第一部 3.もつれる感情−2
床の黒い扉は彼女が想像していたよりも重量がなかった。四角い扉を開けてみると、生温かく、湿った空気が彼女の顔の脇を吹きぬけていく。扉の直下には、床と同じ灰色の石でできた狭い階段が地下へと伸びていた。まだ新しい木くずが階段上に点々と散らばっており、黄色い埃をかぶった石階段の蹴上がり部分には人の足型がくっきりと残されている。扉のすぐ下の数段につけられた足跡はいくつもあって、違う方向にばらばらに向けられていたが、全てが同じ足型だ。
ジェニーは息をするのも忘れ、その足跡の続く先に目をこらした。その裸足の足跡は、暗闇の中へ降下する階段の奥深くへと消えていっていた。
ジェニーは左手で扉の内側を押さえ、階段の二段目と三段目に足をそれぞれ降ろした。明かりを持ち、扉が降りてくるのを肘で押さえつつ、足元に注意して階段を降りていく。
扉が頭の上で閉まると、真っ暗な闇の中で黄色い火が浮かびあがり、地下の通路が照らされた。階段を除く三方が灰色の石で囲まれている。天井は背の高い男でも余裕で通り抜けられる高さだが、通路は二人が横向きにならないとすれ違えない幅だ。ジェニーが着るドレスの広がった裾が、両側でつっかえている。階段は急勾配で段板がやや広く、真っ直ぐに下まで伸びている。
階段を降りていく足跡は全ての段についているが、上がってくる足跡は一段ずつとんでいた。彼女の足の大きさと比べると大きいことから、侵入者が“男”だというのがわかる。
ジェニーは、“彼”が興奮してこの階段を駆け上がってくる情景を想像し、自分の今の状況と重なって、心臓が大きな音に変わっていくのを感じた。
通路内は地上よりも暖かく、空気が重かった。階段に残る足跡は男一人のものだけで、階段全体が茶色っぽい色で覆われていた。ジェニーが階段を踏みしめる音と衣擦れの音が狭い通路に反響している。他に音はせず、通路は静まりかえっている。
背後の入口が暗闇に入った頃、階段が突然にとぎれて長方形の床面が出現した。その先で通路が二手に分かれている。ジェニーが手に持った明かりを上にあげると、両方の道の奥が照らされた。右手の道にある階段はかなりの急勾配を見せており、先の方の部分は暗闇に消えていた。左の道を見てみると、彼女がたどってきた男の足跡がそちらに向かっていた。右手の道をもう一度見てみたが、男の足跡はない。彼女はほっと息をつき、左手に曲がった。
肌に触れる空気がかびくさく、重く変わってきた。細長い階段をくだり続けたジェニーの前に、またもや二つの道がいきなり現れた。今度はあわてず、彼女はそれぞれの道の先を明かりで照らす。彼女の道案内である足跡は右側を示していた。
左の次は右。
次の分岐点はまもなく出現した。
ところが、ジェニーの頼りにしていた足跡はどちらの道にも続いていた。左手の通路の方が、幅が広くなっている。明かりを照らして両方の道をよく見てみると、右手の道の方に足跡がたくさん残っていた。
彼女は息をついた。そして、右の道へと足を向けた。
そこからは天井が低くなっていて、ゴーティス王の背ならば頭がつかえてしまうくらいだ。通路の幅もほんの少し狭くなっていて、今までよりも圧迫感を覚える。
通路は狭まったが階段がゆるやかとなり、ふくらはぎに疲れを感じてきた。自室を出てから既にけっこうな距離を歩いている。ジェニーは自分のドレスの裾を手で抑え、歩行の邪魔にならないようにした。
「え?」
階段が彼女の前でいきなり終わった。正面三方向を壁がぐるりと取り囲み、ちょっとした部屋の大きさだ。右側の壁と床が接する部分に角の欠けた石段が山積みされ、石の破片があちこちに散乱している。そこで行き止まりだ。
ジェニーの頼みの綱である足跡は階段が終わった部分で消え、その床面には何も残っていない。三方の壁をきょろきょろと見回したが、扉のような切れ目や取っ手は見えない。何の変哲もない、ただの石壁だ。
「そんな!」
ここで終わり?
