第一部 3.もつれる感情−5
所用で地方に外出していたサンジェルマンが二週間ぶりに王城に戻ると、彼が旅の疲れを癒そうとする間もなく、彼の帰りを伝え聞いた侍従長、衛兵隊長、女官長たちから相次いで呼び出しがかかった。城内に働く使用人たちの表情が固く緊張しているのを目にした時から、彼の留守中に城内で何らかの異変があったのだろうと察してはいたが、彼が挨拶に出向く前から呼び出されたとなれば、それ相当の好ましくない事情があるということだ。王と会える夕食時までにその全員と話をしておこうと考えた彼は、湯浴みを手早く済ませ、まずは侍従長のいる部屋を目指した。
部屋に入るなり、サンジェルマンの目に侍従長のめっきり老け込んだ顔が飛び込んできた。侍従長は五十を越えようかという年齢だが、ここ五年ほどの間で急速に年を取り、頭髪が白く変わる速度が速まっているようだ。侍従長の対面側には彼と同じくサンジェルマンを呼びつけた衛兵隊長が佇んでいて、神妙な顔をしてサンジェルマンに目礼する。サンジェルマンも黙礼を返した。
侍従長がサンジェルマンを手招きし、近くに来るように示した。室内に漂う空気には棘があって、体に重たくまとわりついてくる。彼が歩み寄っていくと、開口一番、侍従長が、王の機嫌が不安定だ、とサンジェルマンに告げた。
サンジェルマンは、驚きはしなかった。何度となく耳にした台詞だ。
「不安定とは? どんなご様子なのです?」
「ここのところ何かを考え込んでおられるようで、心ここにあらずといった状態か、苛立っておられる事が多いのだ。貴殿が城を発った日、いや、次の日か、王はご自分の寝台を剣で切り刻み、剣一本をつぶしてしまわれた。それに、一週間ほど前、王に縁組を持ち込まれた隣国の使者が王の怒りを買って、危うく暴力沙汰になるところだった。使者殿にはうまく対処して帰国させたので大きな問題には発展しないとは思うが――」
侍従長が言葉を濁しながら、反応をうかがうようにサンジェルマンを見た。サンジェルマンは、聞いている、という姿勢を示し、先に話を続けるように長官を促す。すると、その同じ日に、と、侍従長の話を継ぐ形で衛兵隊長が口を開いた。サンジェルマンが彼に注意を移動すると、彼はにこりともせずに話を切り出した。
「その夜、王が今年に入っては使われることもなかった、地下の“特別練習室”に向かわれ、交剣の末に衛兵の右手を切り落とされた。運良くとも言うべきか、その衛兵は命を落とすことはなかったが――今の王が、いつ次の練習相手を欲しがらないと言えよう? 今回の冬はいつになく安定したご様子で、このまま何事も起きずに温かい季節を迎えられるかもしれないと淡い期待を抱いていたのだがね」
衛兵隊長は無念とも怒りともつかぬ感情を交差させたように、顔をしかめていた。相手が王というだけに理不尽な行為に対する怒りの矛先が向けられないのだ。
「そうですか、私の不在の間にそんな事が……。何か、王の心情に影響を与えるような出来事でもあったのでしょうか?」
「私には皆目見当もつかないが――どうだね、衛兵隊長?」
「私にもさっぱり掴めません。冬季の屋内生活での鬱憤が溜まっておられたのか……」
二人より随分と年若いサンジェルマンの前で、二人は助けを求めるかのように彼を見る。
「王は、後宮には足を運ばれておりますか?」
「いや」落胆したような表情で、侍従長がため息まじりに否定した。「この約二週間は、まるで興味を失くされたかのように足が途絶えておるな。後宮へ行かれるようにお勧めしても、余計な世話を焼くなと仰るばかりで、王の機嫌を損ねるだけだ」
そう言って、侍従長と衛兵隊長の二人は顔を見合わせた。
「――だからこそ、今回に関しては私たちも困り果てておるのだ、サンジェルマン」
午後も遅くなって、サンジェルマンは女官長に会った。先だって話した侍従長と衛兵隊長と同様、彼女も疲れが蓄積した元気のない顔色をしており、落ち着きがなく、どことなく苛立っているような印象を受ける。
彼と入れ替わりに退室しようとした彼女の新しい小間使いの背中がまだ見えるうちに、彼は女官長に告げた。
「先ほど、侍従長と衛兵隊長にお会いしてきた」
彼がにっこりと微笑むと、彼女の強張った頬が幾分か弛んだ。
「そう。それでは、王の最近の動向はご存知ね。……よかったわ」
「私の留守中にいろいろとあったと聞いた。女官長の気苦労、お察しする」
