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第一部 4.復讐のとき−5

 ジェニーの膝からゴーティス王の手が滑り落ちた。ジェニーは思わず椅子から飛び起き、彼の前から慌てて移動して、椅子の背後にまわる。

 王の広い背中が大きく揺れていた。激しい彼の息づかいが、彼女の耳にもはっきりと届く。

「お……これは、どうし……?」

 顔をあげたゴーティス王の額には汗で濡れた前髪が貼り付いていた。顔色が青白く、唇が土色だ。何とかジェニーの方に顔をあげた王を、ジェニーは茫然として見つめる。

 彼女が見ていると、王がもう片方の膝を床に落とし、肩を長椅子の脚部分にぶつけるようにして体を椅子に預けた。

「……どうしたの?」

 あうっ、という喘ぎ声がして、王が脂汗のにじんだ顔を苦しそうに左右に振った。唇が小刻みに震えている。

 ジェニーの質問には答えず、王は苦痛に顔を歪め、大きく咳き込んだ。そして、その反動で、王の体は支えをなくして床に横から倒れていく。耳につく、鈍い金属音が響いて、王が自分の身につけていた剣の鞘の上に落下し、その痛みでさらに顔をひどく歪め、大きく呻いた。

 あまりの突然の出来事に、ジェニーには何が起こったのか想像がつかなかった。ジェニーには、何が理由であれ、彼が倒れる、ということ自体が信じられない。

 彼が身悶える姿を目の当たりにして初めて、“王も自分と同じ普通の人間だ”という当たり前の事実を、衝撃ともいえる発見のように認識した。


 王が痙攣させた体を反対側に勢いよくひねった。呼吸は荒く早いままで変わらず、何度も喘いでいる。彼が曲がった指先で椅子をつかもうと伸ばすが、それは宙をむなしく引っ掻くばかりだ。ジェニーは、目の前に晒された、彼の腰にある臙脂色の剣の鞘を食い入るように見つめた。

 ――彼は今、赤ん坊のように無防備だ。

 倒れた王の足元に立つと、ジェニーの膝が震えた。とはいっても、幸い、ドレスの中にある膝は彼から見えない。息も絶え絶えとなっていた彼が乱暴に顔を上げ、ジェニーを見て目を細めた。

「お……まえ……?」

 ――ここでなら邪魔が入らない。

 ジェニーが彼の体の脇にしゃがみこむ一部始終を、王の目が怪訝そうに追う。ジェニーが彼の手を見ると、両方の手の指は丸く曲がり、さっき見た時と同じ形をしていた。

 急がなくてはならない。

 ジェニーははやる心を必死で抑え、ゴーティス王の腰帯につく剣の柄に手を伸ばした。王がいっそう喘ぎ、信じられないものを見るかのように彼女を凝視している。しかし、彼には余力がほとんど残っていないらしく、体は痙攣していて動きはしない。

 ジェニーが柄を掴むと、彼が反抗するように上半身を少し動かした。が、体の位置はほとんどずれず、抵抗もそれまでだった。ジェニーは、難なくそれを鞘から抜くことに成功した。

 光る剣を手にし、ジェニーが弱った王を見下ろすと、彼は暗い目で彼女を見つめていた。彼女の動きの逐一を見逃さないよう、その目だけには気迫が残っている。そして、その目から、ジェニーに対する恐怖は微塵も感じられない。

 ジェニーは大きく深呼吸した。

 兄や両親の顔と、彼女の意思が踏みにじられた日々が頭をよぎる。

 彼女は歯を食いしばり、一歩、彼に近づいた。

 王が何かを叫ぼうとしたが声にならず、激しく咳き込んだ。彼の喉から顎にかけての肌が赤く変わり、最後の力を振り絞ってか、手がジェニーをつかもうと動いたが、その動きはあまりに遅い。彼女が剣をわざわざ振り下ろさなくても、その口をちょっと塞いでやれば、あの世に逝ってしまうだろう。

 しかし、ジェニーは両手で剣を持って、自分の体の上に振り上げた。

 王が怒りのこもった瞳でジェニーを見据えている。何度も目を閉じそうになっては、必死に耐えている。乾いた唇の端に白い泡がたまり、言葉をつむぎだそうとしながらも声が出てこない。

 およそ、あの強靭な王とは思えない有様だ。ジェニーの剣を持つ手が震える。

「兄の、両親の、そして……私の身を奪った仇……!」

 叫びながら、ジェニーの目には涙がどっと溢れてくるのを感じた。王が呻きながらも横向きに転がり、ジェニーは彼の脇腹を足で踏んで押さえた。彼が、短く喘ぐ。

 誰も来ない。このまま突き刺してやるだけで、彼は死ぬ……!

