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第一部 3.もつれる感情−4

 そんな息詰まるような毎日で、彼女はニーナが離宮で催すという、いかにも退屈そうではあるが外出のできる茶会の誘いに飛びついた。ジェニーに声をかけたニーナの侍女ブランは、後宮の外で行う茶会について王の許可を“特別に”賜ったと、「特別」という部分をやたらに強調したが、ジェニーには、彼女がそれによって何を伝えようとしているのか、全然理解できなかった。

 ニーナが開いた茶会から数日後、夜になって、ゴーティス王がジェニーの部屋を訪ねた。夜に彼の来訪を受けるのは久しぶりだ。ジェニーは、この上なく気が重かった。

 そんな彼女とは反対に、部屋に入ってきた王は既にほろ酔い加減で晴れやかな顔をしている。そんな様子を見るのも、彼女には腹立たしい。彼が自分に視線を注いでいるのは気づいたが、彼女はあえて彼に注意を向けないようにし、下唇を噛んで下を向いていた。

 アニーや召使が部屋から去ると、王が彼女の方にせっかちに歩いてくる足音がした。

「おまえは!」

 ジェニーは顎をつかまれ、そこに瞳をきらめかせ、あきれたような笑みを浮かべる王を見た。

「何よ……?」

「おまえは、そうもあからさまに嫌悪を顔に出すな! 俺の気がそがれるではないか!」

 口ではそう言っているが、彼はあまり怒っているようには見えなかった。

「……ったく、わかりやすく正直というのか、幼いというのか――」

 ぶつぶつと不平を呟きながら、彼は顎をしゃくり、ジェニーに移動するように示した。「酒の続きだ。おまえもつきあえ」


 二人は酒や簡単な食事が用意されているテーブルについた。なるべく王から離れ、テーブルを挟んで向かいに座ろうとしたジェニーは彼に二の腕を引っぱられ、彼の隣に席を取ることを余儀なくされた。彼女は思いきり不機嫌そうに顔をしかめたのだが、彼女の反抗的な態度に免疫がついたのか、彼はそれをまるっきり無視している。彼からは、葡萄酒の甘い匂いがほのかに漂ってきた。

 王に酌をしてやる気などなかったが、彼はジェニーの予想に反し、彼女に酒をつぐことを求めなかった。以前、宴の席で酒をつげと彼女に何度も迫り、気がきかないとなじったことからすると、あまりにも意外だ。彼は自ら酒壷を手に取り、木の杯にたっぷりと中の酒を注ぎ、喉を鳴らして中身の酒を飲んでいる。

 彼女があっけにとられて彼を見つめていると、杯から唇を離した彼が宙をぼんやりと見上げた。

「――おまえ、俺に酒を飲むのを止めて寝所に早く連れていってほしいのか?」

「なっ……まさか!」

 彼女が仰天して肩を彼から離すと、にらむように彼が彼女をじろりと見た。

「ふん。今、俺に熱い視線を注いでおったではないか」

「ちがうわ、そんなつもりじゃない!」

 ジェニーは憤慨して叫んだが、彼はちっとも取り合ってはいない。彼女は口惜しくて、つい、そっぽを向いた。

 その彼女のちょっとした隙につけこみ、王がジェニーの唇に自分の唇を押し付ける。

「やめて!」

「ふん、そう言うわりには顔が赤いぞ? ……まあ、よい、夜はまだ長い。まずは、満足いくまで俺に酒を飲ませろ」

 彼が杯に残っていた液体を飲み干した。

 暖炉の炎の光を受け、彼の赤く濡れた唇が妖しく光っていた。顔が白くて滑らかな分、不思議なほどに赤色がなまめかしく映る。

 ジェニーは妙な雰囲気に呑み込まれそうになる前に無理に彼の口から視線をはがし、少しでも彼の側から離れようと、座っている腰の位置をそっと右にずらした。彼は無言で酒を静かにあおり、当然、ジェニーが彼に話しかけることはないので、沈黙が続く。


 やがて、彼が自分の杯に酒をつぎ、ジェニーの前にあった杯にも並々と赤紫色の液体を注いだ。ジェニーがちらりと彼を見ると、彼も目だけを動かして彼女を見返した。

「おまえの分だ」と、王が音をたてて彼女の前に杯を置く。

「私? 私は、お酒は――」

「また、俺の酒を飲めぬと? つべこべ言わずに飲め」

 彼が淡々と言い、自分の酒をあおる。ジェニーはためらったが、それをむげに拒絶して彼の不要な怒りを引きずり出すより、口をつけてみる方を選ぶことにした。

 上等な葡萄酒は甘酸っぱくて口あたりが良く、芳醇な旨みが喉全体を満たしながら流れ落ちていく。前回もよおした吐き気が嘘のように、彼女の飲んだ酒はすばらしく美味だ。

 ジェニーは杯の中で揺れる、赤紫色の水面を見つめた。今度は自発的に、杯を口に運ぶ。体が徐々に温まり、意外なほどに気分が落ち着くと感じた。

 そのうち、喉から胸にかけて体の内側から熱くなってきた。頭が、ゆるやかな円を何度も描いているように感じる。予想外の味に思わず杯の四分の三ほどを空けてしまった、その時になって、思い切り、後悔の念が彼女の身を襲う。決して不快な症状ではなかったが、ジェニーは自分が酔ってしまったことに気づいた。 

