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第一部 3.もつれる感情−8

 アニーが垣根の中に沈んでいっても、ジェニーは、何もできなかった。

「心配するな、死んじゃいないさ」

 耳元に息を吹きかけるようにして男は囁き、ジェニーがくやし涙の浮かんだ瞳を向けると、男は静かに笑った。彼女の口は、背後から絡まる男の腕でしっかりと塞がれていた。

 灰色の目の男が彼女の腰に手を巻きつけ、庭園の奥へと無理やりに連れていく。男の仲間は周囲を気にしながら先に立って足早に歩き、押し殺した声で彼らを急き立てる。ニーナの言ったように、庭園の中心が近づくにつれ、緑色の葉だけだった垣根が色とりどりの薔薇に取って代わった。視界には鮮やかな色彩が無遠慮に入ってきて、やっとのことで息をするジェニーの鼻に、むせかえるような薔薇の香りがとめどなく流れ込んでくる。

 甲高い弦楽器の音が風に乗ってのんきに流れてきたが、他の音は聞こえない。先に連行されたニーナの声も聞こえない。誰も、ジェニーたちの陥っている境遇に気づかない。

 男が立ち止まり、ジェニーは発していた呻き声を止めて周りを見た。そこは周りを真紅の薔薇の垣根でぐるりと囲まれた円形の空間で、出口は彼女たちが今歩いてきた方角に一つしかないようだ。

 ――この男たちから、何とかして逃れなければ。

「おい、さっさと終らせよう」

 ジェニーの前に立った男が、彼女の体を拘束している男に早口で言った。

「ああ、そうだな……」

 ジェニーが体を硬直させると、男が絡めていた腕に力をこめ、彼女の顔に顔を摺り寄せた。放して、と言ったつもりの声にならない声が唇の間から漏れ、ジェニーが男の腕から逃れようと身をよじると、前にいた男が低い声で笑った。

「まあ――いいけどな。おまえは昔っから気の強い女が好きだよなあ。でも、早く済ませろよ? あの方は、この女の死に顔を早く見たがってるんだからな」

 死ぬ? 私を、殺したがっている?

「わかってる」

 ジェニーがなおも逃げようとすると、男がぎゅっと力をこめて彼女の体を抱き寄せた。

「いい子にしてろよ」

 ジェニーが混乱していると、灰色の目の男がジェニーの目を覗き込んだ。その目に浮かぶ欲望の種類を見定めた時――ジェニーは体をいきなり解放され、両肩を押された。次の瞬間、彼女は乾いた土の地面に背中と後頭部を強打する。

 衝撃から体をかばう猶予もなかった。視界が真っ白に変わって息ができず、自分の喉の奥から出た呻き声がどこか遠くで鳴っているように感じた。会話の内容はわからないが、男たちの低い声が頭の中で反響している。

 目の前の世界が外枠から順番に色がつき始めると、後頭部に強烈な痛みを感じた。やっとのことで喉に空気が通る気がして、必死に息を吸うと、彼女の真上から灰色の目の男が彼女を見下ろしているのに気づいた。

「あ……?」

 男が穏やかに微笑んだ、と思うと、その顔がどんどん彼女に迫ってくる。

 いやだ、来ないで……!

 ジェニーが悲鳴とともに体を思い切りよじったために男が地面に飛ばされ、二人を見ていた男が大笑いした。

「この小娘、よくも!」

 ジェニーは平手で顔を打たれたが、すぐに男に向き直る。

「こんなのは卑怯よ!」

「……おい、娘一人にそう手こずってないで、早くしろよ」

「うるさい!」

「――やめて!」

 ジェニーは、肘に体重をかけて彼女の肩を押さえる男の、血走った目をまっすぐに見つめ返した。

「あなた、私を殺したいんでしょう? 死んでもらいたいんでしょう? だったら早くそうしたらいい! こんな無意味なことをしないで、さっさと早く殺したらいいのよ!」

「心配するな、すぐにあんたは死ぬさ」

 男は冷たく乾いた笑い声をあげた。

「それに、これは無意味じゃない。俺の欲求は満たされ、あんたが最後に体を合わせる“名誉ある”男が、王じゃなくて俺だってことになる。ああ、そうだ、その事実はきっと……あの方を喜ばせるだろうよ」

 男は抑揚のない口調でそう言い、顔をしかめて後方を見る。

「あの方? あの方って誰……!?」

 ジェニーの足元の方でばたばたと聞こえていた音が消え、ジェニーの顔面に茶色い何かが振り落とされた。悲鳴をあげると、その粗くごわついた布越しに、誰かの手がジェニーの顔を押さえつける。

 それまでドレスごと彼女の体にのしかかっていた灰色の男の体が移動したかと思うと、次に、ジェニーは足元から風が吹きぬけてくるのを感じた。誰かの手が足首に触れる。焦ったジェニーがそれを外そうと足を振ると、その手は乱暴に彼女の足首を掴んで押さえた。小さな舌打ちとともに、ジェニーの顔のすぐ近くで誰かがそっと囁く。

「おとなしくしな、ほんのちょっとの我慢だ。そうすりゃ、すぐにあの世へ送ってやるさ。――まあ、あんたには何の恨みもないが、俺たちもさる高貴なお方に頼まれたんでな、悪く思わないでくれよ?」

 どうして、誰がそんなことを!

