉を通り抜けるのを感じた。
「ゆっくり息をして!」
ゴーティスが急いで空気を体内に取り込もうとしていると、さっきの声がそれを遮った。ゴーティスはそれに従い、ゆっくりと息をする度に、体に精気が徐々に戻ってくる感覚を得た。
「口を開けて」
声はまたゴーティスに命令し、彼は反抗する気力もなく、口を開かされた。誰かの温かい手が彼の顎を支えている。
今度は彼の舌にぬるくて味のない液体が当たり、彼は否応なく、その液体を飲まされた。直後、どうしようもない吐き気が彼を襲い、彼はその不快さを口から一気に吐き出してしまう。一度胃から何かを吐き出すと吐き気は止まらず、彼はその後三度にわたり、胃の内容物を外に放出した。
嘔吐したせいで、腹と背中が痛かった。気分は信じられないほどに悪く、頭にも鈍痛があったが、体の中心にほんのりと熱が戻り始めている。ゴーティスの吐き気が治まると、乾いた布が彼の唇に当てられ、その周りが軽く拭われた。
「これを飲んで。水よ」
ゴーティスが椅子に背を預けていると、彼の頬に冷たい感触があった。ぼんやりとしながら目を開けると、顔に水差しが押し当てられている。
「な……?」
「それを全部飲んで」
彼が弱って抵抗できないのをいいことに、水は強制的に口の中に入れられ続ける。彼が途中で嫌がって顔をそむけても、誰かの手がそれを引き戻し、口を固定して水を流し入れるのだ。全部でどれぐらいの水量を飲んだのか知れない。途中で何回かは水を吐き出したが、ともかく、大量だ。
ゴーティスは、この不調が回復したら、こんな無礼を働く者は即刻処罰してやる、とはらわたが煮えかえる思いがしていた。だが、その無礼な対応に心底腹を立てつつも、それがジェニー以外の何者でもないと気づいて、ゴーティスは訳がわからなくなる。
水が喉の奥に入らなくなると、ゴーティスは大きな安堵の息をついた。肩や背中、腰が重くて痛いが、我慢できないほどではない。何より、苦しくても呼吸ができる。生きている実感がたしかにある。
それから、ゴーティスは両肩を掴まれて床をずるずると引きずられた。やっと止まった先では頭が持ち上げられ、ゴーティスはその不快さに小さく呻く。しかし、頭の下には柔らかな枕が準備されていた。彼がそこに頭をつけると、彼の体の上には毛織の毛布がふんわりとかけられた。あまりにも心地よい、安心できる感触だった。
ゴーティスは、目覚めないかもしれない恐怖で眠りに落ちたくはなかった。生の世界から去るかもしれないことになるのは、嫌だった。この視界を失うことが、怖かった。
まだ何もしていない、何もやり遂げていない……。
しかし、その意志に反して、彼の疲れた体はゴーティスをあっという間に眠りに引きずりこんでいってしまう。
◇ ◇
複数の召使が寝泊りできるように寝台が並ぶ一室に、サンジェルマンを含む数人の患者たちが運びこまれていた。そのほぼ全員が腹痛に嘔吐、体に何らかの痺れを訴えており、呼吸を乱している。それら症状を引き起こした原因はまだ特定されていなかったが、ジェニーの勧めた処置がフィリップに効果的に働いたことに加え、侍医の助手も彼女の処方を承諾したことで、被害者たちにも同じ対応がとられていた。
ジェニーはアリエルから部屋で休むようにも言われたが、何かに集中していないと体がばらばらに壊れそうな気がして、彼らの看護をやめられなかった。ほんの一瞬でも、頭に何かを考えさせる余裕を与えたくなかった。
王の無事が確認できるまで気力で耐えていたのか、サンジェルマンには激しい腹痛がぶりかえしたらしく、彼は脂汗をかいて苦しがっていた。彼は自分を介抱しているアリエルをジェニーだと勘違いしているらしく、彼女が彼に嘔吐させる手伝いをしようとする度、彼女の手をはねのけている。ジェニーはそれを横目に見ながら、何も感じないふりをして、ライアンに水を飲ませ続けることに集中した。ただ、王とよく似たライアンの髪の色は、王にも多量の水を飲ませたことをジェニーに嫌でも思い出させる。苦々しく、身を切られる思いがする。
「……もう休まれよ、ジェニー殿」
ジェニーがはっと我に返ってライアンを見ると、彼が遠慮がちな視線をジェニーに注いでいた。