彼が真摯に小さく頭を下げると、彼女の口から短いため息が漏れた。
「いえ、私はいいのですよ。大変な思いをされているのは、むしろお二方……」
女官長が首を傾げるような仕草をし、二度、頭を左右に振った。額の真ん中に血管が青白く浮き立っている。彼女が疲れている証拠だ。
「女官長。お二人にも伺ったのですが、王を不安定にさせる何らかのきっかけについて、女官長の方で心当たりはないか?」
「……そうね」
若干の言いよどみが、サンジェルマンの気に掛かる。
「後宮から王の足が遠のいているとも聞き及んだが? ジェニーはどうしている?」
話がジェニーに及ぶと、女官長が疲れをいっそう顔ににじませて彼を見つめた。
「ジェニー……あの娘ったら」
「どうされた? 何か、あったのか?」
王が度々ジェニーを訪ねていくようになったという話は、以前、彼も女官長から聞いていた。それなのに、王はここ二週間も後宮にすら足を向けていないという。
「あの娘にはしばらく安心していたのですが……。ジェニー、あの娘は事もあろうに――王に、離宮の書物を読ませてくれと直談判したそうにございます」
「書物を?」
「ええ、私たちに頼んでも取り合ってもらえないと知ってのことですわ」
彼女は力なく言うと、口元に手をやって大きく息を吐いた。また、顔を左右に振っている。
「王の元に暮らす女が書物などを手にしてどうするというのです? おお、あの娘の身の程知らずなこと! 当然、王はそんなばかげた願いをお聞き届け下さるわけがございません、ジェニーにお怒りになって部屋を出ていかれたそうですわ。ジェニーは、出すぎた真似をしたと今頃になって気づいたのでしょう、めずらしく、反省している様子ですがね。王に愛想をつかされたとしても、もう、仕方がないことですわ。私としても同情はできかねます。そういったわけですから……それ以降、王が彼女の元を訪ねたことはありません」
女官長は一気にまくし立てると、呆れ果てたというように額に手をやった。
「それはいつの話だ、女官長?」
「貴方の出発された日です。ここでライアン様と三人で話した日ですから、よく覚えておりますわ」
「ああ、それなら私も覚えている。あの日は王がいつになく上機嫌だった」
「そうでしたかしらね」
女官長と会話をしながら、サンジェルマンは直感で、王の不機嫌の原因がジェニーにあるのではないか、と思った。
「では、ジェニーとの一件を境に王は不安定に転じてしまわれたと――」
「さあ、それはどうでしょうか? きっかけの一つにはなったのかもしれませんが、そうだとも言い切れませんわ。その次の日にはカトリーヌを訪ねておりますが、彼女が誤って酒壷を落として割ってしまったことで、ひどく機嫌を損なわれたそうにございます。そちらが原因かもしれませんし。後宮に姿を見せなくなったのはその日からですから」
「そうか。それでは、何とも言えないな」
サンジェルマンが小さく息をつくと、女官長が弱々しく微笑んで彼を見た。
「王の気が治まるならと、周囲に若い娘を何人か付けてみたのですが……王の目には留まらなかったようですわ。まったく、困りましたわ。今回は特に長く続いているようですし、何とかして静まっていただかないと。サンジェルマン様、今回は、一体、どんな手を打てばよいのでしょうね?」
サンジェルマンは、夕食の為に部屋に現れたゴーティス王についさっき会い、帰城の挨拶を済ませたばかりだ。王のいる晩餐の間から隣の控えの間に移り、中央にある椅子に身を沈めている。二つの間を繋ぐ扉を通して給仕たちの低い足音が時折聞こえてくるので、王が通常と変わりなく食事を進ませているとわかり、サンジェルマンは安心した。
彼が王に挨拶にあがったときの、王の醒めた目が鮮明に記憶に残っている。王が神経質になっている時はそうであるように、顔色は病的に白く、目の輪郭全体が赤みを帯びていたのは同じだ。だが、サンジェルマンを目にするなり、瞬間的に凍ったかのように王の瞳の奥から温かみが失われた。本日戻りました、とサンジェルマンが述べても、王は無言で頷いただけだ。
最初こそ気のせいかと思ったのだが、サンジェルマンがさらに王に話をしようとすると、王の体の表面に緊張感が張りめぐらされるのがわかった。場の空気が張りつめ、王の機嫌がじわじわと悪化していったのが見てとれた。彼は、話を後回しにされた。
私に対し、何らかの悪感情を持っている?