 ジェニーは振りかぶっていた剣を降ろし、刃先を王の腹に向け、剣の柄を持ち直した。

 彼の胸が大きく上下している。顔面蒼白となった王が、ゆっくりと瞬きしながらジェニーを見ていたが、やはり、彼には恐怖は見られず、命乞いをする気配もない。

 ジェニーは唇を噛み締め、迷いを捨てて、剣を一気に王に向かって突き立てた。


 ほんの一瞬だけ目を閉じたつもりだったが、サンジェルマンがはっとして目を開くと、彼の前には二人の近衛兵がひざまずき、彼を心配そうに見守っていた。

「おお、ご無事でしたか!」

 一人が大声をあげ、サンジェルマンは無意識に床から起き上がろうとした。男たちがサンジェルマンを助け起こし、彼は背後の壁に体を預ける。実際に手足を自由に動かすことはできなかったが、彼は、体の痺れがさっきよりも少しだけ軽くなってきているのを自覚した。

「心配いたしました、サンジェルマン様! あまりに静かなので死んでいるのかと!」

「おまえたち、ライアン殿は? 王は……?」

「たった今、向かったところです。ライアン副隊長も――」

 階段の方角へ視線を投げた男が、そこで何かに目を留めた。口を開け、唖然とした表情に変わる。

「……どうした?」

 サンジェルマンは右側に頭を傾け、男の注意を引きつけた原因を特定しようとした。そして、彼は唇をきゅっと固く閉じる。

 サンジェルマンが剣の紛失を発見した遊戯室の前に、女が一人、顔を両手で覆って、扉を背にして廊下に座りこんでいた。身につけたその服装から、彼女がジェニーだとわかる。それがわかったとたん、サンジェルマンは妙な胸騒ぎを覚えた。

 サンジェルマンの前にひざまずいていた近衛兵の一人が立ち上がり、ジェニーに近づいていく。彼女は近衛兵が目の前に行っても顔を上げなかったが、その男が声をかけたらしく、彼女が妙にゆっくりと顔を上げた。なんだか反応が鈍く、奇妙な印象だ。

 ジェニーが独りでいること、ぼんやりしている様子は、あまりにもサンジェルマンの不安を増長させる。

「彼女を拘……保護せよ」

 ほとんど無意識に、サンジェルマンは自分についていたもう一人の近衛兵に指示した。男は彼を残していくことに若干の心残りを示したが、サンジェルマンの指示に従い、仲間の近衛兵の元に追いついていく。 

 彼女は二人の近衛兵に囲まれても立ち上がろうとしなかった。二度ほど首を左右に振り、また顔を手で押さえるような仕草をした。

 サンジェルマンが彼女を無理にでも連れてくるように近衛兵たちに促すと、彼らに手を触れられたジェニーが、それに反発するように彼らの腕を振り払った。彼女は、泣いているようだった。 

 サンジェルマンの不安と胸騒ぎはひとまわりも大きくなっていた。既に王の様子を見に行ったライアンや他の近衛兵たちがまだ戻ってこない。王に一大事があれば何らかの知らせがその者たちから届くはずではあるが、その知らせがないからといって、王が無事だと証明されたことにはならない。

 サンジェルマンはジェニーに付いていた近衛兵を急ぎ招き寄せると、王の様子を一刻も早く確認してくるよう、彼に命令を出す。

 ジェニーが近衛兵と並んでサンジェルマンの方へと歩いてきた。彼は彼女の足取りを注意深く見ながら、彼の感じた違和感が何なのか、判別しようと試みる。

「サンジェルマン?」

 半分近くの距離を歩いたところで、ジェニーがふと立ち止まり、床に足を投げ出すサンジェルマンに気づいて驚きの声を上げた。そして、彼の方へ慌てて駆け寄ってくる。

 サンジェルマンはジェニーに気を許すことはせず、彼女を注視していた。廊下に投げ出された彼の足はまだ痺れており、力が入らない。

 その彼の足の横に、ジェニーが心配そうな顔をしてしゃがみこんだ。サンジェルマンの隣に膝をついた、彼女の目の周りが赤く腫れていた。まるで一晩泣き明かしでもしたように、瞳が赤い。サンジェルマンの不安が、喉元まで押しあがってきた気がした。