「私は平気だ。貴殿はずっと私たちに付き添っているではないか。貴殿に、このようなことをさせるわけには――」
ジェニーは頭の中の思いを振り払い、彼に急いで笑顔を作った。
「そんなことは気にしないで。私は適当に休んでいるわ、あなたは自分の体のことだけを心配して」
「しかし、貴殿は……王の元へ行かれた方が――」
「こっちの方が人手が足りないのよ。彼には専任の看護がついて、今は眠っていると聞いてるわ」
ライアンが戸惑ったようにジェニーを見つめたが、それ以上の反論はあきらめたようだ。
彼は、苦しがるサンジェルマンの方へちらりと一度視線を投げ、それから、ジェニーの包帯のまかれた右手を見た。うっすらと血がにじんではいるが、既に血は止まっている。
「……ちょっとしたはずみで切ったの。傷は浅いわ」
彼に傷ができた理由を問われたわけではないが、反射的に、ジェニーは彼にそう告げた。ライアンはその説明に特に疑問を感じたようでもなく、ジェニーの手にある水の杯に注意を戻す。
しばらくして、フィリップが部屋に戻ってきた。歩けるようになった彼は自ら、階上の寝室で介抱されている王やリヨン公、近衛隊隊長の様子を確認しに行っていたのだ。手下の者たちに先んじて動くその姿勢に、ジェニーは彼を高貴な王族らしくないと思った。事実、彼は目下の人々にも分け隔てなく、親切に接している。
「王はよく休んでおられる」
ジェニーとライアンの前に来て、彼は穏やかに笑った。
「あなたのとった最初の処置が適切だったようだ。王の御命を救ってくれたこと、私からも礼を言わせてもらいたい」
フィリップがジェニーに優しく笑いかける。フィリップに感謝されるのは、ジェニーには非常に複雑な気分だった。ジェニーは、サンジェルマンが興味を引かれて自分の方へ振り向くのに気がついた。
「そんな。礼には及びません」
「ああ、あなたはまだ若いのに、親切で聡明なだけでなく、謙虚な心の持ち主なようだ。王があなたにお心を動かされるのも無理はないのだね」
ジェニーは反論しようとし、アリエルの鋭い視線を感じて思い留まった。ふと気づくと、彼女の隣で、サンジェルマンが何かを言いたそうにジェニーを見つめている。
「ここはもういい、ジェニー嬢、あとは召使たちで対応できよう。あなたは王の元へ行ってくれ。王が目覚めた時、王もあなたの顔を最初に見たいだろう」
「でも――」
「そこの女」
フィリップに呼ばれ、アリエルがジェニーを一瞥した後に、はい、と返事をした。
「こちらの副隊長殿の面倒も一緒にみてくれないか。彼は比較的落ち着いてきているから、そう大儀でもないだろう」
アリエルが了承し、落ち着かない様子でライアンを見た。
ジェニーは王と顔をあわせたくなかった。今、彼と顔をあわせれば、自分が彼に手を下せなかったことを、まざまざと見せつけられることになる。
階段をのぼっていくジェニーの足は、足かせをつけられているかのように重かった。先導をする近衛兵が時々、彼女の様子を気にして後ろを振り返る。
ジェニーはゴーティス王の命を奪えなかった。仇とはいえ、抵抗できない状態につけこむような形で手にかけることはジェニーの正義に反する、その一瞬の判断だけで。
そのうえ、彼から狙いを外しただけでは済まず、ジェニーは瀕死の彼を救う手助けまでしてしまっている。あんなに死んでもらいたかった彼なのに、あの時は、ジェニーにはそうするしか考えつかなかった。
ジェニーたちは二階の奥の部屋に到着し、見張りの近衛兵が室内に声を掛けた。それを見ながら、ジェニーは後ろにまわした手をぎゅっと握る。ジェニーの来訪が告げられると、王のいる部屋の扉は内側に大きく開かれた。室内から医務服を着た細面の男が顔を出し、ジェニーを見て小さく黙礼した。侍医の助手なのだろう。男に招き入れられ、ジェニーは仕方なく、部屋に一歩足を踏み出した。顔がこわばるのは止めようがなかったが、その男はジェニーの緊張をどうやら都合よく解釈したようで、ジェニーを気の毒そうに見つめるだけだった。
部屋はきれいに片付けられていた。床にも汚れは残っておらず、室内には微かな花の匂いさえ漂っていた。ジェニーがあのとき座っていた長椅子の前にあるテーブルの上に、王の剣が臙脂色の鞘に納められ置いてあった。それを目にすると、復讐を遂げなかったことを王にあざ笑われているかのような気になる。