心に浮かんできた考えに半信半疑ながら、さがれ、と王に尖った声で命じられて、サンジェルマンは自分の考えが当たっているのではないかという思いが深まった。なぜ王に敵視されるのか心当たりはなかったが、王が、彼と同じ空間内にいるのを良しとしていないのは明らかだった。それ以上の事態の悪化を招く前に、彼は晩餐の間から退いた。
しかし、王が精神的に不安定な時には激情に任せて人を殺傷するのも珍しくないのに、彼は王に罵倒もされなければ杯を投げつけられることもなかった。サンジェルマンの存在が王の嫌悪を引き出しているらしいのに、負の感情は王の内側だけにこもっている。その事実の方がサンジェルマンを数倍も混乱させる。
王のとった態度の背景にあるものはまだ、掴めない。サンジェルマン自身が要因の一つであるとすれば、さらに、ややこしい。事態は聞いていたよりも悪そうで、収拾するのに、時間がかかりそうだ。
晩餐の終わりが告げられ、控えの間と晩餐の間を繋げる扉が向こうから開放された。開いた空間から別種類の明るさがサンジェルマンの脚の間にある床を照らしたが、物思いに耽っていた彼はそれに気づくのに遅れ、扉の先に視線をやるまでに若干の間を要した。彼がやがて顔を上げて晩餐の間を見ると、細長いテーブルを回って出入口に向かおうとするゴーティス王の姿が、扉の両側でサンジェルマンに背中を向けて立っている二人の給仕の合間に現れた。
機嫌の悪い王の目に触れないように、と彼が願ったのはほんの一瞬しか続かず、王はサンジェルマンが隣室で待機していたのを最初から心得ていたというふうに、彼を悠然と見つめ返した。あわてて彼が椅子の上で姿勢を正すと、王は片方の眉根を少しひそめた。あいかわらず人を射るような眼差しだったが、さっきほどの怒りは含まれていない。
王は無言で彼の視界から消えていった。サンジェルマンは急いで身を起こし、王の後を追うべく、駆けていく。
王を護る近衛兵たちの後ろに追いつくと、彼の足音に気づいたらしい王が、その歩みは止めずにちらりと背後を振り返った。それがサンジェルマンだと予想はしていたようだ。王は表情を変えず、通路を先へと進んで行く。
「王」
問い詰めたくなる気持ちを抑えこみ、サンジェルマンは普段と同じ調子で王に話しかけた。だが、彼は返事もせず、背後に注意を向ける素振りも見せない。
「王、私の出向してきた地の件で報告があるのですが――」
「それは大臣どもに言え」振り向きもせず、淡々とした口調で王が言い放つ。
普段ならば、王の機嫌が多少悪かったとしてもサンジェルマンはもう少し食い下がって話を一方的に進めている。けれど今回に限っては、そうする事が良策かどうかは疑問で続きを口にするのを躊躇し、この後にどう出るべきかと彼は迷った。王が歩く度に肩の後ろにたなびく銀色の髪を見ながら、サンジェルマンはどうしても二の句を継げない。
数秒後、王の歩みが遅くなった。サンジェルマンは足並みをゆるめ、自分から見える近衛兵の横顔がうっすらと強張っていく様を目にする。
「おまえはもうさがれ。今宵、おまえには用はない」
王はゆっくりと歩いたままで振り向かず、サンジェルマンに向けてきっぱりと言った。
「さがれ」
やっと立ち止まって振り返った王の顔には、緊張と苛立ちが混じり合ったような奇妙な高揚がひろがっていた。サンジェルマンは戸惑いを何とか隠し、唇をすっと引き締める。
「は。ですが――」それから彼が次に言葉出そうとすると、それにかぶせかけるようにして、王が言った。
「俺は今から後宮に向かう」
彼はサンジェルマンの追随をあらためて目で制止し、有無を言わせない口調だった。