「どうして……? 何が、何があったの?」

 ジェニーが息を飲んで口元に右手を当てた時、赤い何かがサンジェルマンの目にふれた。彼女の肘から下には赤い直線ができていて、それに沿って服の生地が破けており、服の肘の部分一帯が赤く変色していた。

 それは血液の赤い染みだった。

「ああ、なんてことだ!」

 サンジェルマンが放った言葉は思いがけずに大きな声となり、近衛兵とジェニーを驚かせる。

「ジェニー! おまえ――おまえは一体、王に何をした!?」

 彼がジェニーの肘を凝視すると、彼女が怯えたようにその肘を手で覆った。

「これは――」

 サンジェルマンはもう一度、ああ、と叫び、ジェニーを睨みつけた。体内からの激しい震えが外側にどうしようもなく溢れ出してくる。

「衛兵からの知らせはまだか! 王はどうされているのだ!?」

 サンジェルマンが叫ぶと、ジェニーの表情が苦痛そうに歪んだ。それを目にしたサンジェルマンはますます怒りと恐怖を覚え、宙に吠えるように何度も喘いだ。

「ジェニー、王の御身に何かあったら、私は……私はおまえを決して、許しはしない……!」

 興奮したせいか、サンジェルマンは咳き込んで下を向いた。顔を上げると、ジェニーが思いつめた表情を見せ、近衛兵が、彼のいつになく乱暴で無礼ともいえる態度に面食らっている。

「衛兵! 彼女を今すぐ拘束せよ!」

 サンジェルマンがジェニーの隣にいる男に命令すると、ジェニーが傷ついたように、一瞬だけ目を細めた。

「サンジェルマン、私は――」

「衛兵、彼女を拘束せよ!」

「し、しかし、サンジェルマン様」

「早く拘束せよ! その娘がいつ逃げ出すか、知れたものではないぞ!」

 のん気ともいえる近衛兵の反応に、彼は腹が立って仕方がない。

 近衛兵がジェニーに触れようとすると、彼女はその手を振り払い、一歩後退した。近衛兵が助けを求めるようにサンジェルマンに振り返ったが、彼はただ、淡々と命令を繰返すだけだ。

「女の言うことを聞く必要はない。命令を遂行せよ!」

「サンジェルマン!」

 彼女に必死な目をまっすぐ向けられても、サンジェルマンの心は揺れなかった。

「衛兵、何をためらっている? 王の御身に関わることであるぞ、今すぐに女を拘束しないか! この女は、毒を盛って、王や私を含めた多くの人々も殺そうとしたのかもしれないのだぞ!」

「――毒を盛って?」

 そう言ったジェニーの声が震えていて、戸惑っていた彼女の目が怒りを帯びたものに変わった。

「サンジェルマン、まさか、あなたはそんなことを疑って……!」

「当然だ、おまえの兼ね備えた知識を用いれば、毒を作り出すことなど些細なこと」

「待って、なぜ私がそんなことを――」

 ジェニーの目の縁に大きな涙の粒がもりあがっていた。サンジェルマンが強硬な態度を崩さずにいると、彼女は口惜しそうに一度だけ視線を他にずらし、彼をきっと見つめた。

「私がそんな――関係のない人たちまで巻き添えにするなんて、私はそんなこと、絶対にしない……!」

 サンジェルマンは彼女に取り合わなかった。ただ、対応に苦慮しているらしい近衛兵を淡々と急き立てる。

「サンジェルマン! 私は何もしていない……!」

 サンジェルマンは彼女の声をまるっきり無視し、近衛兵に彼女の身を拘束させた。彼女は暴れて抵抗を試みたが、屈強な近衛兵の腕にかかってはそれも何の役にも立たない。

 ジェニーがサンジェルマンの隣に拘束され、悲しみを含んだ目で彼を鋭くにらんだ。赤く腫れた彼女の目からは、新しい涙が何筋も流れていた。


 大広間の入口扉は広く開放されていて、ジェニーの目からも室内の様子がよく見えた。テーブルの席には誰も座っておらず、割れた食器が散乱した床には、数人の男たちが伏せったり座ったりしている。ジェニーは入口のすぐ隣にいた王の従兄弟だという男と一度目が合ったが、彼も椅子にもたれてぐったりした様子だ。