 声はちゃんとした言葉にならなかった。

 膝頭に外気が触れる。顔を布で押さえつけられているせいで悲鳴にならない声を何度も出し、目からは涙がにじみ出た。

 ああ! ここに、ここに剣があれば!

 彼女はめちゃくちゃに手を振り回したが、今のところ、無駄な抵抗に終わっている。男の荒っぽい呼吸音がし、彼女のふくらはぎに、乾いた体毛に覆われた硬い筋肉が当たった。


 側近たちばかりが集う部屋の扉が細く開き、サンジェルマン様、と、差し迫った声が彼を呼んだ。室内では非常に繊細な議題が討議されていただけに、あからさまな非難の目が彼に集中する。しかし、声の主を特定したサンジェルマンは事の緊急性を察し、出席者たちに謝罪を繰り返しながら部屋を何とか抜け出した。

「何があった?」

 走って駆けつけたらしい部下に、彼は尋ねる。

「はい。ご命令どおりに茶会の様子を見ていたのですが……。余興に呼ばれた楽団にどうも妙な点がありまして。全員ではないのですが、楽団員たちは体格に恵まれていて、反応が――その、なんというか、機敏、すぎるのです。その内の一人には足に複数の剣傷があります。彼らは普通の楽団ではないかもしれません。もしや彼らは……近頃の噂で聞く、金で殺しを請け負う“死に神の楽団”ではないかと――?」

「なに? されど、入城許可を受けた楽団であれば、そうめったなこともあるまい?」

「は。ですが、今回の楽団は、ニーナ様が特別に懇意にされているという事で、初めて入場許可が下りたそうにございますので」

「ニーナ嬢の?」

 彼女と何度か遭遇したことはあるものの、サンジェルマンは口をきいたことがない。

 後宮に住む女たちの例に漏れず、彼女は美しく妖艶な女だ。人々にかしずかれる状況に慣れている。人々に接する態度から、彼女がとても気位が高く高慢だという事は彼にもわかっていた。

 彼女の顔を思い浮かべると、言葉では説明できない、憤然たる気持ちで彼の心が覆われる。

「サンジェルマン様?」

 指示を待つように彼をうかがう部下の表情に浮かぶ焦りと、彼自身にくすぶり上がってきた不安が彼の足を廊下の先に向けた。

「私も行こう。――ただの思い過ごしであればよいが」

 部下を伴って本館から外に抜けようとしていると、サンジェルマンたちが歩いてきた通路に降りる階段を、ちょうどゴーティス王が歩いてきた。王が二人に振り返ったような気もするが、彼らの存在に気づいたかどうか、定かではない。彼らはそれを確認する前に外に走り出ていた。


 顔を覆われているせいだけではない息苦しさで、ジェニーは見えない空を仰いだ。肌にあたる男の感触への嫌悪で喉の粘膜が急速に乾く。顔に布を押し当てる男の手をどけようと必死に引っぱったり引っ掻いたりしたが、彼女の顔の上から、それはびくとも動かない。

 殺されることへの恐怖より、男の身勝手な欲望によって意思を踏みにじられる口惜しさや辛さ、無念の方が何倍も強かった。

 こんな思いは、ゴーティス王に対してだけで充分だ。

 一瞬の間に家族の顔が頭に浮かび、ジェニーが反撃の機会を得られずにいるゴーティス王を思い、そして、一度会ったきりのケインの顔が思い出された。

 この王城暮らしで唯一、自分に近い存在と思えた人。


 彼女の手は男に捕らえられ、男は、彼女の手ごと、ジェニーの顔を押さえていた。その手から急に力が萎え、彼女の手から離れていく。それと共に、乱暴に彼女のドレスの裾をまくりあげていた男の動きが、不意に止まった。

「――そのまま、両手を頭の後ろで組め」

 直後、ジェニーも聞き覚えのある男の声が静かながらすごみ、彼女の脚を押さえていた男の筋肉の重みから彼女は解放された。彼女の頭のすぐ近くに何かが落ちて、ため息にも喘ぎにも似た小さな音が聞こえる。

「そうだ。その姿勢のまま、動くな」

 彼女の周りでは複数の者たちの存在が感じられた。ジェニーはやっと、閉じていた目をそっと開くことに成功した。

「拘束しろ!」

「ははっ」

 誰かが、ジェニーのまくれあがっていたドレスの裾を直す。いきなりの出来事に何が起こっているのかはわからなかったが、ジェニーはそこに登場した者のおかげで、男の欲望の手から逃れられ、命拾いしたらしい。

 けれど、身の安全が確保されたのだと悟っても、ジェニーの足は小さく震えている。力が入らない。彼女は、地面から立ち上がる気力がどうしても奮い起こせなかった。

「ジェニー嬢、大丈夫ですか?」

 彼女を救出した男は、彼女の名を知っていた。彼の問いには本当にジェニーを心配しているような響きがこもっていて、ジェニーは、自分が助かったのが現実だとようやく認識できた。そして、そうやって安堵すると、足の小さな震えは全身に広がっていく。