 隣の王がそんな彼女の様子を無関心そうに一瞥したが、彼女の心配をよそに、彼はショコラに手を伸ばし、自分の飲食に集中する気でいるらしい。やがて、心地よい温かさはジェニーの足にまで達しようとしていた。

 彼女は何とかして気をまぎらわそうと、先日の茶会が行われた離宮を思い出そうと試みる。茶会のあった広間を右に出て廊下を奥に歩くと、豊富な蔵書をそろえた図書室がある。そこには、床から天井の高さまである本棚に様々な分野に渡る大量の本がぎっしりと押し込まれ、入口に立った彼女を圧倒していた。そこまでの数の本を、彼女は今までの人生で目にしたことがない。

 ジェニーは思いがけない発見に感激して本の貸し出しを申し出てみたのだが――後宮の女に書物など何の役にも立たない、と、アニーも女官長も彼女の願いを一笑に伏しただけだった。

 あんなに多くの書物。きっと、貴重な情報がいっぱい詰まっているはずなのに。

 ふと気づくと、ゴーティス王が無表情でジェニーの顔を眺めていた。身じろぎもせず、言葉を発しもせず、頬杖をついて彼女を見ている。

 彼女が喉の奥にたまっていた温かな息を吐くと、彼が一瞬だけ目を見開いた。彼の瞳の中にある光に導かれたように、言葉がジェニーの口について出る。

「あの、私、お願いが――」

「……願い?」

 彼が頬杖をついていた腕をはずし、まつ毛をしばたかせる。

「願い? ……おまえが?」

 彼の反応を目にしたジェニーは、体の底から流れるように出てきた言葉に身を任せて彼に話を切り出してしまったことを、即座に悔やむはめになった。

 こんな人に何かを頼もうと思ったなんて、ばかげている。

 酔っているんだ、と、魔が差したとしか思えない自分の愚かな行動を、彼女は心の中で深く責めた。


 ところが、疑わしそうに彼女を見ていた王の口から、彼女には到底信じられない一言が無造作に返されてきた。

「聞こう」

「えっ……?」

「おまえの願いとやらを、聞こう」

 何かの聞き間違いだろうか? ジェニーが茫然として王を見つめ返すと、彼は少し不愉快そうに唇を曲げた。

「何だ。よもや、また、退城させろと言うのではなかろうな? その願いであれば、叶えるつもりはないぞ」

「ちがうわ! そんなこと、自分で何とかする――」そう叫びかけ、ジェニーははっとして口を手でおさえた。ケインと地下で出会って交わした「協力しよう」という会話がはっきりと脳裏によみがえり、その光景が王に見透かされそうな気がした。

 その王だったが、彼女を見て眉を跳ね上げはしたが、さして不機嫌そうではなかった。それを裏付けるように、口元が上向きに変わっている。

「なるほど、やはり、まだあきらめておらぬとみえる。……しかし、自分で何とかするとは、頼もしい発言ではないか。無論、それ相当の綿密な脱出計画を練り、虎視眈々とその機会を窺っているのであろうな?」

「……もちろんよ!」

 ジェニーがやっきになって彼をにらみつけると、彼は大げさに怖がるふりをした。

「あいかわらず、なんと勇ましいことよ。されど、生憎、おまえが一人でこの後宮、いや、王城から外に出るのは不可能だ。後宮には外に通じる秘密の抜け道も、存在しない。残念だったな」

 彼が意地悪そうに笑うのを耳にしてジェニーはげんなりし、小さなため息が口をついて漏れた。

 ジェニーがこれ以上に話を掘り下げることをあきらめようとしていると、ジェニー、と彼女の名が呼ばれ、王が瞳を甘くきらめかせて彼女を覗きこんだ。

「それで――おまえがこの俺にわざわざ頼もうとするとは、一体どんな願いだ?」

「もう、いいんです」

「……よくはない」

 彼が彼女の間近に顔を寄せ、瞳から鼻筋に沿って下に目線を移動させると、彼女の顎を親指と人差し指でつかんだ。

「早う言え」

 ジェニーは反射的に抵抗を止めて口をつぐみ、血流がよくなって温かくなった頬に手をやった。彼が、ちらりと彼女の頬の上にある手に視線を走らせ、探るような眼差しを向ける。