 具合の悪い者は身分の高い者たちばかりだ。彼らを囲むようにして近衛兵が付き添っているが、ジェニーの見るかぎり、近衛兵は彼らに声を掛けてはいるようだが、彼らの間を走り回る召使女たちをあちこちから呼びつけるだけで何の処置も取ってはいない。

 ジェニーが床から身を浮かそうとすると、彼女を見張る近衛兵の槍の柄が彼女の首に近づいた。ジェニーが息を飲んで近衛兵を見ると、男が刺すような視線で彼女を睨みつける。

 右隣にいるサンジェルマンを見てみると、彼は壁に背をあずけ、ぐったりと目を閉じた状態のままだった。髪の生え際が汗で濡れていて顔色も良くはないが、ジェニーが目にしたゴーティス王の状態ほど具合が悪くはなさそうだ。彼でさえ放置されているところをみると、彼と同じような被害者は多数いるのだろう。おそらく、王も、その被害にあった一人だ。

「――ジェニー様?」

 厨房の方から両手に瓶を抱えて出てきた女が、ジェニーを見つけて声をあげた。彼女は、ジェニーの身のまわりの世話をする召使女だった。

「ジェニー様ではありませんか!」

 ジェニーに駆け寄った彼女に、近衛兵が威圧的な口調で、さがれ、と言った。近衛兵が斜めに構える槍の後ろから、ジェニーは、彼女を見つめるしかない。

「これはまた……何があったのですか? なぜジェニー様がこのようなめに? どういうことです?」

 召使女がジェニーと隣のサンジェルマンを見つめながら、心配そうに眉をひそめる。ジェニーはサンジェルマンを一瞥し、彼が目を開けようとしているのに気づいた。

「心配しないで。何かの誤解があるみたいなの。後でちゃんと説明するわ」

「ですが、ジェニー様がこのような扱いを――」

「――ここで話をする猶予があるなら、具合の悪い方々を早くお助けしろ」

 ジェニーたちがはっとして声のした方を見ると、サンジェルマンの薄く開いた瞼の下から、瞳がジェニーの方に動いた。あいかわらず、ジェニーを疑った目だ。彼女から目をそらさない。

「……早く行って」

 ジェニーはサンジェルマンを刺激しないようにと思いながら、召使の女に優しく言った。彼女はその言葉に拒む様子を見せたが、ジェニーは彼女を安心させようと、あえて笑顔を浮かべた。

「行って、皆を介抱してあげて。……アリエルは、平気よね?」

「は、はい。私どもを手伝ってくれております。ジェニー様のお姿が見えないので案じておられました。侍医も料理番も倒れてしまわれていたので、ジェニー様も、と思われたようですが……ひとまずのご無事を伝えておきます」

「ええ、そうして」


 召使女が去ると、サンジェルマンが再び目を閉じた。死ぬ危険性はなさそうだが、処置の一切をしていないために体の回復が遅いのだ、と、ジェニーは判断した。

「……王の安否はまだ確認できないのか?」

「は。そろそろ戻ってきてもよい頃かとは思いますが……」

 サンジェルマンは焦ったように、階段の方を何度も気にしている。彼は、本当に王の身を心配しているのだ。あんな乱暴な王を。

 ジェニーはサンジェルマンが胸に手を置き、何度も深呼吸する様を見つめた。

「――サンジェルマン、たくさんの湯冷ましの水と……厨房にあれば、水芥子みずがらしを彼に持ってきてもらって」

 ジェニーが自分に槍を向ける近衛兵を示して言うと、サンジェルマンが怒ったように鼻を膨らませた。

「何を言っている? おまえの疑いが晴れるまで、そんなことをさせるはずがない」

「じゃあ、誰か他の人に持ってきてもらって。あなただって解毒処置をしなきゃ。だから、早く」

 サンジェルマンの顔から急に表情が消えた。それから、彼は肩で大きく息をした。

「おまえが私の解毒処置をする、と? 何という、ばかげたことを」

「でも、サンジェルマン、早くしないと――」

 ジェニーが彼の腕に手を伸ばそうとすると、彼の反応は素早かった。

「私に指一本でも触れるな!」

 サンジェルマンの渾身の怒りが込められた叫びに、ジェニーは大きな衝撃を受けて口をつぐんだ。彼はジェニーの伸ばした手を一瞥し、彼女がいるのとは逆の方向に顔を動かして、目を閉じた。彼の全身が、ジェニーに対する拒否を表している。