ゴーティス王は、寝台の毛布の中で静かに眠っていた。息をする度に上下する胸の動きがなければ、まるで死んでいるかのような穏やかさだ。乱れた銀色の髪に覆われた顔には、ほんのりと赤みが戻っている。
彼の無事な姿を直視すると、ジェニーの落胆はさらに深まる。あだ討ちをし、自由になる機会を自らの手でつぶしてしまったことを思い知らされる。一時の気の迷いで取り返しのつかないことをした、と、押し寄せる後悔にジェニーは負けそうになる。
「解毒剤も処方いたしました。休養は必要でございますが、もう心配はいりません。ジェニー様が初期に介抱されたことで王は助かったのでございます」
男は目を輝かせてそう言ったが、ジェニーはそんな言葉など聞きたくなかった。彼に、助かってほしくはなかった。この男は今頃は死んでいるはずだったのにと思うと、ジェニーの目には涙が押しあがってくる。
「こちらに!」
待機していた下男の少年が、ジェニーに寝台脇の椅子に座るようにと手でさし示した。涙が流れ落ちないようにと堪えながらジェニーが少年を見ると、彼までもが涙を浮かべ、同情した眼差しでジェニーを見つめた後、すぐに視線をそらした。侍医の助手でさえも、ジェニーの様子に感動したように瞳を潤ませている。
彼らの目には、ジェニーは、王の無事を知って安堵している女と映ったにちがいない。
ジェニーは下男の勧めを断って、長椅子に腰をおろした。視線の先には、彼女が一度は手に取った王の剣がある。室内には侍医の助手と、十二、三歳の下男が控えているだけで、扉の外には近衛兵が一人。
――近衛兵に踏み入られる前に、眠っている王を襲うだけなら何とかなりそうにも思う。彼らは王の寝台近くでなにやら小声でしゃべっていて、ジェニーには注意を払っていない。王も今すぐに起きそうな気配ではない。行動に移すなら、今しかない。
心臓音が高鳴って耳が遠くなる気がした。もう一度行動を起こすなら、今だけだ。
臙脂色の鞘を凝視しているとそれが急にかすみ、ジェニーははっとして視線を外した。首の後ろに、微かに鈍い痛みがひろがっている。
――次にジェニーの視界に映ったのは、小さくて丸い、誰かの手の甲だった。ジェニーが目を上げようとすると、優しく耳に馴染む声がジェニーの名を呼んだ。
「気がつかれました?」
その声の主は柔らかく笑い、ジェニーが見つめると、ゆっくりと微笑んだ。アリエルだった。
「ジェニー様?」
ジェニーは自分の居る場所を確認しようと、室内を見回した。王が眠っていた部屋ではなく、もっと狭い寝室だ。部屋は、アリエルの持つ灯りがなければ何も見えないほど真っ暗だった。
「ああ――もう、夜なのね」
「ええ。このままお休みください。皆も今は落ち着いて、休まれておいでですわ。今日はあの騒ぎのせいで、さぞお疲れでしょう」
ジェニーは知らないうちに眠りに落ち、この寝室に連れてこられたらしい。ジェニーは二度目の、絶好の復讐の機会まで逃したことを知った。
「……ええ。そうね」
アリエルが微笑み、その手がジェニーの体を覆う掛布をそっと直した。
「ライアン様も回復されておいでですよ」
ジェニーはふと、アリエルが馴染みの深いサンジェルマンでなくて、ライアンの名を出したことに違和感を覚えた。そういえば、彼に関することとなると、アリエルはちょっと変な反応をする。
「――“ライアン様”?」
アリエルがまた、動揺したように少しだけ瞳を揺らす。
「アリエル、あなた、ライアン様と前から知り合いなの?」
「まさか、そんな畏れ多いこと!」
「知り合いではないの?」
アリエルの反応を妙に思ってジェニーが問うと、彼女は顔を赤らめて首を横に振った。
「違います。ライアン様は私をご存知ありません」
「それは……あなたの方は彼を昔から知っていて、“好きだ”ってこと?」
「まっ!? ジェニー様!」
アリエルは耳まで真っ赤で、その真相を確かめるまでもなかった。
ジェニーは彼女が世の中の一般的な女たちのように恋愛感情を持っていると知り、何だかほっとした。それは、心のすさんだ今のジェニーをほんの一時でも和ませてくれる、嬉しい事実だった。