東館から伸びる通路の先、後宮の入口付近では、二週間ぶりに予告もなく姿を現したゴーティス王を見つけた者たちがにわかに慌て出している。後宮側に向かって開かれた両扉の向こうに、二人の女が廊下の奥の方へ急いで駆けていくのが見えた。王の到着をきちんと迎え入れられるよう、入口を護る衛兵たちが顎をぴんと上げて背筋を伸ばす。
通路には小さな正方形の窓が等間隔に四つ並んでいるが、日没とともに木板で閉められている。通路はうす暗い。衛兵たちの頭上にある、壁につけられた松明が明々と燃えているだけだ。
二つの棟を繋ぐ通路のちょうど半分を過ぎたあたりに差し掛かった時、突然、ゴーティスは廊下の中央でぴたりと足を止めた。
両手が、指先が、小さく揺れている。
「おのれ……」
ゴーティスは手を握り締め、制御のきかない自分の手から目を背けて後宮の入口に視線を上げた。彼も見慣れた召使女たちが衛兵たちの後方に一人ずつ、頭を垂れて従順に待機している。その光景が目に入ると、彼の苛立ちがいっそう増した。
「おのれ、あの女……!」
彼が誰に言うでもなくそう罵ると、両側にいた近衛兵たちの体がわずかに震えた。まるで、自分の体自身に起きた震えのようだ。実際の彼の体は震えなどしていないのに、体の内側が震え続けているような、奇妙な感覚が続いている。
彼は歯を食いしばった。体の中心から、耐えられないほど熱く、重苦しい固まりまでもが喉をつきあげてきた。彼は自分の体を扱いかね、両目をしばらく瞑るほかない。
「王? ご気分でも……?」
遠慮がちに彼に声をかけた近衛兵の言葉に触発され、彼は目を見開いた。目の前に開けた視界は、少し明るく感じる。
ゴーティスは近衛兵たちの間から一歩踏み出し、足首をぐるりと回転させて後宮に背を向けた。王と対面する形になった近衛兵たちもあわてて彼に倣い、向きを変える。
後宮入口にいた者たちの間に動揺が走ったらしい気配は感じた。声や物音はゴーティスの耳まで届いてこなかったが、彼自身でさえ今の自分の行動が不可解なのだ、彼らが戸惑ったとしても何の不思議もない。
「女官長を俺の部屋に呼べ!」
通ってきたばかりの通路を戻ろうとする直前、彼は背後の者たちに聞こえるよう、大声で言った。続けて、女たちの切迫した返事が彼を追ってきた。
女官長は予期せぬ混乱と不満を腹の底に溜め、義務感だけで後宮への道を急いでいた。付き添いの者はいない。夜はまだそれほど更けてはおらず、後宮の住人たちも眠ってはいない時間帯だ。
彼女が後宮入口に姿を見せると、扉の番をする衛兵たちが彼女の為にと入口扉を開放した。ドレスの裾をひょいと持ち上げ、一段高くなっている後宮の廊下へと彼女は足を踏み入れる。王の訪れない後宮は静かで、どこか寂しげだ。行く道すがら、彼女の姿を見かけた召使女たちが頭を垂れる。
階段を上がろうとした時、「女官長様?」と、彼女の頭上から聞き覚えのある女の声が降ってきた。彼女は声だけでそれが誰かを特定し、何ともやり切れない思いで女を見上げる。
「ああ、アニー、ちょうど良いところで出会ったわ」
彼女が階段を登ろうとする前にアニーの方が素早く降りてくる。
「私、今から帰るところでしたが。どうなさったのです? 」
「そう……。せっかくのところを悪いけど、ちょっと一緒についてきてちょうだい。ジェニー様はもう休まれているの?」
「いいえ、まだだとは思いますが。彼女が、何かご面倒でも?」
「ジェニー様に話があるのよ。すぐに終わるから、一緒に来て」
二人は、緊張感からか、無言でジェニーの部屋に入った。