「ジェニー嬢?」

 ジェニーの視界が明るく広がり、彼女の左側から心配そうにうかがう金髪の頭を持った顔が現れた。ジェニーが日の光の眩しさで目を細めると、彼が頭の位置を少しずらし、彼女の顔の上に日陰を作る。

「……サンジェルマン?」

「はい」

 彼女の目前に現れた彼がほっとしたように息をついた。無事でよかった、と彼は穏やかに微笑む。

「大丈夫、もう安全です。立てますか?」

 ジェニーは無言で頷き、彼が見守る中、地面に手をついて上半身を起こした。ふと気づいて脇を見ると、彼女の右側の地面に男の筋肉質な片足が投げ出されていた。膝の裏側にかけて細長い剣傷がある。彼女たちを襲った男の一人だ。

 それを上にたどって男の顔を見ようとし、ジェニーは思わず顔を背けた。仰向けとなってひっくり返っている彼の喉には二つの短剣が横に並ぶように突き刺さり、その柄から男の肩や地面に向かって赤黒い血の筋が二つできていた。

 彼女が視線を移した先には、上半身を縛られてさるぐつわをされた灰色の目の男が、下半身を剥き出しにした格好で立っていた。上半身に比べ、体毛の多い脚がジェニーの視線を引きつける。彼女のふくらはぎにあたった、彼の足だ。

 ジェニーに気づくと、彼は威嚇するようにさるぐつわの下から唸り、怒りでぎらぎらさせた目を彼女に容赦なく向けた。体の自由を奪われた彼から危害を加えられはしないとわかってはいるものの、さっきまでの入り乱れた思いが瞬時に甦ってきて、ジェニーは苦しくて泣きそうになる。

「……おまえたちは先に男を連れて行け。くれぐれも、用心だけは怠らないように」

 サンジェルマンが衛兵らしき男二人に指示をすると、灰色の目の彼が一際大きな唸り声をあげ、暴れようとして男たちに押さえつけられた。

「無駄な抵抗はやめておいた方が賢明だぞ。おまえたちの楽団全員を既に拘束した。庭園の入口にいた男と……“女”もな」

 サンジェルマンが淡々と告げると、灰色の目の男が目をひん剥いた。

 男二人に脇を固められ、恨みがましい目をして彼が連行されていく。

「……私たちも行きましょう、ジェニー嬢。手をお貸しする」

 唇を噛み締めたまま、ジェニーはサンジェルマンを見返した。彼は先に地面から立ち上がった。そして、ジェニーの返事を待つことはせず、彼女の手をつかんで体を引き上げる。

 ジェニーは胸の奥が締め付けられるように痛かった。嫌悪感で吐き気までした。喉がからからに渇く一方で、体中の水分がその一点に吸い寄せられているかのように、瞳には涙が湧き出してきた。

「私どもの警備の不手際であなたをこんな危険に遭遇させ、本当に申し訳ない」

 彼女のにじんだ視界の中で、サンジェルマンが気の毒そうに言った。謝罪されると、ますます自分が哀れに思える。

「ともかく、城に戻ることです。ジェニー嬢、色々と考えることはあるでしょうが……城に戻られたら、ただ、ゆっくりとお休みください」

 ジェニーが弱々しく頷くと、サンジェルマンが毅然とした口調で言った。

「何も考えないように。いいですね? 何も考えなくていい。城までは私が同行いたします」

 その時になってやっと、彼は掴んでいたジェニーの手を放した。それから、彼は彼女を促すように手で出入口の方角を指し、移動する旨を告げる。ジェニーは指で涙を拭い取った。


 庭園の中心に来るために通ってきた道を二人で逆戻りし始め、周囲の薔薇の匂いがジェニーの鼻についた。かぐわしく、濃厚な甘い香り。今回の事件のせいで、せっかく優雅に咲き誇っている薔薇も、今後は見るのさえ疎ましく感じるのかもしれない。

 薔薇の茎がからまる垣根の樹木を目にしたジェニーは、はっとした。

「ああ、サンジェルマン! そういえば、アニーが――」

「アニー? ああ、あなたの侍女ですね? ご心配なく、彼女なら無事です。私たちが見つけた時には失神していたようだが、ケガも特になかったようです。彼女には、先に城に戻らせました」

「そう! ああ、本当? よかった……」

 彼女が安堵の息をつくと、彼は小さな微笑を浮かべた。

「あ、でも、ニーナ様が! ニーナ様は無事……?」

 サンジェルマンが一瞬、どこか遠くを見る目つきをした。ジェニーは不安に思ったが、しかし、すぐに彼は彼女に振り返り、ええ、と、頷いた。

「ニーナ嬢はご無事です。ただ、少し傷を……傍目からは見難い部位に深く醜い傷を負っている。回復されるのは相当に……難しいでしょうね」

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