……ううん、そんなことはないわ。どこか、抜ける出口があるはず。
ジェニーは天井と床にも目を走らせた。隙間や境目のような人工的な線は見えない。彼女は、正面の壁に歩み寄った。目の前で壁面を注意深く観察してみるが、壁を構成する石段に不自然な部分はなく、規則的に交互に組まれている。
彼女は焦りを感じ、右手の壁に目をやった。そして、床部分に大量に転がる石段を見た彼女は、膝の高さにまで無造作に積まれた石段が妙に光っていることに気づいた。石段の山は半円を描くように積まれている。
石段と床の接触面を見た彼女の心臓が、どきっと跳ねた。石段の手前に摩擦でできたような白い線がついている。
石には気泡がたくさんついていて、壁を形成している石とは材質が全く異なっていた。無造作に積んであるはずの石と石の間が接着されている。ジェニーの探し求めていた、“違和感”がそこにある。ジェニーの焦燥感は興奮に移り変わっていった。
石段の山から飛び出している二つをつかむと、石は思ったより柔らかい手触りで少し温かかった。両手に力を入れ、その二つを自分の方に引っぱってみると、石段の山全体が手前に引きずられた。それほど重くはない。
もっと前に出してみると、山の輪郭状に、人間が一人やっと通り抜けられるほどの穴がそこにぽっかりと出現した。
地上への出口を見つけた興奮がいまだ冷めやまない中、ケインは、通路の奥の方から伝わってくる音の存在に耳をすましていた。その音源は彼のいる牢よりずっと上から徐々に近づいてきて、今は、壁一枚を隔てた反対側でせわしなくうごめいている。衛兵の出てくる扉の向かい側、牢の前にある通路のつきあたり、古ぼけた台が付けられた壁の向こう側だ。そこにある空間を行ったり来たりしている、まちがいようもない、人間の足音。それが、ケインと外の世界をつないだ入口を探し求めて、歩き回っている。
誰だろう? あの部屋の住人か?
ケインがこの二年間で顔を見たのは、衛兵二人と下働きの男一人だけだ。ケインの発見した秘密の抜け道を通って彼と顔を会わせた者は、今までに誰もいない。
誰だ? 誰なんだ?
ケインの興奮が否応なく高まってくる。動悸が止まらない。
彼が顔を出した部屋までは遠い道のりで、三回も分かれ道があり、最後の行き止まりまで着いても出口を発見できるかどうか。彼でさえも一ヶ月を費やしたのだ。そこにいた住人が同じ道をたどり、ケインの牢を探し当てるのはかなり難しいだろう。
だが、目を閉じたケインの耳に、重い物が引きずられていく衝撃的な音が届いた。ケインは床から立ち上がりかけ、あわてて床に戻った。心臓が興奮と期待とで激しく波打っている。
「ああ、神よ……!」
彼が祈っていると、通路の奥で衣服のこすれる音がした。ケインは飛び出しそうなほどに音をたてている心臓を収める胸を上から押さえ、床に足を投げ出してうつむいた。衛兵が見回りに来る時と同じ姿勢をとったのだ。相手が何者かもわからない状況下では、無力な捕らわれの身の存在でいた方が安全だ。それが誰であろうと、牢の柵の内側にいる哀れな人間には向こうから危害を加えてくることもないだろう。
ケインの視界にかすかな光が入ってきた。地下牢への侵入者が持つ灯りで通路や牢が照らされている。
彼は顔を上げたくなる衝動を抑え、床を必死に向き続けた。聞いたことのない足音の持ち主が石の床を踏み、ケインの見つめる床がどんどん黄色く、明るくかわっていく。
息をのむ音がし、ケインはそれにつられて顔を上げてしまった。三メートルほど先に、白い服を着た女の姿がぼうっと浮かんでいる。はっ、とケインも息をのんだ。
女?