「離宮にある図書室……あそこの本を、時々、貸してもらえたらと――」

 ジェニーが言うと、彼の目が細くなった。

「“離宮”?」

「ええ、あのテュデル宮の――」

「……それが何処かぐらい、知っておる!」王が切り捨てるように言った。「離宮に行きたいだと? おまえ、書物にかこつけて外出させ、後宮からの脱出の機会を与えろなど、よくも俺に言えような? 俺が、そのような望みをむざむざと叶えると思うのか?」

 ジェニーはいきなり逆上した彼に戸惑う。

「そうじゃないわ、外出じゃなくて……本の事を言っているだけよ?」

「は! 外に出ることに変わりはない!」

「外に出るって……四日前に離宮で開かれた茶会には、何も言わずに――私を出したじゃない!」

「俺は、時間をもてあましている女どもの退屈しのぎに特別に場を提供しただけだ。おまえはついでに出られただけであろう!」

「その、暇をもてあましている女の一人でしかない私には、書物だって、立派な退屈しのぎになるわ!」

「おお、そうか! おまえは数ヶ国語を操る才女らしいゆえ、書物があれば退屈はせぬというわけか! なんともご立派なことだ!」

 王がうんざりした口調で言い放って、椅子の背に乱暴に体を預けた。椅子が、不快な高音を放って大きく軋む。酒の酔いからだけではない頬の強い赤みが、彼の興奮度合いを物語っている。

 ジェニーは、唇の両端を下に下げて目を閉じて顔を天井に向ける彼を苦々しく見やった。彼に、気まぐれでつまらない申し出をしたことを心から後悔していた。

「――おまえに城から逃れる機会を作ってやる気などない。許可は与えぬ」

 彼が呟いた。

「城から脱出するのは不可能だと、あなたが言ったのよ……!」

「黙れ」

 なんて独裁的で勝手な男……!

 目をつぶったまま、王がジェニーの手首をつかんだ。彼女は力任せに自分の方に手を引き戻そうとしたが、彼女の手の位置は動かず、彼の手にいっそうの力がこめられるだけだった。ジェニーは閉ざされた彼の目をにらみつけ、込み上げては消える怒りの言葉で口を忙しく震わせた。

「……されど、他の物ならば叶えてやらぬでもない。そうよな、装飾品か春用の新しい衣装か」

 彼が静かに瞼を上げるのを目にすると、息詰まるような胸の苦しさがジェニーを襲い、彼女は小さく喘いだ。

「あなたからなど、何も要らない」

「……何だと?」

 彼の低い声はこわばり、鋭い緊張感を帯びていた。ジェニーは、胸のつかえを一気に取り去ろうとするかのように言った。

「あなたに何かを頼もうとしたのが、そもそもの間違いなのよ……!」

 彼が椅子から体を浮かせ、その振動でかすかな風が起きた。ジェニーが歯をくいしばって彼の方を見ると、顔全体が強張り、表情のない虚ろな緑色の瞳が彼女の顔の上に止まって、行ったり来たり、上下していた。頬が上気してうっすらと赤くなっているが、言葉を失わせるほどに彼を怒らせたのかどうか、ジェニーには今ひとつ判断できない。薄く開かれた唇は小刻みに揺れ、隙間からは白い歯がのぞいていたが、とにかく、彼は言葉を一言も発しなかった。

 不覚にも目頭を熱くさせ、涙をにじませてしまったのを隠そうと彼女が目をそらすと、それが引き金になったかのように、彼が、つかんでいた彼女の手をいきなり解放した。次に、がたん、と音がして、彼がそれまで座っていた椅子が床にひっくり返った。

「よう言うた!」

 その衝撃音でジェニーの体が反射的に縮み、咄嗟に、彼から身を守るために体を背けようと動く。

 ところが、王の体は彼女の動きよりも一瞬早くテーブルから離れたかと思うと、彼の髪が後ろになびいた。そして間髪入れず、彼は、ジェニーに背を向け、部屋の入口の方へと歩き出していくではないか。

 ジェニーが唖然として彼を見送る中、彼はためらいもせずに部屋の扉を開ける。開いた扉の右側で、通路に陣取っていた王付き近衛兵が頭をくるっと振り向ける瞬間が見えたが、それも一瞬だ。王はジェニーを振り返ることなどせず、乱暴な音をたてて閉まった扉の奥にあっという間にその姿を消してしまった。

 ジェニーは何が起こったのか把握できず、混乱した。機嫌を悪くしたからといって部屋を飛び出すとは、いつもの彼とは怒りの展開の様子が異なる。乱暴な行為に走るとばかり思っていたのに。

 王が消えた扉をもう一度見た。扉はぴったりと閉じていて室外からの物音さえ聞こえず、彼が戻ってきそうな気配はない。一人取り残された室内は、いつにもまして耳に痛い沈黙だけが残っている。

 視界がさっきよりもはっきりとぼやけてきた。王に去られ、独り残されたからでは、決してない。

 私は、何をやっているのだろう……。

 彼女はテーブルの上に放り出された杯を指でなぞり、そのほのかな木の温もりを指先に感じると、ますます泣きそうになった。

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