 ジェニーが力尽きてうな垂れた時、廊下の先から誰かが走ってくる靴音が聞こえてきた。サンジェルマンが王の安否を確認させようと階下に行かせた近衛兵が、ジェニーたちの方に向かって走ってきた。

「サンジェルマン様!」

 近衛兵の男がサンジェルマンの前にひざまずくと、サンジェルマンの体に張りつめた緊張が走るのが、ジェニーにもわかった。

「王……は?」

 サンジェルマンがようやく口にすると、近衛兵がぱっと顔をあげて言った。

「ご安心を、王はご無事です! サンジェルマン様たちと同じ症状をみせてはおりますが、早期に適切な処置をされたらしく、今は落ち着いて休まれておいでです! 侍医の代わりに助手を呼んで、今は彼が傍らに付き添っております。サンジェルマン様、どうか、ご安心を!」

「……そうか!」

 サンジェルマンがかすれた声で言い、頭を壁につけて、目を閉じた。

「よかった、ご無事だったか……!」

 彼の感極まった様子を目にすると、ゴーティス王が現実に命を確かに取りとめたのだと、ジェニーはいやでも実感した。そして、王が誰からの救出も得られずに命を落とすかもしれない、と、一縷の望みをかけていたことを、ジェニーはあらためて気づかされる。気が滅入る。

 サンジェルマンがおもむろに目を見開き、一瞬の間の後、ジェニーの方を見た。どうにも腑に落ちない表情を浮かべている。

 ジェニーは唇を噛み締め、彼を無言で見返した。彼は口を開きかけたが、しかし、何も言おうとしない。その代わり、彼は、ジェニーに向けていた槍先を近衛兵に降ろさせた。

「私は……何もしていない」

 ジェニーが呟くと、サンジェルマンは眉根にしわを寄せて視線をそらし、ゆっくりと二度、瞬きをした。その視線は床の上でしばらく止まっていた。

 ジェニーはサンジェルマンの青白い顔を見つめた。呼吸も落ち着いてきてはいるが、呼吸をする度に彼の胸が大きく上下する。

「サンジェルマン」

 ジェニーに呼びかけられた彼が振り返る。

「湯冷ましの水と、水芥子をここに持ってきてもらって」

 ジェニーがそう言うと、サンジェルマンが怪訝そうに彼女を見返した。

「早くして。解毒剤があればそっちの方がいいけど、きっと、それほどの量を用意していないんでしょう? 部屋にいる人たちにも飲ませてあげて。何の毒かはわからないけど死に至るほどの毒じゃなさそうだから、たぶん、それでずいぶんと回復するんじゃないかと思うの」

 しかし、彼女が説明しても、サンジェルマンの硬い表情は消えなかった。

「それが、本当に害がないと、なぜ言える?」

「少なくとも症状を軽くはできるはずよ。だから、サンジェルマン、なるべく早く処置をしないと」

「たしかに、王はご無事ではあったが……この騒動を引き起こした“原因”はまだ解明されていない」

 彼はジェニーを上目遣いににらんだ。

「サンジェルマン? 私に、あなたたちに危害を与える理由はないの。私が信じられない?」

 彼はそれでも表情を変えなかった。彼の頑とした態度には、ジェニーも泣き出したくなるくらいだ。ジェニーはやりきれなくなって、思わず息をつく。

 だが、何とか彼を説得しようと、ジェニーは再び口を開いた。「聞いて、サンジェルマン」

「――サンジェルマン」

 聞きなれない声が飛び、ジェニーは後ろを振り返った。大広間の入口から背中半分を廊下の方にのぞかせ、ジェニーとさっき目が合った男が、彼女を見て小さく微笑む。

「サンジェルマン……それを、私にくれ」

「――フィリップ様? いけません、そんな不確かなものを!」

「大丈夫。水芥子の効能なら、私も聞いたことは、ある。今聞くまで思い出しもしなかったが――」

「いえ、フィリップ様、彼女はですね」

 フィリップが苦笑しながら、サンジェルマンに首を振ってみせた。

「これは私からの願いだ、サンジェルマン。ここには毒消しが足りない。私はまだ軽症のようだが……医者もいないのだ、ほかの者たちのためにも、それを用意してやってくれないか」

 サンジェルマンは納得しかねる様子だった。だが、彼がフィリップに同意するより前に、ジェニーは床から立ちあがっていた。

「おい、待てっ!」

 サンジェルマンの声が後ろで聞こえる。ジェニーは、さっき召使が出てきた部屋を目指し、駆け出していった。

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