ケインは床に視線を戻し、もう一度、目の前に現れた者の姿を確認した。
やはり、女だ。
ケインは手を組んでひざまずいた。
「なんてことだ、私の前に天使が見える! ああ、神よ、ついに我が身を引き受けに参られたとは……ああ、忌まわしい身のこの私を!」
突然に大声で祈り出したケインにびっくりし、ジェニーは後ろへ飛びのいた。暗い闇の中で、男は切ない目をして天井を見つめ、何かを呪文のように呟いている。
「ああ、どうか、我らをお許しください……!」
彼の口からしぼり出された声は若く、自分とそうかわらない年齢かもしれない、とジェニーは思った。男はぼろぼろに擦り切れた上下の服を着て、顔や手足が茶色く汚れている。全身が痩せていて、ゴーティス王や衛兵たちのように鍛えあげられた体ではない。牢で捕らわれの身である囚人の彼だが、危険な雰囲気は感じられない。
彼の必死な顔に引きつけられるように、ジェニーは牢の柵へと近づいた。
「あの……私は、神の遣いじゃないわ」
男が不可解な表情をしてジェニーに振り返った。彼女と視線が合った彼は一瞬、恐怖の表情を浮かべ、そして戸惑って彼女の姿を眺めた。ジェニーが近くであらためて見た男はやはり若く、どこかで見覚えがあるような顔をしていた。
「私はジェニーっていうの。あなたは誰?」
ケインは名を名乗った娘をしげしげと観察した。胸まで届く黄色っぽい髪を持った、十代半ばの娘。ゆらゆらと揺れる瞳。彼を見る視線に優しさが含まれている。身につけている白い簡素な服は召使たちが着るような粗末なドレスとは違う。そして、少し訛りのあるユーロ語をしゃべる。おそらく南部の訛りで、生粋のヴィレール人ではないのかもしれない。
彼女のしゃべる言葉に訛りがあることでその存在が現実の人間なのだと思え、ケインは急にほっとした。彼が床から起き上がろうと膝を立てると、彼女がほんの少しだけ戸惑った様子を見せたが、柵越しに彼を見る視線の温かさに変化はなかった。
「……私はケインだ」
彼女が頷くのを見て、彼は柵の前に歩き出した。彼がジェニーの前に立ち止まると、柵を挟んで彼を目の前にしたジェニーに、かすかな不安と動揺の色が見えた。
「囚人に会うのは初めて? ……安心して、君に危害は加えない」
「え? ええ」
ジェニーの視線が柵にちらりと走るのを見て、ケインは微笑んだ。
「私たちを隔てるこの柵は何の役にも立ってないけどね。これは、とっくの昔に壊れているから」
「……え?」
「あはは、そんなに怖がらないで。私は、暴力は嫌いなんだ。暴力をふるうのも、ふるわれるのも、両方とも好きじゃない」
自分の前に立つ娘が目に見えて安堵している。ケインが笑顔になると大きく笑い返してきた。笑うと大きな瞳が楽しそうに輝き、目尻がゆるやかに下にカーブを描き、親しみが増す。
「女の人に会うのは二年ぶりだ、とても嬉しいよ。君は、ジェニーと言ったね? 君はこの城の住人かい? こんな地下牢にまで、どうやって来られたんだ?」
ジェニーが笑った。
「私は、この城に三ヶ月前からいるわ。元はこの国の民ではなくて、もっと南にある町の出身で」彼女が何かを思い出すように視線を遠くにやったが、間もなく、ケインに戻ってきた。「今日、私の部屋の床に隠し扉があるのを偶然に見つけて――ううん、そうじゃなくて、実際には、誰かが床下から部屋に入った形跡があって、それで部屋をあちこち調べていたら、地下への扉を見つけたの」
ジェニーが疑うように彼にちらりと目を向けた。
「扉の下には階段がずっと続いていて、誰かの足跡がはっきりと残っていたわ。通路には何度か分かれ道があったんだけど、その足跡を追ってたどってきたら、ここに出られたの」
彼女が肩をすくめて微笑み、ケインの反応を窺うように見つめた。彼が下を向いて決まり悪そうに笑うと、彼の足元が少し明るくなって、牢の柵に彼女の足が近づいた。俯いた彼の顔の先で、彼女が格子をつかむ手の動きが見える。
「……そうか、足跡。足跡が残っていたとはね」
ケインが思いきって顔を上げると、彼女が、思いがけずに彼の顔の間近で彼を見つめていた。至近距離すぎて、彼がさりげなく半歩後退したほどに。
「あれは、あなただったの?」「あの部屋の住人は君だったんだ」
二人が言葉を発したのはほぼ同時だった。
ケインはジェニーを見返して、つい苦笑してしまった。それに吊りこまれ、彼女の顔にもほっとしたように笑顔がのぼる。それを見た彼は、軽やかに笑い声をあげた。
「私の足跡をたどって……あの行き止まりで諦めもせず、ここへの入口をよく見つけたものだ。私が数ヶ月もかけて見つけた経路を、君はたった一日で突破してしまうなんて! 君という人はなんて好奇心旺盛なんだろう! 普通の女の子なら、例え秘密の抜け道に興味を持ったとしても、こんな危険を冒してまで地下の通路を歩き廻らないだろうに」
彼が笑いながら彼女を見返すと、彼女が一瞬だけ寂しそうに笑った。
「そこの出口を発見できるなんて大したものだ。本当に驚いたよ!」
ところが、「そんなこと、ないわ」と彼女が沈んだ声で答えたので、ケインは怪訝に思って彼女を凝視した。彼女がまた、寂しそうな笑みを見せた。
「好奇心なんかじゃなくて。私は、逃げ道を探しまわっているの。ここのところ、私は夜中になると後宮中を歩き回って抜け道を探していたわ。でも、まさか、自分の部屋に秘密の扉があるとは思わなかったから驚いたけれど、どこかに通じる道があるとわかって、本当に嬉しかった。……私は、この城から早く脱出したいの。私はこの国の住民ではないし、あなたのように、私も城内に監禁されているようなものなのよ」
「ジェニー、君は――?」
ケインは言葉を返しかけ、あわてて言い直した。
「つまり、君は……君の意思に反してここにいるんだね? 君は、隠し扉から続く階段が外に通じているんじゃないかと期待して、ここまでたどり着いたんだ」
「外に出られたらいいなとは思ったけど、そこまで簡単じゃないと考えてはいたわ。それより、どちらかといえば、私は部屋への侵入者に会ってみたかった。少しは怖いとも思ったけど、私と同じで逃れられる道を探し回っているんじゃないかと、何となくそう思ったから――」
ジェニーの思いつめたような瞳に合い、ケインは咄嗟に彼女の顔をつかんでキスしたい衝動にかられた。頬の、柔らかそうな感触を指で感じてみたい。
が、彼は無謀な思いを何とか押しとどめ、代わりにぎこちない笑顔を作って応えた。
「私たちは、城からの脱出を図る同志なんだね」
彼女が穏やかに頷き、小さく微笑んだ。急激に心同士が近づいたような気がする。彼女との距離感を縮められたら。
彼の手が、格子をつかむ彼女の手に重なりたがっていたが、彼は急に自分の身なりの貧しさを思いだして恥ずかしくなり、彼女に手を伸ばすのをあきらめた。彼が、頬に熱がこもるのを感じながら彼女を見ると、彼女の瞳にもさっきまでとは違う熱がこもっていた。彼女は、信用に値する人間だ。
「ジェニー。私たちは……協力し合えるだろうか?」
「協力?」
「そう。だって、君も私も城外に早く出たくてたまらない。君が夜毎に城内を歩き廻っているように、私もここ三ヶ月ほどを費やして城外への出口を探しているけど、今のところ、行き止まりばかりでどこにも出られていない。今後も探し続ける予定ではいるけど、もしかしたら、君の方が早く脱出口を発見できるかもしれない。無論、私の方が先に道を発見する場合もある。でも、どちらにしろ、先に発見した方がそれを相手にも教えればどうだろう? そして、一緒にここから抜け出るんだ。脱出するにあたって、男の手があれば何かと便利だよ、そうは思わない?」
気づくと、彼女の両手が格子を力強く握りしめていた。ケインはそこから視線を移動し、彼女の上気した頬を見つめた。
「本当? そんな事、考えもしなかったけど、誰かが一緒ならとても心強いわ。本気で、そう考えてる?」
「嘘でこんな事は言わないよ。君とはついさっき会ったばかりだけど、何となく……何となく、私と君はうまく協力し合える気がするんだ。それに、なぜかはわからないけど、君と一緒ならば、必ず外に出られそうな予感がする」
彼が無意識に伸ばした手がジェニーにぎゅっとつかまれた。
「ジェニー?」
「ああ、私もよ! 私たち、きっと外に出られると思う!」
彼女は期待と喜びで瞳を輝かせ、あふれんばかりの笑顔でケインを明るく照らしていた。ケインは自分の汚れた腕が彼女の清潔な白い手につかまれているのが申し訳なくて恥ずかしく、手をそっと引き抜こうとしたが、逆に彼女のもう片方の手まで重ねられ、両手で押さえられた。